猫澤
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あさきゆめみし はてのそら


 サワサワと木々がさざめいている。
 人里離れた自然の中に、長く伸びる石階段。鳥居をくぐったその先には、今や人っ子一人近寄らない寂れた神社がひっそりと佇んでいる。
 周囲は鬱蒼と生い茂る森に囲まれ、木漏れ日が瞬く小さな境内。参道の石畳の上に伸びる三つの影は、お天道様の気まぐれでゆらゆらと揺らめいていた。
 息を吸い込む。冷たい空気が肺を満たす。
 しかし、この胸に宿った期待は、熱は、それしきで冷めることはなく。
――オレの神様になってはくれないか⁉︎」
「え……
 秋に実る稲穂のような黄金が、陽の光を反射してきらりと輝く。
 かみさま? と小さく呟く声。オレはにんまりと口元を緩め、そうとも、と大きく頷いた。
 リン、と、澄んだ鈴の音が、穏やかな春の日向が、吹き抜ける旋風が新たな出会いを祝福している。
 ひとりの人間と、一匹の狛犬の、長く果てしない物語を彩る――はじめの頁を。

   *

 時を遡ること数刻前。
 日課のひとつとして境内を掃き掃除していたオレは、誰に見られるともないのをいいことに行儀悪く箒の柄に顎を乗せ、それはそれは大きなため息をついていた。
「ぬうう……暇だ。暇すぎる……
 そう。欠伸が出るほど暇なのだ。
 こんな日和きった姿、神様が見たらお叱りのひとつでも飛んでくるに違いないが、生憎と今は永く続く泰平の世。飢饉もなければ戦も久しく、まさしく平和そのもの。
 その上こんなにも良い天気なのだ。ぽかぽかとあたたかな陽気に眠気を誘われて、退屈な欠伸が零れてしまっても仕方があるまい。
 くあ、と目尻に涙を浮かべ、大きな欠伸を漏らす。するとちょうど見計らったかのように、神社を取り囲む森の茂みのひとつががさりと音を立てた。
「うわ。ちょっと司……。仮にも神使がぐうたらしすぎなんじゃないの」
「む……? ああ、椿の鬼っ子か……
 茂みから姿を現したのは――宵闇に浮かぶ赤月のような色合いの羽織を翻し、四本の角を額から生やした鬼の娘。灰がかった癖毛の髪を靡かせて、娘はじろりとオレを睨みつける。
「鬼っ子って呼ばないでって何度も言ってる」
「いだっ、こら足癖が悪――ああわかったわかった! ――寧々!」
 漆塗りの下駄の裏で遠慮なく膝を蹴られてはたまらず、娘――寧々から慌てて距離をとる。
 まったく容赦のない娘だ。蹴られた膝を手で払う。鬼の子であることは疑いようもない事実であろうに、寧々はどうやら自らが鬼であることを疎んでいるらしい。
 狛犬として生まれ狛犬として生きることに誇りをもつオレとはまるで正反対。それゆえに時々、扱いに困るというか……悪鬼でないのはたしかなのだが。
「しかしなあ。こうも平和では、オレの存在意義が……
 さて、この神社に御座す天馬の神様に付き従い、魔を除け祓うことを御役目とする狛犬のつがい。その片割れこそがこのオレ、天馬神之使――司である。
 日々鍛錬と精神統一に勤しみ、狛犬としての能力を極め、ゆくゆくはこの日本のてっぺんに立つのがオレの積年の夢だった。
 しかし世は移り変わり、今や日本は平和そのもの。
 月夜の時間も真昼間のように明るくなったことで、いにしえより蔓延る妖怪は姿を消し、めっきり表に出てこなくなってしまったのだ。
 さらに人は神を信仰せずとも窮地を打開する術を身につけ、おかげでこの神社も数年、数十年と閑古鳥が鳴いている。
 せっかく磨いたオレの魔を祓う力も、これでは宝の持ち腐れである。
「お前が悪鬼ならばよかったんだが」
