猫澤
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Q :恋泥棒は罪に問えるか



 ――ぽたり。一滴、また一滴と蛇口から水滴が落ちる。
 類はひとり、鏡の前で立ち尽くしていた。紫陽花色の髪が白い肌に影を落とす。
 整然と並べられた揃いの歯ブラシ。ドライヤー。ワックス。そして洗濯機に掛けられた、自分のものではないワイシャツ。
「そんな……
 そっと手を伸ばし広げた白のワイシャツは、類が普段着るものよりも一回りサイズが小さい。皺を撫で、色濃く残る密着の痕跡に思わず唇を噛む。
 ――状況証拠が、揃ってしまった。
 俄かには信じがたいことだった。まさか、だって、そんな、彼が。
「司くんが……僕に隠れて浮気していただなんて……!」
「人聞きがわる――い‼︎」
 よよっ……とその場に崩れ落ちた類の声に反応して、玄関から凄まじい勢いで司が駆けつける。ぽこっと類の後頭部を軽くはたいたかと思えば、彼は盛大に大げさに、それは大きなため息をついた。
 さて。ここでいったん、この物語の主人公を紹介しよう。
 洗面所の床を這う男――神代類、二十三歳。創設後間もない新進気鋭の劇団『シームルグ』で舞台演出家を務め、同時にテーマパーク・フェニックスワンダーランドのショーキャストとしても活躍している。
 類の傍らに立つ男――天馬司――こちらも同じく二十三歳。『シームルグ』の看板役者を務めながら、フェニックスワンダーランドでは『ワンダーランズ×ショウタイム』の座長としてその名を馳せる。
 ここはとある都内マンションの一室。角部屋の2LDKは、実のところ類だけの居城ではない。家賃を折半し共に生活する同居人――改め、恋人である司と甘いひとときを過ごすための、ふたりだけの秘密基地だ。
 そしてこれは、彼らが数々の苦難(?)を乗り越え、ハッピーエンドを掴み取るまでの物語である。
 ……。現在絶賛修羅場中、だが。
「おや、司くんじゃないか。帰っていたんだね。おかえり」
「あ、ああ。ただいま。……ではない! なにをしているんだお前は」
「フフッ、そうだねぇ、さながら夫婦の修羅場ごっこといったところかな?」
 柔らかな頬を片方吊り上げて、類がゆっくりと立ちあがる。
 その手に持つワイシャツはたしかに司のものであり、類曰く司の浮気の決定的な証拠であったが、隅々を検分してもただ白いばかりの普通のワイシャツである。つい昨日舞台の打ち合わせに着ていったなと、司は目を皿のように細めて記憶を辿る。
 これのいったいどこが浮気の証拠なんだと司は類からシャツを引っ手繰り、あ、と手についたそれ――白い毛――を見つめた。やや乾燥した動物の毛。その手触りに覚えがある。
 そういうことか、と司は再び肩を大きく上げて、仰々しくため息をついた。
 ちょうど、タイミングよく司の足元にふわふわであたたかいものが擦り寄る。屈んでその腹を抱きあげれば、真っ黒でつぶらな瞳は司と類を交互に見上げ「わふ」と鳴くなり舌を出した。
「まったく……犬相手に浮気もなにもないだろう」
 さて、ここでもうひとり、この物語に欠かせない存在を紹介せねばなるまい。
 司の腕に抱かれる犬――犬種、ポメラニアン。名前はぼたもち。三歳。三日前からとある理由でこの類と司の部屋に預けられている。
 類はつんと唇を尖らせ、少しばかり拗ねた顔で司に抱かれるぼたもちを見下ろした。
「そうは言うけれど……司くん、最近ぼたもちくんにかかりっきりで全然僕に構ってくれないじゃないか」
「うぐ。それは……
「せっかく舞台装置を閃いて司くんに実験を頼もうにも、ぼたもちくんを盾に躱される日々……ああ、僕の心は千々に引き裂かれそうだよ……
 そのわざとらしい演技をやめんか。余程そう言ってやりたかったが、元は自分が勝手に引き受けた案件なので――司は痛むこめかみを抑えるに留めた。
 ぼたもちをこの部屋で預かるのは、一か月の期間限定だ。
 無論、僕だって最初はぼたもちくんの存在を歓迎していたよ――と類は語る。元より生き物は好きだし、犬とじゃれる司はかわいいし、自分自身も癒されるしで一石三鳥とまで思っていた。
 しかし実際蓋を開けてみたらどうだろう。司はぼたもちに構いっぱなしで、類のことなど二の次。まあそれも仕方ないかとはじめは諦観していたものの、二日三日と放置されればさすがに少しは拗ねたくもなる。
 そんな日々が続いて、ふと気がついてみたら。もう一週間も司とふたりきりで過ごせていないではないか。
 実家ではだいぶ開放的な暮らしをしていた司は自室を必要としていなかったため、2LDKの二部屋のうちひとつは類の作業部屋、もうひとつはふたりのベッドルームとして充てられている。
 そのため普段は隣に司のぬくもりを感じながらとろりとした睡魔に身を任せているのだが、いまは類と司の間に、するりと甘えんぼな毛玉が潜り込んで仲良く川の字ルート一直線。当然、ちょっと甘い雰囲気になっても夜の営みはお預け。
 あんまりである。せっかく積年の想いが成就して、こうして同棲するまで漕ぎつけたというのに。年甲斐もなくめそめそと愚図る類に、司も一瞬押されて狼狽える。
「そ、そうぐちぐち言うんじゃない! ぼたもちだって慣れない環境でストレスを抱えているんだ。なあ、ぼたもち」
「わふ」
「ふーん……
 そうかいそうかい。そうやってまたぼたもちくんを盾にするんだ。
 堂々巡りだ。類は肩を落とし、そそくさと逃げるようにリビングへ移動する司の背を追いかけた。
 ――白いカーテンが翻り、陽射しが室内を明るく照らしている。
 決して広くはないが、狭すぎもしない、類と司のふたりだけの城。
 若いうちは質素な生活を心がけようと、同棲をする際にふたりで決めたけれど、気づけば舞台関係の本やら雑誌やらDVDやらが増えてしまって。いまは、少しばかり雑然とした印象がある。
 互いにショーのことになると目が無いのは、学生の頃から相変わらずだ。
 キッチンの流しで手を洗った司は、ソファーの上で未だ拗ねる類を見て首裏を掻いた。
 たしかに類の言う通り、最近はぼたもちのことばかりで類を放ってしまいがちだった自覚はある。だがそこまで拗ねるようなことだろうか。類だって……と口をついて出そうになるが、寸でのところで飲み込んだ。
(恋人ではあるが……類の考えていることは未だによくわからんからな……
 仕方なく大股で近づいて、その隣に深く座り込む。
 司の体重分だけ沈むソファーに、そっぽを向いていた類はちらりとそのカスタード色の髪へ瞳を向けた。
「司くん……
「ほら、いつまでもそう拗ねるんじゃない。今夜は特製ハンバーグだぞ! 類、好きだろう?」
「好きだけど……。話を逸らさないでくれるかい。そんなに犬が好きなら、僕もお手をしようか」
「お手はできても待てができんだろう、お前は」
「なんのことかな?」
「白々しいな……
 呆れる司を後目に、類は大きな上体を起こし、その肩へ寄り掛かった。
 司からはいつもお日様のにおいがする。このにおいが、特別、類は好きだった。
「とにかく、ぼたもちはオレが責任をもって面倒を見ると彰人と約束してしまったんだ。オレは一度した約束を反故にするような真似はしたくない。諦めてくれ」
 彰人。――東雲彰人、二十二歳。シンガーとして十代のうちから芸能界入りした彼は、司の高校時代の後輩であり、類にとってもよく知った相手である。
 ぼたもちは彰人の仕事仲間の飼い犬だった。
 仕事仲間ゆえに、飼い主もまた芸能関係者である。時には長期ロケでしばらく日本を離れなくてはいけないこともあり、今回は一か月海外に滞在することが決まってしまった。運悪く家族や友人は頼れず、たまたま白羽の矢が立ったのが、以前何度か一緒に仕事をした関係の彰人だった。
 もちろん、一悶着はあった。しかし結論として、彰人は顔を真っ青にしながらも最終的に依頼を引き受けてしまった。昔から犬が大の苦手だったが、染みついた外面が断ることを許さなかったのだ。
 困り果てた彼は当然、シンガーチームの仲間や相棒を頼ろうとしたが、彼らもまたそれぞれに事情があり――悩みに悩んだ末、次に彰人が頼った相手が司であった。
 そして後輩から頼られるのにめっぽう弱い司は、当然のように二つ返事で引き受けてしまった――というわけである。
「仕方がないね」
 深く息をついて、類はのそりと立ちあがった。
 その後飼い主にも彰人本人ではなく司が預かる旨を連絡したけれど――ふんふん、彰人くんが信頼する相手なら安心だ、ちなみにどんな人? えっ、舞台俳優の天馬司? マジ? こないだの主演映画観たよ、サイン貰っといて! ――と、あまりにもトントン拍子で承諾を得てしまったことだし。
 司も言う通り、引き受けた以上はしっかり依頼を全うすべきだと、類も思っている。……ただ、タイミングがめちゃくちゃに最悪なだけで。
 もうじき桜の木も花開こうとする季節。春は僕達にとって大切な季節なのに。
 ちくちくと類のこころが尖る。……いや、忘れっぽい彼に、今更期待なんてしてないけれど――
 ぎゅっと拳を握って。類は目を伏せ、そっと踵を返した。
「それじゃあ僕は、作業部屋でひとり寂しく機械弄りをしているとするよ。司くんも構ってくれないことだし」
「絶妙に良心が傷む言い方をしてくるじゃないか……
 ――ぱたり。類の作業部屋のドアが閉まるのを見送って、司はそっとソファーの背もたれに体を預けた。
 やれやれ、類のやつ、いくつになってもこのオレの魅力にメロメロで困ってしまうな。そう思えばああやって拗ねる姿もかわいげがあるものだが。
 お互いもう子供じゃないんだ。いつまでもあの調子では困ってしまう。
「まったく……気にするんじゃないぞ、ぼたもち。あいつはいつもああなんだ」
「くぅん」
「ハッハッハ。類のことはオレに任せておけ。……もう随分と長い付き合いだしな」
 自由気まま。そのうえ時折面倒な性格をしているものだけど。あの男の扱い方は、これでも多少は、心得た方だ。


