猫澤
Public
 

ミスターノンセオリスト

大罪アンソロジー寄稿


 ――腹の底を震わせるような、大きな歓声。
 弾ける万雷の拍手。ぞくぞくと、体を這いのぼる興奮。全身で浴びる煌びやかな照明と、カーテンコールのさなか――ふと顔を上げた瞬間に瞳が揺らいだ。
 まるで世界中の視線を独り占めしているみたいだ。
 汗が首筋を伝い、落ちていく。息が弾む。ああ、惜しい。まだここを離れたくない。一分一秒でも長く、オレはショーマンとしてこのステージに立っていたい。
 いま、この瞬間。……オレは生きている!
 完全に幕が下りても、拍手は止まない。震える足を叱咤して隣に立つ類の肩を借りながらどうにか袖へと捌ける。お疲れ様でした、と労わるスタッフの声がやけに遠かった。果たしてオレは上手く言葉を返せていただろうか。熱が冷めない。舞台上から見た光景が、まだ瞼の裏にこびりついている。
 類とともに縺れ合うように、控室へと転がりこんで、ひと息。
 大きな舞台をやりきった達成感と、気持ちのいい倦怠感に、このまま身を任せてしまいたい気分だった。
 しかし類に腕を引かれ、目が合った瞬間に思考などどこか遠い星空の彼方へと飛び去っていく。
 上気した頬と、熱のこもった眼差しに声を奪われる。
 ひやりとしたドアに背が触れた。どくどくと波打つ鼓動。この興奮を分かち合いたいと、分かち合えるのはお互いしかいないと、……きっとどちらもが理解している。
 触れたくちびるの柔らかさ。それは呆気なく離れていったが、視線を少し持ち上げた先、類らしからぬ獰猛な瞳に、心がざわめいた。
 キスをした。……大切な仲間であるはずの、類と。

     ■

 快晴が広がっている。
 わたあめのような質量のある雲に、どこからともなく走ってきた赤い汽車が突っ込んでいく。
 青いキャンバスに白の線引き。ああ――のどかだ。穏やかで、平和で、小鳥の囀りが聴こえてくるようなそんな麗かな昼下がり。オレはひとりベンチに腰掛け、ぼんやりとなんの変哲もない空を眺めていた。
 ワンダーランドのセカイ。ここはショーで世界中の人達を笑顔にしたいというオレ達の想いから生まれた奇想天外奇妙奇天烈な異次元空間。……だったのだが、いまではすっかり我が劇団・ワンダーランズ×ショウタイムの秘密基地と化している。
 大きな観覧車に、サーカステント。自由自在に駆け抜けるジェットコースターと、回り続けるメリーゴーランド。花畑は歌い、木々は踊る。
……ここに来てみれば、気が晴れるかと思ったんだが)
 そう上手くはいかないものだな、と嘆息する。
 突然ひとりでセカイを訪れ、わけもなく空を眺め続けるオレをここの住人であるぬいぐるみ達も心配になったのだろう。ぽてぽてとどこかおぼつかない足取りで近づき、ひょこりとオレの顔を覗き込んだ。
「ツカサクン、ダイジョウブ?」
「オナカイタイ?」
「イタイノイタイノトンデケ、スル?」
「いや、大丈夫だ――
(特に具合が悪いわけではないからな……
 むしろ体の方はすこぶる元気、絶好調だ。……ほんのちょっぴり、アンニュイなだけで。
 ――昨日、オレ達ワンダーランズ×ショウタイムは大きな公演の成功を収めた。
 数ヶ月前からメンバー全員でああでもないこうでもないと必死に構成を考え、脚本、演出、衣装とすべてにこだわり抜いて、我ながらいま出来る最善、間違いなくワンダショ史上最高傑作の素晴らしい公演ができたと自負している。
 そこまではいい。問題はそのあと。
 ふに、とくちびるに触れる。公演後、興奮が冷めやらぬ中、控室へと転がりこんだオレは――我が劇団の鬼才の演出家、神代類とキスをした。
 類とオレは仲間であり、同時に気の置けない友人だ。しかしあれはどうも――いま思い返してみても、決して親愛のキスなどでは、なかった。
 もっと野蛮で、もっと本能的な……何より類の瞳が雄弁に語っていたのだ。これは、少なからず情欲のこもったキスであると。
 すると、さすがのオレも察せずにはいられんわけで。
 もしや類は――オレのことが特別な意味で好きなのではないか? と、ひらめいてしまったのである。
 だってキスとはそういうものだろう? いくら類に常識のぶっ飛んだところがあるといっても、あれで結構、人と距離を詰めるのには慎重な男だ。余程でなければ無闇に踏み込むような真似はしないし、そんな男が意味もなくキスを仕掛けるとは思えない。
 そして同時に、疑問がひとつ。
 小さく、いつからだ、と呟く。いつから、類はオレに想いを寄せていたというのだろう。
 正直なところ、心当たりはなくもない。類はオレといるときよく笑う。時折、やけに愛おしいものを見つめるような視線を寄越す。もしそれが恋心からくるものなのだとしたら……驚くほど随分と前から、類はオレに惹かれていたということになってしまう。
 それは、ちょっと。
 ……い、いじらしいのではないか……
(くっ……類のくせに……
 不覚にもときめいてしまって、オレはもぞもぞと膝を抱えて項垂れた。いやはやまったく、世界を魅了する男とは罪なものだ。おかげでオレも類の熱にあてられて、すっかり妙な気分になってしまった。
 だが……好意を向けられていると知って、嫌な気持ちになるわけもなく。
 むしろ類の一途さは好ましいとすら思う。それに、オレは類のいいところをよく知っている。信頼している。現状、恋と断言はできないが、類の気持ちに寄り添える自信は――十二分に、ある!
 細く息を吐き出す。……なんだ。ならばオレがすることはひとつじゃないか。
「フ……ハーッハッハッハ! この天馬司、求められて応えん男ではない!」
 そうとわかれば早速すぐにでも現実世界へ戻って類と話をしよう。
 きっと今頃類もオレに無体をはたらいてしまったことを悔いているに違いない。それなら類の気持ちを受け入れて、はやく安心させてやるのが、座長であり友人であるオレの務め。
 勢いよく立ち上がる。いつもの調子を取り戻したオレを見て、先ほどまでおろおろと心配そうに周囲を歩いていたぬいぐるみ達はぱあっと表情を明るくさせた。
「ツカサクン、ゲンキニナッタ!」
「アソンデー‼︎」
「ま、待てお前達、……どわ――‼︎‼︎‼︎」
 ……前言撤回。ひとまず類と話をするのは、オレが無事ぬいぐるみの山から脱出してからとしよう。

