猫澤
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家出した恋人を連れ戻す方法【検索】



――コンテスト?」
 ごくん、と口に含んだ珈琲を嚥下して、類はレモン色の瞳を瞬かせた。
 劇団シームルグ。フェニックスワンダーランドと経営元を同じくする、若手劇団のこぢんまりとした事務所で。演出装置の図面と対峙していた類はふと手を止めて背後を振り返った。
 ちょうど真後ろに立っていたえむが、桜色の髪をひょこひょこ跳ねさせながら元気よく「うん!」と頷く。
「ライリー・エンターテインメント社と共主催のね、ショーコンテストを今年もやるよってお兄ちゃ……しゃ、しゃちょーが!」
「フフッ、僕の前では『お兄ちゃん』で構わないよ」
 まだ半分以上珈琲が残っているタンブラーをいったん机に置いて立ちあがる。えむに手渡された要項を上から眺め、ふむ、と顎に手を当てた。
 毎年フェニックスワンダーランドが秋口から新年にかけて大がかりなショーコンテストを催していることは、長年ここで働く類も当然知るところだ。
 ランドが有する数々のショーステージ。同じ数だけ存在するショーユニットが、このコンテストで互いの実力を競い合う。元は集客が目的で始まったものであるため、かける資金は並々ならない。しかも数年前からは、提携先であるライリー・エンターテインメント社との共主催という形に変わり、規模はますます膨れあがっている。
 コンテストの形式はその年によって異なる。今年は昨年同様、一日で審査をまとめて執り行う方針のようだ。
 エントリーは各ショーユニットの座長に委ねられてはいるが、おそらくフェニックスワンダーランドの全ユニットが参加するだろう。もちろん、ワンダーランズ×ショウタイムも例外ではない。
 テーマはフリー。しかし時期的にクリスマスショーが多くなりそうだ。審査日は年が変わって一週間後。シームルグとしては先日秋期公演を終え、さらに次の冬期公演は二月であるから、しばらく活動に空白ができる。
……ん?)
 類は用紙の文字列を指でなぞって、目についた一文に僅かに目を見開いた。
「へえ。今年は演出部門もあるんだね……
……!」
 類の言葉に、えむはまんまるの瞳をきらきらとこれ以上なく輝かせ、期待の眼差しを向けた。
 感情を素直に表情に乗せる彼女に思わずくすりと笑みが浮かぶ。類が手掛ける面白おかしい演出で、みんなと楽しくショーがしたい! ……という顔だ。
「そうだねぇ……。シームルグの方はあらかた演出案も固まっているし……。今年はワンダーステージで、新規公演、考えてみようか」
「‼︎ ほ、ほんと⁉︎」
「本当さ」
 本来なら座長である司に打診を先にすべきだろうが、長年の付き合い上、司がこの手のことで首を横に振ることはないと断言できる。なんたって自他ともに認めるほど生粋のショーバカなのだ。類も人のことは言えないけれど。
「じゃあじゃあ! 司くん達と新しいショーできるっ?」
「できるよ。司くんと寧々のスケジュールは僕も把握しているしね。公演までの合間合間に司くんはドラマ撮影が入ってたと思うけれど……まあ、彼なら問題なく熟せるはずさ」
「は、はわわわ……!」
 脳内に記憶している恋人と幼馴染のスケジュールをひっくり返して、実現可能な練習スケジュールを組む。
 司が出演する再来季ドラマの撮影に遠方ロケの予定はない。司自身もレギュラー枠ではあるものの毎回登場する役どころではないし、切り替えの早さは彼の長所であるから……うん、十分稽古の時間は取れそうだ。
 思えばワンダーランズ×ショウタイムとしては久々の新規公演である。余程うれしいのだろう。えむは頬を紅潮させ、その表情は喜色を隠しきれていない。
「うれしそうだね」
「えへへへ……! 前まではね、コンテストって、みんなツンツン~ぴりぴり~ってしてて、ちょっとやだったんだけど……いまはみんなですごいショーを作るぞー! って感じがして楽しいんだ! それに舞台監督としてみんなを支えるお仕事もすっごく楽しいけど、一緒にやるショーも大好きだから……素敵なショーにしようね、類くんっ」
「もちろんだよ」
 夏にアメリカでショーをしたときに見た、子供達の笑顔。あの忌避のない輝きを目にした瞬間、類はこれまでの努力が報われたような気持ちになった。ああ、僕達がやってきたことは決して間違いではなかったのだと、背中を押されたような気がしたのだ。
 そして実感する。ショーが好きだと。人生そのものと言ってもいい。より良いショーを作るためなら、この身を投げうっても構わない。
 ……だけど……
 またあとでねー! と大きく手を振りながら去っていくえむの後ろ姿を見送る。その背が見えなくなってから、そっと手を下ろして。類は小さく息をついた。
……。コンテスト、か」
 わざわざ演出部門を新たに設けるなんて。十中八九、慶介さんか晶介さんの仕業だろうな、と口元を歪ませる。
 ぎし、と深くデスクチェアに腰かけ、類は深いため息と共に天井を見上げた。
 司と肩を並べ夢を追いかけて、五年の月日が経った。関係は良好。交際も同棲生活も順調で、司に愛されている自覚も、この先の未来、司以上に愛せる人は現れないだろうという自信もある。
 多分、そろそろ一歩踏み出した関係になってもいい頃合いだった。
 司は――類のすべてを受け入れてくれる。こころも、からだも、全部だ。そうわかっていても踏みとどまってしまうのは……まだ彼の将来を、スターの人生を支える覚悟が……確実性が足りていないからに他ならない。
 日々夢に向かって邁進し続ける司の隣に、立ち続ける覚悟。並び立って遜色ない実力。アイディアは消耗品で、知識にアップデートは不可欠で。いまはまだ、日本という井の中だ――いつか旅立つときが来るであろう大海が、きっと「楽しい」ばかりではないことを知ってしまう瞬間を恐れている。
 一度大人になってしまったら、もう子供には戻れない。二度とネバーランドへは帰れないのだ。
 それならば類は、万全に、盤石を整えてから大人になりたかった。
 万が一にも司の輝きを曇らせるようなことがあってはいけない。その原因が自分だなんて以ての外。あと、できれば心から喜んでほしいから――計画は慎重に。動くのは勝ちを確信してからだ。
 ――僕に、もっと、甲斐性がなくては……
 司にプロポーズなんて、とても。
 そんな類の内心を、慶介達はとうに見破っていたのだろう。コンテストの案内文から、御託はいいからさっさとしろ、お膳立てはしてやる、というお節介を感じ取ってしまった。あの人達、あれで結構世話焼きのようだから。
 自分でもわかっているのだ。どんなに頭をフル回転させたところで、解決しないような問題を前にして。最後の踏ん切りがつかないのは、僕の悪いところだと。
 ――セカイに……
 彼らに会いに行けば、道を示してくれるだろうこともわかっている。でもそれをしないのは、類なりの線引きで、けじめだった。
……
――失礼する。類はいるか?」
 コンコン、とノックの音がしてはっと顔を上げる。返事を待つこともなく開かれたドアの先で、顔を覗かせたのは愛しい恋人の姿。
 自然、表情がほどけて、類はその場で相好を崩した。
「おや、司くん。お疲れ様。もしやこれからお昼かい」
「そうだ! 午前の撮影が押してランチを食いっぱぐれてしまってな。類もまだなら付き合ってはくれないか」
「いいとも。喜んでご相伴にあずかろうじゃないか」
 僅かに皺を作った要項をデスクの上に置いてそっと立ちあがる。
 そして類はチェアに掛けっぱなしの上着を羽織って先を行く司のあとを追いかけた。
 雑踏に溶け込みながら、そのまま事務所から一本向こうの通りにある行きつけのカフェへ足を運ぶと、若い店員の声と共にさわやかなベルの音が辺りに響き渡る。
「いらっしゃいませー」
 昼時から外れていることもあって、店内は疎らだ。お好きなお席へどうぞ、という言葉に甘えて、ふたりは奥の窓際のボックス席へと腰を下ろした。
 ジャケットを脱いで丁寧に畳む司を横目に、メニューへと手を伸ばす。司にも見えるように開けば、司は少しだけ身を乗り出して真剣な表情で吟味を始めた。
 司はこう見えて、意外とよく食べる。生きる上で、そしてショーをする上で必要最低限のエネルギーさえ吸収できればあとはどうでもいい(野菜は勘弁してほしいが)類とは違って、しっかり一日三食、一汁三菜、仕事でへとへとの日は夜食まで追加してがっつり食べるタイプだった。
 こんなに細身なのに、よく入るなあ、と常々感心している。
 野菜抜きのホットサンドのみを選んだ類に対して、司はパスタにグラタンにサラダとスープのセット、それから食後のデザートにチーズケーキまで注文した。
