猫澤
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僕らハッピーエンドメイカーズ



 しんと静まり返る控室の隅。鏡に映る自分の姿は、どうにもやや不健康そうに見える。
 目の下の隈。垂れ下がる頬。舞台映えするように大げさに濃く塗られたシャドウの数々も然ることながら、一度瑞希が手ずから縫製した真っ黒な衣裳に袖を通してしまえば、それはどこからどう見ても司が思い描くオルカそのものだった。
 控室の外では慌ただしい足音や声が聞こえる。
 ――まもなく、シームルグの冬期公演が始まろうとしていた。
 肌をぴりっとさせる緊張感は、何度味わっても心を震わせる。ここにいる皆が同じ舞台を作りあげ、その成功を望んでいるのだ。
 カメラのない、やり直しの利かない一度限りのステージ。ショーの手綱を引いて、今日この舞台を観に来たすべての人を魅せるのは他でもない司の役目である。
 ふと、左手薬指の指輪が照明をきらりと反射して、おっと、と司は思わず声をあげた。
 サイズぴったりのプラチナリング。大切なパートナーからこれを貰って以来、うれしさ余って片時も外すことのなかった――大事な結婚指輪だ。
(だがすまない。いまばかりはお前は留守番だ)
 するりと指から引き抜いて、司はそれをリングケースにそっとしまった。
 ピアスやらネックレスやら、意外とアクセサリーを好む類とは対照的に、司はあまりそういったものに縁がなかったので……貰った当初は身に着けることにちょっぴり違和感があったものだ。サイズがぴったり過ぎて一度嵌めたら外せなくなるんじゃないかって、おっかなびっくり嵌めて類に笑われたのも、いまとなってはいい思い出である。
 知らず知らずのうちに笑みが零れていた。しかしどうせ今はだれも見ていないからと、油断してくふくふと密かに笑えば。
「うれしそうね」
 カタン、と背後から音がして、司は勢いよく振り返った。いつの間に控室のドアを開けていたのか、そこには蛇をモチーフにした衣裳に身を包んだ櫻子が呆れたような顔をして立っている。
 じわり。さすがの司も羞恥が込みあげて、意味もなく咳払いで誤魔化した。
……すまない、ついにやけてしまって」
「構わないわよ。けど、もうすぐ本番なのだからその緩んだ顔ははやいところ引き締めてちょうだい」
「無論、心得ているとも」
 力強く頷く司に、櫻子はおどけた顔をして見せた。
 フェニックスワンダーランドでは互いに競い、時に手を取るライバルであるけれど、であるからこそ、櫻子は司の実力を過不足なく評価している。
 粗削りだった演技力は日々上達の一途を辿っているし、人望が厚く、なによりも人を魅了するなにかがこの男にはある。
 あの偏屈な演出家が骨抜きになってしまうのも、わからなくはないのだ。
「天馬さんは――……
 言いかけて、はた、と言い淀んだ。
「失礼、神代さんと呼んだ方がよかったかしら?」
「ん? ああ……天馬のままで構わん! 籍は入れたが別姓を選んだから、結婚したとは言っても同棲時とさして生活は変わらなくてな」
 類と結婚してもうじきひと月が経つが、したことといえば両家の挨拶と役所に婚姻届を出したくらいだ。式も挙げていないので――結婚を機に司の生活が劇的に変わったかといえば、まったくそんなことはなく。
 朝同じベッドで起きて、ふたりで朝食を摂って、互いに仕事をして。夜になったらまた一緒に食事を摂って、同じベッドで眠る。そんないままでと同じ日常が、当たり前に続いている。
「オレは神代をもらってやってもいいと言ったんだが」
 姓が変わると名義変更が大変だと聞くが、やはり味気無さを感じて以前司は類にそう打診した。しかし返ってきた言葉は――
「『天馬司』としてやっと名前が広まってきたのにかい? それに、天馬司は天馬であってこそ、完成されているからねえ」
 ――である。
……まあオレも天馬の名に愛着があるからな。ありがたく天馬姓を名乗らせてもらうことにした」
「そう。たしかに、天馬さんは『天馬さん』って感じだわ」
「ハッハッハ。そうだろうそうだろう!」
 かと言って類が天馬類になるのは……まあ、それはそれで司としてはアリなのだが、何気なく類が放った「それ、新しい生物の分類みたいじゃないかい?」という言い分にうっかり「たしかに……」と思ってしまったのもあって。気づけばすっかり流れてしまっていた。
 それに、類の言葉に同意する部分もある。
 名前を売り出し中という点では類だって同じだ。ショーコンテストの結果を受けて、このところは深夜ドラマにテレビ番組、果ては地方のテーマパークで開催されるショーまで演出の依頼がひっきりなしに事務所に届いていた。
 肌で実感する。もう自分達は、夢のすぐ傍まで辿り着いている。
 ここからだ。ここからのアプローチが、世界に繋がる鍵になる。
 司が背もたれに体を預けると、ぎい、とパイプ椅子が悲鳴をあげた。
 傍らのモニターには客席の様子が映されている。みな、今日の公演を楽しみに待ち望んでいた者達だ。中には司と類を冷やかす視線も、報道の目もあるだろうが、司にとってはそれさえも些細なことでしかない。
 冷やかしたければ冷やかせばいい。舞台役者はエンターテイナーで、天馬司という男は観客を喜ばせるために存在する。だれひとりとして例外はない。
「さて……オレ達も、オレ達のショウタイムといこう」
 司の言葉に呼応するように、二対の琥珀が煌めいた。


     ■


 遡ること、二か月前。鳳晶介は怒っていた。それはもう、えらく怒り心頭であった。