     ■

 からりと、どこからか舞い込んだ枯れ葉が神山高校の屋上で踊っている。
 空は穏やかな晴天だが、吹き抜ける風は肌を刺すほどに冷たい。そのせいか周囲には人っこひとり見当たらず、屋上は完全にオレと類の貸し切り状態となっていた。それもそうだ、こんな真冬の時期に屋上を訪れるやつなんて、変人かカップルくらいのものだろう。
 フェンスに背中を預け、膝の上で弁当の風呂敷を広げる。
 最近は妹の咲希がお弁当作りにハマっているので、このところオレの昼食はもっぱら咲希の手作り弁当だ。咲希のお手製とあってはさすがの類も早々くすねる気は起きないのか――ちらりと隣へ視線を向けると、類はすでに大人しくコンビニの惣菜パンにかじりついていた。
 ……二人きり、だな。
 藤色の髪が風に揺れるのを見つめる。類と腹を据えて話をするには絶好の機会だ。
 ……こほん。オレはあえてわざとらしく咳払いをして、類を振り返った。
「ときに、類よ。このオレに何か言いたいことがあるのではないか?」
 昨夜寝る前に考えた、「告白を受けるときのカッコいいポーズ」を披露しつつ、そう訊ねる。たまごサンドを一口でがぶりと腹に収めた類は、不思議そうにオレへと視線を向けて。
 言いたいこと……。と小さく呟いた。
「特にないね」
「そうだろうそうだろう、特に……はあ⁉︎ ないだと⁉︎」
 思わず聞き返したオレに、うん、と類はさも当然のように頷いた。
 ぴしゃん、と頭上に雷が落ちたかのような衝撃を受ける。だってお前、そんなはずはないだろう、舞台の千秋楽は一昨日のことだぞ? まさかキッ……じ、自分がしたことを忘れたとでも言うつもりか? さすがにそれは薄情すぎんか⁉︎
 忘れているなら思い出せ~~と、類の胸倉を掴みあげ、ゆさゆさと前後に揺さぶる。しかし類は依然けろりとした表情のまま「ないものはないからねえ」と続ける。
「な、何故だ……ッ」
「何故と言われても……
「だってお前、先日……き、き、き、キス、を……‼︎‼︎‼︎」
「ん? ……ああ、そのことか」
 そこでようやく、合点がいったと類が僅かに頬を持ち上げた。お前、嘘だろう、まさか本当に忘れていたというのか。ひ、人の、それも未来の大スターのファーストキッスを奪っておいて、そんなことがあっていいと思っているのか⁉︎
「オレのことが好きなのではないのか⁉︎」
「好きだよ?」
「な、ならば、こう……言うことがあるだろう! たとえば『付き合ってください』、とか……
「ふむ……。じゃあ、付き合ってください」
「『じゃあ』⁉︎⁉︎⁉︎」
 言うに事欠いてじゃあって言ったかこの男⁉︎⁇⁇
「し、信じられん……
 くらりと眩暈がして思わず頭を抱えた。
 こんなことってあるのか。せっかくこのオレがお膳立てをしてやったというのに、当の本人がこんなにのほほんとしているだなんて、一体誰が予想できたというのだ。
 まったく、スターであるこのオレにそんな態度をとれるのはお前くらいのものだぞ……。と、言いかけて。実際喉元まで来ていたそれを、脳内のイマジナリーえむと寧々が「あたし(わたし)達もいるよ」と元気よく手を挙げるので大人しく飲み込んだ。どいつもこいつも……座長に対するリスペクトが足りないのではないか⁉︎
 ずぞ。類がパックジュースを飲み切って、丁寧に折りたたむ。
 すっかり出鼻をくじかれたオレが、ぼんやりと徐々に平べったくなるパックの行く末を見つめていると、おもむろに類はそれをビニール袋の中へとしまって、それで……、と口を開いた。
「それで司くんは、僕とお付き合いしてくれるのかい?」
「ん⁉︎ まあ、いろいろと言いたいことはあるが……。そうだな、答えはイエスだ! オレはショーでもプライベートでも、類、お前の期待に応える自信があるッ!」
「そう。それはよかった……
 わずかに。安堵の表情を浮かべ、類が顔を綻ばせる。
 あまり見たことのない表情だったので、オレは目を瞬かせた。――どき、と心臓が妙な音を立てる。思わず左胸に手を当て首を傾げた。なんだいまの不整脈。
……?」
 なにか病気のサインだろうか。つい黙り込んで脈をはかっていると、その間に類はさっさと荷物を纏めて立ち上がった。鉄製のドアに向かってそのまま数歩進み、肩越しにオレを振り返る。
「話はこれで済んだね。先生に呼び出されていたのを思い出したから、僕はもう行くよ。……改めて、これからもよろしく」
「ああ……、また放課後にな」
「うん」
 類のグレーのカーディガンが風に吹かれて翻る。
 先生に呼び出されたって、いったい今度は何をやらかしたんだ。……しかし珍しいな、いつもなら類の問題行動はオレの監督責任だとか言ってオレもセットで呼び出されることが多いのだが。
 後ろ姿を見つめ、類が屋上を後にするのを見送って。
 ぽつん。ひとり屋上に取り残されたオレは、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
 何はともあれ、オレと類はこれで晴れて恋人同士だ。多少、想定とは違っていたが、こうなった以上これからは足並み揃えて世界が憧れる宇宙一のラブラブカップルに――
 ……
 …………
 ………………いや、やはり何かおかしくないか?