「お生憎さま。平和ボケしたわんちゃんに祓われるほど弱くないよ、わたし」
「わ……わんちゃん、では、な――い!」
「はいはい」
 寧々は――正体こそ鬼であるが、角を隠し、いまは人間社会に溶け込んで様々な文化に触れているらしい。
 最近ではどこぞの令嬢と友だちになったのだとうれしそうに語っていたのを思い出す。オレの前では基本仏頂面ばかりなので、寧々があれほどまでに浮かれているのを見るのは珍しい。
 警戒心の強い寧々をいったいどんな手で丸め込んだのやら、機会があればオレも是非会ってみたいものだ。
 だが……
 ざあ、と突風に扇られ木々が揺れる。ふと顔を上げてみれば、狭い空に白い雲が浮かんでいた。
 実に長閑で、平和なことこの上ない。
「はあ……
……。アンタもいつまでも寂れた神社に居座ってないで、つがいの子みたいに外の世界を見てみれば? 結構面白いよ。ゲームとか」
「げぇむ? とはあれか、石と鋏と紙を繰り出す……
「え、じゃんけんのこと言ってる? ウソでしょ、おじいちゃん?」
 ぐ、と言葉に詰まる。たしかに寧々からしてみれば、オレはいくらか年上ということになるが、言うに事欠いておじいちゃんはないだろう。まだまだ働き盛りだぞ、オレは。
 言いたいことは山ほどあったが、結局すべて飲み込んで、ため息と共に吐き出した。
「まあ、喜ばしいことではあるのだろうな……平和というのは」
……
 足元の木の葉を箒で境内の隅へと掃き出す。もう幾年も、その繰り返しだ。『誰もいない』神社でただひとり――春の芽吹きを見届け、夏の生命を感じ、秋の豊穣を祈り、冬の静寂に浸る。
「ねえ。神様のいない神社をアンタが護り続けても、意味なんて――
 寧々の小さな手がオレの着物の袂を掴む。オレは口を一字に結び、そっとその手を離した。
 昔――つがいである妹の咲希が社を離れる選択をした時にも、同じように袂を掴まれたと、懐かしい記憶が蘇った。そして同じようにそっと手を離し、オレは――あの子の背を押したのだ。
 拝殿を振り返る。寧々の言う通り、その先の本殿は今はもうほとんど空っぽだ。
 この神社で暮らしていた神様は、信仰が途絶えたことをきっかけに大層弱りきった御姿になってしまった。神託はおろか、形を保つことさえできない。
 それでも、ただひとり、オレだけでもあの御方を信仰し続けていれば――いつかまた、その御姿を拝見できるのではないかと。
 その想いが、オレの両の足をこの地に根付かせている。
……畏れ多い話だが……あの御方はオレの憧れなんだ。病に臥せがちだった妹を元気づけてくれた。笑顔にしてくれた。西洋の……なんと言ったか。ええと、ま、まほ……
「魔法?」
「そうだ! まさに、あの御方の奇跡の御業は、魔法のようにきらきらで、眩しくて、きっと誰だって笑顔になってしまう」
 一度、高熱で苦しむ咲希のために神様が奇跡の舞を踊ってくださったことがあった。きらきらと光の粒を纏う御姿は大層うつくしく、うなされていた咲希もあっという間に元気になって――その笑顔に、オレは心から救われたのだ。
「オレもいつか、あの御方のように……救いを求めてこの神社へやってきた人間を笑顔にしたい。……そのためにも、神使として今はできることをやらねばな」
……神使って言ったって、仕えるべき神様がいないんじゃ話にならないでしょ」
「ぐうっ……痛いところを突くではないか……
「それに、笑顔にしたいって言っても神主すらいなくて、人っ子ひとり参拝にも来ないようなこんな神社じゃ――
 こんな神社じゃ。
 言いかけた寧々の声に重なるようにして、コツ、と、石畳を踏む音が聞こえ、オレはパッと頭上の両耳を張り上げて音のした方を凝視した。