 鳳グループ経営ビル。フェニックスワンダーランドや、劇団シームルグ、その他手広く展開する事業の総合本社。その上層階に位置する会議室で、呼び出された司と類を待ち受けていたのは、額に青筋を浮かべた晶介と、苦笑を漏らす慶介の姿で。一瞬、見なかったことにして立ち去ろうか司は本気で考えてしまった。
――やってくれたな、お前達……どういうつもりだこれは」
 バン! と大きな音を立てて机に叩きつけられたのは、今朝発行されたばかりの週刊誌である。芸能人のあることないことを面白おかしく綴られたゴシップが立ち並ぶ中、見開き二ページのその記事は、紛れもなく司と類の結婚について書かれたものだった。
 発端は、司が自身のSNSアカウントで行った投稿である。「ファンの皆様へご報告」とだけ簡潔に綴られたそのポストには、丁寧に司の手書きで、以前より真剣に交際していた神代類とこのたび入籍したと書かれた紙面の画像が添付されていた。
 その拡散力たるや。
 おかげでオルカの公演開始直前にして、ネット上は司と類の熱愛結婚報道がトレンドニュースにまであがっている。当然、それを晶介たちが目にしないわけもなく、完全に寝耳に水であった晶介は事情を聞くべく即ふたりをこの本社ビルまで呼び出したのだ。
「どういうつもりもなにも……書いてあるその通りなのだが……
 司としては、なにも悪気があったことではなく、類と籍を入れたことをだれよりも自分達を応援してくれているファン達に伝えたかっただけである。
 無論事前に類とは相談したし、この投稿をすることで社会に与える影響も考えた。しかし自分達のファンならば、きっと祝福してくれるだろうと――事実、いまは通知を切ってはいるものの、司の元に届くリプライは軒並み祝福の言葉が並んでいる。
 むすりと不機嫌そうに顔を顰める晶介の肩を、慶介がぽんと軽く叩く。
「いいじゃないか、晶介。神代くんと天馬くんが交際していることは一部ファンにはすでに知られていたことだろう」
「兄貴は甘すぎんだよこいつらに!」
「そうか?」
 むしろ、企業的には話題性抜群で特別不利益もなく。シームルグのチケットは冬期公演どころか、春期公演のチケットまで全席ソールドアウトの勢いである。
 それだけ日本中が司と類に注目している。期待を寄せている。舞台なんて興味のなかった層にまでアプローチが行き届くのだ。個人的な感情はこの際横に置いておくにしても、彼らを叱る理由は慶介にはない。
 まあ……できれば事前にこちらにも話を通しておいてほしかったところではあるが。
 仮にも彼らの雇用主である自分達に結婚祝いのひとつも出させてくれないのは、少々寂しさを感じてしまう。慶介にとっては、司も類も妹のえむ同様、かわいい弟分のように思う部分もあるので。
 晶介も真面目ぶって口では社会人としてだの、芸能人としてだのとそれらしいことを説いているが、結局のところなにも聞かされていなかったのが寂しいだけだろう。なんだかんだと気を揉んであれこれ世話を焼きたがるくらいには、あれもだいぶ、彼らがかわいくて仕方ないようだから。
 ふ、と慶介が苦笑する一方で、司は晶介の説教を類と並んで聞きながら、なんだかこの感じ、久々だな……と遠い目をした。
 学生時代はよくこうして類の実験の巻き添えを食らって職員室に呼び出されたものだ。少しは大人になったつもりでも、実は全然あの頃から変わってないのかも……と思わされる。
 もちろん、それはそう思うというだけで、実際は司も類ももう大人で立派な社会人で。
 司にとっても、慶介や晶介には恩義がある。決して報告を蔑ろにしていたわけではなく、むしろ恩人だからこそ腰を据えてしっかり報告するつもりだったのだ。
 晶介の説教が途切れたところで、司はすっと頭を下げた。
 隣に立っていた類が「司?」と声を掛ける。
「ふたりになにも言わず、公の場で結婚報告をしてしまったのは、すまないと思っている。が、オレ達は元より真剣に交際していて――
「んなことはわかってんだよ!」
「うお」
 いつにない剣幕に驚いて、つい一歩後ずさった。
 噛み付く勢いの晶介に目を丸くしていると、傍らで様子を見ていた慶介が困ったように笑って口を開く。
「すまないな。晶介は君達が一番祝福されるであろうタイミングを見計らって記者会見の準備を進めていたから、予定が崩れてピリピリしてしまっているんだ」
「おや、そうだったんですか?」
「兄貴――‼︎‼︎‼︎」
「いやぁ、フフフ……さすが晶介さんだ。サプライズを無に帰させてしまい申し訳ないね」
「その胡散臭い笑い方をやめろ……!」
 気恥ずかしさからか、晶介の頬に朱が走る。類はたちまちにんまりと顔を緩ませて、じりじりと晶介ににじり寄った。仲がいいなと慶介がうれしそうに頷くのを横目に、果たしてあれは仲がいいと言い切ってしまっていいのだろうか、と苦笑する。
(しかし……一番祝福されるタイミング、か)
 ……本当に、ふたりには感謝してもしきれない。役者としての道を広げる手助けをしてくれるばかりではなく、こうして類との関係を祝福してくれるのが――なによりもうれしい。
 いまや自分の「スターになる」という夢は、司だけのものではない。
 ならば。オレは、天馬司は、彼らの期待に応えることで報いよう。
「慶介さん。ついでにもう一つ、やらかしても構わないだろうか。……類に内緒で」
「なに?」
 慶介のスーツの裾を掴んでこっそりと耳打ちのポーズをする。慶介は片眉を上げ、司の口元へと耳を近づけた。
 ……ごにょごにょ。
 ふむ、と顔色ひとつ変えずに慶介が頷く。僅かに上がる眉尻。眼鏡のブリッジを持ち上げて、慶介は珍しくいたずらっ子のような顔をしてみせた。
……いいだろう。俺が許可する。君達の門出へのささやかな手向けだ」