     ■

「咲希――‼︎‼︎‼︎ お兄ちゃんにマンガを! 貸してくれ‼︎‼︎‼︎」
「わ! びっくりした〜」
 放課後のミーティングを終え、まっすぐ帰宅したオレは勢いよく階段を駆け上がって妹の部屋へと押し掛けた。
 妹――咲希はバンドの曲作りの真っ最中だったようで、ローテーブルの上にはお気に入りのシンセサイザーが乗っている。
 床に散らばった五線譜。咲希は突然兄が飛び込んできて驚いた顔をしていたが、すぐにピンクのヘッドホンを外して、んー、と本棚に目を配らせた。
 長い入院生活で退屈しないようにと、本棚には両親が咲希に買い与えた漫画や小説がぎゅうぎゅうに詰まっている。ぱっと見少女漫画が多いように見えるが、流行りの少年漫画等もそれなりに多く、ジャンルは様々だ。
 かわいらしいうさぎのネイルを施した指先が、いくつかの背表紙をするするとなぞっていく。
「貸すのはもちろんいいけど、お兄ちゃんにおすすめのマンガってむずかしいな〜……
「できれば恋愛ものがいいんだが……
「え……ええー⁉︎ お兄ちゃんが恋愛もの――⁉︎」
 きらりと、ピンクサファイアの瞳を輝かせて咲希が声を張り上げた。そんなに驚くことだろうか。首を傾げると、「すーっごくびっくりしたよー!」と咲希は勢いよくオレに詰め寄った。
 やわらかい頬を桃色に染めて、一歩二歩とオレににじり寄る。その表情には明らかな好奇心の色が濃く浮かんでおり、愛らしい瞳にはまるで星が浮かんでいるかのようだ。
「も、もしかして、お兄ちゃん……ついにお付き合いしてる人が⁉︎」
「まっ、まあ……そんなところだ‼︎」
「きゃ――‼︎」
 黄色い声をあげ、咲希がうれしそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる。
 その度にツインテールがふわふわとたなびくのを横目に、オレは内心だらだらと冷や汗をかいていた。
 大丈夫、嘘は言っていない。まあさすがに、よくわからん流れで類と付き合うことになったとは言えんが……
 過程はともかくとして、類との関係に恋人がプラスされた事実は変わらない。オレが思っていた展開とは少々違ったが、これからは友人兼、ショー仲間兼、恋人として類と接していくことになるのだ。
 しかしかなしいかな、如何せんオレは恋愛経験が乏しい。これまでずっとショー一筋で生きてきたので、惚れた腫れたの感情の機微にとことん疎い自覚はある。
 知識がないなら学ばなくては。
 手っ取り早く何かから吸収できないものかと、思案に思案を重ねた結果、恋愛ものの漫画を読むのがいいのではないかという結論に至ったというわけだ。
「それなら、これとこれと……それからこれがオススメ!」
「け、結構あるな……
 咲希はにこにこと嬉しそうに頬を緩ませながら、本棚からいくつかの漫画をひょいひょいとピックアップしていく。
 どれも表紙は男子と女子がべったりくっついているものばかりで、中にはだいぶきわどい体勢のものもあり――なんとなくだんだん恥ずかしくなってきたオレはそっと目を横に逸らした。これなんかちょっと過激じゃないのか。未成年が読んで大丈夫なのだろうか。お兄ちゃん少し心配になってきたぞ……
「あとこれも♪ 青春真っ盛りなオトメの恋愛教科書だからね!」
 必読です! と手渡された漫画本も積み上げ、ふらつきながら「そうか」と頷く。恋愛教科書。それならなおのこと、読んで勉強せねばなるまい。
 恋人さんと上手くいったらお話聞かせてねー! と、咲希に元気よく見送られながら自室へと戻る。
 借りた漫画をベッドの枕元に置いて、ふう、と息をついた。試しに一冊、やたらと主人公の目が大きいカラフルな表紙の漫画を手に取ってみる。数ページ捲り、登場人物のセリフを噛み締め、物語を咀嚼していく。
「ふむふむなるほど……。ほう、意外と設定がしっかりしているな」
 生来の豊かな想像力のせいか、オレは本を読むのがあまり速くはない。類いわく速読には向かないタイプで、しかしその代わり没頭すると時間を忘れて集中できる。
…………なにっ……この男、何故主人公のわかりやすい恋心に気づかない⁉︎ くっ、もどかしい、もどかしいぞ――
 それからどれくらい経っただろう。――ぱたん。最後のページまで読み終えた本を、静かに閉じて。
 オレは、主人公に感情移入するあまり、目頭に浮かんだ涙を指先で拭った。
 まさかずっと好意を寄せていた兄の友人がラスボスで、いつも意地の悪い態度だったライバルがピンチに駆けつけ力を貸してくれるとは……。侮れん、侮れんぞ少女漫画。くっ……主人公の清らかな心が世界を救うシーンには感動してしまった。
 それに。主人公が恋を自覚するシーンには、はっとさせられるものがあった。人間だれしも最初から恋のハウツーを知り尽くしているわけではない。手探りで少しずつ距離を縮めて、互いの熱を感じ、仲を深めていくのだ。
 恋とはそういうものだ。しかし――
 ふと、昼間の類の言葉を思い出す。
 ――「じゃあ、付き合ってください」
 ――「そう。それはよかった……
 いつも隣にいるからこそわかる、微細な感情の動き。
 なかなかどうして、うちの演出家は他人の感情の動きには鋭いくせして自分のことになるとてんでダメだ。オレ自身も大概だが――もしかすると、類も実際のところ、恋というものをよくわかってはいないのではないだろうか。
 だってあの類だ。オレと引けをとらないくらい、ショーに一途な人生を送っていた男だ。とすると、昼間のあの不自然な態度も頷ける。
 ならば、と顔を上げた。オレが、類の手を引き、恋というものを手ほどきしてやろうではないか。咲希から借りたこの恋愛参考書で世の恋愛事情に明るくなったオレを見たら、きっと類も見直すに違いない。
 すごいじゃないか司くん、君は恋愛マスターだね、是非とも僕に恋のハウツーを指南してくれ! ……と尊敬の眼差しを向けてくるかもしれん。脳内でそんな類を想像してひとり「フフフ」と笑みを漏らす。
 にやける口元に手を当てた拍子に、指先がくちびるに当たって。ぴく、と体を震わせたオレは視線を足元に落とした。やわらかい皮膚の感触。………………
「よし」
 すう、と息を吸い込む。拳を天へと突きあげ、オレは勢いよく立ち上がった。
――名付けて『神代類、ペガサスにメロメロ大作戦』、決行だッ!」

