猫澤
Public
 

色恋バカとアンビバレント


「類、いくらなんでも司のこと好きすぎじゃない?」
……え?」
 隣を歩く幼馴染みの言葉に、ぱちりと目を瞬かせる。
 薄青の空。今日という一日が始まったばかりの世界はまだ冷え冷えとして、空気が透き通って見える。口の端からそうっと息を吐き出すと、それは俄かに濁って溶けた。
 冬休みが明け、今日からまた通学の日々。高校二年生最後の冬。真っ白な雪面に足跡を残す僕達は、いま、人生最大の岐路に立っているわけだけれど、……そんなことよりも。
 寧々の方へと振り向いて首を傾げてみせれば、彼女はきゅっと眉を寄せ、口元を赤いタータンチェックのマフラーへと隠してしまった。これは、何か不満がある時の彼女の癖だ。
「次から次へと飽きもせず司の話ばかり。司のことが好きでしょうがないのはわかったから、わたしに惚気ないで」
「の、のろけ……。そうしたつもりはないのだけれど……
 直前にしていた会話といえば、どれも他愛のないものばかりだった。修学旅行の思い出だとか。年末年始のショーのことだとか。
 たしかに修学旅行では自由行動のほとんどを司くんと過ごしていたし、彼は僕達が所属する劇団、ワンダーランズ×ショウタイムの座長だ。であればおのずと彼の話題も増える。共通の友人ということを抜きにしても、青い日々を謳歌する僕の生活の根幹に、天馬司という存在はあまりにも深く根付いてしまっている。
 とはいえ冷静になって思い返してみれば、僕も司くんとばかり過ごしているわけじゃない。今だってそうだ。朝の登校時は寧々が隣にいるし、ショーの練習の場にはえむくんもいる。司くんとはクラスが違うから、授業中に言葉を交わすこともない。それでもつい彼の名を口に出してしまうのは。
(うーん……完全に無意識だったな)
 ハロウィンショーのとき、無意識に司くんが僕から離れてしまうのを恐れていたように。そしてそれを寧々が見抜いていたように。おそらく僕は、俯瞰しているつもりで、無意識下の自身の感情の変化や機微に疎いところがある。
 寧々の指摘どおり、彼に好感を抱いていることはたしかだ。友人として、ショーの仲間として。誰よりも信頼をおいているといっても過言ではない。
 実際、天馬司の名を口にして表情が翳る人を見たことがなかったので、舌に乗せるのが癖になってしまっていた可能性も否めない。だけどまさか、指摘されるほど明け透けになっていたとは。
 ……うん。なんだか少し、恥ずかしいような気もする。とびきりお気に入りの玩具を大人に見せびらかす子供みたいだ。
……共通の友人だからこそ話題にしてしまいがちになっていたのかもしれないね。なるべく彼の話は控えるようにするよ」
 僕の返答を聞いた寧々はまた眉をきゅっと寄せて、べつに、と小さく呟いた。
「惚気じゃなければしてもいいけど……
「その線引きが僕にはどうやら難しいようでね。善処はするけれど……同じ学校で、同じ劇団員である都合上、まったくしないというのは」
「はいはい。わかってる。あんまり期待しないでおくから」
 ひらり。日焼けのしていない、白く小さな手をあしらうように振って、寧々は少し歩調を速めた。どんどん距離を離す彼女の背中を見つめて、そういえばもうじき神山高校の正門が見えてくる頃合いだと気がつく。何かと悪名高い僕と一緒に歩いているところを誰かに見られるのは、曰く、たいそう気まずいらしい。まあ、そんなことはどうでもいいんだけれど。
……うーん」
 惚気。惚気かあ……
 道の真ん中で立ち竦み、首を傾げる。普通に、司くんの人の良さを語っていただけ、のつもりだったから。なおのことわからなくなる。
 ……惚気ってなんだろう。

   *

 自問したところで答えは出ないまま、午前の授業が終わり昼休憩となった。
 神山高校の昼休憩は長い。ある者は部活動に勤しみ、ある者は委員会活動を行い、ある者は友人と談笑のひとときを過ごす。
 僕はといえば、購買で昼食を購入したのちに、視聴覚室の扉を開くべく早足で廊下を歩いていた。正確には気が急くあまり少し駆け出していたかもしれない。フェニックスステージでのショーの撮影データを晶介さんからいただいたので、司くんと観ようと二限の休憩時間に約束していたのだ。
 先に到着しているであろう司くんの姿を想像して、息急き切らしながら扉を開ける。お待たせ、と僕が彼に声を掛けるのと、彼が大げさに肩を揺らして後退るのはほとんど同時だった。
「どわああああああ‼︎‼︎‼︎ くも‼︎ クモ‼︎ 蜘蛛おおおおお‼︎‼︎‼︎」
 ……蜘蛛?