 フェニックスワンダーランドに数多くの貢献を残し、これから世界に羽ばたくであろう若者へ。細められた珊瑚色の瞳を見上げ、司は小さく口角を上げた。


     ■


 一度舞台の幕が上がってしまえば、ショーは止まらない。
「司。……いや、オルカ」
……
 類が舞台袖に捌けた司を出迎える。額から首筋に雫を滴らせる彼をふかふかのタオルで包みこんで。水の入ったボトルを手渡せば、司は大胆にそれを呷って喉を上下させた。
 次の、寧々と櫻子のシーンが終われば、司はひとり舞台に立つ。混乱と葛藤、嘆き。オルカの独白のシーンを以て、この舞台は幕を閉じる。もうすでに寧々のセリフが始まろうとしていた。
 ここまで、舞台は順調に進んでいた。圧倒的なパフォーマンスを前に、観客はすっかり舞台に釘付けになっている。大丈夫。司とは、何度も共にショーをしてきた。彼の実力なら、問題なく物語を締めくくれるはずだ。オルカという面倒な男の役どころもしっかり掴んでいるし、なんの心配も、不安もない。
 ただ司が万全の状態で、舞台に挑めるならばそれでいい。
 スポットライトの影。緊張感に包まれた司の背中を、頼りなく思ったことは一度もない。司の瞳は凪いで、まるで黄昏に染まる海のようだ。
「次で最後だ。……準備はいいかい?」
「ああ」
 短い応酬だった。それ以上の言葉はなく、ただじっと、ホール中に響き渡る寧々の堂々とした歌に耳を澄ませる。
 クライマックスだ。司を送り出すため、その背に触れる。司が肩越しに振り返り、緊迫感と力強さを兼ね備えた眼差しで類を射抜いた。
 類の手に、司の手が重なる。握り締めたのは一瞬だった。どうしたの、と瞬きをする間もなく、少しだけ背伸びした司に、唇を奪われて。
「つ――
「そのまま、オレに釘付けになっていろ」
「え、」
 真っ黒なマントを翻し、司が舞台へと歩を進めていく。
 堂々とした立ち振る舞い。緊張感による震えなど微塵も感じさせないその所作は、もう、舞台上のオルカだった。
 ――釘付け、だなんて。照明の下に立つ司を見つめ、拳を握る。
 類が。司から目を逸らしたことなど、ただの一度もないというのに。
(司……
 入れ替わるように寧々と櫻子が袖に捌けて、司にスポットライトが当たる。
 ラストシーンは、仲間と別れ、ひとり舞台に立ち尽くすオルカの独白で物語は締め括られる。
 この物語はハッピーエンドではない。見えない部分は観客に自由に考えてもらおうと、敢えて空白の多いシナリオにした。ひとえに、観客の心に爪跡を残すためだ。
 今作は特に注目度が高く、司の今後の活動の幅を広げるにはうってつけの機会である。ひとりでも多くの人間の目に、司の姿を焼き付ける。司の、未来の可能性を感じさせる。司を――自らの手で。世界に、羽ばたかせる。
 オルカの嘆き、後悔、そして微かな未来への希望。
 独白が終わると共に、ゆっくりと幕が下りて――スモールグラビティは終幕する。
 拍手が起こり、暗転していく。 
 ……そうなる、筈だった。
――これで、終わりではない」
 しん、と静まり返った舞台で、司の透き通った声が響き渡る。
 類は思わず目を見開いた。類だけではない、寧々も、櫻子も、脚本を知る裏方も、皆が予定にないセリフに動きを止める。
「私の世界はまだ、始まってすらいない」
……そんなセリフ、脚本には……
(も、もしかして……アドリブ⁉︎)
 舞台袖に緊張と動揺が走る。こそこそと寧々と櫻子が耳打ちしあう中、類は咄嗟に照明と音響を管理するプロジェクター室へと目を配らせた。
 そこに立つ黒い影。この舞台を支配し、見守る男の姿を捉え、無意識に口を閉じる。
「る、類……
……司を信じるよ」
 心配そうに駆け寄る寧々を見下ろし、類はぎこちなく口角を上げた。
 ショーは生き物だと最初に言ったのはだれだったか。
 ――そうだった。
 司はまさしく、ショーマストゴーオンを体現する男だ。
 類の脚本で、類の演出で――司が思い通りになるわけないのだと、思い知らされる。
「これは――私達が新たな世界を創り出す――記念すべき、はじまりの一歩」
 凛とした声が、二階席の奥までしっかりと届く。観客の視線をすべて集めるように、司は、大きく手を広げ、さらに声を張りあげた。
 拡声の必要のない、透き通った音色が波紋のようにホールに広がっていく。
「そして――貴方がたは歴史ある瞬間の目撃者となる」

――刮目あれ! 我が道を。このオルカの飛翔を!」

 ――刹那。
 会場全体に青い光が迸る。深い海の底のような……あるいは、果てのない宇宙のような濃紺が、光の波となって舞台を、観客席を飲み込んでいく。
 そんな世界でただひとり、輝く星がそこにいた。
 オルカが――司が微笑んで、恭しく腰を折り一礼する。
 観客もキャストもスタッフも皆一様に呆然としていた。圧倒的な存在感を見せつけて、ゆっくりと幕が下りていく。ぱらぱらと戸惑い気味の音が、次第に、万雷の拍手へと変わっていく。
 咄嗟に目を向けたプロジェクター室では――慶介が珊瑚のような瞳を細め、笑っていた。
……やってくれたね、司くん……
 無意識に零れ落ちた幼馴染の言葉を拾って、傍らで見守っていた寧々はちらりと類を見上げた。
 興奮を隠せない頬。揺れる瞳。明らかな喜面を浮かべた類に、寧々も口の端を上げる。
「ま、……わたし達の座長だしね」


     ■


 芽吹きの春が、すぐそこまで来ている。
――もしや不倫か? 類」
「人聞きが悪いねえ」
 カラカラと落ち葉が走りゆく都会の一端。ビルの前でたまたま出会った野良猫と井戸端会議をしていた類は、背後から飛んできた待ち人の声に顔を上げた。
 ロングコートに、最近気に入っている変装用の伊達眼鏡。片眉を上げた司が、類の肩越しに手を伸ばす。黒と茶の斑模様の猫の首元を指先で掻いてやれば、猫はうれしそうにふにゃあと鳴いて。ぴるぴると、柔い耳を動かした。
