猫澤
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春雷、のちに虹が架かるでしょう。


 ――恋、を定義する。
 世界は総じて有象無象。少なくとも僕にとってはそうだ。
 大抵は僕の与り知らないところで、みんながみんな愛だとか友情だとか、一過性のものともしれないそれを大事そうに抱えて。共感しあって、支え合って生きていく。
 僕は僕の欲を優先するあまり、そういったものからすっかり逸脱してしまっていた。
 なので、これは憶測でしかないのだけど。本を読んだ知識とか、なんとなく観たトレンド映画とか、悲劇、あるいは喜劇の舞台上の伝聞でしかないのだけど。
 恋をすると、世界は輝いてみえるらしい。
 どうしようもなく浮かれるらしい。些細なことで落ち込むらしい。感情の起伏が激しくなって、自分で自分をコントロールできなくなる、……らしい。
 それが恋。……であるならば、僕は恋をしている。
 都立神山高校の三階。新設校であるこの学校は全てが真新しく、また風通しがいい。吹き抜けになったロビーを行く当てもなく彷徨っていると、ふと、目を惹く色が視界を掠めた。
 ――僕にとっての、恋の色だ。
 主に試験前の生徒や受験生が利用する自習室。窓越しに中を窺うと、いくつも並んだ席のひとつに見慣れた姿があった。
 彼の名は天馬司くん。
 ショーユニット・ワンダーランズ×ショウタイムの現座長。神山高校名物「変人ワンツーフィニッシュ」の片割れ(もうひとりは僕)。頼れる先輩・やさしいお兄さん。いくつもの顔を持つ彼は、僕にとっては世界や価値観を大きく変えた人物であるといえる。
 彼と出会って一年と半年が過ぎた。目まぐるしいほど慌ただしく日々は過ぎて、もうじき秋が終わる。既に冬の足音は傍まで来ていた。きっと瞬きをする間に春を連れてくるのだろう。
「むー……
 司くんは自習室の片隅で、教科書や参考書を開くでもなく、手に持つスマートフォンをじっと見つめていた。
 その眉間には彼らしくなく皺が寄っている。
 僕は少し逡巡する素振りを見せてから、自習室の戸を開いた。静寂。紙のにおいがする。息のしづらい自習室の空気を肌で感じつつ、目当ての席へと歩を進める。
 ふ、と頭上に影が落ちたことに気づいて、彼は飴色の瞳をゆるく持ち上げた。視線が合う。かと思えば、眉間の皺がみるみるうちに解けてゆく。
「やあ、司くん。調べ物かい?」
「おお! 類じゃないか。お前こそ自習室に来るなんて珍しいな」
「たまたま君がいるのが見えたからね」
 ちょうど空いていた隣の席の椅子を拝借して腰かければ、司くんは僕の分のスペースを空けるように少し椅子を動かした。
 なんとはなしに、司くんの手元へ視線を向ける。部屋の間取りと思しき画像が、上から下まで、ずらりと並んでいる。
……不動産?」
「春から住む物件をな……なるべく大学の近くにした方が良いのだろうが、こっちの駅近も捨てがたい」
「へえ」
 家を出るのか。彼は。
 司くんも僕も、既に推薦で大学受験を終えている。
 お互いに面接で緊張するような性格ではなかったし、フェニックスワンダーランドでの活動も織り込みつつ志望動機を話せば、特に心配するような場面もなく気がつけばあっさり試験が終了していた。
 小論文が苦手で苦戦していた司くんはともかくとして、僕自身は届いた合格通知に何の感慨もない。僕も司くんも都内の大学ではあるが、進学先は別々だ。
「たしか君は……T大の推薦をもらっていたね」
「ああ。そういう類はR大の工学部だろう?」
「おや、よく知ってるね」
「自分で言っていただろうが。耳にタコが出来るくらい何度も聞かされたぞ」
「フフ、そうだったかな」
 口元に笑みを貼り付けて、司くんから視線を外す。
 彼の言う通り、僕は何度もR大学へ進学する旨の話を彼にしていた。……当然、故意だ。僕なりの思惑があった。
 離れたくなかったんだ。
 このまま春がきて高校を卒業してしまえば、自然、今よりずっと僕達の接点は薄くなってしまう。僕は司くんにとって旧友のひとりになり果てる。それが漠然と嫌だった。
 一縷の望みをかけて、同じ大学を志望してくれないかと、淡い期待を抱いていたわけだ。
 鈍感な彼が僕の思い通りに動くはずもないことくらい、ちゃんとわかっていたのにね。
「大学に進学してもフェニックスワンダーランドでのバイトは続けるつもりだからな……そう考えると、やはり電車移動のしやすい駅近が魅力的に思える」
 指先でディスプレイを撫でて、司くんは僕に「ほらココとか」と物件のひとつを指さして見せた。駅まで徒歩五分。その分家賃が多少張るが、利便性を優先するならたしかに魅力的な物件だ。
 いいんじゃないかい、と適当な相槌を打てば、司くんは飴色の大きな瞳を揺らめかせて僕を見つめた。
……類はもう決まったのか?」
「いいや。僕は実家からも通える距離だから」
「それを言ったらオレだってそうだ。なんだ、実家を出ようとは思わないのか?」
「うーん、気にならないわけじゃないけど……
 むしろ、家族を大切にする司くんの方が実家を出ることに積極的で驚く。
 聞けば妹の咲希くんはこの一年体調が安定しているようで、自分が傍についていなくても大丈夫と判断したらしい。せっかくの機会に自立した生活を送ってみたいとなかなか現実主義なことを言う割に、どこまでいっても彼の行動基準の中心は咲希くんだ。
 僕自身、実家を出て一人暮らしすることをまったく考えなかったわけじゃなかった。ただ実家を出ることで生じるメリットより、デメリットの方が大きく感じるのだ。たとえば、そう、
「君も見ての通り、僕には生活力が無いからね」
 偏食ゆえに、料理はからきし。洗濯くらいはまあ、洗濯機をぽちっとするだけだからともかくとして。掃除なんて論外だ。
 だけど仕方がない。天才は往々にして何某か欠点があるもの。僕の場合は家事の才能に恵まれなかったというだけの話。
 司くんは物言いたげにしながら、結局何を言っても無駄と判断したらしい。嘆息をひとつ零すに留めて「たしかにな」と呟いた。
――ならオレと一緒に住むのはどうだ?」
「えっ……?」
 思わず瞬いた。
 一緒に住む? 僕が? 司くんと?