 心なしかうきうきと機嫌よさそうにおしぼりで手を拭く司を、類はテーブルに頬杖をつきながら見つめる。
 彼が人を笑顔にする天才だというのは類もよく知るところだけれど、こうして何気ない仕草でも不思議と幸せな気分にさせられてしまうのは、もはや才能の域を超えていると思う。それが天賦のものなのか、それとも類が恋に盲目になってしまっているのかはわからないが。
「そういえば、まだもう少し先の話なんだけれど……また今年も例年通りショーコンテストがあるらしいね」
「ほう! ではオレもワンダーランズ×ショウタイムの座長として、ひと仕事せねばな!」
 ぱっとメープル色の瞳が輝く。やはりというか、なんというか……相談するまでもなく参加の方向で話を進める司に、類も内心うれしくなる。
 広げたおしぼりを畳みながら、司はふと視線を窓の外に向けた。ちょうど小学生の下校時間くらいなのもあって、ランドセルを背負った子供達がきゃあきゃあと楽しそうに駆けていくのが見える。
 純粋で、無垢な笑顔。知らず知らずのうちに、その眩しさに目を細める。
「ライリードリームパークでショーをしたときも思ったことだが――やはり、子供達の笑顔にはたくさんの勇気をもらえるな」
「勇気?」
「あの子達が笑ってくれるなら、オレはヒーローにもヴィランにもなれる気がする。スターになる夢を目指してきてよかったと、報われたような気持ちになるんだ」
……
 類は瞬き、思わず口を閉ざした。なんて奇遇だろう。まさに類も、つい先ほど同じことを考えていたところだ。なんだか、ちょっと……ううん、かなり。気持ちが通じ合っているみたいで、妙に気恥ずかしい。
 じわ、と頬に熱を集めて黙り込んだ類に、司はこてんと首を傾けた。
「ん? なにかおかしなことを言ったか?」
……いや、僕も同じことを考えていたから」
 そして、またひとつ、司のことを好きになってしまったから、困った。
 自分と人は違うのだと類が知ったのはいくつのときだったか。幸いにして両親も人とは違う感性の持ち主だったので、無理にだれかに合わせる必要はないことも、逆に自分の考えを押し付け強要してはいけないことも、類は幼い頃から理解していた。
 だから、類にとっては思考が一致する、それだけで天地がひっくり返るほど大げさなことなのだ。
 店内の暖房に中てられて、汗をかく冷のグラスを両手で握り締める。
 なんてない顔を装ってみても、心臓は類の緊張を察知してトクトクと脈を早めていた。
「それで……、それでさ」
「ああ」
「審査部門に、演出もあってね。少し……頑張ってみたいなと思っているんだ」
「それは良い! 類が本気ならば、きっといままで以上に素晴らしいショーになる!」
……、うん――
 ぱっと眩しいほど表情を輝かせた司を見つめ、類はすっとその目を細めた。
 好きだなあ、と思う。この人を、一生かけて大切にしたい。互いがどれだけ歳を重ねて、しわしわのおじいちゃんになったとしても、司が寄り添ってくれるならば類はもう他になにも要らなかった。
 強くなりたい。司に並び立てるほどに、強く。
……司くん」
「ん?」
「僕、頑張るね」
「? ああ! 楽しみにしている」
 お日様のような笑顔に微笑みを返して、類は握り締めていたグラスに口をつけた。
 窓の外では相変わらず子供達が駆けている。落ち着いたジャズが今になって聞こえてきた。入店のベルの音。運ばれてきた二人分の料理。
 おいしそうに頬張る司を眺め、類はひそやかに決意を固めた。


     ■


 やはりシーズン真っ只中ということで、ショーコンテストでの演目はクリスマスショーで四人の意見がまとまった。
 ショーの大筋はこうだ。主人公であり、司が演じるルドルフは、トナカイであるにもかかわらずサンタをソリに乗せて空を飛べない。極度の高所恐怖症なのである。
 そこでサンタと仲間のトナカイは、ルドルフに高所を克服するための試練を与える。
 渓谷の綱渡り。崖の上からのバンジージャンプ。仲間の励ましの甲斐あって、ルドルフは無事高所を克服する――
……こんなところか」
 ふう、と息をついて、類は丸めていた背中を伸ばした。
 地べたに座り込んだ類の周りにはいくつも演出案を書き込んだ紙が散らばっており、試作として作った小さな模型や、設計図、はてはその部品が転がっている。
 このところ寝る間も惜しんで作業に没頭していた甲斐あって、ようやく、コンテストでやってみたい演出のイメージが形になってきた。とはいってもまだガワの輪郭ができたくらいで、ここからテストにテストを重ねて、より精密に練っていく必要はあるのだが。
 いつの間に夜になっていたのか、作業部屋のカーテンは閉められ、室内灯が部屋を明るく照らしていた。類がそうした記憶はなかったから、おそらく暗くなり始めた頃に司がしてくれたのだろう。
 長時間同じ体勢でいたせいで、類がゆっくりと立ちあがると全身からぱきぱきと骨の鳴る音がした。凝り固まった筋肉をほぐすように、その場で軽く柔軟をして。こつ、と肘がすぐ傍のデスクに当たる。
「あ……
 類は手を伸ばし、デスクの引き出しを開けた。
 奥に眠ったままの小箱。親指の爪に引っ掛けて蓋を開ければ、プラチナリングが顔を出す。未だに渡せないままの類の愛の証。実に情けない話だが――これを買ってからもうじき一年が経とうとしていた。
 タイミングがなかったわけじゃない。交際記念日にお互いの誕生日と、きっかけはいくらでもあった。
 先述の通り類にまだ覚悟がなかったのもあるが――類にとってプロポーズは人生の一大イベントだ。司の心を射止めるような、心に残る演出でしたい。
 だから類は、司からイエスをもらうためにあれやこれやとシチュエーションを考えて――そしてそのたびに没を出し続けている。もっと、もっとふさわしい演出があるのではないかと、あがき続けて、そうしているうちに一年。
(そろそろ潮時……と、言いたいところだね)
 結婚なんてしなくても、恋人としてこうして一緒に暮らせているだけで類は十分幸せを感じている。愛し合って、支え合って、過不足ない暮らしを送れている。
 だけど僕は欲にまみれたアルケミストだから――日に日にそれだけじゃ物足りなくなっていることも、たしかだった。
 ――世界中のだれよりも、彼を愛する資格がほしい。
 ぱこ、と音を鳴らして小箱を閉じる。そのためにも、いまは目の前のショーの準備を完璧にするしかない。もう、司から離れない選択をしたのだから。
 彼がどこへ流れて行こうとも、どこまでもついていくと決めたのだから――
……おなか、空いたな」
 くるる、と思い出したように腹の虫が鳴る。無性に司の手料理で腹を満たしたくなって、類はのそのそと重たい体を引きずるように歩き出した。
 そういえばいまは何時だろう。類はそこではじめて、何気なく壁掛けの鳩時計(ただし出てくるのは鳩ではなく司を模した人形だ)へと視線を向けた。
 ふむ。長針、短針共に八を指しているね。つまり……もうすぐ二十一時⁉︎
――つ、司くん! すまない、つい作業に夢中になってしまっ……
 て、と続くはずだった声は出なかった。慌てて駆け込んだリビングは真っ暗で、ひんやりと冷たくて。いつもなら司が料理をしているはずのキッチンも薄暗く、暖房はおろか人の気配すらどこにも感じさせない。
 全身から血の気が引いていく。さあ、と血管を血液が流れていく音がたしかに聞こえた。
……、」
 ふらふらと言葉もなくリビングのテーブルへと足を向ける。一枚の書き置きだけがそこには置いてあって。
 ――実家に帰る 司
 それだけ淡々と書かれた紙片に、類は思わず唇と喉を震わせた。
「そ、そんな……嘘だ……
 嘘だ、と繰り返す。目の前が真っ暗に霞んでいく。
 僕はまた失敗したのか。
 勝手に浮かれて、相手の気持ちも考えないで――拒絶されて、失望して。そんな過ちを繰り返してしまったというのか。
 ショーのことになると周りが見えなくなるのはお互い様だ。だけど放っておかれたら寂しいと、前に司も言っていたのに。
 ――いや。まだだ。まだ、間に合う。
 類は震える指先で壁掛けのジャケットに入れっぱなしにしていたスマホを取り出し、通話アプリをタップした。しかし期待していたコールは鳴らず、代わりにぷつ、と回線が切れる音がする。
『お掛けになった電話番号は、現在電波の届かないところにあるか――
 次いで耳元に届いた無機質な音声に奥歯を強く噛む。繋がらない電話に一瞬頭の中が真っ白になるが、まだ策が尽きたわけじゃない。
 かくなる上は。類はソファーに掛けていたジャケットを羽織り、スマホと財布、家の鍵だけを持って、秋の夜風が吹く外の世界へと飛び出した。


     ■


 沼地を歩いているような気分だ。
 タクシーに乗っている間はショーのことなどひとつも思い浮かばなくて、いったいどうやって説得して連れ戻そうか、どう謝ったら許してくれるだろうかと、そればかりが思考を占めていた。