     ■


 司が類と交際を始めたのは、忘れもしない五年前。いつも通りショーを終え、薄暗い夜道を肩を並べて歩いていたときだった。
 並木通りの街路樹の枝の先で、蕾が白く膨らみ始めていたのを覚えている。
 その日のショーは司にとって高校最後の大舞台であった。ワンダーランズ×ショウタイムとしての活動は司達が大学生になっても――そしてこれから先の未来、互いにそれぞれの夢へと道を違えたとしても、続けていこうと皆で決めていたけれど。ひとつの節目であったし、区切りであった。
 だからだろうか。いつもなら寧々とえむも交えて途中まで四人で帰路につくのに、その日ばかりはふたりとも示し合わせたようになんやかんやと理由をつけて足早に立ち去っていった。浸る感傷もあるだろうと、そんな気遣いをらしくもなく向けられていたように思う。
 きゃらきゃらと楽しげなふたりの声を見送って、残された司は隣に立つ男――類を、何気なく見上げる。
 夕焼けは、もうほとんど濃紺に飲まれていた。
 だのに、類は。この二年苦楽を共にした、言わば相方とも呼ぶべき友人は。頬を朱に染め、司でさえ見たこともない顔をしていたものだから。
 人の機微に疎い司でも、さすがに、僅かに目を見開いた。
 熱を帯びた視線はどこか決意を秘めている。類、と司が口を開く前に、類は唇の先を震わせた。
 らしくもなく、言葉を躊躇っていた。
……君が好きだ」
 闇に溶けた声は、それでもしかと、司の耳に届いていた。
 言葉尻の揺れ。類はいつも凛と、したたかに自分の気持ちを、考えを、理論づけて話す男だった。そんな彼の揺らぎ。視線はまっすぐ司を貫いていたが、きっとその指先は冷たいのだろうと容易に想像ができた。
 真剣、なのだと。その発熱した瞳の奥の感情を拾って、息を飲む。そうじゃなければ笑い飛ばしていたはずだった。高校生活最後のショーに、なんとなくセンチメンタルな気分になったのだろうと、類でもそんなことがあるのだなと、肩を叩いて励ましていた、はずだった。
 返事に、迷って。
「ありがとう。オレも、類が好きだぞ」
……
 微笑み返せば、類の表情が翳った。
 不意に、ざあ――と突風が吹き抜けて、思わず目を閉じる。
 刹那、右手に熱いものが触れた。強く腕を引かれ、よろめく。視界いっぱいに、類がいつも着ているグレーのカーディガンが飛び込んでくる。
 紫陽花色が鼻先を擽ってようやく、司は類に抱き締められたのだと気が付いた。
 これまでだって幾度となく、類とこうやって触れる機会はいくらでもあった。しかし司の記憶に残るそのどれもより、いま目の前にいる類の体温が、吐息が、視線が、熱い。
 レモンイエローに顔を覗き込まれる。じわ、と伝染して、頬が熱くなる。司が言葉に詰まっているうちに、鼻の先が触れ合って、長い睫毛で瞳が隠されていく。
 目を奪われていた。
 唇に柔らかいものが触れていることに、気づくのが遅れるほど。
 ……しかし、とはいえ、触れるだけだ。押し付けて、それはすぐに離れていった。僅かな音すらも立たない、一瞬の犯行。
「僕の『好き』は……こういう『好き』、なんだけれど」
 わかってるのかい、と、類の声が耳元から脳へ直接吹き込まれる。
 はく、と喉が不自然に痙攣した。心臓がばくばくと騒いで、咄嗟に類の胸を突き飛ばしてしまいたい衝動に駆られた。
 そうしなかったのは、ひとえに、類の緊張が伝わってきたからに他ならない。
 司は生まれてこの方、わりと、短絡的に生きる方であった。
 妹が笑顔になるからショースターになろう。スターになるのだから常にかっこよく在らなくては。回りくどいことは得意じゃない。いつだって物事は最短ルートで結論付ける性分だった。
 世界はあまりに単純で。
 だから、わかってしまったのだ。こうして類と体温を分かち合い、キスをされてようやく、司は己の感情の正体に気づいてしまった。
 ああ、オレも。この男が愛しいな、と、思ってしまった。
……はじめて家族以外の人とキスをした」
……僕もだよ」
「や、柔らかい……な」
 類の肩に顔を埋める。どくん、どくんと重たく跳ねる鼓動の音が、類から発せられているものなのか、自分から発せられているものなのか、いったいどちらなのかさえ、司には判断できなかったけれど。
…………先ほどの話だが……
 正解がわからずとも、いま感じている感情だけは本物だから。……意を決して息を吸い込む。
「いいだろう!」
「え?」
「だから、類と付き合ってもいいと――むぐぅっ⁉︎ ぐ、ぐるじい……
 鍛えていなかったら背骨が折れていたんじゃないかと危惧するほど、力強く抱き締められて、司は潰されたカエルのような心地で呻き声をあげた。
 道端の往来で、時折傍を車やトラックが横切っていくのに。二台、三台とそれが続いても、類の腕の力が弱まる兆しは見えない。
 るい、とその名を司が呼ぼうとしたとき。類が、縋るように、耳元に唇を寄せた。
「本当にいいのかい。後悔しても知らないよ。僕……もう、君を手放せそうにない」
……ふん」
 とんだ戯言を吹き込まれて、司は思わず鼻を鳴らしてしまった。あんなに熱烈に告白しておいて、最後の決定権を委ねてくるんじゃない、と。妙なところで臆病なのは何故なんだ、と。
「むしろ、手放したら死ぬほど後悔するのはお前の方だろう。なんたってオレは、」
「未来のスター、かい?」
「む」
 言おうと思っていた決め台詞を先回りされ、瞬く。
 顔を上げた類は、ふにゃりと、花が綻ぶようにはにかんでみせた。
 その瞬間、足元から薄暗い空に向かって、風が吹き、木の葉が舞う。パチパチと傍の街灯が明滅して、夜に飲まれる並木通りを――類と司を、柔く照らした。
 あまりにできすぎた偶然の演出。魔法でも使えるのか、この男は。
「ふはっ……そうだ! よくわかってるじゃないか!」
 思わず吹き出してしまう。そして、ゆっくりと体を離し、遠ざかる熱をほんの少し名残惜しく感じながら。司はそっと、類へ右手を差し出した。
「まあ、なんだ。……これからもよろしく、類」
「こちらこそ。……大切にするよ、ずっと」
 冷たい手が頬に触れる。
 あ、これは、ドラマや映画でよく見るやつだ。鈍い司でもちゃんと閃いた。
 だから、優しく細められた瞳を見つめて、今度はやや肩に力を入れながら――類が触れるのを、大人しく待つことにしたのだ。