 それは――なんて都合のいい話だろう。
 司くんは相変わらず神妙な顔つきでスマホの中の物件の一覧を眺めていたけれど、僕の視線に気がついてすぐに「ふふん」と得意げに鼻を鳴らした。
 親指で自身を指して、その口角を上げる。
「なんとオレは料理も裁縫もできる! お買い得物件だろう。買い逃す手はないぞ」
「それは……僕にとってはメリットしかない話だね」
「そうだろう、そうだろうとも!」
 深く頷く彼をよそに、僕はどこか夢心地で、指を組んで思案した。
 本当に、僕にはメリットしかない話だ。実家で生活する上で生じるメリットもデメリットも全てが覆されてしまう。考えるまでもなく飛びついてしまいたい誘惑に、衝動に、思考なんてうやむやなポーズでしかない。
 司くんは黙り込んだ僕を見て何を思ったのか、ひとつ咳払いした。あー、と所在なく視線を彷徨わせて、言葉を続ける。
「代わりと言ってはなんだが……いるだろう、ほら……どんなに清潔にしていても、やってくるアイツら……
「ああ、もしかして虫かい?」
……そいつらを、退治するとき……力を貸してほしい」
「なるほど」
 それが司くんにとっての、僕とルームシェアするメリット。
 口元に手を当てる。正直に言えば、今目の前にぶら下げられている餌に食いつかない理由はなかった。春から僕達はそれぞれ違う大学に進学するのだ。フェニックスワンダーランドでのキャストは僕も続けるつもりだけど、彼と過ごす時間はこれから格段に減ってしまう。
 さかさまの砂時計が少しずつ砂粒を落としていくように。僕と彼も、少しずつ疎遠になってしまう。
 神代類? ああ、そんなヤツもいたな――なんて。遠い未来で笑う君ですら僕は許容できそうもないんだ。
 だって僕は、恋をしている。司くんに恋をしているから。
「そのくらい、お安い御用さ」
「本当か!」
「勿論だよ」
 頬を持ち上げて頷けば、ぱあっ、と音が鳴りそうなほど、司くんは表情を輝かせた。
 たとえば。二人で暮らせば朝も昼も夜もショーの話ができるだとか、演出案を一緒に考えられるようになるとか。理由なんて建前でもなんでもよかった。
 ただ一緒に生活する、そのための大義名分が得られるのなら。それを他でもない君が提示してくれるのなら。僕は一も二もなく、頷く以外の選択肢を全て放棄するに決まっている。
「ならば交渉成立だな! 実は駅近の物件にルームシェアにぴったりの部屋があって――
 うきうきと語る司くんを盗み見る。きらきら、きらきらと――スポットライトを浴びずとも眩しいほどに、彼はいつも光を纏っている。
 そんな僕の内情を彼は知る由もない。
 なんといっても司くんは超がつくほど鈍感だったし、密かに抱くこの感情を――僕は終ぞ卒業しても、彼に打ち明けることはなかったのだから。


☆》
 雪解けの季節だ。
 オレと類の卒業式は、それはもう大変だった。わんわんと泣くえむ(もはや他校のこいつがしれっと神高にいても驚かない自分がいる。慣れとは恐ろしいものだ)と、それにつられて鼻を啜る寧々をどうにか宥めて。二人に見送られながら、オレ達は桜の花弁と共に母校を巣立った。
 そして四月の某日。オレと類の、新たな生活が幕を開ける。
 一人用の部屋を探していた頃はあんなに悩んでいたというのに、類と二人で暮らすとなると、戦力も倍になったからか――いや、どちらかと言うと類側の要望が多く、それらが全て通る物件が少なかったがために――かなりとんとん拍子で部屋の候補が絞られた。
 冬休み明けに学校が自由登校となってからは、フェニックスワンダーランドでショーがないタイミングを狙って、何件か類と二人で内見してまわって。
 あれは良いこれは駄目と妥協と追求を繰り返し、そして最終的に決まった部屋に、オレ達は今日から入居する。
 都市部よりは外れているが、都内駅近のメゾネットタイプマンション。オレと類の部屋はその七階と八階だ。
 風呂トイレ別2LDK。日当たりも悪くないし、小さいがバルコニーもある。
「荷物、一旦ここに置いときますねー」
「ありがとうございます」
 引っ越し業者が家の前まで運んでくれた荷物の山。とりあえず玄関を入ってすぐのリビングに一通り移動させて、そこから上の階にあるオレと類の部屋に運ぶ――心算、なのだが。
 オレは今リビングで立ち尽くしていた。
 ――理由は明白、類の荷物が死ぬほど多いのだ。
「類のやつ……ちゃんと引っ越しに合わせて断捨離しておけとあれほど言っておいたのに……
 既に壁の一部が類の荷物で埋まっている惨状の、おそらく大半がショーの演出で使う工具や装置、エトセトラ。
 かなり重量があることは持たずともわかる。
 ……思案。
 んん、と天井を仰いで。オレは肺に溜まった二酸化炭素を、存分に吐き出した。せめて今日中に荷物の移動は終わらせたいのだ。考えたところで荷物はひとりでに動き出したりはしない。結論、オレがやるしかない。
「なんのこれしき……ショーの大道具に比べれば……
「あ、ねえお兄ちゃん」
「む」
 しぶしぶ段ボールに手を掛けたオレに向かって、ひょこ、とリビングに顔を覗かせたのは――我が最愛の妹、咲希だった。
「この箱はどっちの部屋に運べばいい?」
「ん、……ああ、これは類のロボの設計図だな。オレが類の部屋に運んでおくから、咲希はそっちの小物を……
「すみません司さん、こっちの衣装ケースはどうしたら……
 今度は咲希の幼馴染である一歌が顔を出す。
「それは二階の廊下のクローゼットに……いや待て待て、一歌ひとりじゃ重いだろう」
「あ、じゃあわたしも手伝う、よ……
 廊下から控えめに手を挙げたのは我がワンダーランズ×ショウタイムの歌姫、寧々だ。
「あっ、ありがとう、草薙さん」
「悪いな。だが二人でも重かったら無理はしなくていいからな!」
「ん、わかってる」
 貴重な休日に、わざわざ片付けの手伝いに来てくれた彼女達の後ろ姿を見送る。こんなにも熱心に手伝いを買ってくれているのだ。当事者のオレがぼうっと突っ立っている場合ではない。
 ふう、と息をつく。気合を入れ直して再び箱のひとつに手を掛けると、ちょうど真上の部屋からえむのはしゃぐ声が家中に響いた。
――わあっ! 類くんすごいすごいわんだほい!」
「フフフ、まさか荷物に紛れて紙芝居を発掘するなんてねぇ」
「コラ――! えむ! 類! 片付けをサボるんじゃな――い!」
 階段の下から声を張り上げれば、きゃっきゃと甲高い嬌声があがる。
 えむと類には類の部屋の片付けを任せていたはずだが、こんな調子では日が暮れても終わりそうにない――。呆れてこめかみを押さえていると、ふふ、とオレの後ろで咲希が笑った。
「あはは! いいなぁお兄ちゃん、るいさんとルームシェアすっごく楽しそう。アタシ達も卒業したら四人でしたいね、いっちゃん」
「うん、いいね」
「おおっ? いっちゃんってば結構ノリノリ?」
「いいんじゃないか? 一歌と穂波と志歩がいるなら、咲希も寝坊の心配がなくなるな!」
「お、お兄ちゃんってば……もう。あんまり恥ずかしい話しないで」
 赤らむ頬を押さえてむっとする妹の姿に、オレは思わず笑みを零した。
 ――実家を出る。迷うオレの背中を押したのは、他でもない咲希だった。
 これまでずっと、オレは咲希のために生きてきた。それを咲希自身もわかっていて、「これからはアタシのためじゃなくて、お兄ちゃん自身のために生きて」と。
 「今度はアタシもお兄ちゃんを支えるから」と。
 ピンクソーダの目を細めて言い切った咲希に、当時はなんだか寂しさとも心強さとも違った感情が込み上げたものだ。
 そのとき喉の奥がツンとしたのは、兄として生涯隠し通さねばなるまい。
 きっと寂しくなる。けれど同じくらい、――新たな生活にわくわくしている。
「よっ……と。さすがに重いな。……二年分ならば当然か」
 紙の束――ロボの設計図が詰まった段ボールを持ち上げる。
 この二年、ワンダーランズ×ショウタイムは幾度となくショーを披露してきた。そのどれもに、類が手掛けた演出用ロボットは欠かせない。この紙の枚数分だけ、オレ達の思い出が詰まっていると思えば感慨深い。
「類、お前の荷物だ!」
「ああ。ありがとう、司くん」
 階段を上がってすぐ目の前にあるドア。右が類の部屋で、左がオレの部屋だ。どちらも洋室だが、類の部屋の方が一畳分広く、収納も大きい。
 自室の片付けをしていた類に段ボールを手渡すと、後から一歌と衣装ケースを運んできた寧々がオレの部屋を覗き込んで目を見開いた。
「え。こっちが司の部屋?」
「ああ」
「ふーん。……あんまり物ないんだね。意外」
 意外とはなんだ意外とは。
 こう見えてもオレは倹約家で、財布の紐が固い。まあ蓋を開ければ、ずっと咲希にひな人形を買ってあげたくて貯金するうちに、自然と貯金癖がついていたというだけの話なのだが。
 寧々は一通りオレの部屋の鏡や本棚を物色したあと、少しだけ同情するような眼差しをオレに向けた。
「類の部屋、放っておくとすぐ足の踏み場がなくなるから気をつけて」
「ほう……よぉく目を光らせておかねばな……
 神山高校在学中、類の家には何度かお邪魔させてもらったことがあるが、たしかに足の踏み場は……ほとんどなかった。
 いくつものバルーンアートやロボット、果てはぬいぐるみに囲まれて、まるでおもちゃ箱をひっくり返したみたいな、類らしいといえばらしい部屋に一周まわって感心したものだ。
 共同生活する以上、類も好き勝手に散らかしはしないだろうが――定期的に片付けは促した方がいいかもしれない。
……ま、たまには遊びに来てあげてもいいよ」
「あたしもー! お泊まり会とかしたいしたいしたーい!」