 大きな庭付きの戸建てを前にして、合鍵を持つ手が震える。
 一階の窓から暖かい光が漏れている。鍵をまわしそっとドアを開けると、風呂あがりだろうか、ちょうど廊下を歩いていた司の妹――咲希がびくりと肩を揺らし振り返った。
 ほんの少し湿った、毛先に向かって色づくグラデーションの髪。ぱちくりとピンクソーダの瞳を丸くしたかと思えば、ぱっと花が咲くように表情を綻ばせる。
「るいさんだ~! おかえりなさい!」
「こんばんは。司くんはいるかい?」
「いまお風呂に入ってます! はい、どうぞあがってあがって。お母さーん! るいさん来たよー!」
 ……なんというか。
 想定外の歓迎ムードだ。司がどれほど類を怒っているか見当もつかないが、家を出るほどなら、最悪、門前払いされる可能性だって視野に入れていたのに。
 不思議に思いながら靴を並べて咲希のあとを追う。
 吹き抜けの広いリビング。ソファーに腰かけて寛いでいた咲希の母が、肩越しに振り返ってうれしそうに微笑んだ。
「あら類くん! お久しぶりね」
 司と咲希、両方の面影を彷彿とさせるその顔は、記憶と寸分も変わらない、柔和で陽だまりのようなあたたかさがあった。
 しかしその手には包帯――いや、おそらく骨を固定するギプスが不自然に巻かれている。おや、と思い、類は首を傾げた。
「ご無沙汰してます。……お義母さん、そのお怪我は?」
「ふふ、大したことないんだけどね。ちょっと指の骨を折ってしまって」
 指を。目を見開いた類の反応に少しだけ気まずそうに眉尻を下げながら、義母が話を続ける。
「本当に大したことないから、気にしなくていいって言ったんだけど。お父さん、いま海外出張してるし、咲希とふたりでは不便もあるだろう〜って、司ってば言って聞かないものだから……
 そこまで聞いてようやく、類は己の勘違いに気が付いた。
 先ほどまでは気が動転していて冷静に物事を考えられなかったが、よくよく思い返せば、司の書き置きには「実家に帰る」としか書かれていなかったような気がする。回りくどいことが苦手な司のことだ。類に不満があれば直接ぶつけるに違いない。
 とすると、あれはきっと、本当に文字通りだったのではないか。
 文字通り、実家に帰っているぞ、と。類に教えるための……
……そういうことでしたか」
「あら? 司、類くんになにも言ってなかったの?」
「いえ、……書き置きはあったのですが、僕が早とちりしてしまって」
「早とちり?」
――……? おお、類じゃないか!」
 ぺたぺたとフローリングの床を素足で歩く音と共に、呑気な声が聞こえてくる。
 はっとして振り返れば。水気で萎びた髪をタオルで押さえながら、何気ない顔をしてリビングへとやってきた――類が愛してやまないその人の姿が、そこにはあった。
 思わずつかさくん、と小さく呟く。
 じわ、と、目に膜が浮かぶ。僕の思い違いだ、勘違いだと、わかっても。実際にその姿を見たら、途方もない安堵感が押し寄せた。
 風呂あがりでやや上気した頬。何故ここに類がいるんだと不思議そうな瞳も、無防備に近づく体も。どれも、少しも類を拒んでなどいない。
 いまになって思えば、司はなにか不満があったとしても、なにも言わず見限るような人ではなかった。対話を望み、妥協点を一緒に考えることができる、そんな人だった。
 はあ、と顔に手を当てて肺いっぱいにため込んだ息を吐き出す。
 ……よかった。本当に。……司に嫌われたわけじゃ、なくて。
 そんな類の様子を見ていた司の母が、ふと司に向き直る。
「司。ちょっとこちらに座りなさい」
「んん? どうかしたのか? 母さん」
「どうかしたのか? じゃないでしょう。あなた類くんにちゃんと実家に来ること説明したの?」
「し、したぞ⁉︎ リビングに『実家に帰る』と書き置きも――……
「お兄ちゃん……、それ、夫婦喧嘩で別れるときのお決まりのやつだよ〜……
「なに⁉︎⁉︎」
 キッチンで類の分のお茶の用意をしていた咲希が呆れた顔をする。司は類と妹、そして母親を交互に見ながら、ようやく事の重大さに気がついたのか、さっと顔を青ざめさせた。
「す、すまん、類! そういうつもりでは……!」
「ひどいよ司くん……。僕は君に愛想を尽かされたのかと思って、慌ててここまで来たんだよ……
「すまん――‼︎‼︎‼︎」
 袖口で涙をぬぐうような仕草で泣き真似をしたのは、司の家族の前で深刻な雰囲気にしたくなかったのもあったし、肝を冷やした分、司を揶揄する気持ちもあった。が、類の想定以上に司は慌てて、がしっと類の両肩を掴む。
「わ」
 引き寄せられ、前のめりになる体。手の力強さに驚いて、ちらりと袖の影からその表情を窺えば。思いの外焦りを表情に浮かばせる司の顔がすぐ傍にあって、何故だか心の奥底にある薄暗い感情まで満たされていくかのような感覚を覚えた。
……
 そんな類のことなど知る由もなく、司がさらに言葉を重ねる。
「類に愛想を尽かしたわけではない! その、お前ここ最近例のコンテストの用意で忙しくしていただろう。集中しているようだったし、声を掛けて中断させるのは忍びなくてな……。決して類を嫌になったとか、そういうわけでは断じてないから、安心してほしい……
……じゃあ司くん、僕のこといまも好きかい? 愛してるって言える?」
「当然だ! あ、愛してる、……って家族の前でなに言わせるんだ――‼︎‼︎‼︎‼︎」
「フフ……
 にまにまと口元を緩める類を見てようやく我に返った司は、温かい眼差しで見守る家族にも気が付いてぶわわわと真っ赤に顔を染めあげた。
「お兄ちゃん顔真っ赤!」
 くすくすと咲希が笑う。
 その手には紫のマグカップ。類用にと司と咲希と色違いで天馬家に置かせてもらっているものだ。手渡され受け取れば、仄かな湯気と、レモンティーの香りが類の鼻腔を擽る。
「うう……風呂に入ったばかりだというのに変な汗をかいてしまった……
 そう言ってぱたぱたとTシャツの襟首で首元を扇ぐ司を横目に、マグカップを呷って温かい飲み物を嚥下する。
 オレンジ色の照明。天馬家は昼夜問わず、いつでも明るい。
 ふと、居心地の悪さを感じて佇まいを直す。結局司の件は類の早とちりだったわけだし、司達の母が怪我をしているのなら、類は団欒のお邪魔ではないだろうか。
 お茶を飲み終えたらそっと退散しよう、と。つるりとしたマグカップの縁を舐めていると、振り返った司と目が合った。
「類、お前も泊まっていくだろう?」
「いや、僕は泊まりの用意はしてきていないし、このまま家に戻るよ」
「えー! ダメです! るいさんも泊まっていってください! 服ならお父さんの貸しますから!」
「たしか洗面所に新品の歯ブラシ、あったはずだわ」
「客用布団、オレの部屋に運ぶからちょっと待っててくれ!」
――そうだった。天馬家のコミュ力をすっかり失念していたよ」
 まったく類が口を挟む隙すらなかった。急な来客に対してとんとん拍子にもほどがある。
 そしてこうなると梃子でも譲らないのが、天馬家だ。
 類は早々に諦めて肩を竦めた。どうせもう遅い時間だし、いまからタクシーで帰っても帰りは日付を跨ぐ頃になる。
 大きな一組の布団を別室から持ってきた司が、せっせと階段に足を掛ける。危なっかしい足取りに慌てて駆け寄って、半分、類も支えて一緒に二階へと運べば。軋むフローリングの床と共に、ひどく懐かしいにおいがした。
「ねえ、本当によかったのかい。僕も一緒で」
「ん? ああ……このまま帰して夜泣きされては困るからな!」
「僕をなんだと思ってるんだろうね。……一晩くらい君がいなくても……
 大丈夫だと、言おうとした。そりゃあ、少しは寂しくなってしまうかもしれないけれど。いままでだって撮影ロケ等で司が数日不在の日はあったし、逆に類が研修で家を空ける日もあったのだ。
 だけど。不自然に言葉を区切って、類は口を閉じる。不思議そうに見つめる琥珀色の瞳に、苦笑を返して。
(いなくても、と思ったけれど……ダメかもしれないな)
 司のぬくもりを感じない我が家は、暗くて、寒くて……、凍えてしまいそうなのだと思い知ってしまったから。今夜は彼のあたたかさを感じて眠りたい。結局、司も、そんな類の内心などはお見通しなのだろう。
「なんでもないよ」
「? そうか」
 二階にある司の部屋は、かつて司が生活していた頃とまったく内装が変わっていなかった。
 類と共に暮らすことになって家具などはふたりで出し合いながら新調したから、服や雑貨が減った以外はすっかり以前のままだ。少しだけ、トロフィーの並ぶ戸棚が埃っぽいような気がするくらいで。そう何度も足しげく通ったわけでもないのに、司の生活感を感じるからか、落ち着く。
 よっこいせとベッドの傍に客用の布団を敷いて、ふう、と司は額の汗を拭うような仕草をした。
