猫澤
Public
 

みずたまグラジオラス


「瑞希ちゃん」
(げっ……
 ――油断した。
 テレビ局の、数々のスタジオに面した通路の先。主に出演者のレストルームとして使われるロビーで瑞希がばったりと出会したのは、ここ数日頭痛の種となっていた男であった。
 直属の上司ではないものの、ぺらぺらの新人である瑞希よりはずっと偉い立場にいるこの男は、瑞希を視界に収めるなりニコリと人好きのする笑みを浮かべた。
 ぞわり、寒気がする。
 融通のきかない縦社会において、男との遭遇は瑞希にとってはかなり分が悪い。それでも最近は周囲が瑞希に味方してくれることも多かったし、なるべくひとりにならないように気をつけていたし――瑞希が司に恋心を寄せている、というフェイクも効いているように見えた。だから、てっきり引き下がったとばかり思っていたのだ。
 不自然に強張る頬に気づいているのかいないのか、男は然りげ無く瑞希の腰を抱き寄せた。うわ、最悪。と内心で毒づく。逃す気はないと言外に告げられている。
 いまばかりは無意識に空気を読んでしまう自分を呪った。察せないほど鈍感だったなら、適当に煙に巻けたかもしれないのに。
 男はなにか話しているようだった。興味もないので適当に相槌を打つが、その間にも腰からお尻にかけていやらしく撫でてくる。
 ……うーん。
 ほんと、この人察し悪いなあ、こっちにその気がないのわかんないかな。それとも塩対応が好み?
 なんにせよ、瑞希の心を占めるのはほとんど諦観だ。都合よく司や同僚が通り掛かってくれるとも思えないし、よしんばだれか通りかかったとして、瑞希に救いの手を差し伸べてくれる人間がどれほどいるだろうか。
 じっとりと手のひらに汗が滲む。せめて、目だけは合わせないように。できるだけ男から顔を逸らして、口の端を結ぶ。
「ところで――君、まだ天馬司が好きなの?」
 耳元に近づく湿った声。嫌悪感をぐっと堪えた。
「ええ、まあ――そうですねー」
「やめときなよ~、あの男、女の子とっかえひっかえだってよく聞くよ? 付き合えたって絶対瑞希ちゃんのこと幸せにしてくれないって」
 とっかえひっかえ。およそ司には似合わない軽薄な印象操作に、思わず鼻で笑い飛ばしたくなった。瑞希が知る限り、司は根が真面目過ぎるほど真面目な男だ。いったいどこのどなただろう、その司さんって。同姓同名の人違いでは。
 どこから自信がわいてくるのか。男はまるでそれが真実であるかのように言葉を続ける。
「俺この間見たもん。シブヤでさ、金髪のかわいい女の子と天馬司が一緒に腕組んで歩いてたの」
(妹の咲希ちゃんのことかな~……。かなり仲いい兄妹らしいし)
「モモジャンの日野森雫といい感じって話も聞くしー」
(あー、たしか幼馴染、なんだっけ?)
「シンガーの白石杏と親しげに話してたって目撃情報もあるしさ」
(高校の頃から司先輩と類の奇行に胃を痛めてたもんね……
「しかも俺の友達が、女の子侍らせてバーで飲んでる天馬司を見たって言っててー」
(ニーゴのみんなと居たときの話かな。あの場にボクもいたんだけどなー)
 ていうか、全部女癖の悪さ関係なくない? 司先輩の顔が広いだけじゃない?
 それともこの男は、男女が一緒にいたらそのすべてが関係を持っているように見えてしまう病気なのだろうか。だとすれば時代錯誤もいいところだ。だっていまは――アセクシャルも、セクシャルマイノリティも、法的に存在を認められている。同性同士で結婚だってできるし、子供だってできちゃう時代なのに。
 その凝り固まった頭では、瑞希自身がノーマルではない可能性を考えられないのだろうか。
 腰からくびれにかけて、指が這う。
「その点、俺は一途よ?」
「あはは……
「てかさー、瑞希ちゃんってもっと遊んでるのかと思ってたから、意外にガード固くてびっくりだわ。もしかしてあんまり男慣れしてない? 処女だったりするのかな~……なんて?」
……
 お気に入りの、かわいいピンクのネイルが、肌に食い込むのを感じた。
……めんどくさいなあ、もう)
 こんな風に絡まれるくらいなら。好奇の視線に晒される方が、よっぽどマシだ。司にも迷惑をかけているし、フェイクとはいえ類に対して罪悪感だってある。
 自分ひとり、我慢すれば。
――、」
 我慢、……すれば。