 さて。ここでいったん、この物語の主人公を紹介しよう。
 ベンチに腰掛ける男――神代類、二十四歳。劇団『シームルグ』で舞台演出家を務め、同時にテーマパーク・フェニックスワンダーランドのショーキャストとしても活躍している。
 そして類の傍らに立つ男――天馬司――同じく二十四歳。『シームルグ』の看板役者を務めながら、フェニックスワンダーランドでは『ワンダーランズ×ショウタイム』の座長としてその名を馳せる。
 ふたりは互いに研鑽し合う仲間であり、互いを知り尽くした親友であり、また同時に――生涯を誓い合った夫夫であった。
 不意に司がコートのポケットからハンカチを取り出したかと思えば、類が腰掛けるベンチにそっとそれを敷いた。
 隣に司が腰を下ろしても、類は依然として野良猫と戯れている。
 類の細く長い指が毛を掻き分けてまさぐるのを横目に見つめ、はあ、と深いため息が昼下がりの港区に零れ落ちる。
「あれはいつのことか――我が家で預かっていた犬相手に類に嫉妬されたときはマジかこいつと思ったが、意外と悔しくなってしまうものだな。このオレが隣にいて見向きもしないとは」
「おや。僕としては司のヤキモチが見れてうれしい限りだよ」
……
 ようやく振り返ったレモン色の瞳に、この男、と司はあからさまに眉を寄せた。
 きらりと光る、左薬指のリング。あれだけ悶々とした日々を送っていながら、いざ収まるところに収まってしまえば心に余裕が生まれるのか。目の前にいる男にはかつてのかわいげなどどこにもなく、つい唇を尖らせてしまう。
 いや、よくよく考えてみれば、神代類という男は元からそうだった。掴みどころがなく、司よりもずっと一手二手三手と先を見据える賢さを持ち合わせていた。
 そんな類でさえもポンコツにしてしまうのが恋であり、愛に昇華されたいまになって元の落ち着きを取り戻したのだろうと思えば、司としても思うところが生まれないこともないのだが。
 猫を撫でていた手が司の頬に触れる。指の背で擽る手に、明確な意味などない。しかし明らかに猫を愛でる手つきとは違うそれに、じわり、熱が込みあげる。
 ふい、とそっぽを向いてしまったパートナーに、ふ、と類は口元を緩めた。
 役所に婚姻届を提出して、名実共に夫夫となっても、司の甘え下手なところはなかなか治らない。芯をもち、妹や後輩達に頼りにされる彼の背中は、類としてもこれ以上なく頼もしい限りだけど。そしてそれは、間違いなく司の長所であるけれど。
 そんな司の、弱い部分に触れられるのが夫である自分の特権――と思うと、どうしたって満たされてしまうわけで。
 ほっぺただって、ゆるゆるになってしまうわけで。
 むすりと唇を尖らせる司とは対照的にニコニコと類が笑みを浮かべていると、それに気づいた司が類の頬を抓った。
 そこへ、ふたりの元へ駆け寄る足音待ち合わせていた最後のひとり――が近づく。
「あ、いたいた。類ー! 司せんぱーい!」
「暁山」
 司と類が同時に顔を上げると、フレアスカートを翻してぱたぱたと駆ける瑞希を見つける。こっちだ、と司が片手を挙げた途端、きっとその声量に驚いたのだろう――類の足元に屯していた野良猫は立ちあがり、どこかへと走り去ってしまった。
 コツコツ、とヒールの音。瑞希が肩を上げて息を整えれば、白い吐息がふわりと浮かんでは消えていく。
 こうして足並みが揃ったところで、三人は目的地であるシブヤに向かってゆっくりと歩き出した。
「いや〜待ち合わせ遅くなっちゃってゴメンね! 途中にあった不動産でイイ感じの物件見つけちゃってさ~」
「なんだ、いまの家引っ越すのか?」
 雑踏と、忙しなく行き交う車の走行音。デジタルサイネージに映る化粧品の広告。
 都会の喧騒と混ざり合いながら司が問いかければ、瑞希は薄く微笑んで小さく頷いた。
「うん。なーんか絵名、あれからちょっと過保護っていうか、ボクに一人暮らしさせるの心配だからーって言って聞かなくてさ。で、奏とまふゆも結構自分のことに無頓着なとこあるから、じゃあもういっそニーゴでルームシェアしちゃうー? って話になって」
「いいじゃないか。オレも、もう暁山の隠れ蓑にはなってやれんしな……
「あはは。もう必要ないって――もともと期限付きの約束だったし、晴れて転職先も決まったしねー」
 秋の一件から、瑞希にセクハラしていた男は一切手出しをしなくなった。
 下手に刺激して逆上したり、ひょっとしたらエスカレートする可能性もあるんじゃないかと心配していたけれど……杏がしっかり男の音声データを録音してくれていたのもあって、存外、あっさりと手を引いたようである。
 友人に恵まれたなあって思う。
 高校時代に風紀委員として活動していたからか、杏は結構こういうのに目敏いし、絵名もあれから何度も相談に乗ってくれていて。
 瑞希が改めてデザイナーとしていまとは別の道に進む決心がついたのも、杏や絵名が背中を押してくれたおかげだった。
 他人に期待しない、したくないって――ずっと殻の中に閉じこもっていた日々も、きっと必要な時間だったんだって肯定できるくらい、いまは前向きに人生を歩めている。手を差し伸べてくれたふたりは、引っ張りあげてくれたふたりは、瑞希にとってはどんな宝石も敵わない――掛け替えのない存在だ。
 信号が点滅し、赤に変わる。
 そのさなかに、杏達に連絡してくれてありがと、と瑞希は小さく呟いた。
 聞こえなくても良かった。実際この雑踏の中、司の耳に届いたかどうかは定かではなかったが……司はちら、と肩越しに瑞希を一瞥し、微かに口の端を持ち上げたので。そしてその眼差しに、安堵の色が浮かんでいたので、たぶん、伝わったのだろうと思うことにする。