     ■

 週末。授業の合間の休み時間に、オレはふと机の中にしまっていたスマホが震えているのに気がついた。ディスプレイを確認すると、どうやらワンダーランズ×ショウタイムのグループチャットが動いているようだ。
 すいすいと画面に指を滑らせる。送信主はえむだった。擬音の多い彼女の言葉を要約すると――明日は土曜日だが、急遽午前中にメンテナンス業者が入ることになったからステージを使えるのは午後からになる――という旨のメッセージ。
 ふむ、と返信の文面を考えていると、廊下から「やあ司くん、えむくんからのメッセージは見たかい?」と類がひょっこり顔を出した。
「ああ、ちょうどいま確認していたところだ!」
「そのようだね」
「場所を変えセカイで練習にするのもいいが、大きな舞台も終わったばかりだし、ここは思い切って練習は午後からにしようと思う」
「うん、いいんじゃないかな」
 劇団員のコンディションを整えるのも、座長の大切な務めだ。
 再びスマホに視線を落としてえむと寧々にメッセージを打つ。自分のクラスではないというのに、何食わぬ顔で教室に入ってきた類は、当然のように前の席を拝借してオレの机に肘をついた。
 さらりと、視界の端で類の藤色の髪が揺れる。視線を持ち上げると、存外近くにあった金色の瞳。ぱちぱち。瞬いて、そっとオレは類から距離をとった。
――そういえば司くん。昨日、君が以前観たいと言っていたショーのDVDを発掘したのだけど」
「発掘ってお前な……日頃から整理整頓はきちんとしろとあれほど」
「まあまあまあまあ」
 面倒だからってまあまあで流そうとするんじゃない。むっとくちびるを尖らせて、小言を重ねようと開いた口を、類の指先が止める。
「明日の練習も午後からになったことだし、せっかくだ。今夜はうちに泊まってふたりでじっくり夜通し鑑賞しないかい?」
……オレは構わないが、急にお邪魔してしまって類のご両親は大丈夫なのか?」
「問題ないよ。気にする人達ではないからね」
 むしろ大喜びしそうだと、頬杖をついた類がやわらかくはにかむ。
 以前類の家にお邪魔したときに少しだけ顔を合わせたことがあるが、たしかに人あたりのいいご両親で、類が寧々以外の友人を家に招待したことを本当に喜んでいる様子だった。
 そうだな、と頷く。
「ならば是非そうさせてもらおう!」
 それに。なによりこれは、ここ数日の勉強の成果を見せるチャンスではないだろうか。
 類と付き合うことになってからというもの、オレと類の関係にこれといった変化はない。キスも……あの日以来、していない。顔には出さないが、きっと類もどう接すればいいのかわからず悩んでいるはずだ。
 そこでオレが! 華麗に類の手を取り、リードする!
 我ながら完璧な計画――。類も惚れ直してしまうこと間違いなしだ。そしてオレにメロメロになった類ならば、また……
 にやにやと口元をだらしなく緩めるオレを、たまたま通りかかったクラスメイトが怪訝そうに見つめる。
 ただひとり、類だけが面白そうにそれを眺めていた。


「お邪魔しますッ‼︎‼︎‼︎」
「どうぞ、我が家と思って好きにくつろいでおくれ」
 SHRを終えてすぐに廊下で落ち合ったオレと類は、途中コンビニで適当な菓子と替えの下着を買ってから、類が自室として使用しているガレージへと向かった。
 ガレージのシャッターを開けた類が中へと促すので、遠慮なく室内へと足を踏み込めば。――目に入ったのは、相変わらず雑然とした類の部屋。
 好きにくつろげと類は言うが、足の踏み場もないではないか。かろうじてソファー周りはやや整頓されているように見えなくもないが……
「お前……人を家に呼ぶなら事前に片付けくらいしておけ」
「したよ?」
「これでか⁉︎」
 くらり。めまいがして思わずこめかみに手を当てた。片付ける前はいったいどんな惨状だったんだ。というか、この部屋で一晩過ごすというのにいったいどこにオレを寝かせるつもりなんだ類は。
 とりあえずソファーの横に背負っていた鞄を下ろす。ついでに着ていたコートとマフラーを畳んでいると、同じく荷物を片付けていた類がくるりとオレを振り返った。
「待ってて。いまお茶を用意するよ」
「ああ、お構いなく……――ハッ」
 ぴこん。頭上に電球が浮かぶ。密室にふたりきりのいまこそ、少女漫画で培ったオレの恋愛テクを類に見せつけるときなのでは⁉︎
 そうと決まれば善(?)は急げだ!
「類!」
「ん?」
 微笑みを浮かべて不思議そうに小首を傾げた類を、じりじりと壁際へ追い詰める。――ドン。類の真横に手をついて迫ると、類はきょとんと目を丸くさせた。
……司くん?」
「どうだ、何か感じないか?」
「えっ、うーん……静電気?」
 そう言って、類が不意をついてオレの地肌に触れる。パチッという音と共に僅かな痛みが手の甲に走って、オレは小さく「イテッ」と声を上げた。
「冬場はどうしてもね。静電気除去シート使うかい?」
「助かる――ってそうではなく!」
 昨夜も読んだ恋愛参考書。『胸キュン☆マジック』――通称キュン☆マジ――では莉緒(※主人公)がこうして男性に迫られて、その距離の近さにときめいていたのだが⁉︎
 聞けばこれはいわゆる壁ドンというやつで、咲希いわく好きな人にされたいことランキング堂々の第一位らしい。
 しかし類は顔を赤らめるどころかけろりとした表情のまま、「何か演技の練習かい?」とオレを見下ろしている。その上「これでは手の角度がよくないね。もっと顔の横にした方が、迫力があっていいと思うよ」とダメ出しまで始める始末。
……
 オレは苦虫を(絶対に噛みたくないが)噛み潰したような顔をして、すっと類から離れることにした。
 作戦失敗だ。だが心配ご無用! オレのマル秘テクニックはこれだけではない!
――ええい、類に効かないのならば仕方がない! 次だ次――!)


