猫澤
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もしかして:ひよことにわとり


 ――あの日のことは、いまでも鮮明に覚えている。
 たしか、司が大学二年生の頃のことだ。改めて紹介したい人がいる、だなんて急に畏まるものだから、恋人でも紹介されるのかしらとお父さんとふたり朝から妙にそわそわしていて。
 ばたばたと懐かしい騒がしさで司が我が家に連れてきたのは、司と高校の頃から仲良くしてくれているお友達の類くんだった。
 大学進学をきっかけに実家を出て一人暮らししていた司だけれど、聞けば、いま借りているアパートの契約が切れたら類と一緒に部屋を借りたいのだ、と、リビングに集まった家族に向かってそう説明した。
 実はもういい物件に目星をつけていて、家賃と生活費は今後ふたりで折半していく予定らしい。
 不動産屋からもらった資料をテーブルに並べる司の横顔は、記憶よりもいくらか逞しく成長していて。仕送りするわよと進言しても、これから役者として険しい道を歩むのだから、いつまでも親に甘えてはいられない、なんてきっぱり断られてしまった。
 本当に、ついこの間までよちよち歩きをしていたように思うのに……いつの間にこんなに大きくなっていたのだろう。
 反対する理由なんてこれっぽっちもない。昔から素直な司は自立も早くて、あまり手もかからなかったし……そのうえ類くんが一緒なら安心して任せられる。それはお父さんと咲希も同じみたいで、家族の和やかな雰囲気に、それまで緊張で口数の少なかった類くんの肩から力が抜けた。
 お茶を用意するわね、と席を立ちキッチンへ向かう。テレビではいま話題の映画の告知番組が流れていて、公開したらいっちゃん達と観に行くんだ、と楽しげな咲希の声が聞こえてくる。
 賑やかな談笑、団欒の時間。そんな中、爆弾を落としたのもまた、咲希だった。
「それにしても、いいなー、お兄ちゃん。るいさんと同棲!」
 えっ、と司と類くんが固まる。同時に優雅にソファーで寛いでいたお父さんが、ぶは、と勢いよくお茶を噴き出した。
「ど、どどどどどど同棲――⁉︎⁉︎⁉︎」
「ぬおー! 父さん、茶! 茶が床に!」
「ぬわー! す、すまない!」
 ……司の声の大きさは、お父さんに似たのよねえ。
 親子揃ってせっせと床をティッシュで拭く姿を見守りながら、ふと、固まったまま微動だにしない類くんに視線を向ける。
……あら)
 珍しく真っ赤に染まった頬。思わず両手で口元を覆った。
 同じショーユニットのお仲間だから、類くんのことは司の舞台でよく見かけていたし、我が家にもよく遊びに来ていたけれど……。どちらかといえばクールというか、同年代の子達に比べて随分と落ち着いている印象だった。そんな彼が、こんなにも顔を赤くして、戸惑いを隠せないでいる。
 零したお茶を拭き終えた司が、ちら、と類くんに視線を向ける。それを受けて我に返った類くんは、勢いよく立ちあがって、これまた音がする勢いで頭を下げた。
……ご挨拶が遅れて申し訳ありません。司くん……息子さんとは、昨年から恋人としてお付き合いをさせていただいております」
 しん、と我が家が静まり返る。お父さんはすっかり放心していて、ぽかんと開いた口が塞がらないようだった。そうよねえ、恋人を紹介されるのかと朝からそわそわ気を揉んでいて、類くんの登場にほっとしていたところだったものね。
 類くんも司も、先ほどまでの逞しさとは一転、しゅんと落ち込んだみたいに小さくなっている。ふたりの関係を家族に(というか、咲希は知っていたみたいだから、私達に)隠していたことの罪悪感か、それとも交際を反対されると思っているのか……
 どちらにしても、ここはお母さんである私が、びしっと言ってあげないと。
「司。どうしてもっと早く言わないの」
「うっ……
「咲希も! もうっ、知ってたならお父さんもお母さんも、それなりの態度で出迎えたのに!」
「そ、それなりの態度って……?」
「類くん」
「は、はい」
 司、咲希と続いてまさか自分にまで飛び火してくると思っていなかったのか、類くんは驚いた猫のように体を縮こませた。
 視線を落とすと、膝の上に置いた手が真っ白になってしまっている。私はその手に自分の手を重ねて、体温を分けるように、ぎゅっと握り締めた。
「そんなに委縮しないで。実はね。司が――類くんのこと好きなんだろうなってことは、知っていたのよ」
「え」
「か、母さん⁉︎」
 司がぎょっとして立ちあがる。動揺している息子にふふ、と微笑みかけて、私は改めて類くんと向き直った。
 レモン色の瞳が、迷子になったみたいに不安げに揺らめく。それだけで十分、類くんが司に対してとっても真剣なんだって、わかる。
 だから、いいの。いいのよ。あなたになら、大切な息子のことも任せられるから。
「あの子ったら、口を開けば『類』『類』『類』ってあなたのことばかりなんだもの。でもほら、あの子鈍感でしょう? まさか、お付き合いまで進展してるだなんて思ってなくて……きっとものすごく頑張ってくれたのね。ありがとう、類くん」
「待て待て待て、母さん⁉︎」
「これからは遠慮せず、お義母さんって呼んでね」
「母さん――‼︎‼︎⁉︎」