 目の前を過ぎる車を目で追って。再び、信号は青く光る。
 ぞろぞろと肩を並べて横断するさなか、ふたりの会話をなんとなしに聞いていた類は、そこではじめて小さく肩を竦めてみせた。
「その様子だと、問題は解決したと見て良さそうだね」
 一時期はやたらと頻繁に司が瑞希と出掛けていたから、類としても舞台の打ち合わせにしては妙だとは思っていた。知己の瑞希が自分を頼ってくれなかったことには、一抹の寂しさを覚えるけれど。
「う……
 そのまま放っておけば「黙っていてすまん」とでも言い出しそうな司の唇を、指先で止める。
「別に無理に聞くつもりはないさ。僕が首を突っ込まない方が丸く収まることもあるだろう」
「類……
「いいんだ。瑞希が危害を加えられていると知れば、きっと僕ならあらゆる手段を使って相手を社会復帰不能にしてしまっていたかもしれない」
……お前ならやりかねん、と思える冗談はやめろ」
「あはは〜……
「フフ……。あまり隠し事はしてほしくないけれど、世の中には必要なウソというものもある。信頼の上で僕に話さない選択を司がしたのなら、僕はそれを尊重するよ。夫夫になったいまなら、尚のこと」
「普通逆じゃないのか? 夫夫なのだから隠し事はナシで、となりそうなものだが」
 司が類を見上げると、類は「うーん」と思案するように上を向いて。「もちろん、」と言葉を続けた。
「そういう家庭もあるだろうね。でも僕は、君との家庭を型に嵌める気はないから」
 ふむ、と司は顎に手を当て俯いた。
 たしかに類は、もともとあまり積極的に首を突っ込みたがらない男だ。なにかとお節介を焼きたがる司とは違って、異変を感じてもギリギリまで様子を窺っている節がある。
 自分よりもずっと思慮深い男であるから、慎重に、アドバイスの機を窺っているのかとも思うが……
 思い返せば、いつもそうだった。はじめて役作りに苦戦したときも、映画の主役に抜擢されて無理難題を押し付けられたときも、類は最後まで司の実力を信じて、待っていてくれた。
 どんな壁だって、司ならきっと乗り越えられるだろうという信頼を、司自身も感じ取っていたのだ。
……同感だな」
 司が頷くと、類はうれしそうに目尻を和らげた。
 ふーん、と話を聞いていた瑞希が相槌をうつ。
「つまり、浮気はしても最後に自分の隣にいるならいいよってやつ? 類ってば余裕〜」
「え? いや、それとこれとは話は別だ。浮気は許すつもりないよ、微塵も」
「「微塵も」」
「おや? まさか浮気を?」
「し、してないしてない!」
「よかった。僕も新婚早々愛しいパートナーを縄で縛りたくはないからね」
「さらりとおそろしいことを言うな――!」
 いや、恋人に枷を嵌めて監禁ごっこの前科がある司が言えたことではないのだが。
 ――しかし類だって、ショーでは何度も司を縄で縛りあげているのだ。この男ならやりかねん、と呟いて、司は苦笑を零した。


 まだコートを手放せない寒さだが、三月も中旬となればどこか春めいた空気をふとした瞬間に感じる。
 そんななか、駅へ続く道をまっすぐ進んでいた三人が曲がり角を曲がると同時に、三人の目に突如飛び込んできたのは――白い弾丸だった。
――わふっ!」
……ん? のわ――⁉︎⁉︎⁉︎」
 一瞬にして司の目の前が真っ白になる。勢いを殺せず数歩後ずさり、バランスを崩した司の背を類は咄嗟に抱きとめた。
 金糸雀色の瞳がぱちぱちと瞬く。
「んぶっ、ぐ、なんっ……
「おや、ぼたもちくんじゃないか」
「ぼふぁも、……もごごごご」
 顔面に張り付く白い毛玉の正体を口に出すと、呼ばれたと勘違いした毛玉――改め、ぼたもちが「わふ!」と元気よく応えた。
 見ればぼたもちの首には細いリードがついている。もしかしてまた散歩の途中で飼い主の目を盗んで逃げだしたのだろうか。
 悪い子だねえ、と司の顔からぼたもちを剥がしてやると、遅れて、角の先からザッザッザ、と少し焦ったような駆け足の音が近づいてくる。
 飛び出した赤茶色の髪。に、黄色のメッシュ。オリーブ色の瞳と対峙して、三人はぱちぱちと目を瞬かせた。
「すみませーん、こっちに白いポメラニアン……げっ」
「あれえ。弟くんじゃーん」
「なんで選りに選ってめんどくせえのが三人揃ってんだよ……
 人好きのする笑顔を浮かべていた彰人は、そこにいたのが司と類、そして瑞希と知るなり、一瞬で顔を顰めて見せた。
 オフなのだろうか。彼のラフなジャージ姿を見るのは高校時代以来だな、とその姿を頭のてっぺんから目で追う。
 ふと、その手に握られたリードに目を奪われた。その先はぼたもちではなく、別の犬――あまり犬種には明るくないが、おそらくミニチュアシュナウザー、に繋がれていた。
 大人しい性格なのか、あるいは警戒しているのか……こちらは彰人の足の影から顔をひょこっと覗かせるばかりで、一向に動く気配がない。
 類が「おや?」と首を傾げている隣で、司はぼたもちを高く抱きかかえた。
「久しぶりだなぼたもち! 以前より少し丸くなったか?」
「わふっ」
 ふかふかの毛並みも、好奇心旺盛で人懐っこいところも相変わらずだ。
 ピンクの舌を出してへっへと息をするぼたもちに、瑞希はおもむろにポケットからスマートフォンを出して構える。カワイー! と、黄色い声。心なしかぼたもちも得意げだ。
「また例の飼い主に頼まれたのかい?」
「まあ……そんなとこっす」
「それで、そっちの子は? はじめて見る顔だね」
…………
 類の問いかけに、彰人はうっと言葉を詰まらせた。
 類の視線から逃げるように素っ気なく目を背けて、小さく呟く。
……オレの、飼い犬ですけど」
「え……
 東雲くんの?