「あのー、いまのってもしかしなくてもセクハラですよね?」

「え?」「はあ?」
 背後から声がして振り返る。そこに立っていたのは、困ったように眉を下げてにこにこと笑う杏と、対照的に不機嫌を隠そうともしない絵名。
 瑞希は長いまつ毛を瞬かせて、呆然と口を開いた。
……ふたりとも、どうしてここに」
「別に? たまたま通りかかっただけ」
 硬く、棘のある口ぶりで絵名が切って捨てる。
 通りがかっただけ、って……ミュージシャンの杏はともかく、絵名はテレビ局に用事なんてないじゃん、と口の中で呟く。
「えっと、ゼータスタジオの社員さんですよね? いつもお世話になってます」
「はあ、どうも……
 押し黙る瑞希を一瞥して、杏が一歩前に出る。
 瑞希と男の間に割り込むような強引な仕草でありながら、目上の人に対する柔らかい物腰。彼女の世渡り上手なところは、昔から素直に感心する。
「それで、さっきのセクハラの件なんですけど……
「セクハラセクハラって失礼だな。俺はただ瑞希ちゃんと話してただけ――
「別にいいですよ、しらばっくれても。こっちにはちゃんと証拠があるので」
 言うなり、杏は私服のポケットからすっと黒い棒状のものを取り出した。あ、と瑞希はそれを見て驚く。ボイスレコーダーだ。
 男も一瞬怯んだ顔を見せ、口を閉じた。
……
「賢い判断をしてくださいね。これ以上瑞希に付きまとうつもりなら、こちらもそれなりの行動をしますので」
 言葉を重ねた杏を、男は忌々しそうに見つめる。
 ボイスレコーダーにどんな音声が録音されているかはわからない。もしかすると、杏のハッタリの可能性だってある。けれど万が一、先ほどの会話を録音されていたならば――そしてそれをいまこの場で確認したならば、男は瑞希にセクハラしていた事実を認めなくてはいけなくなる。
 なんてことをしてくれたんだ、と思ったのは、男だけではなかった。瑞希自身もまた、心拍が速くなるのを感じる。もし、もしも男が逆上したら。瑞希と、杏と、絵名の三人で太刀打ちできるのか。ふたりを守れるのか。それ以前に――ふたりを巻き込んでしまった事実の重さに、足が震える。
……チッ、勝手に言ってろ」
 幸い、男はそう吐き捨てるなり背を向けて立ち去っていった。その後ろ姿が見えなくなるのを確認して、ようやく、瑞希の体から力が抜ける。
「た、」
 絞り出した声が僅かに揺れている。取り繕うようにして、笑顔を貼り付けた。
「助かったよふたりとも~! ナイスタイミングで来てくれてありがと!」
……瑞希」
「? 絵名?」
 それまで黙って静観していた絵名が、一歩、また一歩と瑞希に近づく。
 そういえば、絵名ってばテレビ局にきてるのに作業着のままだ。出掛けるときは人一倍容姿にこだわるのに、髪はぼさぼさだし、メイクも手抜きだし……
 絵名の真っ黒な瞳に、ぼんやりと自分の姿が映る。
 あ、と思ったとき、ぱちん、と乾いた音がした。数秒置いて少しずつ、頬に痺れるような痛みが広がっていく。
……え」
――バカ! あんたねえ、あんたっ、なんでもっと早くに相談しないのよ! バカ! ほんっと――にバカ!」
 ぶたれた。絵名に。
 頬は熱いのに、何故か頭の中は冷静で。状況を飲み込めないでいる瑞希を置いて、絵名が声を荒げる。
 ぽたり、ぽたりと床に雫が落ちるのを見下ろして、瑞希は信じられない気持ちでそっと顔を上げた。
 そこには、鼻先を真っ赤にして、ぼろぼろと涙を零す絵名の姿があって。
 途端に、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。中途半端に持ち上げた手。絵名の涙を拭ってあげたい。でも、泣かせた原因が自分にあることも、瑞希は痛いほど理解していた。
「え、絵名? 落ち着いて……
「落ち着けないわよ! もう! 今度という今度は絶対許さない! 許してあげないから!」
 そう言って肩を叩いたかと思えば、絵名は力なく瑞希に撓垂れ掛かった。支えなければそのまま崩れ落ちてしまいそうで、瑞希は慌ててその体を抱きとめる。
 小さい体だ。僅かな震えは、怒りか、それとも恐怖か。あるいはそのどちらもかもしれない。鼻腔を擽る絵の具の香り。絵名の香り。輪郭が滲む。
……瑞希、あんた、自分ひとりが我慢すればって思ったでしょ」
……
「ふざけるんじゃないわよ。ほんとに……ふざけないで」
 どうしてだろう。
 どうして、絵名はいつも、気づいてくれるんだろう。ボクのために怒ってくれるんだろう。……ううん、本当はちゃんとわかってる。友達だから。大切な友達だから、怒るし、悲しんでくれる。
 ボクの傷ついたこころに、寄り添ってくれる。
 側で静かに様子を見ていた杏が、息をつく。
「天馬先輩から連絡があってさ。瑞希の力になってやってくれないかって」
「先輩が……? でも絵名、さっきたまたまって」
……来たのはたまたま。嫌な予感がしたの」
 来て正解だった、と続いた言葉は随分と不貞腐れた色をしていた。
 華奢な体を抱き締めたまま、瑞希はすっと目を細める。杏と絵名が来てくれなかったら。きっと今頃、あの男にどこか連れ出されていたかもしれない。取り返しのつかないことを、していたかもしれなかった。
 胸が、痛い。ふたりを巻き込んで苦しいはずなのに、心底ほっとしてる自分がいて嫌になる。
……ごめん。ごめんね、絵名」
……知らない」
「うん。ごめん……ありがと」
 呟くように吐き出せば、腕の中の友達は小さく身じろぎした。頷いてくれたんだって、思うことにした。
「杏も……
「友達なんだからあったりまえじゃん。……もっと頼ってよね」
……うん…………
 裏表のない言葉に、くしゃりと顔が歪んでしまう。視界がぼやけてしまう。
 あーあ、メイク、崩れちゃうじゃん。酷いよ、なんて。
 そんな風に笑い飛ばせるほど、ボクは強くなかったみたいだ。――だから、少しだけ。その温かさに甘えて、泣いた。