「む。男女でお泊まり会はさすがに不味くないか……?」
 オレと寧々の会話にえむが混ざってくる。一応のモラルは持ち合わせているつもりなので顔を顰めれば、えむの後ろにいた類がしれっとした表情で「そうかい?」と続けた。
「僕達四人で旅行だって合宿だってした仲じゃないか。今更だよ」
……それもそうか?」
 たしかに去年はフェニックスワンダーランドの宣伝大使として日本全国をこの四人で巡りに巡ったし。長期休暇を利用して、合宿という名のえむの家の別荘お泊まり会も開催されたが。ショーバカが四人も揃えば朝から晩までショー談義、の、至って健全すぎる旅行だった上に、保護者の着ぐるみもいた(あと監視カメラもそこらじゅうにあった)。
 果たしてあの合宿とお泊まり会を同列に扱っていいものか悩ましいところではあるが、オレも、類も、えむも寧々も、互いにやましい気持ちを持っていないのだから、そこまで気にすることでもないのだろうか。
 それになんといってもこの家は、オレと類、二人だけの城だ。制限はひとつもない。自由にオレ達の居城を、オレ達の手で彩ることができるのだ。
 不安はなかった。類がいる。オレがいる。ワンダーランズ×ショウタイムの座長と演出家が揃って、出来ないことなどひとつもない。
「わくわくしている、って顔だねぇ」
「む、顔に出ていたか?」
 隣に立つ類を見上げると、類はフフ、と小さく笑みを零した。
「わかるよ。僕も同じ気持ちだからね」
 類の瞳が眩しそうに細められる。その表情はたしかに、これからの生活に希望を抱いているように見えた。
 まだ見たことのないショーを目にするときのような高ぶりを感じ取って、思わずニッと口角を上げる。
 新たな生活が始まる。窓から射す陽光は、オレ達の新たな門出を祝福しているようだった。


――さて。もう暗くなる時間だし、みんなそろそろ帰ろうか」
「はーい!」
 壁やフローリングの床が朱に染まり始めたのを見計らって、類が全員に聞こえるように声を張り上げる。
「司くん。みんなを駅まで送ってくるね」
「ああ! その間にオレはキッチンの片付けを進めておこう」
「頼んだよ。……帰りに何か買ってくるかい?」
「ん? ……そうだな……
 キッチン用品を並べながら、オレはぐるりと周囲を見渡した。
 中古の冷蔵庫の中身は空っぽ、米櫃も戸棚もすっからかんとくれば、今晩の夕飯の調達が急務だろう。
「何か夕飯になりそうなものを頼む。明日は食材の買い出しにも行かねばな……
「僕もお供するよ」
「当然だ。これからはオレとお前の二人で生活していくのだからな!」
 そう。これからは、……少なくとも大学生活の四年間は、類と共に生活するのだ。家族同然に。
……家族、か……
 玄関を覗くと、類はブーツを履いているところだった。
 もご、と口元を動かす。なんとなく気恥ずかしいような、照れくさいような、そんな感情がふつりと湧くのを感じながら、オレは小さくその背に向かって口を開いた。
……類」
「んー?」
「いってらっしゃい。気をつけて帰ってこいよ」
――!」
 類がはっと目を見開いて、ゆっくり、ふわりとはにかむ。
 頬に朱を浮かばせて、やはり照れくさそうに、……けれどはっきりと、類は頷いた。
……いってきます、司くん」


★》
 司くんとの共同生活は、想像以上に順調で、平穏で、わりあい上手く噛み合っていた。
 彼の作る料理は美味しかったし、一人分も二人分も変わらんだとか言って僕の分まで用意されたお弁当は存外、僕の好き嫌いを考慮して作られていたりして。
 甘やかされていると思う。僕が甘え上手というよりもむしろ、司くんが甘やかし上手のような気がする。
 お返しに僕は彼の分まで食器を洗って、食後の珈琲を淹れるのも、いつの間にか僕の役目になっていた。
 持ちつ持たれつ。互いに支え合う生活はなんだか……結婚したみたいだ、と思わないでもなく。有り体にいえば僕は大変浮かれていたのだ。
 講義が終わってすぐに帰路につく。入学してすぐはいくつかサークルの勧誘があったが、バイトが忙しいからとその全てを断った。
 実際五月の連休に向けてショーの準備に忙しかったし、大方神高出身の誰かが流したのだろうけど、いつの間にか大学でも「神代類は変人だ」のレッテルが貼られていたので。気がつけば勧誘のたぐいはすっかりなくなり、心なしか遠巻きに見られることの方が多くなっていた。
 こういうとき、いかに恵まれた高校時代を送っていたか思い知る。
 いつだって僕の隣には司くんがいた。クラスが離れていても、隣の教室から彼の大きな声が聞こえてくるだけで僕の世界は鮮やかに彩られていた。
 それがどうだ。今は、ここに彼がいないだけで。こんなにも色褪せて見える。
 ――寂しい。
 たぶん、こんな気持ちをそう呼ぶのだろう。早く僕達の箱庭に帰って、彼の、底抜けに明るい声が聞きたい。
 どういう原理か、ううん、これも恋の魔法なのかもしれないが、彼の声はどうにも不思議で。不安や物寂しい感情を簡単に吹き飛ばしてしまう。笑い飛ばしてしまう。
 青々と茂る大地。あるいは、煌めく大海原。それらを照らす太陽のような、地球上のどこにいても見失うことのない恒星の輝きを彼は放っていた。
 ――空はもう夕暮れに差し掛かり、宵が顔を覗かせている。
 急ぎ足でマンションのエントランスへ向かうさなか、ふと顔を見上げて、あ、と小さく声をあげた。
……明かりが点いてる)
 ということは、司くんがもう家にいるということか。
 家と大学、そしてフェニックスワンダーランドの往路にはだいぶ慣れたけれど、家に帰ると司くんがいる、その事実には未だに落ち着かない気持ちにさせられる。
 毎朝、司くんに起こされる度に。彼の手料理を口にする度に。彼に「おかえり」と微笑まれる度に――こんなに幸せを享受してしまっていいのだろうかと自問する。
 ひとりの人生における「良いこと」と「悪いこと」の比率が、もしも同じだとしたら。
 僕は今、間違いなく一生分の「良いこと」をいっぺんに神さまから貰いすぎて、これから先の人生不幸しか起きないんじゃないかとか。そんな馬鹿げたことさえ本気で考えるほどには、有頂天になってしまっていた。
 玄関のドアを開ける。鼻腔を掠める味噌汁のにおい。先ほどまで気にも留めていなかった胃袋が、急に収縮を訴える。
「ただいま。司くん、今日は早いんだね」
 リビングか、あるいはキッチンにいるであろう司くんに向かって声を掛ける。
 いつもならすぐに「おお、おかえり類!」とエプロンの紐を解きながらひょこりと顔を見せてくれるはずだが、今日はいくら待てども返事がない。不思議に思いながらも靴を並べて(適当に脱ぐと司くんが怒るから)、廊下とリビングを仕切るカーテンを除ければ。
……司くん?」
……むにゃ……ぐう」
「おや」
 ――この家の家電以外の家具は二人の実家から持ち込んだものが大半だけど、リビングのテーブルとソファーは演出案や脚本を考える際に使い勝手がいいようにと大きめのものを二人で折半した。
 そんな大きいテーブルに突っ伏す司くんの姿を見つけ、足音を控えめに近づく。
 ソファーもあるのにラグの上にぺたんと座って、伏せられた瞳。規則正しい寝息。その傍には、司くんが愛用するノートパソコン――以前悪戯心で触ったら簡単にパスワードが解除されてしまった――と、積み上がった本の数々――これはおそらく図書館か大学の資料室で借りてきたもの――が置いてある。
「レポートの途中で、ってところかな。司くん、そんなところで寝たら体を痛めてしまうよ」
 自分もよく寝落ちをするので、完全にブーメランだけど。むしろ経験者だからこそ、寝落ちの後のバキバキになった体がいかにつらいかよくわかっているつもりだ。
 何度か肩を揺さぶってみるが、司くんはむずがるばかりで目覚める気配がない。
 嘆息する。出来ることなら彼を抱き起こして上の階の彼の部屋まで運んであげたいところだけど、男ひとり抱えて狭い階段を上る腕力と体力を生憎と持ち合わせていない。
 仕方がない、と僕は自室に鞄を置きがてら、愛用しているブランケットを引っ掴んでリビングに戻った。
 だいぶ暖かくなってきたとはいえ、夜は肌寒い。司くんの体をソファーに移動させて、その上にブランケットを掛けてやる。
 幼い寝顔。柔らかそうな頬。
 いつも僕は彼よりも遅く起きるから、寝顔を見るのは新鮮だ。――ワンダーランズ×ショウタイムで合宿をした際に、誰より先に寝落ちした司くんを見て以来、だろうか。
 整った顔立ちをしていると思う。黙っていれば。僕は彼が紡ぐ愉快で面白おかしい『司くん節』も大好きだけど、ごく普通の、一般的な感性の持ち主はまず司くんの声の大きさに驚いて容姿の良さに気がつく前に一歩引いてしまう。
 それでいい、と僕は思う。司くんの魅力に気づける人は、少なくていい。
 一握り、限られた人だけが知っていればいいのだ。小さな箱庭で。世界なんて大きな舞台を夢みないで。僕の手の届くところで。目に映る範囲で。きらきらと、笑ってさえくれれば、それでいいのに。
 ――でも、がむしゃらに夢を追いかける彼だったから、好きになった。
 相反する感情の狭間で、僕はいつもひとり喘いでいる。
(君はきっと、知りもしないだろうね)
 欲にまみれた錬金術師に、一体どんな目で見られているのかなんて。
 ソファーに肘をついて司くんを見つめていると、自然と視線は彼の口元に引き寄せられた。
 ケアを怠らない彼の唇は艶がある。
 触れたらどんな感触がするのだろう。
 その、規則正しく上下する鼓動を、呼吸を、僕の唇で奪ってしまったら。
 眠り姫は王子のキスで目覚めた。
 ……では、それが王子などではなく、そうだな、たとえば異国の魔王だとしたら?