 類の驚きが伝播したみたいに、瑞希と司も目を丸くした。
 だって、あの彰人が。幼い頃に犬に襲われたトラウマで、犬を見ると固まってしまう彰人が。――犬を飼っている、だと⁉︎
「あ、彰人……ついに犬嫌いを克服したのか……‼︎」
「べっ、別にハナから嫌ってねえ! ちょっと苦手だっただけだ!」
「ちょっと、ねえ」
 こんなにも人懐っこいぼたもち相手にでさえ、あんなに顔を青くさせていたというのに。……なんて言うのは少し意地悪すぎるだろうか。
 ぼたもちを我が家で預かっていたのはほんの短い間だったけれど――短期間でもわかりやすいくらいに、ぼたもちは彰人に懐いていた。
 その理由までは、類は知らない。けれど、彰人を嗾けたのは他でもない類自身だ。彰人に心境の変化があったとすれば、間違いなくあの一件がきっかけだろう。
 スカートを折って、瑞希が彰人の足元に座る犬に目線を合わせる。そっと伸ばされた手に僅かに警戒を見せるが、咬みつくことも吠えることもなく、大人しく頭を撫でられている。
「こっちもカワイ~。この子はなんて名前なの?」
………………ぃー」
「え?」
 桃色の瞳を持ち上げて瑞希が彰人を見上げる。よく聞き取れなくて何気なく聞き返したつもりだったが、彰人の顔を見て再度ぱちくりと瑞希は目を瞬かせた。
 朱に染まった頬と、気まずげな表情。眉を寄せ顰めたまま、彰人が再度口を開く。
「だから、……クッキー……
「「「クッキー」」」
「だー‼︎ なんだっていいだろ! 散歩の途中なんで失礼します!」
「あ、おい彰人! ……行ってしまった」
 司の腕からひったくるようにしてぼたもちを抱え、そのまま彰人はさっさと立ち去ってしまった。彼の背中を見送りながら、司がこてんと首を傾げる。
「クッキーか……かわいらしい良い名前じゃないか。あいつはいったいなにを恥ずかしがっているんだ?」
「名付けの由来に気恥ずかしさがあるのかもしれないね」
「? なる、ほど?」
 説明されてもよくわからんな、と司は一蹴した。まあしかし、苦手なものを克服したのはえらい、と心の中で彰人の成長を称える。
 本当にえらい。なんせ隣で訳知り顔で立っている類は未だに野菜嫌いのままだ。
 最近は類の母に伝授してもらった方法で、餃子やハンバーグにこっそり忍ばせた玉ねぎはバレないようになったけれど、それでも勝率は相変わらず半々なので。
「なにか失礼なことを考えてないかい?」
「いいや? 類でさえいまだに苦手を克服できていないのに、彰人はえらいなと考えていただけだ」
……司だっていまだにピーマン食べれないじゃないか」
「おおっとそろそろ電車が来る時間だ! 急ぐぞ、類! 暁山!」
 わざとらしく話題を逸らした司をじと、と見つめ、類は大げさにため息をついてみせた。まったくひどい話だ。……司に嫌われたくなくて、その苦手も少しずつ譲歩する類の愛に彼が気づくのはいつになるのやら。


 駅のホームへと降りると、ちょうど目的の電車が到着したところだった。ぞろぞろと人の波に紛れながら連立する箱に乗り込んで、慣性で傾く体幹をやり過ごす。
 夕方に差し掛かる時間帯であるのも相まって、車内はそれなりに込み合っていた。
 電車の中はいつも独特のにおいがする。規則正しい揺れの中、司は流れる車窓の景色を見つめていた。
 芸能界で名前が売れ始めてからというもの、移動手段は大抵タクシーばかりで、こうして電車に乗るのは久方ぶりのような気がする。学生の頃は休みのたびに乗って、少し遠くの劇場やテーマパークへと足を運んだというのに。そんなに昔のことではないはずだが、何故だかそれが遠い思い出のように感じる。
「弟くんといえば、夏のライブバトル、結局どうなったのかなあー」
「ライブバトル?」
「そうそう。たしかロックフェスで知人のステージに飛び入りしたとかなんとか……あった、これこれ」
 瑞希がスマートフォンの画面を司と類の目線へ翳す。
 どうやらニュースアプリの記事のようだ。毎年初夏から夏にかけて大規模なロックフェスが開催されることは、さすがの司も知っているが、彰人がそれに飛び入りで参加していたとは初耳だ。
 記事には、彰人と彰人のライバルだと呼ばれる男が向かいあってマイクを握る姿が写真に収められていた。司は何気なく記事をスクロールして、はた、と手を止める。
「どうかしたのかい?」
「いや……
 むむ、と眉を寄せ、目を皿のようにして画面に顔を近づける。既視感というか、デジャブというか。なにか見覚えのあるものを感じて写真に目を凝らし、ようやくその正体を掴んだ司は「あっ」と声をあげた。
「この遠野新? という男が着ているシャツ……よく見るとオレのサイン入りTシャツではないか!」
「え?」
「あ、ホントだ」
 司の言葉に類と瑞希も顔を寄せ画面を覗き込む。指先で画像をピンチアウトして表示すると、たしかにそのシャツには黒いペンのようなもので「Tenma Tsukasa」と書かれていた。
 一度気づいてしまえば存在感のあるサインを見間違うはずもなく、ははあ、さてはこいつ、オレのファンだな、と司が得意げに鼻を鳴らす。
 その横で、ふむ、と類は顎に手を当てた。
 たしかこのTシャツは、以前司が出演したバラエティ番組の視聴者プレゼントだったはずだ。リビングでTシャツを広げて――司が真剣にペンを走らせていたのを覚えている。
「写真こんなに小さいのによく気づいたね、司先輩」
「世界に数枚しかない貴重なものだからな。番組の視聴者プレゼントに応募して当選した者と、オレが直々にプレゼントした彰人と冬弥しか持っていない超激レアアイテムだ!」
「それって……
 もう答え出てるじゃん、と瑞希が眉尻を下げて笑った。
 新が司のファンであるかは、定かではないけれど。彰人とのステージでわざわざそれを彼が着る理由を考えたら、大方彰人か冬弥が彼にプレゼントしたのだとしか考えられない。
 でも、何故? と類が首を傾げる。
 彰人は態度にこそあまり出さないけれど、司のことをそれなりに尊敬している。冬弥に関しては言わずもがなだ。理由なくそう簡単に司のサイン入りなんて貴重な代物、手放すようなことはしないように思える。
 たとえば……なにか新に渡す理由があった、とか。
「理由……
 ――彰人くんが信頼する相手なら安心だ、ちなみにどんな人?