「さてと。小腹も空いたし、先に夕食にしようか。作り置きのビーフシチューがあるからいま温めてくるよ」
 足取り軽く類が退室するのを見送って、ふう、とオレは軽く姿勢を崩した。
 窓から覗く空はいつの間にかすっかり暗くなってしまっている。類と一度ショーの話を始めてしまうとついつい時間を忘れてしまうな、と、思わず苦笑を零した。
 これまではずっとひとりでショーの研究をしていたから、やはり、同じ熱量で語り合える相手がいると純粋に楽しくて。だからだろうか。類の傍はいたく居心地がいい。
 今夜はビーフシチューか。楽しみだ。いただいてばかりでは悪いし、食後の皿洗いはオレも手伝うことにしよう。そんなことを考えて、ふと思い至る。
 ――そうだ。食事中はキュン☆マジで見たあのシーンを再現できるのではないか⁉︎
 ひらめいたそのとき、ちょうどタイミングよく類が片手にお盆を持って戻ってきた。
 ビーフシチューの香ばしい香りが室内に漂って、くう、とオレの腹の虫がげんきんにも空腹を訴えだす。腹の音をしっかり聞きつけた類は、へにゃりと眉を下げて笑った。
「いやぁ、うちのビーフシチューはいつも父さんが作るんだけど、司くんが泊まりに来るって聞いて張り切っちゃったみたいだ。まだまだたくさんあるから、足りなかったら遠慮なくおかわりして」
 コト、とテーブルに置かれたビーフシチューは艶ととろみがあって、じわり、口の中で唾液が溢れる。早速いただきます、と手を合わせ、ひと掬い、スプーンで掬って口へと運んだ。
 瞬間、ぶわりと感動を覚える。……う、うまい!
「これなら何杯でも食べれてしまいそうだ!」
「フフ、うれし……こほん。父さんが聞いたら喜ぶよ」
 決して世辞などではなく、本当においしい。よく煮込まれた牛肉は柔らかく、口にいれるとほろりと綻ぶ。類に聞けば赤ワインでじっくり煮込んであるらしい。類の父さんは料理上手なんだな、と呟けば、類は少し曖昧な顔をして小さく頷いた。
 あまりのおいしさに手が止まらず、次から次へと頬張ってしまう。オレとしたことが皿が半分ほど綺麗になったところではっとして、ようやく本来の目的を思い出した。
 いかん、普通に舌鼓を打ってしまっている場合ではない。オレにはミッションがあるではないか――類をオレにメロメロにするという作戦が!
 スプーンでシチューを掬い、ごくん、と生唾を飲み込む。家族ではない相手にするのは些か緊張するが……ええい、ままよ!
「類よ‼︎」
「うん?」
「あ、あ――……
 ずい、とスプーンを類の口元へ差し出す。類はぱちくりと長い睫毛をしばたかせ、差し出されたシチューをじっと見つめた。
「司くん……
……なんだ」
「野菜は、ちょっと」
「は?」
 思考停止。
 ぽくぽくぽくと脳内で木魚が鳴る。チーン。視線を落としオレが差し出したスプーンを改めて見ると、なるほど、角切りのにんじんがちょこんと乗っているではないか。
 つまりあれか。類はにんじんが嫌でオレのあーんを拒否したというのか。そういうことか。
「はあ――⁉︎」
「うう、ひどいじゃないか。僕が野菜と相容れない体質なのは君も知っているだろう?」
「ただの好き嫌いだろう! いや、だが……!」
 ぐう、と言葉に詰まる。キュン☆マジでは莉緒(※主人公)に想いを馳せる男が、これなら苦手なものでも食べられるねとニッコニコだったんだが⁉︎ 愛の力は時に好き嫌いをも克服するのだと、オレがめちゃくちゃ感動したシーンだぞ⁉︎
 くっ、今更ながらよく見たら類の皿にはひとつも野菜が入っていないという徹底ぶり……。侮っていた。類の野菜嫌いを。野菜を食べるくらいなら衰弱死した方がマシとさえ言うほどの偏食ぶりを。
「お前……少しは偏食を直す努力をしないと本当に早死にするぞ……⁉︎」
「難しい問題だね。そう言う司くんだって、イナゴの佃煮を差し出されても食べようとは思わないだろう? それと同じことさ」
……………………クッ、だが天馬家は、お残し、NGだ……ッ」
「長い葛藤だったねぇ。では食べるのかい?」
……やめよう、この話」
 不毛だ、と呟く。そうだろうとも、と神妙な顔で類も頷いた。


 お風呂沸いてるから先に入っておいで、と促されたのが三十分前。
 ここまで連戦連敗中のオレだが、次の作戦は正直自信しかない。
「ハッハッハ……見よ! この徹底したボディケアを!」
 神代家の廊下を歩きながら誰にともなく片腕を突き出す。つる~ん、すべすべ~と擬音語がつきそうなほどオレの肌のコンディションは過去一絶好調。ムダ毛の処理までばっちり完璧だ!
 類に借りた部屋着は少々大きく、オレの体ではゆるゆるだったがこれも想定内だ。今回はむしろそれを利用させてもらう。名付けて……神代類、悩殺大作戦!
「類ッッッ‼︎‼︎‼︎ お風呂、先にいただいたぞ‼︎」
「ああ、おかえり」
 類の部屋へと戻ると、類はデスクの方で何やら機械いじりをしているようだった。オレが風呂に入っている間に用意したのか、部屋の隅には布団が二組。それからテーブルを移動して、代わりにソファーの前に置かれた大きなモニター。
 なるほど、今夜はそこで例のDVDを鑑賞しつつ、いつ寝落ちても布団に入れるようにしておいてくれたというわけか。さすが類、抜け目がない。
 そろそろと類がいるデスクの方へと近寄ると、机上にはすでにいくつかの小型ドローンが組み上がっていた。
 毎度のことながら高校生でこのクオリティの演出装置を作り上げる類のポテンシャルには驚かされてしまうな。……っといかんいかん、作戦を実行に移さねば。
 そっと類の顔を覗き込む。たしか、上目遣いがより効果的なのだったか。
 ちら、と見上げると、類はわずかに微笑んでみせた。
「どうかしたのかい?」
「類。今のオレはすべすべしっとりほっかほかだ‼︎」
「うん……?」
「ふ、触れてみたくはないか……?」
 襟元を軽く引っ張って鎖骨を見せる。フフン、どうだ、オレのなめらかな肌に類も必ずやドキドキしてしまうに違いない。
 しばしの沈黙のあと、キイと類が座る椅子が動いた音がして、はっと身構えた。
(来る……‼︎)
 立ち上がった類が手を伸ばす。仕掛けたのはオレだが、いざ実際に行動に起こされるとドッドッドと心臓がうるさく音を立てた。いっそ早く触れてくれ。そして、また――……。半ば祈るような気持ちで類の行動を待っていると、ふわりと肩に触れた、何か。
「湯冷めするよ」
 ぎゅっと無意識に瞑っていた目を開ければ、類が先ほどまで着ていたフリースのパーカーが肩に掛けられていた。まだ微かに類の体温が残っていてあったかい。つい、ほう、と息をついてしまう。
「あ、ありがとう……
 まったく、類は本当に優しいヤツだな……で、は、な、く!
 どういうことだ⁉︎ キュン☆マジでは理性が狂った男に莉緒(※主人公)が襲われるちょっぴりエッチな場面(※全年齢コミックなので未遂です)だぞ――⁉︎⁉︎⁉︎
 ガラガラと音を立てて、オレの中の何かが崩れ落ちていく。
 こんな、こんなことってあるのか……オレの恋愛テクがひとつも通用しないなど……