 はたまた孤独な錬金術師だとしたら? 眠っているのも、姫ではなく王様だったなら?
(ああ――好きだな……
 好きだ。どうしようもないほど。
 司くんの好きなところを挙げればキリがない。
 彼にはいくつもの顔があって、新たな一面を知る度に、僕はまた彼のことを好きになる。惹かれてしまう。感情が零れてしまう。
 なによりもその、今は瞼に隠された――力強い瞳が、すきだ。
……
 潮の満ち引きのようだった。
 月の引力に引き寄せられるみたいに、ゆっくりと、僕は彼に顔を近づけて。音もなく、唇を塞いだ。
 一瞬のことだったと思う。触れた唇は、想像していた通り――いや、想像以上に柔らかくて、そのことに少しだけ戸惑って。
 彼の呼吸を乱すよりも早く、離れたつもりだった。
 けれど。
 司くんの瞼が少しずつ持ち上がる。飴色の瞳が揺らめいて、僕を映した。
……類?」
 寝起きではっきりしない声。それでも自分が呼ばれたことにハッとして、僕は咄嗟に笑顔を取り繕った。
「おはよう、司くん」
「むう……おはよう……
 司くんは起き上がって、ごしごしと手の甲で目を擦っている。
 僕は何も言わない。言えるはずがなかった。不自然に視線を逸らす僕の横顔を、司くんの透明な眼差しがじっと見つめている。
「今……
 あまりにも無邪気に澄んだそれは、僕の腹の奥に眠る劣情を見透かしているようで。体が鉛になったみたいに、途端に酷く重たくなった。
「今オレにキスしなかったか?」
……。夢でも見ていたんじゃないかい?」
「夢? ……ゆめ……
 司くんはぼんやりと虚空を見つめていたけれど、やがて少しずつ覚醒してきたのか何度か瞬きを繰り返した。
……そうか、夢か。すまん、オレとしたことが寝ぼけていたようだ!」
「うんうん、最近忙しそうだったしねぇ。きっと疲れてるんだよ」
「そうかもしれない。我ながら恥ずかしい勘違いをしてしまったな。……今日は早めに寝るとするか。……類、夕飯は出来てるからチンして食べてくれ」
「ありがとう。後でいただくよ」
 キッチン側にあるダイニングテーブルには、ラップの掛かったオムレツとハンバーグが並んでいる。中を覗いてはいないが、コンロに乗った鍋には味噌汁が入っているのだろう。
 司くんは食べないのかい、と去り際の彼に声を掛ければ、少しの迷いの後、オレも後でいい、と気のない返事がかえってきた。
「おやすみ、類」
「うん、また明日」
 階段を上っていく足音。少しずつ遠ざかってやがて聞こえなくなった頃に、僕は肺の中の二酸化炭素を全て吐き出す勢いでため息をついた。
 さっきまで司くんがいたソファ――に寝そべる。心なしか彼の体温がまだ残っているような気がして、不自然に心臓が跳ねる。
……、やってしまった」
 司くんの唇……柔らかかった。
 たぶん、今僕はとんでもなく情けない顔をしているのだろう。
 ずっと好きだった。彼に興味を持ち始めた頃には、もう。彼に触れる、そんな夢想をしては長い夜を過ごした。
 けれど彼の眩しい顔を一時でも曇らせたくなくて、この気持ちを打ち明ける勇気もなくて、それならいっそ、死ぬまで胸にしまっておこうと。そう思っていた。
 司くんは、同性愛者じゃない。
 今は恋愛に興味がないだけで、その気になればいくらでも可愛い彼女ができるだろう。そうしていつか、どこの誰とも知れない相手と結婚して、子どもを産んで。そういうありふれた幸せな人生を送る。
 そうするべきなのだと、理性の部分では僕も納得していた。
 高望みはしない。期待もしない。
 たとえば、結婚式のスピーチをしたり。生まれた子供を抱かせてもらったり、彼の子煩悩な話を聞いてあげるような、そういう特別になれたら十分だった。
 隠し通せる自信だってあったのだ。僕はどうやらポーカーフェイスが人より上手く、何を考えてるのかよくわからないって言われるような人生を送ってきたから。
 なのに。
 一度触れたらもっと触れたくなった。彼の全部を暴きたくなった。下心をはらむ恋しさと、それよりももっと純粋な愛しさが綯い交ぜになって、まるい風船のように膨らんでいく。
 果たして。
 この感情が地球を覆うほど膨らみきったとき、僕は人の形を保っていられるのだろうか。
 司くんが思い描く「神代類」でいられる自信が、どうやら僕にはないようだ。


☆》
……おかしい。おかしいぞ……!」
 大学の構内でオレはひとり頭を抱えていた。
 最近よく、夢をみる。それ自体はいいのだが、ことごとくそれが類に、き、キスされる夢……なのだ。
 おかしいだろう、絶対に。類とオレは友人で、仲間で、ルームメイト。それ以上でも以下でもないはずなのに、夢の中のオレ達は明らかにその一線を踏み越えている。まるで、そう、恋人同士のような……
「なんなんだ一体……! 何か深層心理でも働いているのか……⁉︎」
 あまりにも頻繁に見るものだから、だんだんとオレは神代類という男を意識せざるを得なくなっていた。
 大学は別々なので、キャンパスライフを送る類の様子がどんなものかオレに知る由はないが――家と、ワンダーステージとで。改めて類を見つめていて気がついたことがある。
 ……オレの勘違いである可能性もまだ大いにあるのだが、
(なんかこいつ、オレを見つめる視線がどことなーく優しくないか?)