(あの日から、もう五年も経ったのか)
 あれから司を取り巻く環境は大きく変わって、司も、そして類も、夢にかなり近いところまで辿り着いている。
 鳳グループの経営下にある劇団『シームルグ』を活動の拠点としながら、時折ワンダーランズ×ショウタイムとしてフェニックスワンダーランドでもショーをさせてもらう日々。最近はメディアに露出することも増え、忙しさに目が回らないといえばウソになる。
 しかし充実した毎日を過ごせているのはありがたかったし、誇らしかった。
 類との交際も――大学生活を経てひっそりと同棲を始めたが、関係は至って良好。すっかり家族にも公認の仲である。
 たまには小さな諍いもあるけれど、互いに互いを尊重して生活できている、と、司は思っている。あまり声を大にして言うことでもないのだが……まあ、夜の営みの方も、不満はない。
 あの日、あの瞬間、いとも簡単に奪われてしまった司の幼い恋心は、順調にふたりの間で育まれていると自信をもって言えた。
 だから、正直なところ――
 ……類が抱える不安がどれほどのものかなんて、微塵も、想像すらしていなかったのだ。


     ■


「え、それっきり会話してないんですか、神代センパイと?」
 閑静な住宅街。
 時折横切る車の影を跨いで、彰人はオリーブ色の瞳を司へと向けた。
 司はああ、と短く頷いて、手に持つリードを軽く引く。駆け出そうとしていたぼたもちは、つぶらな瞳で不思議そうに司を見上げた。
 朝晩のぼたもちの散歩に、都合が合うときだけ、彰人も同伴すると言い出したときは正直驚いた。
 請け負ったのは自分なのだからそれくらいの責任はとる、と、顔を真っ青にしながら言うものだから、さすがの司も「無理しなくていいぞ」と声を掛けてしまったが、彰人は頑なだった。なんとも義理堅い男である。
 今日は散歩のあとにライブリハーサルの予定があるようで、彰人の相棒である冬弥も一緒だ。
 まだ少しだけ肌寒い季節。三人分の弾む息が白く濁る。
「類が作業部屋に篭って数日出てこないのは、もはや今更のことではあるんだが……
 あれきり、類は必要最低限にしか作業部屋から顔を出さなくなった。一度作業に熱中すると寝食を忘れるような男だから、いつものこと、と流してしまっても良かったが。最後に交わした会話が会話だけに、気まずさは残る。
 はあ、と気のない声が彰人の口から零れた。
「勘弁してくださいよ。あんたらの痴話喧嘩に巻き込まれるのはマジでもう二度と御免なんで……
 司は思わず小さく笑ってしまった。
 あれはいつのことだったか。たしか、卒業を間近に控えた高校生の頃だった。類とショーのことで些細な言い争いをしたとき、たまたま居合わせた彰人が巻き添えを食らったことがあったのだ。
 わりあい、ショーのことで意見が食い違うのはふたりにとっては日常茶飯事である。しかしそういった側面を知らない彰人は剣呑なふたりの空気に少なからず動揺し、ひどく困惑させてしまった。あれ以来、彰人は司と類が揃うと警戒するようになってしまったのだ。
 閑話休題。
 それはともかく、類が作業部屋から出てこない件だ。
 きっかけこそどうあれ、彰人が気に病む理由は微塵もないが、せっかくだし、と司はぼたもちを抱きあげ前足をちょいちょいと彰人に向けて振ってみせた。
「少しでいいから、彰人もぼたもちと触れ合ってみるのはどうだ?」
 苦手を克服したい気持ちは本物だろう、と、その柔らかな毛並みに顔を埋める。こんなにもふわふわなのに、触ることすらできないなんて、少し勿体ないとすら思う。
 しかし、う、と彰人は苦い顔をして僅かに後ずさった。
……それも勘弁してください」
 再び、重たいため息。冬弥と顔を見合わせて、やれやれと肩を竦めた。
「いい子だぞ? 吠えないし咬まない。よく躾けられている」
「それとこれとは別っつーか……司センパイだって虫ダメでしょうが。吠えないし咬まないですよ?」
「あああ、あいつらは見た目が悍ましいからダメだっ!」
「ひでえ」
 彰人が馬鹿にしたように鼻で笑うので、むう、と司は唇を尖らせた。
 脳裏に浮かんだのは多足類の天敵の姿。ああ恐ろしい。思い浮かべただけでぞわりと鳥肌が立つ。
 ぼたもちはこんなに愛嬌があるというのに、どうしてヤツらと同じ天秤にかけられよう。月とスッポンだろうが。ぐぬぬ……
「すみません、司先輩。あれでも少しは彰人なりに歩み寄っているようなので……
「オイ冬弥。余計なことは言うな」
……それはもちろん、わかっているが」
 司とて、彰人の性格を理解している。本当ならこうして一緒に散歩するのだって嫌だろうに、義理で付き合うあたり、根が真面目なのだ。
「しかしまあ、無理に克服しろとは言わんにしろ……。ぼたもちが報われんな」
 前を歩く彰人を見つめ、うれしそうに尾を振るぼたもちを見下ろす。
 おそらく司がリードを離せば、一直線に彰人に飛びかかることだろう。いまだって、突進したそうなぼたもちを諌めるのに苦労している。どうしてぼたもちが彰人にここまで懐いているのかわからないが、向けた好意の分、返ってくる見込みがないところを見ると、どうにも不憫になって仕方がない。
 冬弥曰く、彰人は動物――というか、犬に好かれやすい、らしい。道端ですれ違っただけの、ただの散歩中の犬に飛びつかれそうになったことが何度もあるそうだ。
 冬弥がいるときはなるべく間に入るようにしているが、そうじゃないときは――染みついた対人スキルがそうさせるのか、あるいはトラウマが根深いのか――咄嗟に払い退けるようなこともできず、ただただ青褪めている。
 難儀なことだ。同情心半分。司はまたぼたもちが駆け出そうとするのを、リードを引いて押さえ込んだ。
「フム……。だが苦手だからと邪険にしないのはえらいな。類ならこうはいかない」
「え。あの人に苦手なものとかあるんすか」
「それなりにあるぞ。野菜は液状にしても摂取したがらんから毎日の献立には苦労している」
「あー」
 もういい大人なのだから少しは偏食を直してほしいものなのだが。
 おかげで司が料理当番の日は、いかにして類に食物繊維を摂取させるかが主な課題となる。少しでも野菜の気配を感じたら口を一字に結ぶので、いまのところ入れた野菜が溶けるほど煮込んだカレーが一番勝率が高い。しかし毎日カレーではカロリーが気になるので、レシピを模索するのもなかなかに大変なのである。
「まあ、気が向いたときがあればぜひ遊んでやってくれ」
「うーっす……
 ちょうど散歩コースを一周し終え、背を向け手を振る司と、その足元をちょろちょろと走るぼたもちを見送って。ふう、ともはや何度目かもわからないため息を彰人は吐き出した。
「つうか司センパイの方こそ、やたらぼたもちと馴染んでねぇか? まだ一週間とちょっとくらいだろ」
「司先輩はだれとでも仲良くなれるお方だからな」
「人じゃなくても適用するのかよ、あいつのコミュ力おばけは……
 まあ、わからなくもないか。司は――昔から、垣根なんてあっさり超えて踏み込んでくるような男だった。
 彰人の外面だって初対面ですぐに見抜いたくらいだ。天馬司という男はそういうところが厄介で、……そういうところが信頼できた。
 この歳になって未だに学生時代の先輩に頼るとか、ダサくてあんまりしたくなかったけれど。これ以上ない適任だったな、と彰人は振り返る。
 言えば冬弥がうれしそうにするのも目に見えてわかっているので――それはそれで癪なので――内心で思うに留めておくが。


