ロトに頼まれ試作品の一人用舟に乗り、その操舵具合を確認するつもりが海と戯れているうちに随分モトゥヌイから離れてしまったのに気が付いたのは大分経っての事だった。
幸い見慣れた海域にモアナは胸を撫で下ろし、風を受け止め膨らんでいる帆の向きと舵を取り方向転換を難なく決めた。思い描いたように動く帆、なめらかに海上をすべる船の乗り心地や他にロトに伝えるのを指折り数えて上げていれば突如頭上に影が掛かった。
目庇を作り見上げれば海鳥が太陽の前を横切ったらしいが如何やら違うらしい。
まず普通の海鳥にしては巨大すぎた。かと言って聞き馴染みのある甲高い鷹の鳴き声とは似ても似つかない濁ったけたたましい鳴き声。極めつけは旋回していた巨大な影から小さな影が分離して落ちてくる始末。
研ぎ澄まされた危機察知能力と脊髄反射でモアナは咄嗟にオールで大きくなってくる影を振り抜いた。
しかし、本来小気味いい音を立て振り抜いた先に飛んで行く筈だった衝撃がオールから消えず、それを振り払うべくオールを舟に叩きつける直前ひっくり返したオールにしがみ付く影にモアナが声を上げた。
「カカモラ!?」
しかも、見知った顔の相手。小さな手足でオールにしがみ付いていたコトゥに申し訳ない顔を向け、彼が下りれるよう甲板にオールの先端を置いた。
「どうしてここに?」
疑問を抱くモアナにコトゥは自身のココナッツの体を数回叩き頭上で旋回している大きな影を指差した。
「勇敢な戦士として名を上げるため一人で魔物と戦っていたら、いつの間にかモトゥヌイの近くまで来てしまっていた。…なるほど」
青空を泳ぐ巨大な影をよくよく見れば右翼を庇い飛んでいるらしく歪な円を描き飛行している。ただ太陽を常に背負い飛んでいる狡猾さは健在のご様子。目を眇め魔物を追うモアナの足元から乾いた軽快な音が奏でられた。
「手出し無用。自分一人の力であの魔物を倒したい……でも、他の魔物は私も手伝っていいでしょ?」
モアナの言葉に顔を傾げたコトゥが頭上を飛び回る影の数が増えていたのを気付くなり骨メットを上げた。
そして、喧しい鳴き声が響いたのを合図にモアナたちが乗っている舟目掛け皮の翼を持ち長い嘴を持つ魔物の群が襲い掛かってきた。
「しっかり捕まってて」
舟の構造と性能を熟知した洗練された身軽な動きで舟を操り危なげなく魔物の攻撃を避けるモアナにコトゥは振り落とされぬよう小さな体でしがみ付き、隙を見てマストに登り天辺から毒矢を放った。
コトゥの放った毒矢は魔物の赤い右目に見事命中し断末魔を上げ海に落下していった。素早く動き回る相手の狙った場所を的確に射る精度の高さにモアナが歓喜の声を上げ、自分も負けてはいられないと勢いをつけ魔物との正面衝突を紙一重で躱した。
派手な水飛沫を上げ舟の向きを変え、急ぎ反転する魔物を今度こそオールで振り抜いた。腕に掛かる重みに歯を食いしばるモアナに呼応してか左腕のタトゥーから輝く金色がオールに流れ込み、一際眩い光を放ったかと思えば短い呻き声を上げた魔物が綺麗な放物線を描き海の彼方へ飛んで行っていた。
腰の入った豪快なスイング。想像以上に飛んで行ってしまった魔物の方角を見つめたモアナの視線がそのままコトゥに向き誤魔化すように彼女は肩を竦めた。
「って、やってる場合じゃない!!」
2体魔物を仕留めたが、まだ10体近い影が殺意を濃くさせ上空を泳ぎ回っている。
すぐさま態勢を整えるモアナにマストの天辺から飛び降りたコトゥがオールの上に着地を華麗に決め一度だけ硬い体を叩き遥か頭上を指差した。
「思いっきりって私、今出来たばっかって…んンっ!!」
迷う暇をくれない熱烈な魔物たちにモアナはオールを握る手に力を有りっ丈込めコトゥを蒼穹に打ち上げた。軽すぎるコトゥの体は弾丸のように魔物たちの間を通過し、研ぐ手入れを欠かさない短刀で皮の翼を切り裂き上昇が停止するのに合わせ毒矢を連続で吹いた。
コトゥを打ち上げたモアナは上空から落ちてくる魔物たちのコーラスを避け、死ねば諸共道連れ覚悟で突っ込む魔物をオールで叩き落し、軽妙な音を立て戻って来る小さなココナッツをその身で受け止めた。