「おかしい、何かがおかしい……
 薄暗い室内に、モニターの光が白く明滅している。
 風呂から戻ってきた類と隣同士でソファーに腰かけ、例のDVDを観始めて早十分。ショーの映像は素晴らしいものなのだが、どうにもオレは先ほどまでの出来事が腑に落ちず悶々としていた。
 にわとりの形をしたぬいぐるみクッションを抱きしめて、むう、と唸る。
 ふとさりげなく隣の類へ視線を配ると、類は画面を何やら真剣な顔で注視していた。
 オレは役者で、類は演出家だ。なのでおのずと、ショーの着眼点は異なる。オレは役者の演技に目がいきがちだが、きっと類は今頃ショーの演出について深く考え込んでいるのだろう。隣でオレが悶々としているとも知らずに。
 ……なんだかだんだん空しくなってきた。オレ達、付き合っているんだよな。恋人……なんだよな。
 ここまでくるともはや駄目元で、どすっと勢いよく類の肩に頭を乗せてみる。……が、それも「重いよ」とあっさり手で退けられてしまった。
「まっっったくわから――ん‼︎‼︎‼︎」
「わ。びっくりした」
 びくっと類が肩を揺らす。
「オレは! お前がわからんぞ類!」
「僕もだよ。いったい今日はどうしたって言うんだい?」
 突然癇癪を起こしたオレに苦笑を零して、類はリモコンで映像を一時停止した。
 どうしたもこうしたもないのだが、改めて口に出すのはどうも気恥ずかしさが前面に出てしまって、オレはもごもごと口をもごつかせる。むしろオレが問い質したい。どうしてこうも上手くいかないんだ……
 作戦は完璧なはずだった。咲希に借りた恋愛参考書をしっかりと読み込んで、脳内シミュレーションもばっちりだった。
 はあ、とらしくもなく重たいため息が零れてしまう。
「類がオレにメロメロになれば、またオレとキスがしたくなると思ったのだがな……
 ほとんど独り言のつもりだったが、しっかりと類の耳はオレの声を拾っていたらしい。ぴくりと指先を動かして、類は静かに口を開いた。
「その口ぶりだと、まるで司くんは僕とキスしたかったかのように聞こえるね」
「はっ……
……したかったのかい?」
 目を細め、顔を覗き込まれて。
 その視線に、じわりと、体が汗ばんでくる。部屋の照明は消しているが、これほどまでに至近距離だと頬の熱に気付かれてしまいそうで、オレはふいと類から顔を逸らした。
 ド、ド、と心臓が騒ぎ立てている。途端になんだか恥ずかしいことをしでかしてしまったように思えてきたオレは、ぐうう、と喉奥から唸り声をあげた。
「いや、しかし……ッ、こ、いびとならしたいものじゃないのかっ」
 キスは愛情表現だ。それくらいは、咲希から漫画を借りる以前から知っている。先にキスを仕掛けてきたのは類の方で、あの日だって、類の瞳から、眼差しから、痛いくらいに熱を感じていた。見間違いなどでは決してない。そしてオレは、その熱を受け入れたのだ。
 手に持っていたクッションで迫る類の体を押し退ける。すんなり離れた類は腕を組んで、ふむ、と考えるような素振りをしてみせた。
「どうだろう。一概にそうとは言えないのではないかな。世の中にはそういった触れ合いを好まないパートナーもいることだしね」
「な、何――⁉︎」
「だから」
 ひと呼吸おいて、類がオレの頬へ手を伸ばす。
 かち、かちと。夜のしじまに響く、壁掛け時計の針の音。触れた指先の体温。……熱い、視線。
「僕は君がどうしたいのか、聞きたい」
「お、オレは……
 まっすぐに見つめた瞳は透明で、どこか見透かすようで。
 少しだけ視線を落とすと、類のくちびるが目に留まった。あの薄い皮膚が触れる柔らかい感触を覚えている。キスの合間の上擦った声も、湿った吐息も。
 ふに、と自身のくちびるに指を当て、俯く。……オレは。
「類とキスがしたい、のか……?」
 ぽつりと呟くと、すぐ傍でフフ、と嬉しそうに笑う声がした。カッと熱が上って、身を捩らせて誤魔化す。
「そ、そもそもだ! 類は、その……恋愛対象的な意味でオレを好きなのだろう? お前は少々わかりづらいというか、それならばもっとそれらしい態度をだな――
「それらしい態度?」
 そうだ、とくちびるを尖らせたまま頷いた。元はといえば、ぜんぶ類のせいだ。類がちっともオレに恋している素振りを見せないから、オレが類を引っ張ってやらねばと思ったのだ。
 ふむ、と類は思案して、不意に、オレと類の間にあったにわとりのクッションをぽいっとその辺に放り投げてしまった。お、オレのにわとり――! と声を上げる間もなく、突然自身の体の平衡感覚を失って目を見開く。
 ……もふん。ソファーに倒れ込んだかと思えば、オレの顔の横に、類が手をついて。
 どき、と鼓動が跳ねた。なん、なんだこれは。どういう状況だこれは。か、壁ドンか? いや、しかしオレの背後はソファーで、つまりソファードン⁉︎ こいつ、いつの間にそんな高等テクニック(?)を……⁉︎
「る、類……?」
……
 ゆっくりと類の顔が近づく。前髪が顔に触れてくすぐったいなと思っているうちに、鼻先が触れて、呼吸が、………………
 足のつま先がぴくりと震える。やわらかく口元に押し当てられた皮膚の感触。あ、キスしている。類と。そう自覚した途端、一瞬で頭の中が真っ白になった。
…………ッ‼︎」
「っ……いたた、なにも突き飛ばさなくても」
「い、いいいいいま、き、きす、きす……!」
 ぶわ、と全身から汗が噴き出す。まだくちびるに感触が残っている。オレは口に手を当て、信じられない気持ちで類を見つめた。
「君が言ったんじゃないか。それらしい態度で示してくれって」
「たしかに言ったが‼︎‼︎‼︎」
 せめて事前に聞くとかしろー! と、もう遅い時間にもかかわらず声を張り上げる。さすがに近所迷惑だと思ったのか、類はぽふっとオレの口を手のひらで塞いだ。……しかし、その表情はどこか愉快そうで。