 ――コツ。また、音がする。間違いない。
「! 聞いたか寧々、足音だ! 参拝客か⁉︎」
「ウソ、タイミング良すぎない? 野良猫じゃないの?」
「野良猫があのような音を立てるか!」
 持っていた箒をオレの像に立て掛けて、カラコロと下駄を鳴らし参道を駆ける。
 颯爽と駆けつけたオレが目にしたのは、まさに、音の主が階段の最後の一段をのぼり終えた瞬間だった。
 藤色の髪と、実りをつけた稲穂の瞳。おお、と思わず感嘆の声が上がる。人の子を見るのはいったいいつぶりのことだろうか。
 現世を生きる人の子に、常世を生きるオレの姿は視えない。それをいいことに、つい、青年の周りをうろうろと彷徨いてしまう。
「ちょっと司。いくらなんでもちょこまかしすぎ」
「はっ、すまん……
 と、寧々に謝ったところで詮無いことではあるのだが。
 青年は迷わずまっすぐ参道を歩き、拝堂の前で立ち止まった。
 ――なにかお願い事をするのだろうか。
 この神社では神様の御力でその願いを叶えてやることはできないが……どうにかしてオレが手助けできれば、神社の固定参拝客になってくれるかもしれない。
 信仰する者が増えれば、おのずと神様も御力を取り戻せる。もしやこれは千載一遇というものではないか⁉︎
「ううむ、この者の願いがわかれば……!」
 大願成就だろうか。それとも金運上昇? 無病息災、あるいは子宝祈願か⁉︎ 厄除けならばオレの得意とするところだ!
 そっと傍らに近づいて耳を澄ませる。……すると、ぱち、と一瞬、視線が交差して、オレは思わず面食らってしまった。
 いま、目が合ったか? いやまさかな……
 青年は手を合わせ、そのままそっと目を伏せた。
……いつか、僕が手がけるショーの理解者が現れますように」
 ………………
 ……ショー?
「寧々、ショーとは一体……
「ショーっていうのはね」
「へ」
 寧々を振り返った、その瞬間。オレの視界の端からにょきっと腕が伸びて、オレは後ろから何者かに抱きすくめられてしまった。
 何者か、なんて、この場にはオレと寧々と、人の子しかいないというのに、白々しい。いや、でも、人の子はオレが視えないはずで……
 混乱を極めるオレの目の前に、左右の大きな手のひらが現れる。ちょん、ちょん。右手の指は、オレに見せつけるようにして、左手の皺をつついた。
……?」
 いったいなにをしているんだ?
 じっとその様子を見守っていると、つつかれた左手は拳を握り、いち、にの、さんでまた開かれた。
 刹那。
 はらはらと、何もなかったはずの手から小花がいくつも零れ落ち、驚きと興奮で普段は丸めている尾をピンと伸ばす。思わず左手を掴んで何か仕掛けがないものか探るが、それらしいものは見当たらない。
「んなっ……何もないところから花が出てきたぞ⁉︎」
「これは簡単なマジックだけれど、劇とか、歌とか、踊りとか……そういった芸を人前で見せることをショーというんだ」
「ほう、なるほど、物知りだな――
 素直に頷いて。はた、と動きを止める。
 いや、まさか、そんなはずはないと思うが――この人間、いまオレと会話を成立させていなかったか。
 寧々と目が合う。心なしか青ざめた寧々が小さく首を振っている。いま返事したのはわたしじゃないよ、の意だ。ええい、さすがに寧々と青年の声を聞き間違えるほど、オレの耳は耄碌しちゃいない。
 だらだらだらだらととめどなく冷や汗を流し、熟考のすえ、オレはようやく小さく口を開いた。
――ひ、人の子よ。まさかとは思うが、オレの姿が……
「うん。視えているよ」
「な、な、」
 なんだと――⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎

   *

「僕は生まれつき霊力が強いようでね。人ならざるものが視えてしまうんだ」
 あの後。立ち話もなんだからと社務所の縁側まで案内すれば、腰を下ろして、藤色の髪の青年はこともなげにそう告げた。
 ほう〜、と惚けた声をあげてじろじろと青年を四方八方から見つめる。
 整った目鼻立ち。高すぎず低すぎない落ち着いた声。改めて見るとなかなかの美丈夫である。そのうえオレ達の姿が視えるどころか、対話まで叶うとは……
 うむ。実に珍しい。
 大昔、明治の頃まではたしかに現世と常世の界が曖昧な人の子がごく稀に生まれることはあったが、最近ではそれもぱたりとなくなったと聞く。まさかこのご時世に、オレ達の姿が視える者に出会えるなんてな。長生きもしてみるものである。
 人見知りのきらいのある寧々なんかは、自分の姿が視えていると知るや否や柱の影に隠れて様子ばかり窺っている。
「ではこちらにいる鬼っ子も?」
「ちょっと! わたしを巻き込まないで、」
「フフッ……もちろん。僕がこの神社を訪れたときから君達の視線はずっと感じていたよ」
「うっ……すまない。まさか視えているとは露知らず不躾であった」
「気にすることはないさ。僕もはじめは警戒して知らんぷりしていたし……
 言うなり、青年は眼差しをすっと細め、興味深そうにオレを眺めた。
「それで、君は? 見たところこの神社の狛犬くん、ってところかな?」
「ほう、素晴らしい。ご名答だ! 名を司という。このとおり寂れた神社ではあるが、歓迎するぞ人の子よ!」
「僕は――……類。演出家志望のしがない高校生だ」
「こうこうせい」
 耳慣れない単語にぱちぱちと瞬く。すかさず、寧々がそっとオレに耳打ちした。
「学生ってこと」
「なるほど学徒であったか。随分と背が高いからてっきりもう成人しているものかと……
「フフ、褒め言葉として受け取っておこうかな? ……話を聞く感じ、どうやら君はあまり現代日本について詳しくないようだね」
「そ、そうなの。司、もう百年くらいはこの神社の外に出てなくて……
「ね、寧々!」
 客人に聞かせてもつまらぬ話だろうが。
 慌てて寧々を遮るが、寧々は先程の仕返しとばかりにつんと唇を尖らせてそっぽを向いてしまった。
 まったく、この青年よりも我々は長く生きているというのに、青年の方が余程落ち着いているとはどういうことだ。
「コホン。だが彼女の言う通り――オレはいつの間にか世間知らずとなってしまっていたようだな。恥ずかしい限りだ」
「恥じることはないよ。こんな森の中では情報源も限られてくるだろうしね。……無知は罪ではない。そういう人にこそ、僕達エンターテイナーのショーは新鮮に映るのだから」
 えんたあていなあ?
 異国の言葉を巧みに操る青年――類の言葉を咀嚼しかねて、眉を寄せる。
 まあ、聞くより見るのが早いかな。類はそう呟いて、ぱちんと軽やかに指を鳴らしてみせた。
 その瞬間、ぶわりと周囲に風が舞い、どこからともなくまあるい鉄のかたまりが宙に浮かび上がる。羽音がしたかと思えば、視界一面に色とりどりの紙吹雪が吹きすさんで。
 一枚、また一枚とまるで花びらの雨のように降りしきるそれに、どくん、とオレの胸が高鳴る。
 綺麗だ、――とても。陽の光に溶けて、うつくしい。
「す……すごい! すごいぞ類! お前は神様か⁉︎」
「あはは、大げさな――
「いいや、素晴らしい! お前のそのショー? とやらは、見る者を魅了するすごい御業だ! おいそれと簡単に出来るものではない。もっと誇りに思うべきだ!」
……そ、そうかい……
 逸る気持ちを捲し立てる。ああ、この感動は筆舌に尽くし難い!