モアナの腕の中に納まったコトゥが骨メットを上げ数度ココナッツの体を叩き小さく鳴き。
「おかえり」
と、柔和に微笑み返した。
「それって全部やらないと駄目?」
海上に浮かぶ魔物の死骸を舟に引き上げ手慣れた手付きで迷うことなく頭部を切断するコトゥにモアナの顔は引き攣ったまま戻らない。
十中八九打ち取った証を持ち帰るためだと思うが、魔物の毒々しい血がべっとりこびり付き甲板に広がっていく光景にモアナは嘆息を吐いた。海に頼んで流してもらおうにも、とっくに魔物を舟の方へ寄せてくれている申し訳なさで頼めない。
心なしか不承不承感が滲み出ている。
「この舟じゃあなたを送り届けるのに不安だから一度モトゥヌイに戻るけど、いい?」
引き攣った表情を何とか解し問い掛けるモアナにコトゥは頷きながら体を叩き、人で言う所の小指と親指だけを立てた手を陽気に振るう。
随分砕けた返事に怪訝そうな顔で見下ろしていたモアナの上にやにわ影が差し、腹の中まで響く重低音の発生場所を特定すべく振り返った。
「……平気みたい」
仰け反るほど巨大な海賊カカモラの海賊船。陽気な仕草が自分の後方にいる彼の仲間たちに向けてやったのだと悟ったモアナは右足に掛けていた重心を左足に移動させ腰元に手を添えた。
しかしながら、お迎えがいるのであれば何ら心配要らぬだろう。などと──。
「乗船させてもらうのこれで三回目ね。一回目は勝手に乗り込んじゃったけど」
切り落とした魔物の首をわらわら舟から運び出すカカモラウェーブに巻き込まれ三度の乗船を果たした足元が絶賛ココナッツに埋もれている現状に首を竦めた。
カラコロ、カラコロ。体を楽器のように鳴らすカカモラたちから敵意は感じない。むしろ友好的でさえ感じるのはモアナの舟にこびり付いた魔物の血を洗い落とそうとしているからだ。小さな体で懸命にしつこい汚れと戦っているが些か旗色はよろしくない。
「ありがとう、その気持ちだけで充分……え、なになに?」
唐突にモアナの舟からカカモラたちが引き上げた。やってもらっておいてアレだがやめるの早くない?というモアナの疑問は、全身ぶよぶよな緑色の魚がのっしのっし海賊船の奥から出てきた事で違う疑問に上書きされた。
眉間に力を込め目を細める。毒消しや神経毒を生成する”なんでも”出る魚は、数人のカカモラたちが甲板で何か動き始めたのを凝視している。カカモラ語の全てを理解したわけじゃないが、踊りにも似た身振り手振りで代わる代わる動く光景にモアナの目も釘付けになった。
言葉は分からずとも終わりが近い雰囲気にモアナは息を飲み、天高く手を伸ばし力なくモアナの舟の甲板に倒れ込むカカモラに緑色の魚は声を上げ号泣した。飛び出た涙から止めどもなく流れる涙が甲板を濡らしていき、待ってましたと云わんばかりに傍で控えていたカカモラたちが甲板を磨き始めた。
「すごい…、魔物の血がどんどん取れていく…」
本当に何でも出る。彼に出せないものは何もないのではないくらいに。
「洗い終わるまで海賊船内を案内してくれ、る?」
緑色の魚から意識をいつの間にか肩に乗っかっている共にモトゥフェトゥの呪いを解いたコトゥに注いだ。
本音を言えば前からモアナたち人間が作る舟と彼らカカモラたちが作る船の構造の違いに興味があった。山と見紛うばかりの巨大船を作る技術はモトゥヌイにない。滅多にない機会だし、お言葉に甘えモアナはコトゥに船内を案内してもらう事にした。
「これは船というより大きな家ね」
故郷に帰るため長い間海上生活を余儀なくされたのだから当たり前といえば当たり前。広い倉庫にたんまり蓄えられた食料や必要物資。休憩室、厨、寄合所まで完備され快適な暮らしをするのに余念がない。
船体から生えているココナッツの木は瑞々しく栄養も行き届いている。表面の木肌を撫で太陽光を柔く遮る椰子の葉を仰いだモアナの耳元で『きゅぷきゅぷ』と生き物のような鳴き声が聞こえた。ココナッツの体を叩き意思表示するのではない、彼らの鳴き声はよくよく聞けばカカモラごとに違い肩に乗り案内してくれているコトゥは他のカカモラよりも幼い印象を受けた。