     ■


 こんこん。
 作業部屋のドアをノックするが、返事はない。司は嘆息して、躊躇いなくドアノブに手を掛けた。
 鍵は掛かっていない。そもそもこの部屋に鍵が掛かっていたこと自体、未だかつてないのだが。
 そっとドアを開ける。閉め切ったカーテン。薄暗い室内。ふと、ぱち、と視界の隅で火花が弾けた。
「類ー。買い物がてらぼたもちを散歩してくるが、なにか買ってくるものはあるか?」
……甘いもの」
「ラムネだな。承知した。……はあ。類、お前、ま〜だ拗ねてるのか」
 そんな部屋の隅っこで、大きな背中を丸くして。
 周囲には螺子やらよくわからない金属片やらがあちこちに散らばっている。そしてくしゃくしゃになったブランケット。ここ数日、寝室にも顔を出していないので、おそらく夜はあれに包まって雑魚寝でもしているのだろう。
 まったく、体を痛めても知らんぞ。いまはまだ若さと体力があるが、こんな生活を続けていたらいつか体を壊してしまう。
 類と同棲することを決めたのも、思えばこれが原因だった。四六時中隣にいたいから〜なんて甘ったるい理由は微塵もなくて、あまりに類が不摂生をするものだから、これはオレが見張らないと、と変な使命感が湧いたのを覚えている。
「まったく。お兄さんだろう? 類は」
「!」
 顔を上げた類は、驚いたように目を見開いて。そして僅かに表情を歪ませた。その頬はやや膨らんでいて、思わず指で突く。拗ね方がまるで子供だ。
……司くんは平気なんだね」
「それは……
……。僕ばかり、君のことが好きみたいだ」
――
 思いもよらない言葉に、司は一瞬、戸惑った。
「聞き捨てならんな」
……
「オレだって、類のことが好きだ。それはお前が一番よくわかってることだろう」
……わからないよ」
……類」
 少しだけ、咎めるような声が出てしまったが、許してほしい。
 わがままを言われるのは、嫌いじゃない。頼られているのが――甘えられているのがわかるから、むしろどんどん言ってほしいとすら思う。
 司が憧れる『スター』は懐が大きくて――どっしり構える姿がかっこいいと思うから。自分もそういう男になりたいと思っているから。いくらでも、類が望むならどんな無茶ぶりでも、応えてやりたい。
 だけど、それとこれとは、話が別だ。
 いまここにいるのは役者と演出家ではない。ただの天馬司と、ただの神代類だ。
 類ばかりが好きだと? そんなわけないだろう、と。
 まるで一方通行とでも思われているのが癇に障って、無性に腹が立って、喉が熱くなった。密かに湧いた怒りに任せて一蹴してしまいたくなった。
 好きでもない男の健康を気遣って、どろどろになるまでカレーを煮込むものか。どれほど手間がかかると思っている。
 好きでもない男に求められて、愛を囁くものか。キスをするものか。体なぞ、開いてやるものか……
「司くんのせいだよ。司くんが、僕を変えたのに――
 尚も続く言葉に、とうとう、司も顔色を変えた。
 自分ばかりと思われては困る、と、思わずじろりと類を睨んでしまう。
 それを受け、類はいっそう眉尻を下げて。おもむろに立ちあがったかと思えば、司の腕を掴み、軽く引き寄せた。
 細身でありながら、類は結構力が強い。引き寄せられるままよろけた司は、簡単に類のテリトリーに、腕の中に収まる。
 類の肩に頭を預け、その飴色の瞳で恋人の横顔を見上げる。
 レモン色の冷たい瞳は噛み合わない。司ではない、別のものを見つめたままだ。
 ……自分から抱き寄せたくせに。視線のひとつも寄越さないとは、意気地なしめ。
 心のうちで悪態をつく。けれど目を閉じれば、その背に手を回せば。とくん、とくんと鼓動が伝わる。平熱の低い類から、熱を感じる。どんなに腹が立っても、こうして抱き合うだけで、やっぱり好きだなあと思ってしまう。
 喉が震えるような。湿った音がした。
「責任とってくれないと、困るよ」
……
……、いや、すまない。責任転嫁なのはわかってる。引っ込みがつかなくてね……少し頭を冷やしたいから、放っておいてくれないか」
「放っておけるわけ、ないだろう」
 恋人、なのだから。
 手を伸ばし、その後ろ髪をよしよしと撫でれば、類はくしゃりと泣きそうな顔をして――しぼり出した吐息と共に司へと顔を寄せた。
「ひどいね」
 こつ、と額がぶつかる。
……『惚れた方が負け』、なんて、よく言われるわけだ」
「類、オレは――
「司くん。早く買い物、行かないと。セールが終わってしまうよ」
 肩を掴み、押し出され、部屋の外へと突き放される。司が振り返ると、類は薄らと微笑みを浮かべてみせた。
……ぎこちないな)
 類だって、役者だ。演じようと思えばいくらでもそれなりの笑顔を作れる。だけどそうしないのは、やはり、類なりの甘えか。
……では、行ってくるが……
 都合が悪くなるとのらりくらりと逃げようとするのは、類の悪い癖だ。司は目を伏せ、そっとドアノブに手を掛けた。
「帰ったら、話をしよう」
……わかったよ。いってらっしゃい」
……。いってきます」