 ガタガタガタ、と勢いよく椅子とテーブルを蹴散らして、司くんが部屋の隅に張り付く。そしてようやく僕の存在に気付いた彼はハッと目を見開いた後、顔をくしゃりと歪めて声を絞り出した。
「るいぃ〜……なんとかしてくれぇ〜……
「おやおや……。ちょっと待っていておくれ」
 直前まで司くんがいたであろう席を覗き込むと、たしかに机の上に蜘蛛がいた。といっても、指の先ほどの本当に小さな蜘蛛だ。無論、害はない。掬い上げ、窓を開けて外に出せば、瞬くうちにその姿は見えなくなった。
 開けっぱなしも寒いのでカラカラと音を立てて窓を閉めていると、不意にくんっと首が後ろに引っ張られた。なんだろうと肩越しに背後に目を向ければ、ぎゅ、と司くんが僕のカーディガンを握っている。ちゃっかり僕を盾にして震える彼を見て、ふふ、と思わず笑い声が出てしまった。
「も、もういないか? 絶滅したか?」
「絶滅はしていないけれど、外に逃したから大丈夫だよ」
「本当だろうな? また入ってきたり……
「大丈夫、大丈夫だから」
 僕の背中にくっついて、脇の下からおそるおそる窓の外を確認しようとする司くんを見下ろしながら、僕は人知れず目尻を下げていた。
(かわいいな)
 ちょっぴり情けないけれど。でも、そんなところが愛らしい。まるで小動物のようだ。……いや、日本の男子高校生の平均身長よりは背の高い男の子を小動物だなんて比喩するのはおかしいかな。ううん。でも普段は凛とした佇まいで堂々たる振る舞いをする彼がこんなにも小さくなっているところを見ると、やっぱり「愛らしい」という表現が一番しっくりくるような……
――あ。やっと見つけた……って、こんなところで何してるの二人とも……
「ん? やあ寧々。先日のショーの映像を司くんと確認しようと思ってね。視聴覚室なら大きなモニターで観れるから――
「じゃなくて、類にしがみついてる司について聞いてるんだけど」
「ああ、これは……
 蜘蛛がこわくてくっついてるんだ。かわいいだろう?
 そう言いかけて、はた、と止まる。
 ――わたしに惚気ないで。
 今朝、寧々に言われた言葉が脳裏を過ぎる。惚気……。もしかして、これも惚気のうちに入ってしまうのだろうか。
 不自然に口を開いたまま動かない僕を見て、寧々は怪訝そうに首を傾げた。視線を落とせば、いまだ震える司くんと目が合う。余程こわい思いをしたのだろう。その瞳は薄く濡れていて……
 ――……うん。やっぱり、かわいい……
…………
 司くんの肩を掴んで、べりっと剥がす。司くんはぱちぱちと瞬いて、寧々に続き、怪訝そうな眼差しを僕に向けた。
「む……類? 突然どうした……
「いや……
 改めて司くんを見下ろす。こうして見ると思いのほか司くんは可愛らしい顔立ちをしている。瞳は大きく、頬は柔らかそうだ。普段のキリッと吊り上がった眉は勇ましさを感じさせるが、いまはへにゃりと下がって困り顔だ。唇も……ケアが行き届いていて艶がある。
(うーん……
 計算したがりの頭は、何かにつけて結論をつけたがる。けれどこのまま脳内を好きにさせていたら良からぬ結論に辿り着きそうな気がして、僕は慌てて首を振ってそれを打ち消した。
……たくさん騒いで疲れただろう? ちょっとそこの自販機で飲み物を買ってくるよ」
「? そうか。すまんな……?」
 不思議そうな司くんと寧々を残して視聴覚室を後にする。
 冷えた廊下はうだった脳を冷ますのに都合がよかった。いまの切り返しは自分でも不自然だったと思うけれど、あのまま彼にくっつかれているのも居心地が悪い。
 何より。
……
 左胸に坐す心臓が、トクトクと大げさに脈打っている。ほんの少し息苦しさまで感じて、僕はそっと胸に手を当てた。

   *

「お前、なんだか変じゃないか?」
「ええ?」
 頭上に影が落ちて顔を上げる。するとそこには、堂々と仁王立ちする司くんが立っていた。それもなんだか尋常じゃない様子だ。
 うーん、この感じ、ちょっとお説教の気配がする。
 まだネネロボの定期メンテナンスが途中だったけれど、仕方ない、嘆息を零して向き直る。我らが座長のありがたいお言葉には耳を傾けないとね。
 淡々と僕を見下ろしていた司くんは、僕がしゃがんだまま立ち上がらないのを見ていっそう眉間の皺を深くした。
