猫澤
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チェーニングアンハッピー



「なにも怖がることはないよ、ルドルフ」
 スポットライトが当たる。
 仲間や友が一生懸命励ましてくれたというのに、未だ高所を克服できない自分に嫌気がさして項垂れるルドルフ。そんなルドルフに、サンタの少女はそっと手を差し伸べる。
「わたしの言葉を信じて。きみには大きな翼があるの。あの山の向こう、雲の先、宇宙にだって飛んでいけちゃう大きな翼が」
 まるで蛹が羽化するみたいに。
 ルドルフの背中に、人すらも包み込めるほどの大きな翼が膨らみ、花弁のように広がる。まるでひらひらと舞う蝶のようであり、水面を優雅に泳ぐ魚の尾ひれのようでもある柔らかな翼がふわりとたなびき、ルドルフはゆっくりと地上から蹄を離した。
 自由に空を飛ぶルドルフに、観客が感嘆の声をあげる。
 ――綺麗、と。
 ルドルフの軌跡に、キラキラと舞う金の光。
 暗い夜道を照らす彼の光が、まばゆく、ワンダーステージにいつまでも輝き続けていた。

 ――……

 類は走っていた。
 住み慣れた街を右へ左へ。足が縺れそうになるのをどうにか踏みとどめながら、とかく一直線に我が家への最短ルートを駆けていた。
 学生時代はしょっちゅう学校や街中を走り回っていたような気がするけど、大人になってからこんなに走ったのは久々だ。存外体力が落ちている。息切れが激しくて、酸欠で頭がズキズキと痛むけれど、それでも類は走るのをやめなかった。
 マンションのエレベーターのボタンをガチャガチャと連打して、目的の階まで昇る間に息を整える。全力疾走のせいで全身から汗が噴き出ていた。くしゃり、前髪を掻きあげ、濡れた額の風通しを良くする。と、同時に、チン、と甲高い音がしてエレベーターのドアが開いた。
 ほとんど転がるように自宅に飛び込んだ。あ、お味噌汁のにおい。具材はお豆腐かな、麩かな――でも今日だけは特別、ネギが入っててもいい!
――司くん!」
「どわー! る、類! お前、人が包丁持っているときに急に突撃するんじゃなーい! 危ないだろう! まったく、類といいえむといいお前達はどうして――
「司くん、司くん……!」
 キッチンに立つ司に背後から体当たりして、その肩口に頭を押し付ける。
 なんだなんだ、と目を白黒させる司の左手には、きらりと光る指輪。司が、類とこれからの人生を歩むことを誓った証。それを目にした途端、むずむずとくすぐったいようなこそばゆいような、そんな気持ちになって、類は頬をにんまりと緩ませた。
「これを見てほしい」
……? なになに……ライリー・エンターテインメント社および鳳グループ共主催ショーコンテスト……演出部門最優秀賞、ワンダーステージ、かみしろるい……
 そう。夢でもなんでもなく、正真正銘、入賞したのだ。僕の演出が!
 類から受け取った紙面を読みあげた司は、目玉がこぼれちゃうんじゃないかって心配するくらい、両目を大きく見開いて。ふるふると指先が震わせ、口をあんぐりと丸く開いた。すう、と息を吸い込む音。
「す、すごいじゃないか――!」
「フフッ、やっぱり当初の演出案から変更して、司くんに水中脱出ショーをしてもらったのが功を奏したみたいだ!」
「多分認められたのはそこではない。そこではない、と思うが、すごい! えらいぞ類! よくやった!」
「フフフフ……
 わしわしと無遠慮に髪を撫でつける手が心地よくて、類はつい、うれしそうに破顔した。
 類としても今回の演出は自信があったし、観客の反応も良かったし、入賞は確実だろうと踏んではいたけれど。いざこうして結果がきちんと返ってくると、やっぱり舞いあがってしまう。
「それでね、司くん」
「なんだ?」
「折り入って、君にお願いがあるのだけれど」
 ああ、そういえばそんなことも言っていたな、と司が頷く。
 てっきりプロポーズの件とばかり思っていたが――実際そうだったのだが――アクシデントとはいえすでに司は類にプロポーズされていて、それにイエスを返している。
 類がこのコンテストのためにどれだけ頑張っていたかもよく知っているので、ご褒美ちょうだいと目を輝かせる類に「仕方ないな、」と司は笑みを浮かべた。
 流しで洗った手をタオルで拭い、改めて類と向き直る。どんな願いだろうとどんと来いだ、と司は自身の胸を叩いた。
「なんでも言ってみろ、このオレが類の願いをなんだって叶えてやろう!」
「なんでも! なんでもと言ったね、司くん!」
……ん?」
 ……何やら雲行きが怪しいような。
 にこにこと上機嫌で微笑む類に、さっそく若干の後悔が押し寄せてきた。
 司はよく知っているのだ、こういう顔をした類は大抵、無理難題を押し付けてくる。
 ポップアップで空高く飛ばそうかな~とか、司くんを土に埋めようかな~とか、そんな恐ろしいことをさらっと宣うような男であることを、オレとしたことがすっかり忘れてしまっていた。
「いやあ、さすがは僕の司くん。その懐の大きさには恐れ入るよ!」
「ん? おお?」
「ああ、スケジュールはちゃんとえむくんと調整して、仕事に穴が開かない日を選んだから安心してくれたまえ。ざっと見積もって三日くらいかなあ、楽しみだなあ、フフフ……
「ちょ、ちょっと待て。肝心の願いとやらをまだ聞けていないんだが……
「おっと! 僕としたことが気が急くあまり失念していたようだ! なに、簡単なことだよ!」
 ――今度は僕に、君をひとりじめさせてほしいんだ。
 するりと腰を抱かれ、体が密着する。
 司は思わず唇の端を引き攣らせた。
 ひとりじめ、なんてかわいい言葉で誤魔化してはいるけれど、類の瞳の奥に隠れた劣情を感じ取ってわずかに後ずさる。間違いない。これはベッドから出られないコース、確定演出だ。
 だがしかし。かなしいかな、スターに二言は、ないのである。
……い、いいだろう……
 ちょっと語尾が上擦った。たらりと汗が流れる。さらば、オレの尻。……健闘を祈ろう。

