桐子
2025-01-31 22:24:10
2508文字
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美しい傷⑦(父水♀)


「ご高説、痛み入る」
男はゆっくりと水木の方へ歩み寄ってきた。その目の奥に宿る暗い光に、水木の体は竦み上がった。
「倅に寂しい思いをさせておることくらい、知っておるわ。じゃがそれは、お主たちのせいではないか」
背の高い男が、威圧するように上から見下ろした。だが、目をそらしたくなくて、ぐっと腹に力を入れて睨み返した。
「妻をかどわかし、薬漬けにして風呂に沈めようなどと……岩子が何をした。妻は行き場のないやくざ者たちをあたたかく迎え入れ、愛しておった。わしにはもったいないくらいの、優しい女じゃった。殺すなら、わしを殺せばよかったのじゃ!!」
怒りに燃える男の目は、水木など見えてはいなかった。きっと、彼の目には死んだ妻の姿が見えている。
男は水木の腕を掴んだ。骨が折れそうなほど強く掴まれて、水木は痛みに顔をしかめた。だが、彼は力を緩めるどころかますます力を込めただけだった。
「あの子から母を、わしから妻を奪っておいて、ようそんなことが言えたな。それとも、倅を心配する優しい女でも演じて、わしに取り入ろうとしておるのか?」
……っ!そんなつもりじゃ……
「黙れ! 聞きとうないわ!」
男は水木の口を大きな手でふさいだ。息が出来ずにもがくが、彼は力を緩めなかった。そしてそのまま、水木の体を引きずるように歩き出した。縁側まで来た親分は、窓を開けた。外はいまだにどしゃ降りの雨だった。
「ーーーー少し頭を冷やして、自分たちのしたことを思い出してみよ」
男はそう言って、雨が降る中へ水木の体を投げ捨てた。
「うわっ!」
とっさに受け身を取ったが、したたかに肩を打ち付けた。水木の体が地面に転がったのを見て、男はそのままガラス戸の鍵を閉め、その奥にある障子をぴしゃりと閉じた。顔も見たくないということだろう。
水木は痛みをこらえてふらふらと起き上がった。薄い浴衣は雨に濡れて体に張り付き、泥まみれだった。
こんなところに立っていても仕方がない。水木は屋敷の中に入ろうと、歩きだした。
しかし、どこのドアも窓も固く閉ざされていて、入ることはできそうにない。
「すみません、開けてくれませんか」
見つけたドアを叩いたが、中からの返事はない。防犯のためか、あるいは水木への仕置きなのか。雨は容赦なく体温を奪っていく。歯をカチカチと鳴らしながら、せめて少しでも雨を凌ぐために、庇の下へ避難した。
「さむ……
水木は自分の体を抱きしめ、しゃがみこんで小さく丸まった。
ーーーー余計なことを言うんじゃなかった。失敗したとは思ったが、後悔はない。鬼太郎には寂しい思いをしてほしくない。彼らはまだ生きているのだ。人間は生きているうちにしたいことをしないといけないのだ。
大丈夫、鬼太郎はちゃんと親分に愛されている。そうでなければあんなに怒ったりしないだろう。
きっと、彼らは妻を、母を失って寂しいのだ。その原因は自らの一族にある。責められるのも、憎まれるのも当然だ。だから甘んじて非難は受け入れる。殺されていないだけマシだ。
だが、このままでいいとはどうしても思えない。親分は、いつも水木を詰りながら、自分が傷ついた顔をしている。きっと本来の彼は優しい男だが、妻を失った悲しみと怒りが彼をああさせているのだ。

結局、三十分ほどして、たまたま水木の姿を見かけたねずみ男が中へ入れてくれた。
彼が通りかからなければ、朝まで外で過ごしたかもしれない。
部屋に戻ってすぐに熱い風呂に入り、布団に潜り込んだ。しかし、骨身に染みるような寒さは消えず、水木はその日の夜から高熱をだした。




健康だった水木は、今まで風邪もほどんどひいたことがない。しかし今は、かつてないほどの高熱にうなされていた。フラフラと起き上がって水を飲むのも一苦労で、食事などとる気にもなれない。薬もなく、体温計がないから正確な体温さえわからない。水木はただ、ぐったりと布団に横たわって過ごした。
頭が熱くて、何も考えることができない。うつらうつらとするたびに熱が上がったり下がったりして、意識は朦朧としている。
水木は天井を見上げながら思った。このまま死ぬのだろうか。死にたくないけれど、それでもいいような気がした。生きていても苦しいだけだ。それならいっそ、両親のいる所へ行きたかった。
お前だけでも生きるんだ、と言って最期まで水木を案じてくれた両親のために、生きなければならないと思っていた。でも、このままではあまりにつらすぎる。惨めで寂しくて苦しくて、もうどうしていいのかわからない。
「水……
喉が渇いて、そう呟いた。水道の水を汲んで、枕元に置いていたはずだ。だが、それを飲むために起き上がる気力もない。諦めて水木はまた目を閉じた。このまま眠っていれば、そのうち熱も下がるだろう。
――――ふと、額に何か冷たいものが触れた。大きくて少しかさついた手のひら。熱に潤んだ目で見上げるが、薄暗いせいでよく見えない。手の持ち主は、水木の首の下に手を差し込み、起こしてくれた。唇に冷たいものがあてられ、それがコップだと気が付いた。冷たい水がするすると流れ込んで、熱に乾いた喉を潤していく。一杯目を飲み干してしまうと、また水を注がれたコップが口元へ運ばれた。それを飲み干すと、手の持ち主はまた水木の体を寝かせてくれた。
ああ、これは夢だ。水木は嬉しくなって微笑んだ。
「おとうさん……
額に当てられた冷たい手を、水木は握りしめた。子どもの頃に熱を出した時、父が看病をしてくれたことを思い出した。すりおろしたリンゴを食べさせてくれたり、氷枕を取り替えてくれた。苦い薬を飲んだら「よく飲めたね」と褒めてくれた。水木の目からは、いつしか涙が溢れていた。
「おとうさん、もうどこにも行かないで」
ーーーーこれは夢だ。現実では父は炎に飲まれて死んでしまったから、こんな都合のいいことが起きるはずがない。それでも、夢でもいいから会いたかった。そばにいて欲しかった。
水木の目からまた涙がこぼれた。ひやりとした冷たい手は、涙を拭うように頬に触れ、そのまま頭を撫でてくれた。