 ――えっ、舞台俳優の天馬司? マジ?
 ――サイン貰っといて!
(あ)
 類の脳内で、点と点が結びつく。
 そう……そうだ。一年前。白い犬を我が家で預かることが決まったとき。あの子の飼い主が、そう言っていたじゃないか。
「なにかわかったのか?」
……いや、確証のあることはなにも」
 なんだそれは、と司が片眉を上げる。けれど本当に、確証もなければ、類の憶測でしかない話だ。
 でも。
「世界って広いようで狭いね。一見繋がりのない出来事が、意外なところで結びついたりする」
 だから、人生って面白い。これまで類が生きてきた軌跡も、司と結ばれるための布石だったと思えば――楽しいばかりの人生ではなかったけれど、それさえも笑い話にできる気がした。
 司はなにか言いたげに類を見つめていたが、箱の揺れに身を任せながら、そっと窓の外へと視線を向けた。
「それは当たり前のことだろう。オレ達は生きているんだから」
「え」
 ぽつり。司の口から零れ落ちた言葉が意外で、類は思わず司に視線を向けた。
 類の視線を受けた司が、蜂蜜色の瞳だけ類に向け、微かに口元を緩める。普段の溌剌とした雰囲気はなく、どちらかといえばそれは、大人の落ち着きを孕んだ態度だった。
「人生は短編小説じゃないんだ。この世界に生きているものは皆、同じ時間を生きて、それぞれの人生を過ごしている。だれかを愛して、愛されて、何千年も前からそれを続けていて……。意外なところで意外な結びつきがあっても、それはなんら不思議なことじゃない」
 目まぐるしく流れる車窓の外の世界。
 通り過ぎた人の分だけ、人生がある。物語がある。
 ひょっとしたら、そこの席に座るサラリーマンと明日また会うかもしれない。
 いま横切った駅のホームに立っていた少女は、いつか、フェニックスワンダーランドのキャストになったりするかもしれない。
 いくつもの縁が、糸となってこの指に繋がっている限り――見知らぬだれかは明日の隣人だ。
「なんかロマンチックだな〜、そういうの。もしかして司先輩って、運命とか信じるタイプ?」
「いいや? 道は自分の手で切り拓くものだと思っている!」
……司らしいね」
 ふ、と微笑んだ類を琥珀がじっと見つめた。やがてその眼差しは、ふわりと優しく解けて。
 カタン、カタンと電車が揺れる。規則正しく。一片の狂いもなく。
「仮に運命というものがあったとしても……きっと、それは努力で覆せるものだ。だから類。オレとお前が結ばれたのも、運命と言えるし、オレ達の努力の結果とも言える。――そうは思わないか」
 穏やかな陽の光を背負って笑いかける司を、類は眩しそうに目を細めて見つめた。
 司の言葉は存外すとんと類の腑に落ちて、ほろりとなにか、類を覆っていたものが剥がれ落ちるような心地だった。
「そう、かもしれないね」
「そうだろう!」
 類の言葉に、司はうれしそうに言葉尻を跳ねあげて屈託なく笑う。
 ――あの日。
 学校の屋上で司が差し伸べた手を取ったときも。縋る類の背に回る熱い手のひらも。
 朝日に溶け合いながら、互いに指輪を嵌め合った日だって。類にとってはそのすべてが運命と言えたし、そのすべてが僕達の努力が生み出した結果だと言えた。
 ――だから、きっと。神さまというものが、この世に存在するのだとしたら。
(僕にとっての神さまは――君、なのだろうね)


 ――電車が停車する。
 忙しなく水のように流れる人の波に乗って、司もまた類と瑞希と逸れないように注意しながら、ホームへと足を下ろした。
 澄んだ冬の空気が、吐息に混ざる水分を白く濁らせる。しかし、灰色だった世界は少しずつ、けれど確実に一歩一歩、緑を取り戻しつつある。
 ショーも同じだった。ショーマストゴーオンの言葉の通り、一度動き出した物語は止まらない。世界も。人生も。司自身もだ。
 はあ、と息を吐き出して司は空を見上げた。
 茜に染まりゆくグラデーション。アメリカの空港で見た空のように澄んではいないけれど、あの白い月の向こうにもきっと、だれかの物語がある。
「そういえば……どうしてラストの演出を変えたんだい?」
「ん? ああ、スモグラの話か……
 スモグラ。ファンがつけた、舞台・スモールグラビティの略称だ。
 先日千秋楽を迎え、観客動員数はシームルグの歴代最高動員数を更新した。
 ――どうも自分達はSNSに縁があるらしく。
 もともととんでもないタイミングで司と類の結婚報告があった上に、初日公演の司の演技が口コミで話題を呼び、チケットは全公演即刻ソールドアウト。ありがたいことに追加公演を求める声も多くあがっていると聞いている。
「脚本を貰ったとき、率直に、類の挑戦だと思ったんだ」
……
「お前の脚本はいつも、なにかしらのゴールがあるだろう? 直近だとルドルフなんかはそうだな、トラウマの克服と成長を大きな見せ場としている。しかしスモグラは明確なゴールのないラストで、逆に考えると、未来の想像を掻き立たせる余白があった」
 物語には起承転結がある。はじめて脚本を読んだとき、ハッピーエンドではないな、と司は感じた。
 それもそのはず、あの物語は壮大なオルカの人生の【起】でしかない。
 戦争の愚かさを知って、互いの信念に寄り添って。これから途方もない時間と労力を掛けて、彼らは歩み寄っていくのだ。そうしてようやく、あの物語にはピリオドが打てる。
「エンド、と銘打てる場面じゃないんだ、まだ、あの物語の段階では。オルカはこれから数え切れないほど大地の星との交流を経て、努力して……和平協定を結ぶのがゴールか、はたまた互いの戦争の傷を癒し繁栄するのがゴールか、あるいは根深い悔恨を乗り越えて、差別なく暮らせる世の中になるのがゴールか……それは、類にしか知り得ないことだが。とにかくオルカの活躍はこれからだろう、とオレは解釈した。なんといっても、類が書いた脚本だからな。先の先まで見据えているに違いない」