 ふとした瞬間にぱち、と目が合うと、類は決まって嬉しそうに頬を緩ませる。下がる目尻。色づく肌。まるで何か、大切なものを愛おしむかのような、そんな優しい顔を見せる。
(優しい……か)
 さまざまな実験を繰り返し、うっかりでオレの前髪を焦がすようなやつを形容するのに果たして「優しい」は適切かと疑問に思わなくもないが。
 断言する。類は優しい男だ。なんといっても人を傷つけることを良しとしない。
 一見危険に見える演出の数々だって、ただショーを盛り上げるためだけではなく、役者の安全を隅々までしっかり考慮されている。
 これまで何度も類のめちゃくちゃな演出に応えてきたオレだが、怪我をしたのなんていつかのハロウィンショーで頭を打った、そのとききりだ。
 それに。類は身内にはとことん甘い。甘え上手だし、甘やかし上手だ。
 ――「おはよう、司くん」
 就寝が遅くなりがちで、いつも寝坊する類を朝起こしに行くとき。まだ眠たそうな、とろりとした眼差しで綻ぶ類の表情が、最近は少し可愛く思えたりして。
 それがあまりにも無防備というか、元はオレのワガママで始まったルームシェアのはずが、類もこの生活を存外楽しんでいるのが表情から伝わってくるのだ。
 そして不思議なことに、そんな類を見ていると――なんだか胸のあたりが落ち着かなくなる。心臓の拍動が些か早くなって、全身がカッと熱くなる。
 決してマイナスな感情ではないと思う。だが、うれしいとも違う。どちらかといえば大声で叫び出したくなるような、春の雷鳴のような、そんな衝動が腹の奥で燻るのだ。
……まったくわからん)
 何故類を見ているとこんなにも心臓が逸るのか、その理由は皆目見当もつかない。
 最初は何か異変が体に起きてるのではと、病院に行くことも真面目に検討した。だが、どうもこの症状は類限定で発症するようなので――今は、別に要因があるのではないかと考えている。
 たとえば……類がオレに黙って何かの実験をしていて――そのせいで類といるときだけオレの体がおかしくなってしまう、とか。
(いや、まさかな)
 さすがの類もそんな悪さはしないだろう。……たぶんだが。
「はあ……
「司? なんだよ、元気ないじゃん」
 大学の敷地内にあるカフェでコーヒーを飲んでいると、不意に後ろからぽんと肩を叩かれた。講義がいくつか重なるうちに仲良くなった――たしか軽音サークルに入っているという友人のひとりだ。仮に友人Aとしておこう。
「おお、お前か……。何、未来のスタ――も悩みは尽きないものだ!」
「出たよ司の『スター』発言。お前がいると今日の合コンも盛り上がりそうなんだけどなー? な? やっぱ今日だけ顔ださね? 司と話してみたいってヤツもいるしさあ」
「断る。前にも言ったが、家で同居人が腹を空かせて待っているからな! 早く帰って夕飯の支度をしてやらねば」
「はあ~、このリア充め。どうせアレだろ、同居人とか言って、ほんとは彼女なんだろ。隠すなって」
「だから違うと言っているだろう」
 壁掛けの時計の長針が十二を回ったのを見て、カップの中身を飲み干し席を立つ。友人Aはまだとやかく言っていたが、合コンとやらの時間が迫っているのか笑顔で手を振ってどこかへ走り去っていった。
 ――合コン、か。
 進学して、何度か食事――と称した合コンの誘いを受けることがあったが、オレはそのすべてを断っていた。
 今夜、類は帰りが遅いと聞いている。
 なので家で同居人が待っているから、というのは体のいい断り文句でしかなかったが。事実、オレが帰らないと類はいつまで経ってもご飯も食べずにもくもくとショーの作業をし続けるのでまったくの嘘でもない。
 そしてオレが彼らの誘いに乗らない理由はただひとつ。……どうもいまいちピンとこないというか、テンションが合わないのだ。
 合コンと言えば、男女が席を囲んで、互いを恋人候補にとアピールする場だとオレは認識している。つまり恋人が欲しい人達の集会……みたいなものだろう、よく知らんが。
 一般的に思春期と呼ばれる中学時代も、高校時代も、恋愛という言葉はオレにとってあまりにも遠い存在だった。
 恋をいう感情を知らないというのが正しい。本を読んだ知識とか、なんとなく観たトレンド映画とか、悲劇、あるいは喜劇の舞台上での伝聞でしか、オレは恋を知らない。
 オレ自身、あまり必要とも感じていないようだった。幸いと言っていいのか、人肌恋しい夜の過ごし方をオレは幼少の頃から身に沁みついてしまっている。断じて咲希のせいなどではない。オレはオレのために、そうするスキルを身につけたのだ。
「わからんな。恋にうつつを抜かすより、ショーをする方がずっと楽しいだろう」
 ふと脳裏に類の姿が浮かんで、オレは小さくかぶりを振った。何故今あいつの顔が浮かんでくる。
 ああ、だが、あえて恋人を選ぶなら。
 それは類みたいな人がいい、かもしれない。


 カフェを出ると今朝に見た天気予報の通り、空から雨が降り始めていた。
 鞄に入れていた折り畳み傘を開く。ビニールに雨粒が落ちて、小さなコーラスを奏で始める。
 雨が降っている。それだけで、世界はどこかいつもと違うような気がしてくるから不思議だ。
……今夜も見るだろうか。類の夢を)
 同じ男である類にキスされる夢をみても、大して嫌悪感は抱かなかった。夢だからだろうか。どこかふわふわと夢心地で、ふにゃりとして、柔らかくて。
 気持ちいい、とさえ思ってしまっていた。
 唇に指を這わせる。……もしや、欲求不満なのだろうか。このオレが?
 だがこのところ引越の準備と大学のことと、それからワンダーランズ×ショウタイムのショーのことでどたばたしていたし、男として定期的にする下の処理も最近は全然だ。
 しかし、だとすれば。類には申し訳なくなってくる。おそらく今のオレの生活は類を中心に回っている。それすなわち、一番近い存在が類であるとも言い切れる。
 故にこそ、彼を持て余した性欲の捌け口にしてしまっているのだとしたら、……無意識下とはいえあまりにも身勝手なことではないかと。
 胸中が罪悪感で満たされる。今夜、類は帰りが遅いと言っていたし――たまにはちょっと手の込んだ手料理でもごちそうしてやろうか。罪滅ぼしにはならないだろうが。
――む?」
 そう、雨粒の声を聞きながら思い悩んでいると。
 本降りになった雨の中、公園のベンチの屋根の下で所在なさげに立ち尽くす後輩――冬弥の姿が視界に入って、オレは足を止めた。
「冬弥!」
「! 司先輩……! お久しぶりです」
「ああ、久しいな! まったく、ずぶ濡れじゃないか。天気予報を見ていなかったのか?」
「お恥ずかしながら……
 見たところ冬弥はひとりのようだ。相当降られたのか、昔の冬弥だったら絶対に着ないような、少しだぼついたパーカーを雨で重たく変色させている。
 オレは見兼ねてポケットからハンカチを取り出したが、生真面目な冬弥に丁重に断られてしまい、仕方なくポケットに戻した。
「彰人は一緒じゃないんだな」
「今日はソロで歌っていたんです。チームで歌うときとは違った緊張感があるので、今もたまに飛び入りするようにしていて……
「ふむ。だがそのままでは風邪をひくだろう。歌どころではなくなってしまうぞ!」
……返す言葉もないです」
 冬弥が今、彰人と一緒に歌を頑張っていることは知っている。ピアノに苦い感情のある冬弥が、それでも自らの意思で音楽の道を選んだことは、兄貴分としてうれしく思っていた。
 道ゆく人から冬弥の称賛を耳にする度に、誇らしくも思う。弟の成長が嬉しくない兄などいないだろう。
 だが。いくら大きくなったといえど、しゅん、と素直に落ち込む冬弥の姿は今も昔も変わらない。
「仕方がないな。とりあえずうちに来い!」
「え。い、いいんですか……?」
「ああ。ここから近いしな! それに家人も今日遅くなると言っていたし、遠慮はいらん」
……ありがとうございます」