「風呂、まだあったかいから入ってこい。たしかこの辺に……、ああ、あったあった。ほら、類。パンツ」
「パンツ?」
「さすがに下着まで父さんのを使うのは抵抗あるだろう?」
 クローゼットから引っ張り出した下着を手渡され、思わずじろじろと見てしまう。
 体格が違うので類の服を気まぐれに司が着ることはあるけれど、司のものを類が着ることは滅多にない。ましてやパンツ。シンプルな色合いの普通のトランクスだが、司のものだと思うと、なんとなく背徳感があるような……
……
「じ、ジロジロ見るな……。安心しろ! 新品だ!」
「えっ、なんだ……新品なのかい」
「何故残念そうにする⁉︎」
 いや、下心はないけれど。……ないよ。いやいや、本当だとも。


 ざば、と音を立てて浴室を出る。
 もともとあまり長風呂をしない――どころか、普段から烏の行水レベルでシャワーで汗を流してさっさとあがるせいで、司にはよく「湯舟に浸かって少しはデトックスしろ!」と怒られるのだが。天馬家の広い浴室は尚のこと落ち着かず、いつも以上にすぐあがってしまった。
 拝借したタオルで軽く全身の水気を拭って、バスルームを後にする。リビングはいつの間にか消灯されていて、司の部屋の明かりだけが家の中をぼんやりと照らしていた。
……――
 ――耳鳴りがするほど、静かな夜だ。
 足音がやけに響く。司はなにをしているのだろうか。読書か、それとも寧々に教わったソシャゲの火消しか。――ぎし、とフローリングを踏む音だけが、夜の世界にこだまする。
 ぎし……、ぎし……、ぎし……
 階段を上ろうと一段目に足を掛けたとき、ふと――カタン、と家の奥から音がして、類ははっと顔を上げた。
 いまのはなんの音だろう。義母か咲希だろうか。音がした方をそっと覗いてみるが、暗い廊下が続いているだけで、目を凝らしてみても結局その正体まではわからずじまいだった。
……聞き間違い、かな?)
 まあいいか、と思い直して、司の部屋へと向かう。
 吹き抜けの部屋は階段からも様子が窺えて、革製のソファーに腰かけながら本を読んでいる司が見える。足音で類に気づいたのだろう、司はふと顔を上げ、目が合うなり、口角を上げて小さく手を振って見せた。
 なんだか懐かしい。学生時代は時折司の家にお邪魔してショーの話をしたものだ。一階の防音室にはピアノもあって、聴かせてほしいと強請ったこともあった。
 司の部屋のドアを開ける。待ち受けていた司はふわりと表情を綻ばせて、手元の本をぱたんと閉じた。
「おかえり」
……うん。ただいま」
 立ちあがり、ベッドへと移動する司を追って。何気なく床に敷かれた布団に腰を下ろせば――司はもう寝るつもりなのだろう――部屋の照明を消して代わりに小さなルームライトを点灯した。
 司に倣って類も布団の中に体を潜りこませる。なんだか変な気分だった。いつもは司と同じベッドで、抱き合って眠るのが当たり前になっていたから。隣にない体温を無意識に求めてしまう。
「暫くこっちにいるのかい?」
「いや。母さんの怪我も思ったより酷くなかったからな。明日は類と一緒に家に戻るつもりだ」
「そう」
 よかった、と内心で呟く。義母の怪我は類も心配ではあったが、もし何日も司が家を空けるというのなら、うっかり子供のように駄々をこねてしまうかもしれなかった。
 2LDK程度の狭い我が家も。司がいないと、広く感じてしまう。
 ベッドの縁に腰かけた司は、膝の上で手を組みながら、ふと小さく声を落とした。
……母さんに叱られてしまった。あまりお前に心配を掛けるなと」
「おや。普段心配を掛けているのは僕の方だろうにねえ」
「まったくだ! ……いや、そこはお互い様だな」
 司が身じろぐと、共鳴するようにベッドのスプリングが鳴く。
 蜂蜜色の瞳に、自分の姿がぼんやりと浮かびあがっている。
 視界の端に司の素足が見えた。かと思えば、司は類のいる布団を捲っていそいそと隣に潜り込んで。
 類の体に腕を巻き付け、うにうにと胸板に額を押し付けられる。
 めずらしい。
 滅多にない甘えた仕草に驚いて、その背をそうっと撫でれば。やや赤らんだ顔がのそりと緩慢な動きで類を見上げた。
「どうしたんだい」
「甘やかしてほしそうな顔をしていた」
……僕が?」
 むしろ、どちらかといえばこれは甘えられているような気がするのだが、司にとっては類を甘やかしているつもりらしい。
 猫のように擦り寄る司の体を抱き寄せて仰向けになる。腹の上に圧し掛かった司は類の首元に唇を寄せ、鼻先で喉ぼとけの震えをたしかめている。
 ……たしかに、今日は徒労があった分、いつもより疲れたし甘やかしてほしい気分だったかもしれない。しかし相変わらず不器用なスキンシップだ。ふ、と口元を緩ませて、司の背中に腕を回す。
「なるほど。では存分に、甘やかしてもらおうか」
 類が司の顎に唇を寄せると、司はもぞもぞと身じろぎして。隠れるように肩まで掛け布団を引きあげながら、類の唇をぺろりと舐めた。
 ちょん、ちょん……と唇をくっつけ合って、ときどき、口の端を甘噛みする。そっと口を開くと、司の肩がわかりやすくぴくりと跳ねた。
 どう動くかな、と司の行動を見守っていると、司はきゅっと眉を寄せて逡巡の表情を見せながら――、赤い舌を類の口におそるおそる差し入れた。
「ん、ふ……つかさくん、」
「んぅ、ぅ、」
…………こら」
 えっちなキスをしていたから、そういう気分になっちゃったのかな。
 類が着ているシャツの裾をたくしあげて、直接肌を撫ではじめた司に、喉奥でくつりと笑いながら。そっと悪さをする手に自分の手を重ね合わせる。
 ぷつりと唾液の糸が途切れる。空いた方の手で司の鼻をつまんだら、司はふがふがと不満そうな声をあげた。
「うれしいけど、かわいいことしないで」
「むぎゅ! な、なにをすゆ!」
「それはこちらのセリフだよ。襲われたいのかい?」
「お、襲……そういうわけではないッ! ……ことも、ない……
「え」
 まさか否定の否定が返ってくるとは思わず、豆鉄砲を食らった鳩のような顔で類はついじっと司の顔を凝視してしまった。
 だって。それってつまり、……襲われたいってことなのだけれど。ちゃんとわかっているんだろうか。
 類が戸惑っているのを敏感に感じ取った司は、気まずそうに「う」と言葉を詰まらせながら、小さくぽそりと続けた。
「お前が甘やかしてほしいとき、なんだかんだいつも、その……してるだろう」
「なにを?」
……え、エロいこと」
…………
 た、しかに、言われてみればそうかもしれない……
 いや、でもだって、ほら、よく言うじゃないか。疲れているときほど生殖本能が活発になってしたくなるって。司に甘やかしてほしいと思うということは、それがメンタル的なものにしろフィジカル的なものにしろ、多かれ少なかれ疲れているということで……
 類としてはもちろん大歓迎である。というか、いまの触れ合いで結構類自身もその気になってしまったのは否めない。キスの気持ちよさに中てられてちょっとだけ勃ってしまったのも認めるし、たぶんそれは上に乗っている司もわかっている。
 けれど。
「さすがに君のご家族がいる前でするのはね……声、抑えられるのかい?」
……
……
……忘れろ!」
 血流の流れがよくわかるくらい、一瞬で茹でだこのようになってしまった司がおかしくて、いとおしくて。思わず噴き出してしまった。
 情事のさなか、夢中になればなるほど司は声を抑えられなくなる。だから我が家の寝室は天井、床、壁の防音を徹底していて――一方で、天馬家の、司の部屋はプライバシーの配慮ゼロの吹き抜けだ。
 司はほんの少し拗ねたような顔をしてそっぽを向いた。どうやら彼も自信はなかったらしい。
 それでも自分のベッドに戻る気はないようなので、遠慮なく司の体を抱き締めたままごろんと寝返りをうつ。
 慣れない敷布団は、やっぱり司の家のにおいがした。
 すう、と息を吸い込むと、同じシャンプーの香りが漂ってくる。
 こち、こち、と規則正しい時計の音。階下のキッチンにある流し台から、ぴちょん、と水滴の落ちる音も聞こえてくる。
 風呂あがりなのもあって、布団の中は肌寒い季節にもかかわらずしっとりと汗をかくくらい温かい。胸元に擦り寄る司に頬を寄せ、もう今日はこのまま寝ちゃおうか、と優しくカスタード色の後ろ髪を梳けば。司は気持ちよさそうに眦を和らげた。
「そういえば作業の方は、順調か?」
「おかげさまでだいぶ煮詰まってきたよ」
「それはなによりだ……
 言うなり、くあ、と大きなあくびが漏れる。すまん、と言いつつも、瞳は眠気に抗えないのか瞼に隠され始めていた。
 そういえば、自分のことばかりで司の気持ちまで考えられていなかったように思う。