「へー、司先輩、結構いろいろ考えて演じてたんだ」
「当たり前だ!」
 そりゃあ、類や瑞希に比べたら、浅慮と言われてもぐうの音も出ないとは司自身も思っているが。多分に自分は環境に恵まれていて、出会いに恵まれていて、まだまだ若輩者であるから考えの及ばないところもさまざまあるが。
 それでも。いつだって、ショーに対しては一途に真剣だったと自負している。
 何度も、何度も……、類とはショーを通じて対等に語り合ってきたのだから。
「ならば、オレが最後のセリフで観客に与えるべき感情は、悲嘆や感動ではなく、ましてや戦争のおそろしさでもなく、未来への期待ではないかと、思ったんだが……
 人混みの中にいたからだろうか。駅に出た途端、すっと呼吸が軽くなる。数歩歩いたところで振り返れば、司の瞳に、うれしそうに微笑む類の姿が映り込んだ。
 ふ、と口角を上げる。
……脚本、兼演出家の忌避なき意見を聞かせてくれ」
「おや、無粋なことはやめておくれよ。オルカはもう、君のものじゃないか」
「! ……はは! お前ならそう言ってくれると思っていた。演出家の期待を大きく超えてこそ、役者だからな!」
……ふふ、そうだね。……期待以上だったよ、僕のスター」
「ハッハッハー!」
 人目を憚らず熱のこもった眼差しで見つめ合うふたりを後目に、瑞希はそっと後ろ手を組んだ。
「ホント、お似合いだなあ」
 このままそっとふたりの世界に浸らせてあげたいのはやまやまだけれど。ここは駅前。司の得意げな声を聞いてなんだなんだと注目が集まってきてしまっている。
 ショーが関わると周囲を忘れてしまうようなところは相変わらずで、でも、しょうがないかと思い直す。
 きっと、ふたりの絆はショーによって成立しているんだろうから。
 ……とはいえ昔ならいざ知らず、もう司も類も有名人だ。ミーハーな人たちに水を差されてしまう前に、と瑞希はふたりの手を引いて裏通りへと体を滑りこませた。
 これから舞台の大成功を祝して皆で打ち上げがあるのだから、主役の彼らがいないんじゃ意味がない。
 シブヤ駅からいくらか先を歩くと、見慣れた街の景色が広がる。
 ここからでも背伸びすれば観覧車のてっぺんが見えるし、スクランブル交差点を通り過ぎれば映画館が併設されたショッピングモールも、学生時代通った神山高校も見えてくる。
 最近になって瑞希はようやく、世界は存外、だれにでも優しく微笑んでくれているのかも、と思えるようになった。かつて息苦しかったこの街が、いまはほんの少し、軽く感じるのだ。
 神山通りを抜けた先の、ビビッドストリート。ライブハウスや個人経営のカフェが立ち並ぶ道を歩きながら、瑞希はふと口を開いた。
「そういえば結局、結婚式は挙げないの?」
「挙げるよ? 来年か再来年くらいにはなってしまうだろうけれど、とびっきり豪華な式にするつもりだからぜひ瑞希にも参列してほしいな」
「あはは、類がプランナーも兼任するならすごそ~。見てみたいかも!」
 ウエディングドレスはボクにデザインさせてね、とびっきりかわいくするから! と瑞希が冗談めかして言うと、司はなんとも言えない表情をして「できればドレスではなくタキシードデザインにしてくれ……」と情けない声をあげた。
「じつはその件も兼ねて先日天馬家にご挨拶に行ったら、お義父さんに泣かれてしまってね」
「あれは、本当にすまん……涙もろい人なんだ。が、決して類を疎んでいるわけではないから安心してほしい」
「うん。ちゃんと伝わっているし、さすが司のお義父さんだなって思うよ」
「どういう意味だ」
 司が類を振り返る。深い意味はないとも、と類は小さく首を振ってみせた。
「ただいつか僕と君の子供が独り立ちするときは、君もあれくらい号泣しそうだと思っただけだよ」
「そうか…………は?」
 ――一瞬。
 類の言葉の意味を深く考えずに聞き流しそうになって、司ははたと動きを止めた。
 だってあまりに、言葉が軽かったから。今日はいい天気ですね、くらいのノリで言うものだから。なんなら類自身、自分がなにを言ったかわかってないまであったから。
 数拍遅れて、ぶわ、と司の顔に熱が集まっていく。
「あるじゃないか、深い意味……
 みるみるうちに茹だっていく司を見下ろして、類は「えっ」と驚いた顔をした。
 自分が今しがたした発言を反芻し、思い当たるところがあったのだろう、その表情がふにゃりと解ける。それは照れ笑いのようにも見えて、司はぐうっと喉を詰まらせた。
 類が。オレとの子供を望んでいるなんて、いまはじめて聞いたんだが⁉︎
「おっと。口が滑ってしまったね」
「る、類――! お前はなんでいつもいつも大事なことをあっさりと……‼︎」
 プロポーズといい今の発言といい、どうして肝心なところで抜けてるんだ……
……あははっ、ホント、おっかしー」
 司が拳を振りあげて類を追いかけているうちに、打ち上げ場所に指定されていた店の前に辿り着く。日中はカフェとして営業しているその店は、夜からこじゃれたバーへと様変わりする。 
 西日が落ち、少しずつ朱から濃紺に世界が染まっていく。
 司も、類も、瑞希もいまそこをすれ違った、いつか出会うかもしれないだれかも。
「あ! 司くん達いた! おーい!」
「おー、えむ――
 少し先の方で、寧々と櫻子の手を握り、ぶんぶんと振るえむの姿がある。
 後ろから名前を呼ばれて瑞希が振り返れば、奏と一緒に歩いてきた絵名が小さく手を振った。
 カランカラン、と店のドアベルが鳴り、中から杏が顔を出す。
 オレンジ色に灯る、明るい夜の時間が始まる。


 ――もうじき蕾が白く膨らみ始める季節だ。
 彼らの往く道は、今日も笑顔の花が咲いている。