 僅かに口元を緩ませる、不器用な冬弥の笑みに大きく頷いて、オレは冬弥を我が家へ招待することにした。
 思えば家に誰かを上げるのは、引っ越しのときに咲希達が来て以来初めてだ。マンションのエレベーターが七階に到着する。目的の部屋の鍵を開けると、まだ暗い室内がオレと冬弥を出迎えた。
 我が家はメゾネットタイプゆえに、玄関からすぐの右手に上の階にあがる階段がある。階段を上らずまっすぐに進むとトイレと脱衣所が並び、その先がバスルームだ。
「好きにくつろいでくれて構わんが、階段上ってすぐのところはルームメイトの部屋だから入らないでほしい。尤も、入ったところで足の踏み場がないがな……
 いつかの寧々の忠告通り、類の部屋は油断すればすぐバルーンアートやロボやらが所せましと溢れかえり、床の面積がどんどん少なくなっていた。
 床だけならまだしもベッドの上まで散らかり始めたときはさすがに苦言を呈した。――類はショートスリーパーの気があるので、せめて良質な睡眠を摂る努力はしてほしいと。
 実家ではソファーベッドで済ませていたあいつにわざわざアウトレットでベッドを買いに行かせたのも、そういう理由があってのことだ。
 ――遠い空で雷鳴が轟く。
 オレはとりあえず脱衣所からバスタオルを一枚出して冬弥に投げた。
「オレの服を貸してやるからシャワーで温まってくるといい! 服は洗濯しておく」
「何から何まですみません……
「なに、可愛い後輩の為ならこの程度。なんてことないぞ!」
 バスルームに冬弥を押し込んで、オレは自室から冬弥も着られそうな服と買い置きの下着を身繕い、脱衣所に置いた。
 どちらかと言えば類の服の方がサイズ的に着心地がいいだろうが、いくら同居人といえどクローゼットを物色なんて、そこまでの勝手はできない。
 冬弥がシャワーを浴びている間、リビングで書きかけだったレポートを見直す。十分くらい経ったところで、風呂からあがった冬弥がタオルで髪を拭きながら、リビングと廊下を仕切るカ――テンを開けた。
 グレーの瞳が珍しそうに室内を見渡す。そしてふとリビングの壁に立てかけてあるキーボードを映し、ぱちぱち、とその目を瞬かせた。
……司先輩、キーボード弾いてるんですか?」
「ああ。作業に行き詰まったときに気晴らしにな」
 ワンダーステージでショーをするようになって、独り善がりだったショーの構想が現実になるようになった。
 専用の衣装を着て、来てくれたお客さんに向けて声を張り上げる。世界観を全身で伝える。笑いも、涙も、全部、ぜんぶだ。
 伴って、オレの脚本への意識は少しずつ変わっていった。
 この二年で様々なショーを披露してきた。類の演出用ロボットが映えるショーも、寧々の歌声が空高く響くようなショーも、えむの明るい笑顔が会場の最奥まで伝わるような華やかなショーも。勿論このオレが輝くショーもだ。
 ショーは一人でも作れる。でも、誰かと作り上げたショーはその何倍も楽しい。そして気持ちがいい。であるならば、脚本も演者に寄り添い、観客に訴えるものにしようと。
 だが一方でこだわればこだわるほど、構想に詰まることも多くなった。
 そんなときに気分転換も兼ねて弾くようになったのが、幼い頃に使っていたキーボードだったのだ。
 弾く曲はなんでもいい。そのときに弾きたい曲を、弾きたいだけ。エチュードをさらう日もあれば、雨の日にしっとりとショパンを弾く日もあるし、クラシックが乗らない日は咲希がよく口ずさんでいたアイドルの曲を耳コピして弾く日もある。
 オレが鍵盤を叩く姿が物珍しいのか、そういう日は決まって類もリビングに降りてきて、ソファーに座ってメロディに耳を傾ける。
 さながら、たったひとりの観客に向けた小さなショータイム。そうしているうちにだんだんアイディアが空から降ってきて、神がかった脚本の数々が生まれるのだ。
 ウォーターサーバーからコップ一杯分の水を汲んで冬弥に手渡す。そろそろ洗濯が終わる頃だが、生憎と我が家には乾燥機がない。その上この空模様だ。
「服、今日中に乾きそうにないが……泊まっていくか?」
 冬弥の顔を覗き込むと、冬弥はいえ、と小さく首を振った。
「そこまでお世話になるわけには。傘と先輩の服だけ借りても良いですか? 後日洗って返します」
「ふむ……。まあ一人暮らしならともかく、ここはあいつの家でもあるわけだしな……
 一人暮らしだったなら、何の気兼ねもなく冬弥を泊めただろうが。
 類と冬弥は互いに顔見知りではあるけれど、特別親しいわけではない。オレの勝手で許可なくこの家に泊まらせるのは、さすがの類もあまりいい気がしないだろう。
「気をつけて帰るんだぞ」
「はい。……本当に、ありがとうございました」
「ハーッハッハッハ! スターになる男ならば、この程度の人助けはして当然だな!」
 折り畳みではない方の青い傘を冬弥に持たせる。
 冬弥はオレにとって弟のような存在であり、可愛い後輩だ。それはどんなに歳をとって、いくらか疎遠になってしまったとしても変わらない。
 エレベーターまで冬弥を見送ってから、ひとりリビングに戻る。
 雨足は弱まらない。類には今朝方傘を持たせたが、この大雨じゃあまり役に立たない可能性がある。
「類のやつもずぶ濡れで帰ってくるかもしれんな」
 帰ったらすぐに温まれるよう、風呂を沸かして、夕飯はスープを用意しよう。
 ふ、と口元が緩む。年下のえむや寧々の前ではしっかりとしている割に、あいつは結構、オレの前では無防備な姿を曝け出すようになった。それが意外と、まんざらじゃない。
 そう、まんざらじゃないのだ。類との生活は、思いのほかに。パズルのピースが嵌まるみたいに、存外上手く噛み合っている。
 ひょっとすると、あるいは、オレも。類の前では、普段見せないような顔を見せているのかもしれない。そうであればいいと思う。オレと類はもう、家族……なのだから。


★》
 酷い夕立ちだった。
 今朝司くんに「予報で雨だから」と手渡された傘には、一体どれほど感謝したかわからない。結局横殴りの雨には傘の防御力をもってしても無力で、全身ずぶ濡れになってしまったけれど。
 玄関に足を踏み入れると、料理中だろうか、すぐに美味しそうな香りが漂ってくる。
 すっかり司くんに胃を掴まれている僕は、ゲンキンにも「くう」と鳴ったお腹に苦笑して、ひとまずその場で濡れそぼった靴と靴下を脱ぎ捨てた。
「司くん、ただいま」
「おお、おかえり。雨大丈夫だったか?」
「土砂降りだったね……
「やはりお前もずぶ濡れになったか。風呂、沸かしてあるぞ。夕飯までまだ時間がかかるから、先に温まってこい」
「そうするよ。ありがとう」
 カーテン越しにキッチンに向かって声を掛ければ、当たり前のように司くんの声が返ってくる。
 声を聞くだけで、何故かその日一日感じていた心の穴が修復されていくような気がするのは……僕が彼に恋をしているからなのか。はたまた彼の声に不思議な力でもあるのか。残念ながら恋に落ちてしまった僕では検証ができそうもない。
 自室から部屋着と下着を引っ張り出して階下へ降りる。今度は何も言わずにリビングを通り過ぎ、脱衣所のガラス張りの戸を開けた。
……?」
 使用後特有の熱気と湿っぽさ。司くんが先に入っていたのだろうか。そのときは特に気に留めずジャケットを脱ぎ、シャツも脱ぎ捨てようとして――ふと、洗濯機の中が目に入った。
 洗い立ての濡れたパーカーは、並みの男が着るには大きいサイズと一目でわかる。けれど僕の服ではなく、当然、司くんはサイズが合わない。
 僕のものでも、司くんのものでもない男の服。湿ったバスルーム。……思考が白く塗りつぶされていく。
――
 刹那、目の奥がかっと熱くなるのを感じた。どろりとした嫌な感情が腹の底を蛇のように這いずる。
 ああ――ブリキで出来た人形も、まさかこんなに燃え盛る心臓を欲しがってはいなかっただろうに。
「司くん、……ちょっといいかな」
「ん? どうした。……おい、風邪ひくぞ」