 咄嗟の言葉が何一つ浮かばないもどかしさを、せめて少しでも伝わらないものかと類の手を両手で握りしめる。
 すると類はじわじわと頬を赤らめ、微かに狼狽えた様子で視線を彷徨わせた。
「む、どうした。頬が赤いようだが……
…………いや、なんでもないよ、……うん」
……?」
 なんでもないと言う割に、まったく視線が合わないのだが。
 顔を覗き込めば背けて逃げられる始末。
 なんだ、見かけによらず照れ屋さんか? まあいいか、と手を離し、大人しく類の隣に腰掛ける。
 まだ心の臓がばくばくと騒ぎ立てている。寧々も余程類を気に入ったのか、いつの間にか柱の影からオレの隣にまで足を伸ばしてちょこんとしゃがみ込んでいた。
「しかし、道理で神社の参拝客も減るわけだ。いまや人間がこうも簡単に奇跡を起こしてしまえるのだな……
……。狛犬くん、もしかして君の神様は……
……
 足元へ視線を落とす。土の上をカラカラと駆ける木の葉の行く先を見届けて、オレは唇を一字に結んだ。
「司。これでわかったでしょ。アンタがこの神社に縛られる理由はもう……
…………そうだな……
 あてのない旅に出る、いい機会なのかもしれない。
 愛着のある神社とお別れするのは寂しいが、寧々の言う通り、オレはそろそろ外の世界を知るべきだ。
 時代は移ろい、日々変化している。
 オレには夢がある。日本一の狛犬となって人の子に救いをもたらす神使となるのだ。ひとりでも多くの人間を、この手で笑顔にするために。
 ずっと、なんてものはない。今も昔も。ここでの生活は大層心地よかったが、停滞することを、オレは望まない。
 立ち上がり、ゆっくりと拝堂へと歩を進める。
……さよならだ、オレの神様」
 手を合わせ、首を垂らす。清らかな鈴の音。鼻の頭がツンと痛んで顔を上げた、その一瞬。――カタン、と、拝堂の奥から物音がして目を見開いた。
 蒲公英の花が。
 風に乗ってふわりとオレの前に現れ、みるみるうちに綿毛となって空高く飛んでいく。
 狭い空。白く浮かぶ雲。音もなく消えていく、生命の種。
(神様)
 あれは、間違いなく、神様だった。
 喉が熱くなって、世界が滲む。ぽろりと溢れた涙をやや雑に袖口で拭って、オレは大きく息を吸い込んだ。
「よし! そうと決まれば旅の準備をせねば!」
「えっ、狛犬くん、旅に出るのかい」
「ああ、オレは神の使いとして日本一になるのが目標だからな! これからは暫し修行の旅に――
 出ようと思う、と続けるつもりだった言葉は、類に手首を掴まれた瞬間に引っ込んでしまった。
……? 類?」
「あ……
 オレの訝しむ声にはっとして、類が顔を上げる。
 どうしてか、類は困ったように眉尻を下げ、惜しみながらその手を離した。
「すまないね……体が、勝手に」
「そ、そうか……
…………
 しかし、こうも表情を曇らせて、なんでもないは通用しないだろう。
 そういえば。類はこの神社の最後の参拝客だというのに、結局願いを叶えられていないではないか。
 神様はもう遠いところへ行ってしまわれたし、オレももうじきこの土地を離れるつもりでいる。せっかく足を運んだのに無駄足となってしまっては、類が悲しむのも尤もだ。
 ううむ……。しかし類の願い、神様やオレが手を貸さずとも、すぐに叶いそうな気がするのだが……
 だってあんなにもすごい奇跡を前にして、笑顔にならん者などいないだろう。類が神様だったらこの身をもってお仕えしたいくらいだ。
 ……ん? 類が神様だったら……
「そうか! その手があったか!」
 石畳の上に伸びる三つの影が、お天道様の気まぐれでゆらゆらと揺らめく。
 息を吸い込む。冷たい空気が肺を満たす。しかし、一度この胸に宿った期待は、熱は、それしきで冷めることはなく。
――類! オレの神様になってはくれないか⁉︎」
「え……
 秋に実る稲穂のような黄金が、陽の光を反射してきらりと輝く。
 かみさま? と小さく呟く声。オレはにんまりと口元を緩め、そうとも、と大きく頷いた。
