カランカラン、と入店のベルが鳴る。一瞬、外の喧騒が穏やかな店内に飛び込んで、次いで聴こえてきたブーツのソールが打ち鳴らす音に彰人は顔を上げた。
足元で丸まっていた白い毛玉がぱっと跳ねる。
薄っぺらいピンクの舌。潤んだ黒曜の瞳が、まっすぐに入り口を見つめる。コツコツと靴音が大きくなるにつれ、毛玉――ぼたもちのふわふわの尾もぶんぶんと激しく振られて。
「ぼたもち……! 元気にしてた? 寂しい思いさせてごめんね」
「わふん」
ついに我慢できなくなって飛びついたぼたもちを、男は軽々と抱き締めた。
熱い抱擁を後目に、ふん、と彰人が鼻を鳴らす。オリーブ色の瞳を頑なに彼らへと向けないのは、半分くらい意地だった。
窓の外、遊歩道を行き交う人々を視線で追いかける。流行に敏感なシブヤの街は、どこもかしこも似たようなファッションの波だ。なんとなくつまらない気持ちになってコーヒーカップに口をつければ、男は断りもなく彰人の前の席に腰掛けた。
いちごパフェとカフェモカ。甘ったるい注文に眉を寄せる。食うのか、いまから。いちごパフェ。だったら、と彰人も手を挙げてDXパンケーキをオーダーした。あまり長居しないだろうと踏んでこっちはコーヒーだけで我慢してたってのに、肩透かしを食らった気分だ。
「長かったな、今回の出張」
彰人が零すと、正面に座る男はちらと瞳を向けた。彰人とよく似た、オリーブ色の瞳だ。それは不敵ににやりと細められ、口角も上げて男はおもむろに頬杖をついた。
「いやー、最初は一か月だけって話だったんだけどね。向こうのオーナーが俺のこと気に入っちゃって全然離してくれないの。正直参っちゃった」
「そうかよ」
パリだかイタリアだかオーストリアだか、詳しくは覚えてないけれど。その様子から、男にとって有意義な二ヶ月であったことは窺えた。
それがなんだか面白くなくて、ただでさえ先を歩く男の背が見えなくなってしまいそうな気さえして、形容しがたい焦燥がじわりじわりと彰人の足元から腹の内臓をぐるぐると巡っている。
吐き出しそうになった陰鬱なため息は、ちょうどテーブルに届いたパンケーキのために飲み込んだ。一緒に届いたいちごパフェを前にして、男は爛、と目を輝かせる。
ペット入店OKのドッグカフェには、彰人達の他にも犬を連れた客が談笑したり、束の間のブレイクタイムと洒落込んだり、それぞれが三者三様に過ごしている。
彰人にとってはずっと縁のない店だと思っていた。正直なところ、いまもまだ、この席に平然と座っていられるほどトラウマを克服しきれてはいない。それでもこの毛玉――ぼたもちと普通に触れ合えるくらいには、少しずつ苦手を乗り越えつつある。
赤いいちごソースのかかったバニラアイスが、男の口に吸い込まれていく。
「悪かったね」
「は?」
脈絡のない謝罪に、いままさにパンケーキを頬張ろうとしていた彰人は間抜けな声をあげた。
しかし男はそんな彰人の様子を気にする素振りもなく、ただ眉尻を下げ、申し訳なさそうに話を続けた。
「まさか彰人くんが犬嫌いなんて知らなかったからさ。言ってくれれば他の人探したのに」
「……。別に、お前に貸し作っといたらなにかと得だなって思っただけだ」
半分嘘だ。
世界を股に掛ける男に恩を売っておけば、後々なにかと融通してくれるのではないかという下心は、たしかにあった。けれどもう半分は、彰人自身の個人的な感情の話だ。
ただこの男に自分の弱点を知られたくないという、そんなちっぽけなプライド。
……結局、自ら明かすはめになってしまったけれど。それでも、あのまま司の世話になり続けるよりはずっとましだった。
平凡、よりちょっと頭が出てるくらいで、努力しないと天才との差は縮まらない。それは彰人が生きてきたなかでなんとなく知った世界の理。
司は努力ができる人間で、彰人はそんな彼を尊敬していたから。夢を叶えようと藻掻く彼を好意的に見ていたから。頼りっぱなしになるのはダサくて嫌だったのだ。
そんなこと口にしてしまえば、彰人は真面目だな、なんて、自分より余程ドがつくほど真面目な奴らに言われてしまいそうだから、絶対言わないけど。
男はぱちぱちと瞬いたあと、ふ、と相好を崩して「ふうん?」と返した。無遠慮な視線を彰人へ投げかける、そのたびにゆらゆらと男が持つスプーンが揺れた。
「言うね。んー……そうだな。夏のロックフェス。主催に口利いておくから、俺のステージに飛び入りで参加してよ」
「は?」
「タイマン、最近してないしさ。久々にするのはどう? ああ……自信なかったら、冬弥くんを呼んでもいいよ、もちろん」
「……上等じゃん」
煽りだってことはすぐにわかった。男の挑発的な瞳に、胸の奥がザワザワする。全身が総毛立ったのは、怯んだからじゃない。昂っているからだ。