「フフフ……心配しなくても、僕はもう君に夢中だよ」
……そんなにけろっとしておいてか?」
「心外だなあ、本当だとも。ほら、こうしたらよく聞こえるだろう?」
 そう言って再びオレの上に覆いかぶさった類の体は、風呂あがりのせいか、熱くて。
 突然の抱擁に戸惑いながら、そっとその大きな背中に手を這わせてみる。両手で包み込むと、なおのこと体が密着して、まるで体温が溶け合っていくかのようで――
 ばくばくと暴れ回る鼓動が伝わる。オレが発しているものかと思ったが、どうやら違うようだ。るい、と小さく呟くと、なんだい、と囁く声が耳元を擽った。
 普段より、ほんの少し低い……色の乗った声。
 それはオレのことが愛しくてたまらないとでも言いたげで。耳朶に触れた吐息の熱さに、呼吸を忘れてしまいそうになる。
 ど。
……ど、わ――‼︎‼︎⁉︎)
 なんだこれ。なんだこれは!
 一瞬で頭の中がぐるぐるのぐちゃぐちゃになってしまった! ぎゅ、と類にしがみついたまま、いったいこの後どうすればいいのか必死に考える。
 離せばいいのか。離していいのか? 心臓はありえん速さで暴れまわり、全身に血液が巡っていっそ暑いくらいだ。正直離れたい。クールダウンさせてほしい。さすがのオレもキャパオーバーだ! ……しかし、すんなり離してしまうのは、名残惜しい気もして。
「司くん」
「っ」
 艶っぽい声を耳の奥に吹き込まれて、ぞわ、と肌が粟立つ。
 どうにか視線だけ類へ向ければ。暗闇に、僅かに浮かび上がる、金の眼差し。余裕のない表情。獰猛な――あの時と同じ瞳。
 ぎゅうう、と胸が締め付けられる。思い知らされる。類にこんな表情をさせているのは、させてしまったのは……オレなのだと。
「う……お、お前……?」
 そんな顔して。
 まるで、オレのことがめちゃくちゃ好きみたいではないか、と、そう思った瞬間、どうしようもない気持ちに襲われた。いや、そういえば類は元々オレのことが好きなのだった。だからオレは、オレ達は清く正しくお付き合いを、始めたわけで……
 ぐるぐると考え込んでいると、不意に頭上からくすくすと笑う声が降ってきた。不思議に思って視線を上げれば、先ほどまでと一変、困ったように眉尻を下げながらも、和やかに微笑む類の姿。
 類の手が伸びて、オレの髪をするすると撫でる。
「まあ僕も、初めての感情で戸惑っているのは事実さ。君にずっと笑顔でいてほしい。君に幸せでいてほしい……この気持ちは至ってシンプルなようでいて、まだひどく曖昧だから、どう伝えればいいのかわからなかったんだ」
 そうだったのか、と呟く。
 だが、類の言っていることもわかる気がした。オレだってそうだ。類には笑顔でいてほしい。幸せになってほしい。大事な仲間だから。かけがえのない友人だから。……オレの恋人だから。……好き、だから。
 そうか。オレは、こんなにも類のことが好きだったんだな――
 肩の力を抜いて、ぎこちないながらも類の肩口に頬を寄せる。類もわからなくて、オレもわからないのならば仕方がない。ふたりで一緒に考えて、模索して、オレ達なりの最良の関係性を見つけていくしかない。
 きっと、それがオレ達にとっての恋。
 そう気づけた、今なら。ちゃんと類と向き合っていける気がする。
「類、オレは――
「だけど、このまま君に疑われたままでは悲しいからね……
 ……ん?
「いや、別にもうそこまで疑っているわけでは……
「だから僕は僕のやり方で、僕なりに愛を伝え疑いを晴らす努力をしていこうと思うよ」
「いや、だから……聞いているか? おーい、類?」
 気のせいだろうか。どうも話がかみ合っていない気がするのだが。
 類の顔の前でひらひらと手を振ってみる。反応がない。類はひとしきりうんうんとひとりで頷いて、ニコッとそれはいい顔で破顔した。
 おおっと。その顔には見覚えがあるぞ? 散々演出装置の実験と称してオレを空高く吹っ飛ばしたり水浸しにしたり前髪を焦がしたりしたときに何度も見た顔だ!
 ……嫌な予感から冷や汗が流れる。
「さしづめ、愛の証明といったところか。うん、面白い。これからたっぷり時間をかけて証明してみせるから、覚悟しておいてくれたまえ! ……そうと決まればまずは手始めに、キスの限界に挑戦してみようじゃないか!」
「き、キスの、……限界、だと⁉︎」
「そうとも! 世界記録では約五十八時間三十六分もの間キスしつづけたカップルがいるそうだよ。僕達も負けてられないねえ」
「いやいやいやいやちょっと待て本当に待て冷静になれ五十八⁉︎」
 つまり何日……ええと、……ふ、二日半⁉︎
 口をぽかんと半開きにしたまま思考を放棄したオレの肩を、類がにこやかに掴む。おかしい。おかしいだろう。何かがおかしい。たしかにオレは付け焼き刃の知識で昨今の恋愛事情に精通しているとは言えないかもしれない。だがキスの世界記録に挑戦するカップルは、世界中を探してもそういないと思うのだが⁉︎⁉︎⁉︎
 と、トイレや風呂や食事はどうするんだ……ではなく‼︎
「すまん! オレが悪かった! だから妙な実験を始めるのだけはやめてくれ!」
「まあまあ、そう遠慮しないでおくれ♪」
「遠慮などでは、な――い‼︎‼︎‼︎」
 徐々に迫る類の体を全力で押し退けながら、必死に訴える。
 ええい、先ほどまでのドキドキ展開はなんだったんだ! 少女漫画顔負けの甘いムードを取り戻せ、お前演出家だろうが!
「楽しみだなあ。ふたりで頑張って記録を更新しようね、司くん!」
「た……
 助けてくれ――! 莉緒(※主人公)――‼︎‼︎‼︎
 しかしそんな悲痛なオレの叫びは、空しくもあっさり類によって塞がれてしまうのであった。