「生き神といって、生きている人間でも神にはなれる! 類は霊力も高いし、何より素質があるからな。オレは類の神使として誠心誠意お仕えすることを誓い、そしてオレ自身も神使としての力を高められるとなれば! まさに! 一石二鳥‼︎」
「ちょっ、と、待ってくれ」
 一気に捲し立てるオレを、類は慌てたように手で制した。声がやや上擦っている。瞳は口よりもさらに雄弁で、期待と不安で綯い交ぜになっていた。
「そんなに簡単に神様にはなれるものなのかい?」
 類の問いには、寧々が淡々と答える。
「なれるよ、簡単に。誰かひとりにでも信仰されれば、それはもう神だから」
「その通り。そしてオレが、お前を信仰する!」
……それはまた……ずいぶんとはちゃめちゃな……
 類はそう零すなり、そっと両手で自らの顔を覆った。
 少し、性急過ぎただろうか。しまったな、と自らの言動を反省する。よく妹の咲希にも言われていた。お兄ちゃん、ちょっと後先考えないところがあるから、心配だな――と。
 一度これだと感じてしまったら、周囲が見えなくなってしまうのはオレの昔からの悪癖だ。しゅん、と耳と尾を垂らして佇まいを直す。
「すまない、類の気持ちも考えずに……。類が嫌ならばもちろん、この話はなかったことにしても構わない」
……ああ、いや。そういうわけではないんだ……むしろ……
「むしろ?」
 鸚鵡返しで問いかければ。顔を覆っていた手を下ろした類は、じっとオレを見つめ、目尻を赤らめてふにゃりと表情を緩ませた。
「むしろ、心踊っているよ。僕は、その……思っているよりも、司くんを気に入ってしまったみたいだ」
……!」
 そう言って、眉を下げて笑う類を見ていたら。オレまでうれしくなってしまって、居ても立っても居られなくなってしまった。はしたないと思うのに、尻尾をぶんぶん振ってしまうのを止められない。
 類と見つめ合い、触れ合い、言葉を交わすと――どうにも鼓動が落ち着かない。
 この胸の高鳴りは一体何なのだろう。未来への期待か、それとも。
「これからよろしく頼む。ついでといってはなんだが、このオレが類の夢を叶える手助けをしてやろう!」
「ありがとう。僕も君の夢が叶うように……精一杯努めさせてもらうよ」
 差し出した手のひらを握りしめる類の指先は、ほんのりと温かくて、心地いい。それはまさしく、人の体温であった。
 かくしてひとりの狛犬とひとりの人間の――長い人生の物語は、幕を開けたのだ。


 ――――――


――♪ ――……♪」
 鼻歌まじりに御玉杓子で鍋を掻き混ぜる。ふうわり香る優しいにおいに耳と尻尾を弾ませて、オレは機嫌良くIHコンロの電源を落とした。
 ぽふぽふとスリッパを鳴らして台所を後にする。ふと見上げた居間の時計はもうじき戌一つ時であることを示していた。特に仕事が長引いているという連絡もないし、きっとそろそろ神様が帰ってくる頃合いだろう。
(それにしても、早いものだな……
 かつて、人々に忘れ去られた神社で。一匹の狛犬と、ひとりの人間が手を取り合ってから――もう数年の月日が経つなんて。
 オレの神様はすっかり大人になって、日々打ち合わせとやらで忙しそうだ。そんな神様の神使であるオレも、神様の住まう社を護るという御役目を全うする毎日。
(まあ、要するに留守番なのだが)
 ――あの日、森を出たオレはまず現代日本の変わり様に目を瞠った。
 神様に連れてこられた『都会』というやつは、とかくあらゆる音とにおいに溢れかえっていて、オレはしばらく神様の傍を離れるのが嫌になってしまったほどであった。
 しかしこう見えてオレも昔は流行り物に敏感で、ハイカラ好きを自称していたほど。
 新しいものを知るのは元々好きな方だったので、現代の文化に精通していた寧々に片っ端から教えてもらい、今じゃもう、ひとりで都会の街を散歩できるし、電車にだって乗れるようになった。神様が買い与えてくれたスマートフォンの扱いだって御手の物だ!
 ふんふんと鼻歌を零して室内を彷徨く。
 宵が深まり始めた。居間のカーテンを閉めていると、カチャ、と玄関の方から鍵の回る音。
 ――神様だ!