 昨日まで司はなにも言っていなかったから、きっと彼も今日はじめて母親の怪我を知ったのだろうに……自分は彼の気持ちを思いやれていただろうか。
 家を出るときだって。類に声を掛けたのかもしれないが、類が気づくよりも先に書き置きだけ残して家を出て行ったということはかなり慌てていたに違いない。
 家族をだれよりも大切にする司だから、尚のこと。
「こっち向いて、司くん」
 耳元に声を吹き込むと、司は眠たげにしながらくっと顎を持ち上げた。
 彼の、あまり人に弱さを見せないところが、ときどき歯がゆくなってしまうけれど。
 なんでも自分ひとりで抱え込もうとするところが、悔しくなってしまうけれど。
 そんな司を、類は、この手で支えていきたい。
 傍でただ見守るだけじゃなくて――寄り添って、抱き締めてあげたいのだ。
「ね、司くん。これは提案なんだけれど……
 すでに夢のふちに立ち始めている司の耳朶に、唇を寄せる。司の髪を撫でていた手を、そっと布団の中に潜り込ませて。隠れた左手に自身のそれを重ね合わせた。
……今度のコンテストでさ。もし演出部門に、僕が入賞できたら……
「ああ……
「お願いをひとつ、聞いてほしい」
……お願いだと? それはどんな――
 ぱちりと伏せられていた目が開く。
 ルーフウィンドウから月明かりが射し込んで、類と司を銀色に照らしている。
「それは、まだ秘密」
……
 類の返答がお気に召さなかったのか、司はむうと眉を寄せた。しかしなにを思ったのかすぐに「ふふん」と得意げに口元を緩ませる。
「司くん?」
――いいだろう。このオレが、類の望みをなんでも叶えてやる」
 なんでも。
 思わず内心で繰り返して、目を見開く。まだ類がなにを望んでいるかもわからないうちからあっさりと諾と頷く司に、うれしい気持ちと複雑な気持ちがないまぜになる。
 司は――ひょっとしたら、類のことを善人だと思っているのかもしれない。
 もちろん悪人であるつもりはないけれど、でも、蓋を開けてしまえば僕なんてただ臆病風に吹かれているひとりの人間でしかないのに。
「昔から思っていたけれど、なんでもなんて気軽に言うものではないよ」
「何故だ。類のことを信用しているからこそ口にしているんだ」
「うーん……。そりゃ、僕にとっては都合のいいことこの上ないけどね」
 心配だなあ、と類は小さく呟いた。変な壺とか、セールスとか、彼が手を出してしまわないように注意して見ておかないと。彼なら情に流されてうっかり契約してしまいそうだ。
 なんせ、類が好きだと言ってキスをしたら、簡単に絆されて類の手中に収まってしまったような男なので。
「類。オレは、お前なら……――
 司はそこまで声に出して、その先は音にせずに閉口した。
 お前なら、の続きが気になって、じっとその顔を見つめる。
 もう結構眠いのだろう。溶けた蜂蜜が交差する。銀色の光。互いの呼吸が唇に触れるくすぐったさも、服越しに伝わる体温も、ぜんぶ、どうでもよくなっていく。
 瞼がおちていく。
「お前なら、……なんだい?」
……いや。なんでもない。もう遅いから寝るぞ。……おやすみ」
……おやすみ……
 結局なにも切り出さずに話を終わらせた司を、類と、夜空に浮かぶ月だけが物言いたげに見下ろしていた。


     ■


 朝日が眩しい。
 それに、鳥の囀りがいつもより近い。重い瞼を持ち上げれば、視界いっぱいに愛しい人の寝顔。
 彼の口の端から垂れる涎を指先で拭う。規則正しく上下する肩に掛け布団をかけ直して、類は司が起きてしまわないようにそっと布団を抜け出した。
 朝の冷たく澄んだ空気と、お日様のような天馬家のにおい。
 薄暗い廊下をひたひたと歩いて、階下のお手洗いを借りる。用を足すついで、くぁ、と漏れた欠伸をかみ殺して。
 司の部屋に戻ったら、司が起きるまで二度寝しようと心に決める――だって、まだ朝の六時にもなっていない。
 類はそっとお手洗いの電気を落とし、来た道へと何気なくつま先を向けた。
……おや?」
 いま。
 ふと、人影が見えた気がした。もうだれか起きているのだろうか。反射的にそちらへ視線を向ければ、向こうもこちらに気づいてぱっと表情を明るくさせる。
 陽気の下ではなくとも、日向のひまわりのようなまばゆさ。咲希だ。思わず類もその眩しさに、すっと眼差しを細くした。
「るいさん! おはようございます! 昨夜はゆっくり眠れました?」
「おはよう。おかげさまでね」
 当たり障りのない笑顔で答える類を、じー、と咲希が見つめる。
 ピンクソーダの瞳はやがてじと、と据わり、ほんの少しだけ拗ねたように言葉を重ねた。
「ウソ。お兄ちゃん言ってましたもん。『類は夜更かしばかりしているから朝に弱いんだ』〜って! それなのにもう起きてるなんて変!」
……ふふ。お兄さんの真似かい? さすが、名優の妹さんなだけあるね」
「も~、調子がいいんだから……。あ、コーヒー飲みますか?」
「ありがとう」
 朝の支度がまだだからか、いつものように結わえていない髪をふわふわと靡かせて咲希がキッチンへと駆けていく。その背を見送って、類はなんとなくむず痒い気分になった。
 司を通じて、類のことが咲希に伝わっているのがほんのちょっぴり気恥ずかしい。司だって大概、妹に対してええかっこしいだろうに、類にはいい顔をさせてくれないのだ。好きな人のご家族には、いい印象を与えたいに決まっているのに。
 リビングのソファーにぼんやりと腰掛けて、カチャカチャと陶器の擦れる音を聴く。
 類は昔からショートスリーパーで、あまり深い眠りというものを体験したことがない。普段の生活も、司のおやすみを見届けて、おはようの前に起きることだってあるくらいだ。人間、野菜を食べなくても大きくなれるし、よく寝なくても大きくなれる。
 ちなみに司は一度眠ると朝まで起きない。夜中に突然、冗談みたいにわさわさ動くけれど、正真正銘、全部寝相だ。だからきっと、もうしばらくは起きてこないだろう。
「お兄ちゃんとの生活、どうですか?」
 ふわり、珈琲の香りがリビングに漂い始める。匂いに乗って届く、鈴が鳴るような声。類はふっと口の端を持ち上げて、キッチンにいる咲希をソファー越しに振り返った。
「毎日刺激的で楽しいよ。お互い夢に向かって邁進するモチベーションになっているしね。喧嘩すると夕飯に緑が増えるのは勘弁してほしいところだけど」
 我が家の家事は、可能な限り類が家事ロボットを作って自動化している。しかし料理は基本的に週替わりの当番制だ。偏食家の類の健康を気にしているらしく、司は自分が当番の週はどうにか類に野菜を食べさせようとメニューに工夫を凝らしている。
 類とて食べ物を粗末にしたくはない。とはいえ苦手なものは苦手なので、いまのところカレーに仕込まれた野菜だけは気づかないふりをして腹に収めている。……が、ちょっとした喧嘩をした日はこれ見よがしとあからさまにボウルいっぱいのサラダを食卓に並べるものだから、宥めるのが大変なのである。
 野菜だって植物だろう、何故花の世話は好きなくせに野菜は嫌いなんだととげとげしく言われたことも何度もあった。そのたびに、君は飼っている犬猫を食べるのかい、と返しているけれど。
 類の話にあはは、と声をあげて笑いながら、咲希が珈琲の入ったカップをテーブルに置く。類の隣にストンと腰を下ろして、もじもじと落ち着かない様子で――彼女はそっと口を開いた。
「やっぱり……その、将来的には〜……結婚とかも……?」
「気になるかい?」
 うんうん、と力強く頷かれてしまって、少しだけたじろぐ。
 咲希が淹れてくれた珈琲を口に含んで、ごくりと嚥下しながら――類は気持ち、佇まいを直した。まだ司本人にも言えてないのに、彼の妹である咲希に打ち明けるのはちょっとだけ勇気が要る。
「そうだね……。僕は、司くんと結婚したいなって思ってるよ」
 喉から搾り出した言葉に、咲希はぱっと表情を明るくさせた。頬を朱に染め、うれしそうにきゃあと黄色い声をあげる。
「いいなあ、アタシこの年でまだ恋愛経験全然なくて……。かっこいいなって思う人はいるんですけど、お付き合いするってなるとピンとこないんです」
 心なしかしょんぼりと肩を落とす咲希の姿に、おや、と類は首を傾けた。こんなにかわいらしくて素直ないいこを、周囲は放っておかないだろうに。
 とはいえ、こればかりは咲希の前に素敵な人がいつか現れることを願うしかない。出会いは突然訪れるもので、願っているうちは案外近づいてこないものだ。長年、類が独りで待ち続けたように。そしてなにもかも諦めた頃に、司と出会えたように。
「バンドのみんなには理想が高いからだーとか言われちゃって、そんなに理想高いかなあ……
「どうかな。でも君のお兄さんは素敵な人だから、理想が高くなってしまうのもわかるよ」
 類の目から見ても、司はいまどき珍しいくらいに随分な家族思いだと思う。