ライブハウスで。昔、自分の歌で作りあげた空気が、熱が、男の声が発せられた瞬間、一瞬にしてがらりと変わる様を見せつけられた。圧倒的レベルの差。杏と、こはねと、冬弥と――四人がかりでようやく敵うような相手。男は、……遠野新の実力は青天井過ぎて、生半可な努力では通用しない。
く、と口角を上げる。なんでだろうな。昔から、立ちはだかる壁がデカければデカいほど、負けらんねえって思う。サッカーも、歌も。負けず嫌いな姉に感化されたのだろうか。
「ぜってー勝つ。吠え面見せんなよ。……遠野」
「あはは。楽しみ。……それじゃ、俺達はそろそろ帰ろうかな。行こう、ぼたもち」
いつのまにか空になったパフェの器を置いて新が立ちあがる。
愛犬のリードを掴むが、しかしぼたもちはその場に蹲ったまま動こうとはしなかった。
「ぼたもち?」
新が訝しげに眉を顰める。
パンケーキを突きながら、彰人はぼたもちを見下ろした。潤んだ黒い瞳と目が合う。くぅん、と寂しげな鳴き声。司の元に預けていたときもそうだが、今回はこれが本当の別れであることをぼたもちも知っているかのようだった。
「ぼたもちはオレと離れたくねえってよ」
「ええ~……」
ぴたりと彰人の足元から動こうとしないぼたもちに、新はあからさまに困った声を出した。ぼたもち〜、と手で呼んだり、リードを軽く引いてみるが、白い毛玉は顔をしわくちゃにして抵抗するばかり。
はあ、と新の口からため息を零れる。
「あーあ。やっぱりこうなっちゃったか」
「やっぱり?」
「ほら、ペットは飼い主に似るって言うじゃん?」
ぼたもちの目線に合わせてしゃがんだまま、新が小首を傾げてみせる。
「俺、彰人くんのことそれなりに気に入ってるからさ」
「……はあ。そりゃどーも」
「あ、別に深い意味はないよ。杏ちゃんとこはねちゃんと冬弥くんもお気に入り」
「心配してねえよ」
すかさず彰人が言えば、新は目尻を和らげふふっとおかしそうに笑った。
「でも一番気に入ってるのは君だから。ぼたもちも自然と覚えちゃったんだろうね」
「……?」
不思議そうな顔をする彰人を横目に、新はぼたもちの背をゆっくりと撫でた。
これでも、彰人の実力は買っている。努力の方向性を間違えなければ、彼の歌はどこまでも伸びる芽だ。他のチームの子もそれぞれ強みがあるけれど、粗削りで、でもどこか繊細な彰人の歌が、新はいっとう気に入っていた。
自分に追いつこうと彼が必死に藻がいていることを、知っている。そう遠くない未来、それは実現するのだろうことも。でも、簡単に乗り越えられるような当て馬になってやる気は微塵もない。
東雲彰人は、遠野新のライバルだ。
きっと家で彰人の歌をチェックしているうちに、ぼたもちも彰人の歌を覚えてしまったのだろう。その力強い歌声に、吠えるような魂の叫びに、すっかり魅了されてしまったのだ。
一口サイズに分けられたパンケーキの切れ端。生クリームとメープルのたっぷり絡んだそれを、ゆっくりと口に含みながら。彰人はふと、新に視線を向けた。
「……なあ、遠野」
「んー?」
「たまになら、散歩、付き合ってやってもいいけど?」
きょとん、と、新が目を丸くする。
けれどそれはすぐに細められ、蹲ったままのぼたもちを抱えあげながら、新は小さく舌を出した。
「やだよ。君にこれ以上貸し、作りたくないし」
じゃあね。そう言って新はさっさと会計を済ませ、店の外へ出た。彰人は自分達の後ろ姿を見送ることはせず、ただ、ぼんやりと忙しなく行き交う人の波を窓から見つめている。その背を見つめて嘆息する。
なんだか少し、妬いちゃいそうだ。
ぼたもちを飼うことにしたのは、たまたま通りかかったペットショップで目が合ったこいつが相棒の――まだふたりで夢を追いかけていた頃の颯真にちょっとだけ似てると思ったからだった。
腕の中で、尻尾をだらんと下げるぼたもちを見下ろして。つい、困ったように笑う。啖呵を切ったはいいものの、飼い主としてはちょっと可哀想だし。たまには散歩に呼んであげてもいいかな。……でもなんかそれ、ちょっと友達みたいじゃない?
俺ばっかり、あの子をライバル視してるのも、なんか癪だしさ。
じっとりとした梅雨の湿った空気が、肌に纏わり付いている。近づく夏の気配。柄にもなく歩調が浮き足立ってしまう。
濡れたアスファルトを靴裏でコツコツと鳴らしながら、新はポケットからスマートフォンを取り出した。ロックフェスまではそう日がない。さあ、彼はいまからどれだけ仕上げてくるのか――きっと油断は禁物だろうね。
「……あ。そういえば天馬司のサイン、もらうの忘れた」
スマホを耳に当てながら思わず呟いたが、まあいっか、とすぐに打ち消す。
どうせまた、あの子とはステージで顔を合わせるだろうし。
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