 閉められたドアに、勝手に傷ついた。
……困ったな。あんなこと言うつもり、なかったのに」
 薄暗い室内で、類がぽつりと呟く。
 自分ばかりが相手を好きだなんて、本当は思ってない。司は愛情深い男だし、彼に特別愛されている自信はある。甘やかされている自覚だって、十二分にあった。
 だけど、その重さが。時折、自分の方が重たいのではないのかと――思うときが、ある。……いまだって。
 心というものに質量が存在するならば、きっと天秤にかけるまでもない。……ううん、否。そんなことを考える時点で、立証するには十分だ。
 わりあい、自分は結構器用に立ち回れる方だと自負していたのだけど。どうしてか、司を相手にすると上手くいかないことばかり。
 あんな風に、困った顔をさせたいわけじゃなかった。
 ――年々、欲が深くなる。
 思えば自分はいつもそうだった。最初は彼の気を引ければなんでもよかった。なのにそのうち、はち切れそうなほどの恋心に気づいてほしくなって、あわよくば、彼からも同じほどの恋情を向けてほしくなった。
 わざわざ寧々とえむのふたりに協力までしてもらって、告白をして。
 付き合ったら付き合ったで、今度は司に自分を受け入れてほしくなって。
 体を重ねるたびに、朝のおはようも夜のおやすみも独り占めしたくなった。
 そのうえ、――司の心も欲しい、なんて。我ながら強欲で参ってしまう。
 思い通りにいかない彼が好きだったのに、思い通りにいかないことが歯痒くて仕方ないのだ。
……、とはいえ、犬にまでヤキモチをやいてしまうのは格好がつかないか」
 作業部屋の引き出しを開ける。奥底にしまいこんである小さな箱。あと一歩のところで、司の人生を縛る踏ん切りがつかなくて、渡せずにいるプラチナリング。
 箱を撫でると、少し、勇気が湧いてくる。渡せなくてもこの箱が気持ちの証明だった。愛の形だった。
 ぱかりと蓋を開けて。その輝きが失われていないことに、勝手に安堵して。再び箱を閉じ、引き出しの奥へとそっと戻した。
「さてと。……独りでいるのも、飽きてしまったし。そろそろ……仲直りのショーをするとしようかな」
 だれが聞いているわけでもないのに、独り言ちる。
 別々の人間なのだから、諍いもすれ違いもある。意見が食い違うことだってたくさんあった。でも――それでもいま自分達が共に在るのは、何度もふたりでショーをしてきたからだ。
 春がくる。
 結局僕らは、どこまでもショーで繋がっている。
 最後は必ずハッピーエンドになると、無邪気に信じる子供の心は忘れたくない。だから。
……いつまでも、殻にこもってはいられないね)
 顔を上げた類は。ひとまず、作業部屋のカーテンを開けることにした。