 神代家はわりと放任主義だったし、類が一人っ子だったのもあるかもしれないが、司が咲希のことを語るときの表情は家族愛とか、優しさや慈愛に満ち溢れていて、見ていてこころが温かくなる。
 そんな兄が長年傍にいたのだ。だからこそ咲希が恋人に求める理想を高くしてしまうのも、なんだか頷けるような気がした。しかし類が言うとそれは……なんだか惚気のようだな、と思い至って、途端に気恥ずかしくなり首裏を掻く。
「るいさんも素敵です! お兄ちゃんが羨ましいくらい」
「フフッ、光栄だね」
「もー、お世辞じゃないですよ! るいさん、かっこいいしすっごく頭いいし……あ、そうだ! るいさんならなにかわかるかも?」
「うん?」
「実は……最近、ときどき家の中で物音がするときがあって」
 ――物音。
 突然変わった話題に、はた、と瞬く。
 咲希は神妙な顔つきで膝の上の指先を遊ばせている。その視線の先が、おそるおそる家の奥へと向くのに倣って、類も目線を向けた。
 咲希が見た方向。……昨夜風呂あがりに類も音を聞いた方だ。
「それなら僕も聞いたよ。てっきり咲希くんかお義母さんがなにかしてるのだと思っていたけれど」
 類の言葉に、咲希は一瞬怯えた顔をして、小さく首を横に振った。
「アタシも最初はお母さんだと思ったんですけど、違うって……。それで、もしかして、心霊現象⁉︎ って思ったらこわくなっちゃって、たしかめに行けなくて」
 ふむ、と類は頷いた。
 短期とはいえ父親は海外出張、司は家を出てしまっている。そのうえ母親が怪我をしたとなれば、頼れる人もいなくて心細かったことだろう。
 音の出所は、奥の物置のようだ。天馬家には幾度となく訪れているけれど、未だに類は足を踏み入れたことのない場所である。咲希曰く、古いものしか置いてないので滅多にドアを開けることはないそうだが……
「それなら、僕が代わりに見てこようか」
「いいんですか⁉︎」
「もちろんさ。恋人の妹の頼みだ。喜んで力を貸そうじゃないか」
「る、るいさん~!」
 潤んだ瞳を向け、健気に指を組んで感謝を示す咲希の姿にふっと笑みを零す。
 咲希は心霊現象ではないかと怯えているようだが、幽霊の正体見たり枯れ尾花とはよく言ったものだ。おそらく隙間風か、あるいはねずみか、そんなところだろう。本当に幽霊ならばむしろお会いしたいとすら思う。
 なんにせよ、類がその正体を暴くことで咲希が少しでも安心できるのならば、類としても力になりたい。
「音がするのは、こっちの物置からなんです」
 パチ、と薄暗い廊下に照明をつける。咲希の案内でドアの前に立つと、なんとなく、その先から物々しい雰囲気を感じる。
 類がそっとドアノブに手を掛けると、軋んだ音を立てながらゆっくりとそれは開いた。
……ふむ」
 物置――と呼ぶには広い。寧々の部屋くらいはあるだろうか。やや埃っぽさはあるものの、整理整頓の行き届いた綺麗な部屋だった。……少なくとも、類の実家の自室よりはずっと。
「ここにはアタシのひな人形とか、お兄ちゃんの兜とか、アタシ達兄妹の子供の頃の思い出がしまってあるんですけど……
「へえ……
 右から左へ。ぐるりと視線を動かせば、なるほどたしかに子供用品が多く目についた。一歩踏み込んでさらに中を検分していく。草臥れたランドセル。子供向けの教育セットに、おもちゃ箱。どれもこれも司と咲希のふたり分、不足なく揃っている。
 本棚にはふたりのフォトアルバムが年代ごとに並んでいた。
 『司 小学三年生』の文字列に惹かれて抜き取る。数ページ捲れば、体操服でお弁当のおにぎりを頬張る幼い司の姿。その隣にはおっとりとした顔つきの少女が、妹らしき子の頬を拭う姿が写っており――『運動会。日野森さんちの姉妹と一緒にお弁当』と、写真の下に綺麗な字で記されていた。
 一枚一枚丁寧に眺めたくなってしまう気持ちを押し込んで、ぱたりとアルバムを閉じる。これはまた、次の機会にでもゆっくり見せてもらおう。どうやらこの部屋、類にとってはとんだ宝物庫のようだし。
 アルバムを棚に戻して、類はさらに奥の方を覗いた。
……おや。随分とたくさんのぬいぐるみだね」
「あっ、これ……
 箱の中には、いまにも溢れんばかりのぬいぐるみ達がしまわれていた。
 その中のひとつ……猫のぬいぐるみを手に取って、咲希が懐かしそうに目を細める。
「アタシが寂しくないようにって両親が買ってくれたぬいぐるみなんですけど、病院にこんなにたくさんは持っていけなくて。それで、お兄ちゃんが日替わりで連れてきてくれて……ショーを……
……
「そうだ。この子達……みんな、あのときの」
「あのとき?」
 繰り返せば、咲希はひとつ頷いた。少しだけ埃を被った猫の体を軽くはたいて、その顔つきを指先でなぞる。
 あのとき――
 ――あれはたしか、入院していた咲希の容態がだいぶ良くなって、はじめて一時退院が認められたときだった。毎日毎日心細い思いをしていた咲希は、久々の我が家に大層はしゃいでいた。
 お気に入りのおもちゃに、絵本。なにより両親と兄がいる。だから病院の先生には安静にするようにって言われていたのに、つい、少しだけ無茶をしてしまった。
「お兄ちゃんに遊んでもらえるのがうれしくて何度もショーをねだっちゃって……。お兄ちゃんは心配してくれてたのに、大丈夫だよお兄ちゃん~なんて言いながら、結局発作で倒れちゃったことがあるんです……
……
 薄くなる意識の中で、必死に司が名前を呼んでくれていたのを、咲希は昨日のことのように思い出せる。その声には涙が滲んでいて、泣かないでお兄ちゃんって、笑いかけてあげたくて――でも、結局咲希はそのまま意識を失って、気がついたときにはもう病室のベッドの上だった。
 思えば、あれからだったかもしれない。司が過保護になってしまったのも、いい兄でいようと振る舞うようになったのも。
 咲希はやさしい司が大好きだった。大きすぎる愛を、決して重荷に感じることはなかったが、その一方で……どうしても少し心配だったのだ。
 大切なお兄ちゃん。ちょっぴりヘンテコだけど、かっこいいお兄ちゃん。そんな兄の前にいつか素敵な人が現れたとき――もしも自分の存在がふたりの恋の邪魔になったらどうしようって。そんなことを考える日もあった。
「でもいまは、ちゃんとお兄ちゃんの一番はアタシじゃなくてるいさんだから。ちょっとだけ、ほっとしてるんです」
……司くんは、いまも咲希くんをだれよりも大切に想っているよ」
「ええ~、もー、お兄ちゃんってば……いい加減妹離れしてもらわなくっちゃ!」
 おかしそうに咲希が笑う。その表情にわずかな寂しさを感じて、類は咲希の名を呼ぼうとした。
 しかし、その刹那。不意に背後から音が鳴る。――カタン。昨夜も聞いた音だ。
「!」
 ふたり揃って勢いよく振り返る。たしかに音は背後から聞こえたが、物置には類と咲希以外の人影はない。さっと青ざめた咲希がふらつくのを咄嗟に支え、周囲を見渡す。
「る、るるるるいさん……!」
「落ち着いて」
 虫か、鼠だろうか。床に視線を向ける。
 そうしてふと、棚の下に落ちているぬいぐるみに気がついた。整理された物置の中で不自然にうつ伏せになったそれを拾いあげて目を見開く。
 ……うさぎのぬいぐるみだ。それも、司の想いでできた――ワンダーランドのセカイで何度も目にしたことのある子である。
 無論、ここは現実世界であるので、ぬいぐるみは物言わぬまま微動だにしない。それが普通であるはずなのに、セカイにいる彼らをよく知る類には奇妙に映った。
 類の記憶の中では、この子は飛び抜けて元気で、飛び抜けてショーが好きな子だったのだ。いつも司の後ろをふわふわと飛んでいたのをよく覚えている。
「この子……最初の……
 ぽつりと咲希が呟く。そういえば、司は昔、ぬいぐるみとショーをしていたのだったか。病に臥せがちだった咲希が元気になるように。咲希が笑顔になるように。寂しくないように――
……ああ、そうか……
 柔らかい布地を撫でる。物言わぬぬいぐるみだろうと、類は知っている。この子がどれだけ純粋で、健気な存在であるかを。
 だから傍に寂しくて泣いてる子がいたら、励ましてあげたくなっちゃうんだってことを。
「でもなんで……
「このぬいぐるみ達は、司くんの想いを受け継いでいるから――
「え……?」
「きっと、司くんの代わりに……君やお義母さんが寂しくないように、ショーをしようとしていたんじゃないかな」
……ショーを?」
 類を見上げた咲希は瞳を揺らめかせて、再度ぬいぐるみへと視線を落とした。
 いくら見つめようと、うさぎはその表情を変えない。経年劣化でやや煤けた埃っぽい体。けれど、咲希が手を伸ばし、抱き締めると――まるでいのちがあるみたいに、あたたかさが伝わってくる。
 モフ。顔を埋めた、その瞬間。
 ――サキチャン!