 キッチンで鍋の中身を掻き混ぜていた司くんの背後に立つ。訝し気に振り返った司くんは、上半身裸のままの僕にまず驚いて、呆れた声をあげた。
 そんな司くんに先ほど洗濯機から取り出してきたパーカーを見せれば、彼は慌てるでもなく、ぱたぱたと睫毛を二、三度無邪気に揺らした。
「この服、君のものではないね」
「ああ。それは……むうっ?」
 聞いておきながら。その先の言葉の先を聞きたくなくて、僕は咄嗟に司くんの口を手で塞いだ。
 馬鹿だな、遮ったところで、猶予なんてほんの数秒数分で。地球の歴史を鑑みたら、そんなのほんの誤差程度の時間でしかないのに。
「この家に、誰をあげたんだい」
 自分でも驚くくらい、冷えた声だった。
……類? ……おわっ!」
 後ろ手に鍋の火を止めて司くんの手を引く。リビングのソファー。……司くんと二人で買った、この家のソファーに。司くんの体を、少し乱暴に押し倒して。
 司くんのカスタード色をした髪がソファーの上で広がる。飴色は見開いて、咄嗟にだろうか、覆いかぶさる僕の体を押し退けようと肩に手を置いた。
 司くんもちゃんと鍛えているから、それなりに強い力で押されたら僕も敵わない。けれど意地になって張り合ううちに、司くんの方が先に折れて、代わりに嘆息を零した。
「何をするんだ」
……
 意外と、落ち着いた声だった。
 当然だ、司くんにとって僕はただのルームメイトでしかない。ショーキャストの仲間で、母校が同じだった友人でしかないんだ。
 大学に進学して、僕の知らないうちに好きな人ができて、晴れて両想いになったとしても、それを僕に報告する義務なんて彼にはない。
 何も負い目なんて感じているはずがない。そんな当たり前の事実に打ちのめされて、手前勝手にも酷く泣きそうになった。
 こんな感情を抱えてこれから生きていかなきゃならないというのなら、僕は最初から心臓なんていらなかったのに。君を祝福する何者かになりたかった、それだけなのに。
「ずっと君は、女の子が好きなんだと思って……だから僕は……
 君への想いを、打ち明けないまま、三年目の春だ。
 ――それが、なんで。どうしてよりにもよって、男物なんだよ。
「男でもいいなら、……っ僕でいいじゃないか!」
「っ!」
 突然声を張り上げた僕の剣幕に驚いて、司くんは小さく息を飲んだ。
 こんなに声を出したのなんて、ショー以外であっただろうか。
 心がささくれ立っていた。ずっと大好きだった司くんのことさえ、触れたら傷つけてしまいそうなほどには。
 ふ、ふと浅く呼吸を繰り返す僕の頬を、司くんの指先が撫でる。それすらも煩わしく、眉間に力が入って、唇を噛み締めた。
「おい、落ち着け、類……。なんて顔してるんだ、お前」
「落ち着いていられないよ……僕は君に無関心でいられない。君にはわかりっこないだろうけどね」
「随分と子供っぽい、拗ねた言い方だな」
……
 何か。何か言葉を紡ごうとした。何でもいいから反論がしたかった。司くんの言葉を否定したかった。
 でもそのどれもが声にならない。代わりに目頭が熱くなって、喉がきゅうと締まって、覚束ない気持ちになる。
 鼻の奥が痛み出した頃になってようやく僕は司くんから顔を背けた。
 輪郭が滲む。ぼろ、と呆気なく零れた水滴は、ラグマットに小さく染みを作った。
……酷い気分だ。君にこんな醜態を晒すなんて」
 泣くつもりなんて、なかったのに。
 手の甲を目元に当てる。熱をもったそこがほんの少しだけ冷やされる。可笑しくなって、自嘲するように笑った。何もかもがおしまいだ。そう思えた。
 僕はいつも、積み上げてきたものを自分で壊してしまう。
 気づいたときには遅すぎる。司くんが悪い。そう言ってしまうのは簡単だったけれど、彼一人に責任転嫁するほど、僕はこの恋に積極的だったと言えるだろうか。
「あー。さすがのオレも、気づかざるを得ないんだが……もしや類、お前、オレのことが好きなのか?」
……。好きだよ」
「恋愛感情としてか?」
「そうだよ。僕は君が好きだ。君の笑う顔が好きだし、触れたいって思う。抱き締めたい。キスもしたい。その先も、本当はしたい」
「そ、その先も……?」
 たじろいだ司くんの頬にわずかに色が乗る。
「もしかして、……いや! もしかしなくても、お前にキスされる夢はやっぱり夢じゃなくて……
 今度は僕が目を見開いた。
 一度成功体験をしてしまえば癖になるというが、正しくそうだった。僕は司くんが眠っている間に何度もキスをした。寝込みを襲うような真似をしている自覚がある手前、罪悪感を感じていたけれど、まさかそれに司くんも気づいていたなんて。
……ごめん」
「おお……そうか……
 ……なんにせよ、今更だ。
 ガラガラと音を立てて崩れていく世界に、ひとり立てこもるには。僕はまだ幼くて、すぐに君を諦めることなんてできやしない。
「本当に、すまないと思っているよ。君が望むならこの家も出て行く。だけど、君の心が誰に向いていたとしても、君を好きでいることは許してほしい。……自分でも、もうどうにもできないんだ。お願いだよ」
……
 吐き捨てるように一方的に紡いだ僕の言葉を、彼は静かに、真剣に聞いていた。
 ――静寂。雨の音だけが、僕達の箱庭に響いている。
「色々言いたいことはあるんだが」
「うん」
「まずこの服は、冬弥のだ」
……彼と付き合ってるのかい?」
「ちがう! 今日夕立ちがあっただろう、ずぶ濡れだったからうちに呼んでオレの服を貸した。それだけだ。冬弥とオレは、そういう仲じゃない」
「えっ……?」
 じろりと司くんが僕を見上げている。
 司くんの言葉を噛みしめて、咀嚼して、ようやく理解する。指先からすっと体温が引いていく感覚を一体どう形容すればいいのだろう。
「ええ……っと。どうやらひどい勘違いをしてしまったようだね……?」
 泣いたり、笑ったり、青ざめたり、赤くなったり。百面相はどちらかといえば司くんの専売特許だろうに。一人先走って勘違いして、暴走にも程がある。
 顔に集まった熱。これは、羞恥、と呼ぶのが一番正しい気がした。
……今日はお前の珍しい顔をよく見るな」
「見ないでくれ」
「はは。悪いがそれは出来ん相談だな!」
 底抜けに明るい声を聞けば、僕は簡単に絆されてしまう。それだけの長い時間、彼と同じときを過ごして、同じ景色を見てきた。
 僕のこの後ろめたい感情を、好意を知っても尚、彼の輝きは褪せないというのか。
 ……白い歯を見せて笑う君に見惚れた。
 ずっと好きだった。この二年間、ずっとだ。
「なあ類。オレは……お前が言う、恋愛感情がよくわからん! 正直今は勉強とショーのことで手一杯だ」
……そうだ、ね。そうだろうとも」
 彼の、スターになる夢は道半ばだ。二人で話す時間が増えて、自然と、お互いの将来の展望を話す機会にも恵まれた。
 僕はこのまま演出家としての腕を磨いて、細々とやっていくのが性に合っていると話したが、彼は折を見て劇団に入りたいと――そのときはお前も一緒に来いと、司くんは僕の返事も聞かずに決めていた。
 暗闇に、道筋が浮かび上がるようだった。司くんの言葉は、理想は、いつだって荒唐無稽で、それでいて正しい。僕一人じゃない。大勢の道しるべにだってなり得るような、そんな。
 ――だから、彼は、太陽なんだ。
 司くんは口元を緩ませて、優しく僕に微笑みかけた。
「だが、お前がオレを好きだと言うのなら、構わん。思う存分好きでいればいい」
……
 綺麗に切りそろえられた爪。ハンドクリームでしっかりケアされたその、男にしてはやや細い指が、僕の眉間を小突く。
「もしかしたら今後オレもお前を好きになる日がくるかもしれないだろう?」
「気持ち悪くはないのかい、僕は君に劣情を抱いてるんだよ。君を抱きたいんだ」
「ド直球だな……
 一瞬呆れた顔を見せて、司くんは少し、考えるような素振りを見せた。
 考える余地なんて、本当はどこにもないはずなのに、彼はこの現代において天然記念物とも呼べるくらいに、純粋で、限りなく善人だ。