 ――……

 いつものように稽古場に足を踏み入れて早々、寧々はげっと顔を顰めた。
「お疲れ様です――って、うわ。司、三日ぶりに会ったと思ったらなにその顔」
「寧々……お疲れ……
「なんで三日休んでたくせにげっそりしてるわけ……
 寧々より先に来ていた司の顔は何故かげっそりと疲れきっていて、思わず首を傾げる。
 昨日まではワンダーランズ×ショウタイムとしての活動もシームルグの稽古も休みで、どうやら類と揃って休みをとっていることは、えむ伝手に聞いてはいたけれど。
 なにその、えむに引っ張られて遊園地の絶叫アトラクションを十回くらいノンストップで乗ったとき、みたいな。わたしの特訓に付き合ってカラオケで十時間熱唱したとき、みたいな顔。意味がわからないんだけど……
 普通休み明けってリフレッシュして元気になってるものじゃないのだろうか。
 司は立っているのもしんどいのか、パイプ椅子を抱きこんで隅でしゃがみ込んでいる。時折切なそうに腰を摩っているのが見ていられない。ていうか、これ、わたし関わっていいやつ?
 逡巡。
 類と司が籍を入れたと寧々が聞いたのは、ちょうど二ヶ月前だった。でもその直後くらいからショーコンテストの準備でずっとドタバタしてたし、年明けからはシームルグの冬期公演で忙しくなる。だからてっきり、その合間にとったこの三日間の休暇で――新婚旅行にでも行ったのかな、とか、思っていたわけだけど。
 司の、話を聞いてくれオーラを察知して寧々はきゅっと唇を一字に結んだ。
 経験上、ここで話を聞くとろくなことがない。惚気を聞かされるのはまっぴら御免だ。よし、逃げよう。結論を出すまでの時間、およそ一秒。
 足早に立ち去ろうと寧々は踵を返そうとする。が、しかし驚くほどのはやさで、司に腕を掴まれてしまった。無念。
「寧々。もしかするとオレと類の結婚生活が早くも危機に瀕しているかもしれん」
「ふーん。あっそ」
「『ふーん。あっそ』⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎」
 つん、と鼻先を外へ向ければ、司はカスタード色の髪をぶわっと膨らませて声を大きくした。うるさ、と思わず呟いて耳を塞ぐ。
 大体もう聞かなくてもわかっているのだ。こういうとき、特に類が絡むと司は色ボケになるから。
「どうせいつもの痴話喧嘩でしょ……。もう、いい加減わたしやえむを巻き込むのやめてよね」
「し、塩対応……! お父さんは寧々をそんな子に育てた覚えはないぞ!」
「アンタをお父さんと認めた覚えもないから」
 これは昔から思っていたことだけれど、時々父親くさくなるのなんなの……
 言っておくけど。司と自分は一歳しか変わらなくて、学生時代なら一年の差も大きく感じられたかもしれないけど、成人して社会人になったいま、一歳なんて誤差の範囲。ほとんど同年代みたいなものだ。だから司に年上ぶられる義理はないし、なんならいつまでも子供扱いされるの、ちょっと悔しかったりもする。
 むす、と寧々が不機嫌を顔に出して司を睨みつけていると、ちょうど稽古場の入り口で鉢合わせたらしい、えむと類の足音と声が聞こえてきた。
「あれれー? 今日の類くん、お肌がつやつやうるるんだね! お休み中お出かけしてたの?」
 えむの無邪気な声にほっと息をつく。稽古場の窓から事務所、玄関口へと続く廊下を覗けば、私服に身を包んだふたりが和気あいあいと歩くのが見えた。
 つやつやうるるん。えむにそう表現された類の顔は、たしかに寧々の目から見ても潤っているように見えた。血色はいいし、一時期のあのいまにも死にそうなほどふらふらしていた類とは大違いだ。
 類はふにゃふにゃにふやけた顔をして、うれしそうにはにかんでいる。
「フフ、実はそうなんだ。司くんとちょっと温泉旅行に行ってきてね」
「温泉⁉︎ いいないいないいなー! あっ、もしかしてコンテストのお祝い⁉︎」
「まあそんなところさ」
 温泉旅行。ふたりの会話を聞きながら、へえ、と呟く。
「あたしも温泉行きたいな~」
「いいところだったよ。広い旅館で、個室にも温泉があってね。風景を楽しみながら司くんと一日中――……こほん。それはそうとえむくん? お土産においしそうなお菓子を買ってきたから、稽古が終わったあとにでもみんなで食べようじゃないか」
「わーい! ありがとう類くん!」
 ふうん、と寧々が零すのと、司が寧々から視線を逸らすのはほとんど同時だった。
……温泉旅行、ね」
……
「新婚早々仲睦まじそうでなによりだけど、コンシーラー貸してあげるから首のそれは隠してくれる? えむの教育に悪いから」
「ぬあー⁉︎ い、いつの間にアイツ……。くっ、ありがたく拝借しよう……
 なにがあったかは聞かない。絶っっっ対に聞いてあげないけど。
 類に散々振り回されたんだろうなってことだけは察したので、今日の稽古ではほんの少しだけ――一マイクログラムくらいは優しくしてあげようと思う、寧々なのであった。










――さて。お次はオレの正念場だな」