     ■


 ぼたもちはすこぶる元気がいい。
 その小さい体のいったいどこにここまでのパワーを秘めているのかと不思議に思ってしまうほど、散歩のときはいつもパワフルだ。
 ピンと伸びたリード。これではまるで自分がぼたもちに散歩されているようだと笑いながら、司もやや駆け足でその背を追う。
 いつもの散歩コース。その途中にある遊歩道。並木通りの桜の木をふと見上げる。
 枝の先で膨らみ始めている白い蕾に、もうそんな時期か、と感慨深くなって。そういえば大人になってから、こうやってゆっくりと季節の移ろいを気にする暇もなかったと思い出した。
 ……あの木の下で、告白されたのだったか。
 忘れっぽいと揶揄される司も、さすがによく覚えている。いつになく真剣で、いつになく緊張した面持ちの類を見たのは、司が思い返す限りあの日だけだ。
……
 頬を真っ赤に染めて、司の心を射止めんとする類の姿と。
 寂しそうに笑っていた、先ほどの類の姿が、重なる。
……そういえば)
 ちょうど今日、ではなかっただろうか。
 高校最後のショーをした、あの日から。ひいふうみい、と指を折って数え、司は口元を押さえる。
 ああ――そうか。そういうことか。
……どうりでいつも以上に駄々をこねるわけだ」
 急に立ち止まった司を訝しんで、ぼたもちが足元に擦り寄る。――ふ、と笑って。司はしゃがみ込み、ぼたもちの背中をやわらかく撫でた。
「まったく類のやつ。いまからこの調子では先が思いやられてしまうな! ……オレ達に子供ができたらどうするつもりなんだか」
「わふ」
 決して夢物語ではない。昔ならともかく、いまは科学の進歩で精子のみでも子供ができる時代だ。
 ……まあ、まだまだ先進技術で広く浸透はしていないが。ラット同士の実験が成功して数年、いまでは日本含め世界各地ですでに何人か、同性同士のパートナー間で子供が生まれている。
 もちろん、未知のことは多い。生まれた子供の寿命だとか、知能、生殖機能は従来の男女間で生まれた子と比較してどうなのかとか。……法律だとか倫理だとか。問題は山ほどある。
 しかし同性間の結婚が認められ、そういったカップルも主流になりつつあるいま。出産も、ひとつの選択肢として存在しているのはたしかだった。
 ……この先の未来で、自分達がどんな選択をするのか。
 それはいつか類ときちんと話し合って決めなくてはいけないと思っているが、類がどんな選択をしても、司は彼と人生を共にしたいともう心に決めている。
 スターになっても、その後も。輝く未来を、隣で一緒に歩んでほしいから。
……引き出しに指輪を隠され続けているうちは、当分先になりそうだがな!)
 司にばれていることにすら類は気づいていないだろう。高校生の頃ならいざ知らず、隠し事はたぶん、いまは司もそれなりに上手になった。
 ……いや、ひょっとすると、類の方が下手になってしまったのかもしれない。わかりやすく感情を表情にのせる類を思い出して、フ、と小さく笑みが零れる。
 年々、表情が豊かになる。出会った頃では考えられないほどに。きっと、それだけ類に愛情を向けられているということなのだろう。
 澄んだ空気に、春のにおいが混ざり始める。
(今夜は少し……甘やかしてやるか)
 司がひとり頷いていると、スーパーへの近道である曲がり角、その先の小さな公園でふと、聞き覚えのある声がした。
――もう一か月⁉︎」
 思わず足を止める。
……この声……彰人か?」
 公園を覗くと、どうやら彰人が電話をしているようだった。彰人に気づいたぼたもちが興奮気味に彰人へ向かおうとするのを、リードを引いて押さえる。
 仕事中だろうか。せっかく会ったのだから挨拶のひとつでもしたいところだが――電話が長引くようなら諦めて立ち去るか。様子を見るついでに公園の敷地へと足を踏み込む。
 改めて近づくと、より一層彰人の声がはっきりと聞き取れた。
「いや、無理だって……司センパイだってそんなに長くぼたもちのことは預かれねえよ」
 会話の内容からして、どうやら相手はぼたもちの飼い主のようだ。
 彰人曰く、それは大層な犬好きだと聞いている。ぼたもちの惚気を何度も聞かされたらしく、今回の出張だってギリギリまでどうにか連れていけないかと画策していたのだとか。
 話の流れから察するに、海外出張がもう一か月延びてしまったといったところだろうか。司としては別に、もう一か月ぼたもちを預かることになったとしても構わないが――類がまた落ち込みそうではあるな、と苦笑する。
 帰ったら恋人をどう言いくるめようか――そんなことを考えていると、痺れを切らした様子の彰人がぱっと勢いよく顔を上げた。
「そもそもオレは犬が苦手なんだよ!」
「!」
 司の足元でへっへと舌を出して尻尾を振っていたぼたもちが、彰人の言葉を聞いて、ぴたりとその動きを止める。
「いや、隠してたわけじゃ……。っでもオレは、ぼたもちと一緒に生活なんてできねえし、するつもりもねえ――
――
 一瞬だった。
 突然ぐんっと後ろに力強く引っ張られたかと思えば、司が驚く間もなく、リードが司の手から離れてしまった。
 白い毛玉はみるみるうちに遠くまで駆け出していく。その背を呆然と見つめ、すぐに我に返った司は悲鳴をあげた。
……ぬああああ⁉︎ おい、ぼたもち! 待て!」
――あ? 司センパイ?」
 地が割れんばかりの声量に、彰人も司の存在に気づいて振り返る。司は慌ててぼたもちが駆けて行った方向を指さした。
「彰人! 緊急事態だ! ぼたもちが逃げ出した!」
「はあ⁉︎」
 彰人が指の先に目を凝らすと、たしかに白いのがせっせと逃げていくのが見える。
 こうしている間にも見失ってしまいそうな素速さに、考えている暇などないと判断した彰人は咄嗟に足を動かしていた。
「っ追いかけんぞ、」
「それはもちろんだが……!」
 街中だぞ……⁉︎
 司も勢いよく地面を蹴って、彰人とぼたもちの後を追いかける。交通量はさほど多くないといえど、ここは住宅街の中でも繁華街に近い。車や自転車にぶつかったりでもしたら――嫌な想像が頭を過ぎって、司はぐ、と奥歯を噛み締める。
 クッ……オレが油断さえしていなければ……
 リードをしっかりと掴んでいれば、ぼたもちが逃げ出すこともなかっただろうに。数分前の自分を恨んだところで状況は変わらないが、悔やまずにはいられない。
 片や人間、片や動物。足の速さの違いは歴然だ。司も彰人も仕事柄腹から声を出すので、筋トレには余念が無いが、それでも。息はあがるし、足は縺れてしまう。
 回り込んで挟み撃ちにできれば理想的。しかしそんな考えも空しく、やがて司達はぼたもちを完全に見失ってしまった。
 心臓が嫌な音を立てている。肩で息をする彰人は呆然とぼたもちが消えた方角を見つめている。どうにかしなくては。どうにか。どうする。焦りばかりが司の胸中を占めていく。
(諦めるな、まだ手はあるはずだ、…………
 なにか、なにかこの状況を打破する手はないかと、司が周囲に視線を向けたそのとき。
 ブン、と旋回音が間近に聞こえた。
『司くん、こっち』
「! その声……
 顔を上げると、猫型のドローンが頭上の先に浮かんでいる。チカチカと目の部分が赤く光らせて、ドローンはそれきりなにも言わず司達の前を飛び始めた。
 彰人と目を合わせ、すぐに追いかける。空き地を横切り、細い裏路地を右へ左へ。ほんとにこの道で合ってんのかよ、と泣き言が後ろから聞こえたが、司は確信があった。
 だって、あいつが、……類が、意味もなくこんなことをするはずないから。
 ふたりが細い道を抜けると同時に、別の道から白い犬も飛び出す。いつのまにか先回りしていたようだ。ぼたもちはこちらを見て一瞬狼狽え、そして彰人から背くようにしてまた走り出した。
 ――その先は、急斜面の土手。川がある。
「ぼたもち!」
 慌てて彰人が吠えると、ぼたもちはぴたりと動きを止めた。なんとか転落は免れて、ほっと胸を撫で下ろす。
「はあ、はあ……ほら、いい子だからこっちに来い……
……ヴー……ワン! ワン!」
「うお! おい、ぼたもちは吠えないんじゃなかったのかよ!」
「普段は吠えん犬だが……犬にだって感情はあるからな……。吠えたい気分のときだって、あるだろう」
「っ、……そりゃ、そうかもしれないけど」
 そしていまが、吠えたい気分なのかもしれないけど。
 どうにか息を整えて、首筋の汗を拭いながら。彰人はじっとぼたもちを睨みつけた。
 依然、ぼたもちは彰人に対して威嚇の姿勢をとっている。いつ背後の川に飛び込んでしまうかもわからない。かといって、これ以上近づこうにも足が動かない。まるで地面に根をはったように、彰人は自分の意思で足を動かすのが困難になっていた。
 クソ、と舌打ちする。
 ぼたもちが逃げ出したタイミングからして、原因に心当たりはあった。あったから、余計に、焦燥を募らせている。脳裏に浮かぶ嫌な記憶。泣き喚く絵名と。鋭い牙。
「どうする。このままでは――……
 司はちらりと彰人を見遣って、唇を引き締めた。顔色が悪い。いくら全力疾走したからといっても、尋常じゃない量の汗が流れている。
 どうする。再び脳内で、今度は自分に語りかける。彰人に無理はさせられん。オレが、どうにかしなくては――
――司くん。東雲くんの荷物、ひっくり返せるかい?』
 落ち着いた声が、耳に届く。はっとして、司は傍のドローンへと目を向けた。
「荷物だと? 何故……いや、わけはあとで聞こう。いまはお前の言葉を信じる。……彰人、すまん! とおおおりゃあ!」
「あ? ちょ、オイ――!」
 彰人が持っていたトートバッグを引っ掴み、真っ逆さまにして振りあげる。重力に乗って地面に落ちるバッグの中身。その大半は本であり、司はばさばさと落ちたそれを手に取った。
「む、なんだこれは……本? なになに……『犬とのふれあい方』、『よくわかる犬のしつけ』……
「だあああ! 読みあげるんじゃねえ――!」
「彰人、お前……
 司が驚いて言葉を失っていると、彰人は司から本を引っ手繰り、きまり悪そうにそっぽを向いた。
「そりゃ申し訳なくもなるだろ……あんな話聞かされたら……
……
「まあ、オレも……、センパイに頼りすぎたくはないんで。いろいろ考えてるってことです」
 すう、はあ、と。深呼吸を繰り返し、彰人は改めて、ぼたもちと真っ直ぐに向き合った。
 遠い記憶。幼い頃に見たトラウマが重なって見える。
 小さくたって、犬は犬だ。低く唸るその姿に、どうしたって、心が怯む。……だけど。
「センパイ。ここはオレに、……任せてくれません?」
 司に――認めるのは癪だけど、それなりに、尊敬してるこの人に――カッコ悪い姿ばかり見せたくない。
 震える拳を握りしめる。半分以上は痩せ我慢だった。
 それでも、小さなプライドと、罪悪感が、彰人を奮い立たせる。
「よし、わかった。しっかり口説いてこい、彰人!」
……っす」
 一歩。あれほど動かなかった足が、前へと進む。
「あー……。ぼたもち」
 自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。ぴく、とぼたもちが顔を上げる。真っ黒な瞳が、品定めするように、じっと彰人を見つめている。
「悪い。オレの話を聞いた……んだよな?」
……グルル」
「怒るなよ。オレだって……好きで苦手になったわけじゃねえ。克服できるもんなら、したいって思ってるさ……
 震えを必死に隠そうとする彰人を、司は固唾をのんで見守っていた。
 また一歩、彰人が足を踏み出す。恐怖で重くなる足取り。それでも、冬弥のように間に割って入ってやる気はない。
 彰人が言ったのだ、任せろと。であれば司にできるのは、ただ見守ることだけだ。
『そういえば……。だれにでも得手不得手はあるからと気にも留めていなかったけれど、どうして東雲くんは犬が苦手なんだろうね』
「それはたしかに……
 犬が苦手だと聞かされてはいたが、理由まで気にしたことはなかった。
 彰人はちらりとオリーブ色の瞳を司達に向けて、吐き捨てるように、答えた。
……子供の頃、追い掛け回されたことがあるんですよ。当時のオレの身長よりもでけえ犬で、飛びつかれて咬まれたのがトラウマになってるっつうか……
 ま、そんなとこです。甘噛みだったんで、怪我とかはしなかったんすけど――と、彰人が続ける。軽い調子で言ってはいるが、あれほど震えているのだ、自分よりも大きな犬に襲われて相当怖い思いをしたのだろう。
――だけど君を襲った犬と、ぼたもちくんは、違う存在だよ』
「そんなの、わかってます。わかってるけど」
……なら触れてみてごらんよ』
 ふわふわと、ドローンは気ままに宙を飛んで、彰人の傍で動きを止めた。
『触れてみないとわからないこともあるよ。相手がなにを思って、なにを感じているのか。そのあたたかさも』
……
 司は静かにドローンと彰人の後ろ姿を見つめていた。
 触れてみないとわからない。……類がなにを想って言っているのか、なんとなく、わかる気がする。司自身もそうだった。あの日、類に触れて――はじめて、そのあたたかさを知ったのだ。
「それができたら、苦労しねえ――
……
――けど、そうも言ってらんねえよな。ぼたもちを怒らせたのはオレの落ち度だし、オレの不甲斐なさが呼んだ事故だ。わかってるんですよ。中途半端が一番だせえのは」
 言うなり、彰人はまた一歩踏み出して、その場にしゃがんだ。ぼたもちと目線を合わせ、ゆっくりと手を差し伸べる。
……なあ、ぼたもち。聞いてくれ。オレのこと嫌いになったんなら……咬んでもいいから。だからそんな危ないとこにいないで、こっち来いよ」
……
「お前にケガさせたくないんだよ。……わかるだろ」
 彰人の言葉に――ぼたもちはスン、と鼻を動かした。
 おそるおそる歩き出して、しゃがんだ彰人の足元で立ち止まる。向けられた大きな手のひら。鼻を寄せ、ぺろりと指先に舌を這わせる。
「っ……くすぐってえ」
 ゆっくり、ぼたもちの尾が左右に揺れ始める。
 やがてそれは勢いを増して、ぼたもちは彰人の膝に前足を乗せた。彰人はまだ緊張してしまうようで、唇を結んだままではあったけれど、その真っ白な毛並みにそっと指先を沈めてみる。
 ――あたたかい。
 たしかに、類の言う通りだった。触れてみなきゃ絶対に知ることのなかった柔らかさ。あたたかさ。ぎこちないながら彰人は微笑んで、その背を撫で続ける。
「やれやれ、一件落着だな」
 無邪気に戯れあう彰人達を見つめ、ハッハッハと司は豪快に笑った。
 その隣では、チカチカと目の部分を光らせている猫型のドローンが静かに佇んでいる。
 物言わぬ機械越し。その先で、いったいあの男はどんな表情をしているのだろうか――それがどうしても気になって、早く、会いたくなって。ふ、と司は顔を綻ばせた。
 ドローンの目――カメラレンズを覗き込む。
……!』
「類も、ありがとう。道案内、助かったぞ!」
…………司くん。すまない、その……
「む」
 返ってきたのは、存外しょぼくれた声だった。仕方がない奴だな、と笑う。
 でも、そんなどうしようもなく仕方がないこいつのことが、やっぱり好きでたまらないから。
 その話は、帰ってからゆっくり聞いてやることとしよう、と、司は指先でドローンを軽く小突いた。