 気の短い彼は僕が行動に出るまで待てなかったようで、目線を合わせるように自分もその場にしゃがみこんだ。メープルの瞳を惜しみなく僕に向け、じっと僕の心の奥底を探るかのように見つめる。ここは臆せば負けかと、僕も彼の双眸を見つめ返した。
 さて、男二人見つめ合うなんて奇妙な構図、側から見たら滑稽かもしれないけれど。このままでは事態が進展しないので、ここはひとつ、僕から投げかけてみることにした。
 ええと、なんだっけ。僕が変じゃないか、だったっけ。
「そうかな。……特に変わったことはないよ」
「本当か? またオレに変な遠慮をしている……なんてことはないだろうな」
「ないよ。もう君に遠慮なんてする気はないからね。司くんなら、僕の全部を受け止めてくれる。そうだろう?」
「もちろんだ!」
 笑みを浮かべ、大きく首肯く彼を見て僕もほっと胸を撫で下ろす。
 そうだろうとも。司くんは僕を裏切らない。イチたすイチはニであるように、レイリー散乱で空が青く見えるように、高所から物を落とせば地にぶつかるように。司くんの芯は固く、太く、決して曲がらない強さがある。だから僕も彼を心の底から信頼している。
 だけどそれでは納得できなかったらしい。司くんは再び表情を曇らせて、じいっと僕の顔を覗き込んだ。
「しかしなんというか……こう、なんだ、よそよそしさ? を感じるのだが」
「気のせいじゃないかい?」
「いや! オレのスーパーウルトラアルティメットシックスセンスが間違いないと告げている!」
「スーパーウルトラアルティメットシックスセンス」
 ずずい、と司くんのドヤ顔が迫る。
 鼻先が触れそうな距離。思わず息を止める。苦しくなる前に体を反らすことに成功したが、開いた分だけまた彼が距離を詰めようとするので困ってしまった。
 ときどきこうやって距離感バグを起こすの、やめてくれないか。……ああ、いや、嘘だ。やめないでほしい。僕にだけは。ううん……相反する感情が上下左右にと揺れて、いい加減悪酔いしそうだ。
「あ、なあ寧々、お前も感じるだろう? 今日の類は何か変だ!」
「えっ……うん、まあ……?」
 突然司くんに声を掛けられて、客席のベンチを端から順に拭いていた寧々が中腰のまま顔を上げる。おや、と僕は目を瞬かせた。寧々も司くんに同意するのか。
「具体的にはどのように変なのかな」
「えっと」
「ううむ……わからん! わからんがこう……違和感が……むむむ〜?」
 そのまま腕を組み考え込み始めた司くんを後目に、僕はまたひとつ嘆息を零した。
……うーん……
 正直なところ、心当たりは無いこともない。昼休み以降、妙に司くんを意識してしまっていた自覚は、僕にもある。
 す、と音もなく司くんから視線を逸らすと、いつのまにか傍まで来ていた寧々がこそりと僕に耳打ちした。
……もしかして、今朝言ったこと気にしてる? その、惚気るなってやつ……
「気にしていない……と言ったら嘘にはなるけれど、どちらかというと……
「どちらかというと……?」
――こらそこ! オレを除け者にしてコソコソ内緒話をするんじゃなーい!」
「わっ……、と、つ、司くん」
 ほとんど抱きつくみたいに、遠慮なく肩を組まれて。首にまわる腕の形、その質量を意識した瞬間、僕の思考回路はあえなくショートしてしまった。
 脳内を白煙が舞い、パチパチと火花が散っている。
…………、」
 顔が。
 顔が、近い。やわいほっぺたがくっついて、僕の全身の筋肉はこれ以上ないほどに硬直してしまった。そのくせ、嫌になるほど心臓が暴れ回っている。真冬だというのにじわりと手に汗が浮かび、発汗するほどなので当然吐き出す息が外気との差でより白くなる。
 呼吸をした瞬間、ついでとばかりに彼のにおいも吸い込んでしまって思わず俯いた。
 これは、非常に拙いことになった。大変よろしくない状況だ。心臓がぎちぎちと痛むので、可及的速やかに司くんには距離をとってほしいのだけれど、同時に離れてほしくないと、彼の体温を感じていたいと思っている自分もいる。
 ただの、友人に。抱く感情ではないと、……さすがにわかる。
……もしかして体調が悪いのか?」
「そういうわけでは……
「むう。このところ急に冷え込んだからな……風邪のひき始めかもしれん! それなら今日のお前の妙なよそよそしさも納得だ。まったく、この後の稽古は自主練にしておくから、帰って十分に休んでくれ。着ぐるみにはオレから伝えておく」