「そうね、舟の汚れを落としてくれるお礼を言わないと」
ショートカットを使わずに内部の正式ルートで海賊船の頂上を目指していたモアナは、自分の舟の汚れはとっくに落ちピカピカになっている事はおろか海賊船に牽引される形でモトゥフェトゥ海域に海賊船が動き始めているのを知る由もなかった。
夜空の海に輝く星たちの光が手を伸ばせば届いてしまいそうな近さに見惚れた。
「どうしようかしら」
口ずさんだ心配事は順調に航海を続ける波音と賑やかなカカモラたちの話し声に仲間入りした。流れ星を溶け込ませていたモアナの瞳が隣で星空を見上げているコトゥを膝を抱え直し覗き込む。
「盛大な宴をしてくれるのは嬉しいけど、そろそろ私モトゥヌイに帰ら、……だめ?」
思っていたより帰りが遅くなったじゃ到底済まない時間帯に浸かっている。
深い青を眺めていたコトゥの顔がモアナを無言で仰ぎ眺めるので途中まで出かかった言葉を飲み込み問い掛ける。無論、駄目だった。
海賊カカモラの首長に挨拶、そして舟を綺麗にしてくれている礼を述べ爽やかな気分でモトゥヌイに帰るべく踵を返すモアナの足元をカカモラウェーブが攫う。舟に乗り込む度、幾度も繰り返されモアナが抗議一歩手前の声を上げるのを見計らったかの如く、カカモラ族首長が甲板を鋭利な獲物の柄で数度叩いた。
刹那、辺りがしんと静まり返る。自分の呼吸音や鼓動がやたら大きく聞こえ、モアナは何か失礼な事をしてしまったかと身構える間もなく打って変わって歓声がワッと上がった。さながら彼らがモトゥフェトゥの帆を初めて見た時のよう。
賑やかで慌ただしく目の前に運ばれる極彩色の、食べ物らしい何かたち。中には不規則に痙攣している魚らしきシルエットの生き物がいたが、豪快にモアナの目の前で首を落とされた。重い切断音に続き鮮やかな刃物捌きで魚を捌き、椰子の葉にその新鮮な身をこれまた綺麗に飾られ並べられた。
「えっと…いただきます……」
持て成しを無碍に出来る空気ではない。引き攣った顔で一切れ摘まんだモアナが意を決して口に入れた。恐る恐るゆっくり咀嚼していれば舌の上に広がる旨味に目を輝かせ嚥下する。
「おいしいっ!」
モアナの弾んだ声を皮切りに魚を捌いたカカモラが隣でつまみ食いしようとしていたカカモラの背中を嬉しさから叩き、叩かれたカカモラは顔面から刺身の海に突っ込んだ。
そして、一口食べたが最後。見た事のない食べ物たちの波状攻撃がモアナに襲い掛かる。これもあれもと肉、魚、果実、…得体の知れない多種多様な食べ物たちを担いだカカモラたちがずらり目の前に並び、しまいには太鼓を打ち鳴らす踊りまではじまりモアナは帰るタイミングをすっかり失ってしまった。
「星が流れていく」
流星の声に耳を澄ませ故郷モトゥヌイの声を聞く。胸に募る郷愁にモアナは立ち上がった。
「帰らなきゃ」
今生の別れではない。どんなに離れていても海で繋がっている想いからモアナが星明りの下で微笑む。無数の光る星々を背負うモアナにコトゥは微かに俯き、どこからともなく小さな木の実を片手で握り割った。固く砕ける殻が甲板に落ち、コトゥの赤みを帯びた掌をさらに赤く染め上げる。血、には見えない。恐らく木の実の汁と思われる液体を空いている手の指先に乗せ、モアナの了承を得ずにコトゥは彼女の目元に化粧を施していく。
どのようなものを描かれているか手立てを知らないモアナは大人しくコトゥの気が済むまで待ち続けた。
程なくして完成したらしく無言でモアナの目元と彼女が乗ってきた舟を指差すコトゥに「バレないようにってことね」静かに頷き、そっと宴から抜け出した。たった一人見送ってくれるコトゥに手を振りモアナは暗い海に舟を走らせ──。
「おい、巻き毛。そいつは如何した」
夜にしては珍しい、なんて現実逃避したくなる鷹の鳴き声と重低音響かせ船体を大いに揺らし着地する心配で探しに来た半神半人の英雄に目元に描かれた婚姻証の化粧について詰められに詰められる事になったのだった。
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