――
 咲希の耳に、聞こえるはずのない声が、聞こえた気がした。
 喉が震える。大切なぬいぐるみだったのに、大人になるにつれ触れる機会が減って、いつのまにか存在さえも忘れてしまっていた。あんなに――あんなにも、この子には励ましてもらっていたのに。
……。君の大切なお兄さんを、独り占めしてしまってすまないね」
 ぽつりと類の口から出た言葉に、咲希ははっとして顔を上げた。
 並木通りのイチョウのような、どこか寂しさを感じる瞳。さらりと重たい前髪が目元に影を落とす。
 類がどういうつもりでそう言ったのかはわからない。けれど、謝られる理由なんてこれっぽっちもなかった。咲希は知っているのだ、兄がどれほど類を愛しているのか。
 類と出会ってからの兄は、いままでの何百倍も輝いて見えた。日に日に勢いを増すその姿に、咲希はいつも元気をもらっていた。
 ショーのこと。ワンダーランズ×ショウタイムのこと。そして……類のことを話す司は、夜空に輝くどの星よりもきらきらで。
 少しずつ、少しずつ――兄のこころを占める割合が変わっていくのを、咲希も肌で感じていたのだから。
……寂しくないって言ったら、ウソになります」
 静かにそう告げれば、類は眉を下げて困ったように笑う。
「そうだろうね……
「でも、いいんです。お兄ちゃんが幸せになってくれるなら、アタシの寂しさなんて全然大したことじゃないもん」
 司は――兄は素直な性格だから、兄という役割を全うしようと昔からなにかと自分を気にかけてくれていた。兄妹といっても、年子だから一歳しか変わらないのに。
 きっと世界中どこを探したって、司以上に素敵な兄はいないに違いないと咲希は思うのだ。
 病弱な体のせいでこれまでたくさん心配かけたし、たくさん愛してもらった。だから、そんな兄が心から好きになった人と結ばれるなら、こんなに幸せなことはない。
「むしろるいさんみたいなお兄ちゃんが増えてうれしいくらい! ……不束者の兄ですが、末永くよろしくお願いします」
 緩くウェーブの掛かった髪を揺らして、ぬいぐるみを抱き締めたまま、咲希がぺこりと頭を下げる。
 類は驚いたように暫くそのつむじを見つめていたが、はっと我に返り咲希の肩に手を添えた。
 たぶん、きっと。咲希が思っているほど、類は素晴らしい人間じゃない。司も咲希も類のことを買いかぶりすぎなのだ。嫉妬もするし、つまらないことで意地を張ったりもする。体ばかりが大きくなった子供だ、全然、まだ。
 それでも、拙いなりに、司を愛している。
……約束するよ。絶対に、僕の手で司くんを宇宙一のスターにするって」
「!」
「演出家としても、パートナーとしても……僕の手を取ったことを、彼に後悔はしてほしくないからね」
 類の言葉に、咲希は瞳が零れ落ちそうなほど大きく目を見開いた。
――、」
 ぎこちなく口角を上げる。にこ、と笑おうとしたつもりだった。
 次第に類の輪郭が滲み、世界がぼやけていく。鼻の奥がツンとして、咲希は口元が勝手に震えるのを感じた。
 どうしてだろう。泣きたくないのに、悲しくないのに涙が出る。――ああ、そっか。胸がいっぱいで……うれしいんだ、アタシ。
……っ、…………
 ぼろ、ととうとう抑えきれずに涙が落ちる。慌ててパジャマの袖で拭うが、一度決壊した涙腺は簡単には止まってくれなかった。
「咲希くん……?」
「ご、ごめんなさい!」
 心配そうに見下ろす類に慌てる。違うんです。悲しくて泣いてるわけじゃない。寂しくて泣いてるわけじゃない。
 しゃくりあげる喉。類に寝起きの素顔を見られるのは、もう慣れたけれど。年甲斐もなく泣きじゃくる姿を見せるのは恥ずかしくて、ぬいぐるみで顔を隠す。
「あ、あた、……アタシのせいで、お兄ちゃんの方が、きっといっぱい寂しい思い、してたのに」
 幼い頃から両親は咲希につきっきりだった。優しい両親だから、咲希の知らないところで司のことも同じくらい愛情を注いでいたのかもしれないけれど、それでも司が孤独に過ごした時間はたしかに存在していて。
 離れて過ごした十数年間。もしも自分が元気な体で生まれていたら――なんてイフを想像しては、罪悪感を募らせた。だから、司が寂しかった分、司と両親の時間を奪ってしまった分は、自分が司を支えよう、愛そうって――そう思っていて。
 でも。
 兄はいつのまにか、そのままの兄を愛してくれる人と出会っていた。
「お兄ちゃんが、るいさんと出会えてよかったって思ったら……安心しちゃって」
 そしてそれが、こんなにもうれしい。
 ――はらりと落ちた雫がぬいぐるみを濡らす。まだ頬が震えて引き攣ってしまうけど。目元を和らげて咲希が微笑みかければ、類は瞳を揺らめかせた。
「えへへ。お兄ちゃんの好きな人が、るいさんでよかったです」
(ああ……
 言いたいことは、たくさんあったのに。喉に言葉が突っかかる。
 どうしてこの兄妹は、こんなにも。……眩しいのだろう。
――僕も、司くんの妹が君で良かったと思うよ」
 結局、そんな陳腐な言葉しか返せない類に。それでも咲希はふわりと花が咲うように、はにかんで見せた。


     ■


 日が昇り、司達が起きてきたところで。そろそろ帰ろうかと、二人で肩を並べて天馬家を後にした。
 帰り道は、電車でもタクシーでも良かったけれど。
 昨夜は慌ただしい夜だったので――類がレンタカーを借りてゆっくり帰らないかい、と司に打診すれば、即快諾が返ってきた。
 車の免許は、類も司も高校卒業と共に取得している。とはいえ都内は交通手段が行き届いているので、身分証程度にしかそれを活用できたためしはない。まあ、大丈夫だろう。ロボの精密な操作をするよりはずっと簡単なはずだ。
 車種はなんでもよかった。返却は家の近くのチェーン店で済ませられるように乗り捨てで、あとはMTでもATでもいいけど、できれば小回りがきく軽自動車がいいなとスタッフに希望を伝えていく。
「僕が運転するよ」
「そうか? ではよろしく頼む!」
 指定された車の運転席に乗り込んで座席とルームミラーを調整する。少し遅れて助手席に座った司がシートベルトをしたのを確認して、類はギアを動かしアクセルをゆっくりと踏み込んだ。
 一度走り出してしまえば、車の波に流されるままだ。
 司がスピーカーとスマートフォンを繋いで音楽を流す。幾度も幾度も聴いたし、歌ったメロディー。終わりを超えてずっとパーティーを。秋晴れに、司の鼻歌が心地よくて、類もつい口ずさんでしまう。
 たぶん今頃、向こうのセカイでも彼らが変わらずショーをしている。あのうさぎのぬいぐるみも一緒に。そう思うと、自然と気持ちは華やいだ。
……なあ、今朝、咲希となに話してたんだ?」
「んー……?」
 ウィンカーを指で叩く。カチカチと規則正しい音の最中、気のない声をあげる。くるり、ハンドルを回して脇道へと車体を逸らせば、ちょうどビルに隠れて類達は日陰へと飲み込まれた。
「見ていたのかい」
……。すまん。盗み見は良くないとは思ったのだが、なんだか退っ引きならん空気に押されて出ていけなかった」