 オレは慌てて駆け出して、ドアが開く瞬間を今か今かと待ち構えた。
 開かれたドアから、藤色の髪が見えた瞬間。全身が安心感に包まれる。つま先から頭のてっぺんまで高揚する。
 ぱたぱたと尻尾を振って、オレは勢いよく両手を広げた。
「類! おかえり!」
「ただいま、司くん」
 少しだけ顔に疲労を浮かべていた神様――類は、オレを見るなりふにゃりと表情を緩めて、オレの体をぎゅうっと抱き締めた。
「のわー! 今日は随分とお疲れのようだな……
 出会ったときから類は大きな背丈をしていたが、大人になったいまはますます体躯を縦に伸ばして、こうして全身を預けられてしまうとオレの体では支えきれない。
 後ろに蹌踉めいたオレに気がついて、今度は類がオレの体を抱き寄せる。勢い余って類の肩口に鼻を打つけてしまったが、半日ぶりの神様のにおいに気をよくして、オレは類の首に腕を回して擦り寄った。
「いい子でお留守番できたかい?」
「オレを何だと思っているんだ……。見ろ! この完璧な家事捌きを!」
 ぴょん、と類から離れて、その手を引く。暖簾を手で除けて居間を覗いた類は、ふふ、とうれしそうに微笑んでみせた。
「わあ、お部屋がピカピカだ」
「ハーッハッハッハ! 食事も温めるだけだし、風呂もしっかりと用意してあるぞ。なんと今日は柚子風呂だ! 最初はどれにする? 類の好きなものから選ぶといい!」
 類がオレの神様になって数年。その間に神使として修行を重ねたオレは、神様の身の回りの世話は何だって完璧に熟せるようになった。
 部屋の隅まで塵ひとつない居間も、類のために野菜が溶けるほど煮込んだシチューも、全てはオレの血と汗と涙の努力の結晶である。
 ふんす、と鼻を鳴らして類の要望を待っていると、不意に類はオレの腰に手を回した。
「司くん」
「ん?」
「司くんが足りないから……まずは司くんを補給して、食事もお風呂もその後で一緒にどうかな」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待て!」
「待たないよ♪」
「のわ――ッ!」
 上から体重をかけられて、オレは自分の体さえも支えきれずにソファーへとすっ転んでしまった。
 視界がフと暗くなる。類が上に覆い被さるので、部屋の照明が遮られたのだ。
 鼻腔をくすぐる類のにおい。この数年で、オレはこのにおいが大好きになってしまった。
 眉根を寄せ、短く嘆息する。まったく、オレの神様は大人になっても戯れあいが大好きで困る。こうもぎゅむぎゅむと抱き締められては、身動きのひとつもとれんではないか……
「る――――
「フフッ、……おや、今日はシェイクスピアの勉強をしていたのかい?」
 テーブルの角に置かれた本を目にしたのだろう。類の問いかけに、オレは「ああ!」と大きく頷いてみせた。
「昼間カイトに練習に付き合ってもらったから、もう台詞まで完璧だぞ。『――ああジュリエット! 僕の太陽! どうか、この僕と結婚してほしい‼︎』」
 カイトとは、類が所属する劇団の座長である。人当たりがよく、時折貧乏くじを引きがちだが、劇団員達にも慕われる善良な人間だ。
 あれはいつのことだったか――類が我が家に台本を忘れてしまった日。人に化けて稽古場まで届けに行ったときもカイトは大層よくしてくれて、それ以来ショーに興味があるオレに時間を見つけては何かとショーのいろはを教えてくれる。
 オレは早速今日学んだばかりの――シェイクスピアの有名な戯曲、【ロミオとジュリエット】を披露しようと、類の体を押し退けて床に片膝をついた。
 類の瞳が、期待できらりと輝く。
「『それならば、その名を捨てて、私をとって頂戴』」
「『ジュリエット……!』」
「すごいじゃないか。司くんが世界のショースターになる日も近いねえ」
「当・然・だ!」
 ――オレには夢がある。いや、新たに夢ができたというべきか。
 類が手掛けるショーの演出は、本当に素晴らしい。
 元々類の家にあったものや、カイトに借りた舞台の映像くらいしか、まだオレには知識がないが……稽古の様子をちらりと見ただけでも、類の能力が高いことはよくわかる。
