麗が風邪を引いたらしいと知ったのはシフトに入っていたカフェに出勤して有さんから今夜の仕事内容の変更を聞いた時だった。元々麗が行く予定だった数時間の軽い警護任務に代わりに出てほしいと言われてそれを了承してから、「麗、どうかしたの?」と聞いた俺に、有さんはいつも通りの顔で麗が風邪を引いていることを教えてくれた。思わずランチのセッティングをしていた手を止めた俺に気がついて、「そんな重症じゃないから明日には治す、と灯世に連絡が入っていた」と付け足してくれる。
「あ、そっか……、……」
「……?」
「ううん、ごめん、なんでもない。じゃあ今夜の仕事のこと後で詳細ください」
「ああ、灯世に連絡しておく」
仕事に関係することだから麗が灯世さんに連絡するのは当然だ。灯世さんと一緒に住んでいる有さんにそれが伝わるのも不思議じゃない。
でも、さぁ、麗。体調崩したんなら、恋人の俺にも連絡してよ。すぐそこに住んでるんだからお見舞いくらいさせてほしい。麗が簡単に甘えたくないのも分かってるし、弱みを見せるのが苦手なのも分かってる。きっとすぐに治して、次に俺に会う時には風邪を引いていたことなんて少しも感じさせないいつも通りの顔をするんだろう。それでも俺は麗に教えてほしいし、麗が辛い時そばにいたいよ。
モヤモヤとした気持ちを振り払うようにいつもより明るく接客をして、カフェのシフトを上がった後は灯世さんから事務所に来るように連絡が来ていたから着替えてそのまま事務所へ顔を出す。ちょうどのタイミングで来た灯世さんと由鶴さんを交えて仕事内容を確認し、腹ごしらえをしてから指定された場所へ。特に危険なこともなく無事に仕事を終えた報告をしたら、直帰していいと言われたから終電よりもずいぶん早い電車に乗って家へと帰った。
自分の部屋に荷物を放り投げてすぐに階段を駆け上がり、扉の前で深呼吸をしてからインターホンを押す。数十秒待ってからもう一度押し、もしかしたら寝てるかもと思い当たって一歩後ずさったところで扉の向こうから物音がした。
「麗?」
一瞬の静寂の後、ガチャッと鍵の開く音がして扉がゆっくりと開く。隙間から中を覗くとオデコに冷えピタを貼って赤い顔の麗が恨めしげな表情で俺をじとりと睨み上げた。
「……ごめん、起こしちゃった?」
「……、……なんの、ようだ」
「用っていうか……その、風邪だって聞いたから」
「……だから、ねてたんだろうが……。……かえれ」
「待って、飲み物とか食べ物適当に買ってきたから、……心配だから、ちょっとだけ一緒にいさせて」
「……」
たぶん熱があって、いつもより頭が回っていないんだろう。麗は俺の言葉を聞いて数十秒固まり、なんの返事もせずにふらりと部屋の中へと戻った。反射的にその背中を追いかけて玄関に入ったところで麗が振り返る。
「おい」
「っ! あ、やっぱりダメだった……?」
「ますく、ちゃんとしろ」
「……は、はい」
それだけ言い残して壁を支えに進む麗のところへ靴を脱ぎ捨てて駆け寄る。腕を取って肩を貸すと麗が俺を見上げた。
「……かみや」
「ん? ベッドまで手伝うよ。いいだろ?」
「……、……かんがえんの、だりぃ」
「うん、考えなくていいよ」
「……」
はぁとため息を吐き、麗は俺の方へ体重をかけた。それをしっかり支えてゆっくりと前へ進む。薄暗い部屋の中の奥にあるベッドは布団がぐしゃっと乱れ、枕元にペットボトルが転がっていた。麗が、好きな子が、一人きりで苦しんでいたことを実感して心臓がズキンと痛む。
ベッドまで辿り着き麗を丁寧に寝かし、体の上にしっかり布団をかけて顔のすぐ横にしゃがみ込んで視線を合わせた。
「うらら」
「……?」
「冷蔵庫開けさせてもらうね、買ってきたものしまうから。お腹は空いてない?」
「……わかんね……」
「ゼリーとかなら食べられるかな? それとももうちょっと寝とく? ……眠そうだね。じゃあしまっておくから、食べられそうな時に食べて」
「ん……」
「……それと、つぎ、なにかこういう……風邪引いたとか、どっか怪我したとかでもさ、なんでもいいから、……俺に、教えてほしい」
「……、はあ……?」
「心配させて。麗のこと、大切にしたいから」
「……ばか、なんで、ンな顔してんだよ」
麗は呆れた顔で手を伸ばし、俺の額をつんっと弱い力でつついた。ああ、俺、きっと情けない顔をしているんだろうな。うまく切り替えられないままへらっと笑みを浮かべてみせると、眉間に皺を寄せた麗が俺の頬をきゅっとつねった。小さく動いた唇が「あほ」と呟いたのに気がついて表情を緩める。
「眠たいのに邪魔してごめんな。もう帰るから」
言いかけた俺の手に熱い手が触れた。捕まえるというには頼りないくらいに弱い力で、指先だけがかすかに絡む。目を見開いて麗を見つめると、麗は自分でもどうしたいのか困っているように視線を彷徨わせていた。
「……もうすこし、いてもいい?」
「……」
「うらら、おねがい。麗は寝てていいから」
「……なんのためにいんだよ」
「手、繋いでていい?」
「……」
ダメだって言われないから、俺は麗が掴んでくれた指先を優しくほどいて手のひらを重ねた。今は俺の手の方が冷たくて気持ちいいかもしれないけど、きっとすぐに熱を持ってしまう。
「……ますくしろ、ばかみや」
「うん、あとでする。大丈夫、俺こうみえて結構身体丈夫だから」
「みためどおりだろ……」
ふぅと息を吐き出すくたびれた様子に反射的に「ごめん」と謝ると麗はチラッと俺と視線を重ね、なんにも言わずに目を瞑った。繋いだ手は振り解かれることなく布団の中に引っ張り込まれる。
「あとで、かぎ、しめてこい」
「え、鍵?」
「ろかとか、ゆづるとか、よけいなやつが来るかもしんねーから……あいてしなくていいから、いるすしとけ」
「……俺はいていいの?」
「……かえりたいなら」
「やだ。……まだ、ここにいる。由鶴さんに連絡しておくよ、俺がちゃんと看病しますって。あ、でもごはんは由鶴さんが作ってくれたものの方が栄養あるかも……」
「んなくえねーし、おまえでいい」
「……」
「もう、ねる……つかれた……」
「う、うん。ごめん、いっぱい喋らせちゃったな。いっぱい寝て早く元気になって」
「……て、まだ、そのままで」
小さな声でそう呟いた麗にきゅっと握られた手を、離せるはずなんてなかった。風邪を引いている麗の赤い頬に負けないくらい、たぶん俺の頬も赤くなっている。
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