「フフッ、それはそうだ」
 それでも。泣きじゃくる妹がいて、それを宥める恋人がいれば、昔の司なら事情も聞かず飛び出していただろう。決して他人事にはせず、自ら関わろうとしていたに違いなかった。そうしなかったのは、ひとえに、司が類を信頼しているからだと言っているように思えて。少し、こそばゆくなる。
「君のことをよろしくって」
……そうか」
 吐息に混ざり落ちる声だった。運転しているせいでその顔を見れないのが残念だが、優しく微笑む司の姿が類の脳裏には浮かんでいた。
「で? 当然、類はよろしくしてくれるんだろうな、オレのこと」
「どうしようかなあ。司くん、酔うと手がつけられなくなるし」
「なに――ッ⁉︎」
 車内に司の声が反響する。くわん、と左耳の耳鳴りに苦笑して、類はまたウィンカーを上げた。
「? そっちは逆方向だぞ」
「ちょっとね。デートしようよ」
「デート?」
 裏道を抜けた先。本来なら直進するところを、あえて左折する。せっかく車を借りているのだからドライブしようと言えば、司はなんの疑問も持たずに頷いてシートに深く凭れ掛かった。
 あんなに混み合っていた大通りから一変、気づけば周囲を走る車は一台、二台と減っていき、細道に入ってからはすれ違うこともなくなった。司のプレイリストも一周して、いまは二周目のポテトが流れている。
 ようやく辿り着いた目的地。キッ、とブレーキを踏んで、パーキングにギアを移す。顔を上げた司は顔を輝かせ、感嘆の声をあげた。
 ――色鮮やかな紅葉。都会から少し離れた小山の展望台は、さわさわと自然のコーラスに溢れている。
「おお、見晴らしがいいな!」
「見事な紅葉だろう。穴場なんだ、ここ」
 類の説明を聞きながら、早速降りようとシートベルトを外す司を手で制する。
 不思議そうに振り返った司の、蜂蜜のような瞳。少し身を乗り出せば、透明度の高い眼差しに類の姿が映り込む。
「? 降りないのか?」
……
「る……――
 るい、と紡ごうとした唇に、触れるだけのキスをした。
……、」
 至近距離で、呆然と見開く瞳。そういえば、はじめてのキスもこんな感じだった。無邪気で、鈍感で、そんな司に無性にむしゃくしゃして、ほとんど衝動のまま奪っていた。司はなにも言わなかったけれど、司にとってもたぶんあれがファーストキスだ。
 たしたしと瞬く長い睫毛。唇に吐息が触れる。類が無防備な司の手を掴んで、指を絡め合わせれば、ぴくりと司は指先を動かした。
 顎を持ち上げてもう一度キスをする。
 ふにゃりと薄い皮膚が形を変える感触が心地いい。今度はしっかりと伏せられた瞼。桃色に染まる頬。なにも言わずとも類を受け入れようとするその姿に込みあげるのは、愛情の皮を被った劣情だ。
 とろりと脳みそが溶けていく。さらに身を乗り出し口付けを深くする。つるりとした歯も、ぬるぬるの舌も、呼吸さえ飲み込んでしまいたくなって。類は司が座る助手席の背凭れを後ろに倒して、その上に覆い被さった。
「ん、んうっ、……
 繋いでいない方の手で司が類の服を皺になるほど強く掴む。飲み込んだ唾液が変なところに入ったのか、けほ、と司が咽せたのを合図に類はようやく唇を離した。
「人……に見られたら、どうする……
「うん……
「うん、では、ない、」
「キスだけ。キスで我慢するから……
「ん〜っ……
 ――昨夜、司が家のどこにもいないと気づいたとき。類は生きた心地がしなかった。
 司に限ってなにも言わずいなくなるなんてことはないだろうと信じる気持ちと、万が一心が離れてしまっていたらという恐怖。本当にこわかったのだ、もう類は、言葉通り司のいない人生を歩める自信がなかったから。
 すごいな、と思う。かつて司に失望して離れた自分を、繋ぎ止めたあの日の司の勇気をいまになって思い知る。あの日、あのとき、あの瞬間から――まんまと射止められた心は、いまも司に縋って脈打っている。
 くちゅ、と唾液が絡み合って音を鳴らす。類の服にしがみついていた手はいつの間にか首裏に回って、もっと、と先を強請るように類を引き寄せていた。
「はふ、……ン、」
……はあ、きもちよさそうだね」
「ん……、すき、だからな……
「キスが?」
……意地悪だな。類のことが好きだから、だ!」
 拗ねたような顔をしてそう言い切った司に。類は、息の仕方を一瞬、忘れた。
 全身の力を抜いて司に覆い被さる。ぐえ、と苦しそうな声が耳元でして、その色気のなさに思わずふふっと笑ってしまった。
 ……好きだな。たぶんもう、永遠に好きだ。揺らいでいた心が、決心が固まる。
「るい……? いったいどうしたというんだ……
「ねえ、司くん。君は咲希くんが妹で嫌だったことはある?」
「? なんだ藪から棒に……?」
 訝し気にしながらも、すう、と耳元で司が息を吸い込む音。それを聞いたら、もう、答えなどわかりきっていた。
「まっ、たく、ない!」
……ふ、フフッ……だよねえ」
「咲希はオレの自慢の妹だ。これからもずっとな」
 そう。あの子はなにがあっても、司の妹だ。家族ってそういうもの。家族になるって、そういうことだ。
 司の左手をとって、そっとその付け根を摩る。
「君のそういうところが、好きだよ」
「むう……?」
「でもちょっと、羨ましいかな」
「なんだ。得意のヤキモチか?」
「得意になった覚えはないんだけどねえ」
 体を起こして、運転席へと戻る。ハンドルを抱き締め舞う落ち葉を眺めていれば、同じく体を起こして若干乱れた着衣を直しながら、司が大きく口を開いた。
「なあ、類。オレは――知っての通り、家族をとても大事にする男だ!」
「うん。よく知っているとも」
……
……?」
「鈍感め……
「ええ……?」
 君にだけは言われたくないなあ、それ。
 不満を視線に含めてじっと見つめる類を、司は鼻を鳴らして一蹴した。窓の外に顔を向けてしまっても、窓ガラスに赤く染まった顔が映ってしまっている。
 わかりやすすぎる反応に、類は思わずそっと口元を隠した。
 家族をとても大事にする。その言葉に隠された真意があるとしたら……、そしてそれが、類の思っている通りであるならば。あまりにも類にとって都合が良すぎる話だ。
 ……でも、そう遠くない未来。もうひとつ上の関係に進むことを司も望んでいるのだとしたら――
 車のエンジンを掛け、ギアに手を置く。音を立て震える車体。降りしきる紅葉。そしてどこまでも澄み渡る、真っ青な空。
 あの空の向こうへ、君を羽搏かせる権利は、どうか、僕に。
……帰ろうか」
「そうだな。……あと」
「ん?」
 体を捻って後ろを確認しながら、ゆっくりと車をバックさせる。司は再度自身のスマートフォンとスピーカーを繋いで、プレイリストをタップした。
 三周目の、華やかで明るいメロディ。 
「できているんだろう、ルドルフの演出案。早く見て、類と話がしたい」
「! ……もちろんだよ。渾身の出来だから期待していてくれたまえ」
 手を伸ばし、耳朶を撫でる。どちらからともなく近づいて、軽く唇を触れ合わせたふたりを――散りゆく紅葉だけが、見守っていた。