 ――……

「ふふっ」
 いま思い返しても、あの日の司の焦った声には笑いが込みあげてしまう。
 あれからもう三年。司が実家を出てしまってから、賑やかだった天馬家は随分と静かになってしまった。
 寂しくないと言ったら嘘になる。咲希も本格的にバンド活動に専念し始めて、そう遠くない未来、我が家を巣立ってしまう日がくる。それはとってもうれしいことのはずなのに、ふと親の目線で振り返ったとき、もっとあの子達にしてあげられたことがあったんじゃないかって――少しだけ、胸が切なくなってしまう。
 毎週月曜日は、一週間分の夕飯の買い出しの日。その帰り道、幾分か過ごしやすくなった気温に目を細め、エコバッグを提げて宮益坂を歩いていると――「おや?」と後ろから声を掛けられた。
「お義母さん。こんなところで会うとは奇遇ですね」
「あら、類くん! 先日ぶりね」
「ええ、先日はお騒がせしました……
 ほんの少しだけきまり悪そうに類くんが眉を下げて微笑む。今日はオフなのか、私服姿の彼はトートバッグを膨らませていた。彼が歩く度にカチャカチャと金属質な音がする。彼は演出家だから……舞台のなにかに使う部品かしら。
 類くんは私の傍へと駆け寄って、食材がぎゅうぎゅうに詰め込まれたエコバッグに手を差し出した。
「重たいでしょう。家まで持ちますよ」
「そんな、類くんも忙しいでしょう? 大丈夫よこのくらい」
「気にしないでください。恋人の親にいい顔見せたいだけなので」
「あら。あらあらあら……ふふっ……じゃあお願いしちゃおうかな」
 実際のところ、司が家を出てから夕飯の買い出しの量はかなり減って、本当にこれくらいならなんともないのだけれど。まだ指も完治していないし、スマートな申し出にありがたくお願いすることにする。
 それにしても――
 こうして類くんとふたりきりで歩くのははじめてで、なんだか新鮮だ。
 当たり前のように車道側に立って歩調を私に合わせてくれているのが、妙にこそばゆい。司にも女の子には優しくしてあげてね、と言い聞かせてきたけれど、一回りも歳を重ねた私をレディ扱いだなんて、お父さんもなかなかしてくれないのに。
 司がべた惚れになっちゃう気持ちもわかるなあ。
「そういえば……咲希から聞いたわ。類くんが司との結婚を考えてるって」
「っ!」
 宮益坂を越えて住宅街へと足を踏み入れたとき、何気なく私が言うと類くんはぴしっと石のように固まってしまった。途端に歩みがぎこちなくなった彼を見て、あら、と首を傾げる。
「その様子だと、プロポーズはまだ?」
……お恥ずかしながら」
「ふふっ、そんなに緊張しなくても、きっとあの子のことだから即OKよ。今度はきちんと、家族総出でお祝いさせてちょうだいね」
……
 類くんは曖昧な笑みを浮かべて、少しだけ、反応に困っているようだった。
 そんな顔をしなくても、もう二十年以上あの子の母親をしてきたからわかるのに。
 だって司ったらあれからちっとも変わってなくて、たまにテレビであの子の顔を見たと思ったら類くんの話ばかり。根が素直な子だから、大好きな子とお付き合いしてるの、周囲に隠せないのよね。
 私があれこれお節介をしなくても、ふたりは近いうちに今度は結婚の挨拶に我が家に来てくれるだろう。いまからその日が楽しみでしょうがない。お父さんなんかは涙もろいから、もしかしたら泣いちゃうかも。
 そんな話をしていたらあっという間に我が家に着いて、せっかくだからお茶でも、と類くんを中へ招待する。
 まだお父さんはお仕事で、咲希も帰っていない我が家はどこか冷たい印象を受ける。
 でも、何故かしら。最近はこの家でひとりで過ごしていると――時折、司の声がする気がする。いまの立派に成長した司じゃなくて、もっと幼い、やんちゃに家の中を走り回っていた頃の――魔王を倒す勇者だったり、いくつもの国をめぐる冒険家だった、あの子の声が。
 キッチンに荷物を下ろす。たしか戸棚に一歌ちゃんから貰った紅茶があったはずだわ、と手を伸ばして。視界に入る、柱の傷。ふ、と小さく笑みを浮かべた。
「ほんと、子供の巣立ちは早いわねえ。あの子、昔からやんちゃだったけれど、変にしっかりしてて手が掛からなかったから……
「寂しい、ですか?」
「寂しい?」
 きょとんと目を丸くする。
……そうね。ちょっとだけ。でもどちらかといえばうれしい気持ちの方が大きいわ。だってこんなに素敵な息子が増えるんですもの」
「!」
 ふわりと私が表情を緩ませると、類くんは驚いたように目を見開いて――ふふ、と口元を手で押さえた。
……やっぱり親子ですね」
「? 司なら、お父さんの方が似てるわよ?」
「いえ、」
 くすくすと笑う類くんの真意はわからなかったけれど、彼が私の前で笑ってくれたのがうれしくて、私もつられて笑ってしまう。
 きっと――きっと司は彼のこの笑顔に惹かれて、恋してしまったのね。
……よかった)
 結婚するのならこれから先、好きという気持ちだけじゃ乗り越えられないこともある。男の子同士だから子供は自然に授かれないし、家計や生計をふたりきりで支えていくのだから、相応の困難もあるでしょう。
 それでもね。
 それでも、やっぱり、司の大好きな人がこの子でよかったと、そう思うのよ。
 だってこんなにもやさしく微笑む人なんですもの。