     ■


 司が玄関のドアを開けると、待ち構えていた類は弾かれたように顔を上げた。
 その手に抱かれる猫型のドローン。今日一番の功労者であるそれに司はふっと微笑んで、爪先を揃えてスニーカーを脱いだ。
「ただいま、類!」
「っ、おかえり。……ぼたもちくんは?」
「今日は彰人の家にお留守番だ! なんだ? 居なくなったらなったで寂しくなってしまったか?」
……僕が嫌な態度を取ったから……気を遣わせてしまったかなって」
……
 目を細める。しゅん、と肩を落とす類を見るのは結構新鮮だ。
 まるで悪戯の度が過ぎて、親に叱られるのを待つ子供のようじゃないか。そう思えばかわいげもあって――自分よりよっぽどでかい男相手に感じることでもないのかもしれないが――なんだか甘やかしてしまいたくなる。
 手を伸ばしかけて、引っ込めた。目の前の問題は早々に解決してしまいたかったが、類のことはひとまず置いておいて、洗面所へと直行する。
 しっかり手を洗い、うがいもきちんとした上で。改めて、類の手を引いた。
 大股でリビングの板を踏み、ふかふかのソファーに腰を下ろす。司に倣って、類もまた、おずおずとその隣に収まった。
 日が傾き始め、室内に朱が射す。影が縦に伸びている。
 こうして類とふたりきりになるのは久しぶりだ。
 さてなにから話せばいいものか……。司はあまり、理論立てて話すのが得意ではない。そういうのはいつだって類の領分で、司はただ隣でウンウンと頷くのが常だった。
 かといって別に思考を放棄しているわけでもなく。
 類の言葉はいつも正しいから、司が口を挟む余地がないのだ。いや、そうだな……正しそうに聞こえる、と表現する方が、より近いかもしれない。この男は理論武装がとかく上手い。
 しかしそんな類にも、苦手なことはある。自分の感情を紐解くのが、驚くほどに下手くそだ。
 改めて、類と向き合う。澄んだレモン色の瞳が、物悲しげに司を見つめる。謝りたいと思っているけれど、どう切り出せばいいのかわからない、そんな顔だ。
 数秒か、数分か、しばらく見つめ合っているうちに、司はだんだんとむずむずしてきてしまった。
 言葉にせずとも、もう、わかってしまう。ゆるしてしまう。ほんの僅かに残っていた蟠りでさえ、深く吸い込んだ息と共に吐き出してしまえば。
「別に、類のことを蔑ろにしてたわけじゃない。それはわかるな?」
「もちろんだよ。でも、……
 類の手が腰に触れる。気づいた司が体を寄せると、ぴたりと密着した先、類の喉がこくりと上下した。
「僕は君がいないと駄目になってしまうのに、君は僕がいなくても平気なんだと思うと……胸が、張り裂けそうになる」
 司が目線を上げると、思い詰めた表情がそこにはあった。
 静寂。カチカチと壁掛けの時計の針の音がやけに耳につく。
「こっちを見ろ、類」
……、」
 一瞬の躊躇のあと。そろりと顔を覗き込んだ類に微笑みかけて、無防備な唇に触れた。
 押し付けるだけの拙いキスだ。子供でもできる。けれど類は目を見開いて、微かに目尻を赤くした。
「! ……司くん」
「むずかしいな。好きだと言っても、キスをしても、抱き合っても……心までひとつになれんのが、もどかしい」
……
「どうすればいい。どうしたら、類を安心させてやれるのか……考えても、まったくわからん。だから教えてほしい。お前が求めるものを与えるのが、オレの愛の形だから」
 瞳が揺らぐ。その白い頬を両手で挟み込んで、司はこつりと額を合わせた。
 一瞬、左右に引き結ばれた唇が、ゆっくりと開いていく。
……もう一度、キスしてほしい」
「なんだ、そんなことでいいのか? いいぞ。いくらでも」
 軽く顎を上げて再び唇を押し当てる。
 ふにゅりと形が歪んで、離れると僅かに呼吸が乱れた。
 間近で見つめた瞳は薄く濡れていて、司のことしか映していない。うれしくなって、もう一度唇を合わせる。もう一度。もう一度……
「あと……好きって言ってほしいな」
「好きだ。類が、ん、好き、すきだ……
「ん……
 気づけば類に乗りあげるようにして、キスに夢中になっていた。
 さらりと類の前髪を撫で、その頭を抱き締める。伝わっているのだろうか。決して、この恋が類だけのものではないこと。伝わっていてくれないと、困る。
「不安にさせてすまなかった」
「謝らないでくれ。今回の件は僕が全面的に悪いから」
「いや、せっかくだから、腹を割って話したい。実はオレも類に隠していたことがある」
「え? ……まさか本当に、浮気……
「ちが――う‼︎」
 ええい、こいつ、この期に及んで!
 柔らかい頬を思い切り引っ張れば、類は「いひゃい」と間抜けな声をあげた。
「コホン。正直、あまり言いたくはないのだが……
……司くんのことなら、なんでも知りたいよ」
「うぐぅ……そうだな、お前はそういうやつだ」
 乗りあげたついでだ。類の膝の上に腰を下ろして、ううむ、と小さく唸った。形ばかりの抵抗である。
「あらかじめ前置くが、類がつくる舞台装置はどれもこれも完璧で素晴らしい!」
「うん? ありが、」
「だ・が‼︎‼︎‼︎ オレだって、……類が機械にばかり構っていると、そりゃ〜〜面白くない気持ちになる‼︎」
「え」
 目を丸くした類の顔を一瞥する。むう、と司は唇を尖らせて――無性に悔しくなって――ふい、とそっぽを向いた。
 類が、没頭すると止まらない性格なのは、よく知っている。
 無限に沸き立つアイディアのひとつひとつが、司の想像を遥かに超えるものばかりなのも、そしてそれを楽しみにしているのも、心からの本心なのだが。それでもたまにはほどほどにして、司自身を見てほしいとも思ってしまうのを、司は罪だとは思わない。
 だって恋とはそういうものだろう。ワガママを、言って、言われて、ふたりで叶えていくものだろう。
 そうやって、互いの愛を、確認していくものだ。
「つまりだな、あー、その……、っ、寂しい思いをしているのは類だけではない、ということ、だっ。お前はオレのせいでどうのと言っていたが、オレだって、……。ぬうう……両親が咲希にかかりきりだった頃ですら、こんな気持ちにはならなかったというのに」
……!」
「お前はオレに愛されている! それもとびっきりだ! だから……、ヤキモチも、大いに結構、いくらでもして構わん! その代わり、類も全力でオレを愛してくれ! ……全部零さず、受け止めてみせよう」
 きらりと。
 司の言葉に、類の瞳が煌めいた。
「君が、スターだから、かい?」
「んなっ……馬鹿。……オレが! 類の! 恋人だからだ!」
 さすがに腹が立って強めに額を小突く。類は手で小突かれたところを押さえて、ゆっくり、ゆっくりと――噛み締めるように、口元を歪ませた。
 ずるい、と微かな声が空気と共に吐き出される。ずるい、ずるいよ、君は。
「ああもう……好きだなぁ……
「オレも――……ん、」
 好きだ、と口にしようとした言葉は、いとも簡単に類の唇によって掻き消された。
 ちゅ、ちゅと唇の薄いところに吸い付きながら、類が司に体重をかける。バランスを崩した司はソファーに尻もちをついて、類に覆い被さられるまま、諦めて体を横たえた。
 歯列をなぞって舌が伸びる。ぬるりと口内で蠢く感触に首の裏がぞわぞわするのを、騙し騙し、見て見ぬふりをして。そっと類の背に手を回した。
 少しばかり性急なキスに類の余裕のなさが窺える。無論、悪い気はしない。
 口の中を暴れ回る舌に、負けじと甘噛みを返す。口蓋が弱いことはとっくに知られている。上擦った声が漏れて、ぴくん、と司の腰が跳ねた。
 まて、と咄嗟に音にした。引き摺り出された舌を差し出したまま、互いの唇を糸が繋ぐ。
「ん、んう……す、するのか?」
「ダメかい……?」
「んんっ、だめ、ではない、が……っ、こら、わかった、わかったから!」
 シャツの隙間から直に素肌を撫でられ、呼吸が乱れる。
 久しくしていなかった行為の甘い痺れが呼び起こされ、司は慌ててその手を掴んだ。
 するのは、いい。司とて、類に抱かれるのが嫌なわけではない。むしろ……いや、これ以上は墓穴だ。やっぱいまのはなし。
 嫌じゃない、けど。
「たくさん走ったから、まずはシャワーが、いい」
 そっと類の耳元で囁く。
 今日は散々、ぼたもちを追いかけて北へ西へ、全力疾走したのだ。汗臭い自覚はあった。類は気にしないかもしれないが、好きな人にはやはり綺麗なところを見てほしいし、愛されるなら尚のこと。
 ふむ、と類は目を細め、少しだけ考える素振りを見せて。ようやく調子を取り戻したのか、ふわりと表情を綻ばせた。
「それなら、一緒に入ろうか。背中流すよ」
「それはありがたいが……するのはベッドでだ。我慢できるのか?」
「するさ。僕も今夜はゆっくり、君と愛し合いたいからね」
 そう言ってふにゃふにゃ笑う類につられて、司もまた口角を上げる。
 奇遇だ。司もちょうど、そんな気分だったのだ。
……仕方ないな」
 呟いて両手を挙げる。ならば精々、バスルームまでエスコートしてもらおうじゃないか。
 なにも言わずとも司を抱きかかえた類に、目を細めて。
 司はそっとその肩に顔を埋めた。