 観客の心の動きにまで繊細に寄り添った演出の数々。はじめて会った日に見せてもらったショーの比ではない。
 ――オレもいつか、類に演出をつけてほしい。
 神様に見初められようだなどと、烏滸がましい話にもほどがあるので、これはまだ、類には言えない密かな野望だが。
「オレも、神様が見ている世界をもっとよく知りたいからな。いずれは日本一の狛犬だけではなく、世界一の大スターにもなってみせようではないか! そして天馬神様のように全世界の人々を笑顔に――
「司くん」
 不意に呼び止められ、うん? と類を振り返る。
 類の大きな手がオレの手首を掴む。引き寄せられるまま、類の膝の上に腰を下ろせば。類はオレの両頬を挟みこんで、ぐっと顔を近づけた。
「司くんの神様は、僕だろう?」
「む、……その通りだ。オレの神様……
「うん。……でも君に神様って呼ばれるのは、好きじゃないから、」
 ふ、と唇に類の吐息が触れる。思わず視線を逸らせば、それを咎めるように類はオレの手を絡め取った。
 ゆるやかに、少しずつ、再びソファーの上に押し倒される。柔らかなクッションに頭を預ければ、垂れ下がる前髪が顔を擽るので。おそるおそる、その瞳を見上げる。
 夜空にぽかりと浮かぶお月様のような瞳と交わる瞬間は、いつも、腹のあたりがざわざわする。
「る、るい……
……
 小さく零すと、類はうれしそうに目元を和らげて、その薄い唇をぴとりとオレの頬に当てた。
 ぴとり。……ぴとり。
 唇は少しずつ中心に向かって進んで、いよいよオレの口に押し当てられる。
 ぎゅうと顔を寄せて身を強ばらせるオレを、類が小さく笑う気配がする。そのことに大層憤慨を覚えつつも、いま口を開ければそのまま深く口づけられてしまいそうで、オレは縋るように類の服を掴んだ。
「ん、んぅ、……
……司くん、お口開けてくれるかい?」
「い、いやだ……
 ぺたんと耳を下げて首を振る。衣擦れの音。オレの反応が意外だったのか、類は目を丸くして首を傾げた。
「おや、どうしてかな」
…………お、」
「お?」
…………おなかが、ざわざわってする、から……
……
 実をいうと、類にこのように口を吸われるのははじめてではない。
 人の社会では愛しい者の口を吸って愛情表現をするのだと知識としては識っていたので、はじめて類に口づけられたときはとてもうれしかったのを覚えている。
 しかし困ったことに、類に深く口づけられると、何故だかオレの体が変になるのだ。
 具体的にいえば、頭はふわふわするし、おなかがざわざわして、尻尾のあたりがきゅんとする。口内をまさぐる類の舌が気持ちよくて、力が入らなくなってしまう。
 ……それではだめだ。だめに決まってる。オレは類の神使であり、魔除けの狛犬。いざというとき碌に動けなくてはならんというのに、腑抜けて万が一があったらたまらない。
 素直にそう白状すると、類は妙な顔をしていた。それがいったいどういう意味合いの表情であるのか、オレには汲み取れず、こてんと首を傾げてしまう。
………………
「な、なんか言ったらどうなんだ……
「ざわざわ、するのかい? おなかが?」
「む。そうだが」
「はあ……僕のわんちゃんがかわいくって心配だよ……
「な、んだと」
 するり。類の細くて長い指が、顎の下を擽る。オレは体を揺らして、「こら、」と類の行動を咎めた。
 というか、聞き捨てならないのだが。
……っオレは、わんちゃんでは、な――い‼︎」
 都内、駅のそばの高層マンション。その一角、2LDKのちいさな社に一匹の狛犬の悲痛な声が響き渡る。
 ――いまは、まだ。
 神様へ向けるこの気持ちが、畏敬からくるものか、友愛からくるものか、はたまたまったく違う何かなのか……オレにはわからない、けれど。
 夢が叶ったあかつきには、そっと類に訊ねてみようと思っている。
「神様とその神使は末永く幸せに暮らしましたとさ」
 いつかそう、この物語を締め括られる日が訪れるまで。