「ならばオレがお前に抱かれてもいいと思えるくらい男を磨くんだな!」
 ――たぶん、きっと。僕はこの日のことを、一生忘れないだろう。
「それはつまり、僕はまだ君とこの家に住んでいてもいい……ってことかな」
「いいもなにも、ここはオレと類の家だろう。出て行く理由がない」
……どさくさに紛れて、また君にキスしてしまうかもしれないよ」
「それこそ好きにしろ。キスくらいは大目に見てやる!」
……
「なんせオレはスターになる男だからな!」
…………
 本当にわかってるのかな、なんて、野暮なことを聞くのはやめた。司くんの指先が僅かに震えているのを、見なかったふりなんてできるわけがなかったから。
 散々醜態を晒した後で、僕がどれだけ取り繕っても、結局滑稽なだけだろうけど。
――わかったよ。僕は努力という言葉はあまり好きではないけど――君に好きになってもらえるよう、やれることは尽くそうじゃないか」
 もう二度と、後悔なんてしたくない。手を伸ばす前に諦めたくないから。
 司くんの両頬を手のひらで包みこむ。まっすぐに見つめる瞳は透き通っていて、間近で見ると僕の顔が映って見える。寝てるだけの君を見つめるだけじゃ見られなかった光景だ。
 愛おしいと、――そう思った。
「司くん、僕もなかなかのお買い得物件だよ。まず頭が良いし、見た目も悪くない方だろう? ……何より君を誰よりも輝かせる演出をつけてあげられる、絶対の自信がある」
「ふむ。たしかに」
 頷く彼にそっと微笑み返す。どれだけ長期戦になったっていい。明日でも明後日でも、十年後だって、僕は君の言葉を待ち続ける。
「それに……一途だ」
……おお。今のは結構、ぐっときたな」
「おや。……フフ。……案外はやく、君に好きになってもらえるかもしれないね?」
 願わくば。
 そう遠くない未来で。君の輝きの一部を、僕のものにさせてはくれないかな。


☆》
――なんてこともあったな」
 ぱき、と市販のルーを割りながら、鍋に放り投げて。オレは機嫌よく鼻歌を歌った。
 雪解けの季節だ。もうまもなく春がきて、駅前の桜の木が満開になるだろう。
 そういえば今年はワンダーランズ×ショウタイムのメンバーで花見をするのだろうか。
 去年はなんだかんだでLeo/needの四人も混ざって、大変に盛り上がったが。余興と称してネネロボと漫才させられるのだけは、今年は勘弁願いたいところではある。
 ――類と暮らし始めて、二年が経過しようとしている。
 先日部屋の契約更新をしたばかりで、二年前はどこか味気なかったリビングも、今じゃすっかり――類の好き放題にされていた。
 天井に浮かぶ色とりどりのバルーン。何に使うんだかわからない、どこかオレに似ていなくもないロボ。
 共用の部屋なんだから自分の物は自分の部屋に置けと言っているのに、当の本人は知らんぷりだ。なのでオレも、私物のDVDやら去年のショーコンテストで貰ったトロフィーやら好き勝手に飾っているうちに、いつの間にか無法地帯が出来上がっていた。
 だが。オレと類の思い出が詰まった、良い部屋だとも思う。
 ――二年、か。
 長いようで短かったような気もする。お互い大学で忙しくしていたのもあるし、その合間合間にえむと寧々と打ち合わせや稽古を重ねて、ショーの公演もコンスタントに続けていた。
 相変わらず集客にはうるさい鳳兄をぎゃふんと言わせるためにも、ワンダーステージでのショーを疎かにはできない。勿論そんな理由がなくたって、今やワンダーステージには、……ワンダーランズ×ショウタイムには決して少なくないファンがいる。
 彼ら彼女らを一人残らず笑顔にする。オレ達の目標の原点はいつだって同じだ。
 と、まあ。そうなってくると、自然とオレと類は寝食さえも忘れてショーのことで頭がいっぱいになってしまうわけで。
 寧々にショーバカだなんて揶揄されても返す言葉が見つからない。そんな忙しない毎日を送っていたものだから、二年と言われてもピンとこないのだ。もうそんなに時が経ったのか、と少しばかり感慨深く感じるだけで。
(まあ――あっという間だったが、充実していたな。とても)
 ぐるりと鍋の中身を掻き回していると、不意に玄関の開く音がして顔を上げる。
 とん、とん、とん。足音はまっすぐに洗面所へと向かい、水の流す音が聞こえて。
 やがてそう待たないうちにリビングのカーテンが開き、ひょこりと長身が顔を出した。
 類だ。
「おや。おいしそうなシチューのにおいがするね」
「ああ! 聞いてくれ、にんじんとじゃがいもがセールで安かったんだ!」
「にんじんか……僕の皿には入れないでほしいな」
「馬鹿を言え! 好き嫌いしていては大きくなれん……いや、撤回する。それ以上デカくなるな。むしろ縮め。少し寄越せ」
「無理な相談だねえ」
 最近類はゼミの研究で、休日も時間の許す限り大学に籠っている。壁に掛けたホワイトボードにも、類の欄に「ゼミ」と書いてあるので、おそらく今日も朝から研究室にいたのだろう。
 少しくたびれた表情で、類はぱき、と小さく肩を鳴らした。
 キッチンに侵入を果たした類は、鍋を見下ろすオレの背後に忍び寄って。おもむろにオレの腰に腕を回した。
……おい。料理中だぞ、類」
「うん、少しだけ……
「むう……
 類の、甘えるような仕草にはどうも昔から弱い。
 この大の男と最愛の妹・咲希を同列に並べたくはないが、小首を傾げて「お願い」されると兄としてなんだって了承してやりたくなってしまう。
 すり、と類の手のひらがオレの腹を撫でる。覚えのある手つきにぞわりと肌が粟立つ。
 思わずじろりと類を振り返れば、類は「フフ」といつものように笑って、オレのこめかみにキスを落とした。
「司くん、顔を上げてくれるかい?」
……ん」
 不承不承、顎を持ち上げてやれば。間髪入れずに類の唇が、オレの口を塞いだ。小さくリップ音を立ててすぐに離れたそれをぼんやりと見つめて、類の蜂蜜色の瞳を見上げる。
……満足したか?」
「全然してない、って言ったらもっとさせてくれるのかな?」
「駄目だ。……今は。夜ならいいぞ」
 ぽつりと呟いた言葉。けれどしっかり聞き取ったらしい類は、にんまりと口元を嬉しそうに緩めた。
「フフ。明日は大学もバイトもお休みだもんねぇ」
「わかったらいつまでもくっついてないで、皿を出してくれ」
「承知したよ」
 類の腕が、体温が離れていく。少しだけそれを名残り惜しく思いながら、オレは再び鍋へと視線を戻した。
 類の気持ちを受け入れて、正式に交際を始めるまでそう長くはかからなかった。今思えば類が酷く取り乱したあの日――あの頃には既に、オレは類のことが好きだったのだと思う。
 でなければ。いくら気の置けない友人といえども、同性の相手にキスされる夢をみて平然としていられるわけがない。
 お互い恋愛に関しては初心者もいいところで、揃いも揃ってフィクションの世界の恋愛を知識として知っている程度だったので、亀並みの歩みではあるものの。
 ゆっくり、着実に関係を進めている。
 類がしたいと言っていたキスも、その先も、許した。
 ――幸せだと、思う。
 カッコいいオレも、カッコ悪いオレも、全部類は認めて愛してくれる。オレも、どんな類だって可愛いと思うし、愛しいと思う。そう思えることが幸せだとしみじみ思うのだ。
 たとえばこの、温かいシチューのような。優しくてほの甘い関係を、これから先も続けていきたい。大人になって、社会人になって、オレがスターになっても、二人ともおじいちゃんになってもだ。
 コンロの火を止める。部屋着に着替えて降りて来た類を見て、オレは「あ」と小さく声をあげた。
「言い忘れていた! ――おかえり、類」
「ああ。……ただいま、司くん」
 ふわりと類が微笑む。春の訪れを知らせる花のように。
 雨のあと、空に架かる七色の眩さを身に纏って。

 ――これは、恋の物語。オレと類が虹の麓を目指すまでのお話だ。