     ■


「これはまたすごい隈だな……
……あー」
 翌日。ぼたもちと共に司達の家を訪れた彰人は、一晩ですっかりやつれきってしまっていた。
 あまりよく眠れなかったのだろうか。目の下にはくっきりと隈が浮かび、青白い肌がまた悲壮漂う。
 ぼたもちはといえば、変わらず愛嬌ある顔つきで舌を出し尾を振っている。彰人の足の上に乗るのがお気に入りのようで、先ほどから陣取ったままその場を動こうとしない。
 その懐きっぷりに、キッチンで三人分のコーヒーを淹れていた類も思わず苦笑した。
「すいません……センパイ、ぼたもちのことあと二週間……いや、一週間でいいんで、お願いしていいですか……
「それは大いに構わんぞ! しかし昨日の一件で少しは仲を縮めたかと思ったが……オレの思い違いだったか?」
……いやー……オレが世話するには、こいつはちょっと、パワフル過ぎて……
「ああ……
 思えば、散々ぼたもちが彰人に飛びつきたがっていたのを司によって阻止されていたので、フラストレーションが溜まっていたかもしれない。好奇心旺盛な年頃で、しかも育ち盛りだからなあ……
 しかし一週間でいいのだろうか。ちら、と司が類に視線を送る。類さえ構わなければ、別にあと二週間、三週間と預かっても、司としては問題はないが……
 司の視線を受けた類も、小さく頷いた。昨夜は類が満足するまで付き合ったのもあって、今日はいたく機嫌がいい。
 もしも彰人が遠慮しているならば、こちらから進言しようか、と司が身を乗り出す。だがそれよりも先に彰人が手で司を制した。
「大丈夫です。……そのあとはしっかり、オレが面倒みますんで」
「! ……そうか」
 香ばしい湯気を燻らせて、類が客人用のコーヒーカップを彰人の前に置く。
「フフ。東雲くんの苦手克服も近いね」
「それは勘弁してくれ……
「よかったな〜、ぼたもち!」
「わふう!」
「聞けよ」
 ――世間話もそこそこに。
 このあと用があるからと帰り支度を整えた彰人を、ぼたもちが追いかける。
 玄関先で靴を履く姿をじっと見つめ、ぼたもちは顔を上げ尾を下ろした。連れていって貰えないことを理解しているのだろう。
……
 彰人は腰を折り、まだ躊躇を見せながらも――そっと、ぼたもちの首元を撫でた。
「じゃな」
 それだけ残し、立ちあがった彰人が踵を返す。
 ふわりと揺れる癖っ毛。ぱたりと閉まるドア。呆気ない別れだ。あまりにも。
 力なく地に下ろした尻尾をゆらゆらと左右に揺らめかせながら、彰人が出て行ったドアを見つめ続けるぼたもちの姿に、司は少しだけ胸が締め付けられてしまった。
「ぼたもち……
「フフ……
……笑うところか?」
「ああいや。司くんが気に病むことはないんじゃないかな。フフフッ……やっぱり僕らは、こういうのがお似合いだね」
「んん……?」
 司は首を傾げたが、類があまりに上機嫌でぼたもちと共にリビングへ戻っていくので。わけがわからないながら、その背を追うことにした。
 一歩先に、明るい日の光が待っている。
 きっと司には見えなかったのだろう。別れ際の彰人の、あの罪作りな微笑みが。