     ■

 快晴が広がっている。
 わたあめのような質量のある雲に、どこからともなく走ってきた赤い汽車が突っ込んでいく。
 青いキャンバスに白の線引き。ああ――のどかだ。穏やかで、平和で、小鳥の囀りが聴こえてくるようなそんな麗かな昼下がり。オレはひとりベンチに腰掛け、ぼんやりとなんの変哲もない空を眺めていた。
「ツカサクン、ダイジョウブ?」
「オナカイタイ?」
「イタイノイタイノトンデケ、スル?」
「いや、大丈夫だ……
 はあ、とため息を零す。
 特に具合が悪いわけではない――が、昨夜のドタバタのせいでどうやらオレはおかしくなってしまったようだ。どきどきと普段よりも心拍数は上がっているし、微熱があるときのようにわけもなくぼんやりとしてしまう。
 何より、思考の大半を占めるのが――
「アレッ、ツカサクン、オクチドウシタノ?」
「む……?」
 猫のぬいぐるみがひょこりとオレの膝の上に乗って顔を不思議そうに覗き込む。おくち……口? 首を傾げると、ぬいぐるみはウンウンと大きく頷いた。
「マッカッカ! プックリシテルー!」
「ああ、これは…………
 これは。
 ――刹那、フラッシュバックする、やわらかい感触。
 薄闇の中、呼吸さえも飲み込んで。互いの上擦る声と、耳朶をなぞる濡れた音と。涙で滲む視界で捉えた、熱い、眼差し――
 ぶわ、と昨夜の記憶が蘇って、頭のてっぺんから湯気があがるほど全身が沸騰した。そうだ。昨夜オレは、一晩中、類と……
「な、ななな、なん、でもない! なんでもな――い‼︎」


……類、司に何したわけ」
「何もしてないよ」
 司くんがぬいぐるみくん達に囲まれながら暴れているのを遠目に眺め、寧々が僕に問いかける。ゆるく首を振るとますます寧々は胡乱げに目を据わらせて、隣に立つ僕を見上げた。
「嘘。明らかに今日の司、いつもに増して変」
「おやおや……
 ひどいなあ、まるで司くんが変なときは必ず僕が関わっているとでも言いたげじゃないか。そんなことはないのにね。だって彼は僕が神山高校へ編入する以前から変人として学校中に名を馳せていたのだから。
 まあ、今日に関しては彼の妙な態度に心当たりはなくもない――というか、正直心当たりしかないのだけど。僕も長年の付き合いの幼馴染に嫌な顔を向けられるのは、できれば御免こうむりたいことだし……うん、ここはひとつ、矛先を変えようかな?
「えむくんはどう思う?」
「ふぇ⁉︎ あ、あたしは〜……
 それとなくえむくんに話を振れば、えむくんは司くんと僕を交互に見つめ、ぽぽぽと頬を赤く染めた。
 僕も司くんも、まだふたりにお付き合いを始めたことは話していない。けれどえむくんは人の変化に敏感というか、察しがいいところがあるから、なんとなくわかってしまったのかもしれない。
 もじもじと指先を遊ばせて、彼女は恥ずかしそうに視線を彷徨わせたあと――えへ、と薄くはにかんでみせた。
「えと、ええっと、キュンキュン……? わ、わんだほいだなって、思うよ!」
……うん。とってもキュンキュンわんだほいだったよ」
「は……? どういうこと……?」
 寧々はしきりに首を傾げているが、昨夜はそれはもう……いろいろあって大変だったということは、いつかの備忘録も兼ねてここに記しておきたい。
 僕は。最終公演のあの日、興奮冷めやらぬまま衝動的に司くんにキスしてしまったことを悔やんでいた。司くんには以前から好意を寄せていたけれど、僕自身はこの気持ちを本人に伝える気は少しもなかったんだ。
 だから、のちに冷静になって司くんとの関係が壊れることを恐れた僕は、彼にキスしてしまったのをなかったことにしようとしていた。あれは一時の気の迷い。それか、昂る感情が見せた白昼夢なのだと、そう思うことにした。
 ……もちろんそんなの、司くんが許してくれるはずもなかったけれど。
 司くんが僕の気持ちを受け入れると言ったときは、本当に夢を見ているんじゃないかと思った。いまだって信じられない。まさか司くんと、本当に恋人関係になれるだなんて。
 だのに、司くんときたら、僕の気持ちも知らずに好き勝手するものだから――昨夜は本当に参ってしまった。
 彼に壁ドンされたときは心臓を吐き出してしまうかと思ったし、一晩かけて頑張って作ったビーフシチューを彼がおいしいと言ってくれたときは、いったいどれだけ事前にボイスレコーダーを仕掛けておかなかったことを悔やんだか知れない。
 まさか司くんが僕にあーんしようとしてくれるなんて思ってもみなかったし、ポリシーに反してでも野菜を口に入れてしまおうかとかなり悩んだ。絶対に吐き出してしまうことはわかっていたから、醜態をさらすのだけはと踏みとどまったけどね。
 はあ、と人知れずため息を零す。
 そのうえ。風呂上がりの上気した頬。ちらりとシャツの合間から覗く白い肌は、健全な恋する青少年の目には毒で。
……困ったねえ」
 本当に、勘弁してほしいよ。僕は彼ともう少しゆっくり関係を深めていきたいと思っているんだ。少しずつ、少しずつ……そしていつかは、司くんにも同じ気持ちになってもらえたらうれしいなと思っている。
 僕が司くんにもらった希望の数だけ、彼に夢を与えたい。
 むに、とくちびるに触れる。ふと顔を上げると司くんもこちらを見つめていて、その顔がみるみるうちに赤く染まっていくのが見えた。きっと素直な司くんのことだから、昨晩ずっと僕と触れ合っていたのを思い出しているのだろう。
 やれやれ、役者がそんな調子では駄目じゃないか。そう思うのに、司くんの心を乱している原因が自分だと思うと、途端に可笑しくなって――思わずくつりと喉を鳴らして笑みを零す。
 司くんも僕とキスをしたいと思ってくれていたのは、正直誤算だったけれど。
 彼の好意がまっすぐ僕に向けられているうちは、どうか、このまま彼が僕の中の怪物に気付かずにいてくれますようにと願う。いまはまだ、彼との間に生まれた奇跡を大切にはぐくんでいきたい。
 いつか、彼がふたたび僕を求めてくれたそのときは――今度は僕も、容赦してあげないけどね。

 さて。昨夜、僕達の間にどんなキュンキュンわんだほいな出来事があったかは、――残念ながら星と月のみぞ知るお話のようだ。
 名残惜しいけれど、今日のところは一旦ここで幕引きとしよう。
 次はアダムとイヴの罪を描いたショーで。またお会いできるのを、楽しみにしているよ。