「いや、大丈夫だよ。具合も悪くない」
「こら。座長の目は誤魔化せんぞ。そんなに顔を真っ赤にしておいて具合が悪くないなんて嘘が通用すると思うな。ほら、熱が……
「っ……!」
 前髪を掻き上げて。こつ、と額同士が触れ合ったと、脳が理解した瞬間。
「おわ⁉︎」
 勢いのまま司くんの両肩を掴んだ僕は、これまた勢いのまま彼の体を引き剥がした。腕のリーチ分離れた司くんは想像通り驚いた顔をしていて、瞳をまあるくさせながら、ぱちりぱちりと睫毛を瞬かせている。
 僕はいま、どんな顔をしているんだろう。
「ど、どうした。大丈夫か?」
……駄目かもしれない」
「何⁉︎ そんなに悪いのか⁉︎ きゅ、救急車呼ぶか……?」
「いや、不要だよ。おそらく不治の病、だからね……
「不治⁉︎ なおさら一大事ではないか⁉︎⁉︎⁉︎ えむ! えむー!」
 司くんの声を聞いて、ワンダーステージをモップ掛けしていたえむくんが「はーい」と元気よく駆け寄ってくる。ぱたぱたと軽快な足音は小柄で元気な彼女らしい。みっつも数えないうちに到着したえむくんは、その名にふさわしい明るい笑顔で「なあに?」と小首を傾げた。
「どうしたの? 司くん!」
「類の体調がよくないみたいだ。一刻も早く帰らせたいんだが、着ぐるみがどこにいるかわかるか?」
「ええっ! 類くん大丈夫……?」
 心配そうに僕の顔を覗き込む彼女に、うん、と小さく頷いてみせる。
「でもお顔がまっかっか……お熱あるのかな? 司くん、着ぐるみさんのところまでビュビューンと案内するね!」
「ああ、ビュビューンと案内してくれ!」
 ビュビューン。あっという間に疾風のごとく駆け出した司くんとえむくんの後ろ姿を見送る。嵐が去ったあとの地面には、カラカラとすっかり乾き切った枯葉が風に吹かれるまま転がっていた。
 二人とも大げさだな、と思う反面、こんなにも心配されてしまって申し訳ないやら。実際、僕はショーのために怪我を押し切ろうとした前科があるので、彼らが過剰に僕の不調を気にするのもわからなくはないのだけれど。
 司くんとえむくんが去ったワンダーステージは、フェニックスワンダーランドの中でも辺境に位置していることもあって、やけに閑散としているように感じた。ジェットコースターの滑走音と楽しげな悲鳴が遠くに聞こえる。先ほどまで心音が喧しかったせいで、ここが遊園地であることを今更になって五感が思い出したようだった。
「不治の病ね……
 ぽつりと、同じく残された寧々が傍らで呟く。
……
「その様子だと、やっと自分の気持ちに気づいたって感じ?」
……そうだねぇ……
「鈍感すぎない?」
「返す言葉もないよ……
 熱った顔を少しでも冷ませやしないかと両手で覆ってみたけれど、季節に似合わず指の先まで熱くなった手のひらでは微塵も役に立たなかった。
 はあ、と息を吐き出す。まだ鼓動が逸っている。
 彼の表情、彼の吐息、彼の体温、彼の声。特別だとは思っていた。他の誰よりも。それほど彼は、僕の視線を捉えたまま、離してくれないから。きっとこれは特殊な友情の形なんだって、僕が勘違いしてしまっていただけの話。
「好きになっちゃったみたいだ。彼のことを」
「とっくに知ってる。ていうか、わかってて惚気てるんだと思ってた」
 そんなわけないだろうと苦笑を零せば、寧々は何故か今度は安堵したような顔をしてみせた。くるくると指先に髪を絡め、どこかうれしそうに僕を見上げている。
 ――さて、どうしようか。これから。
 気持ちに気がついたところで、世界が大きく変わるわけでもないし。気持ちに気がついたところで、司くんが僕を好きになってくれるわけでもない。
 ただでさえいまのワンダーランズ×ショウタイムは不安定で、将来の道筋を決める大事な局面だ。僕の理想の道は、決まっている。どうしても譲れない僕自身のエゴのために、できることは全てするつもりでいる。
 壊したくない。
 言わなければ――伝えなければ、変わることもない。それなら、僕は。
 僕は……
「遠慮しないんでしょ」
「え……
 投げかけられた言葉に思わず顔を上げる。宵の色をしたふたつの瞳は、じいっと僕を見上げていた。
「司なら、類の全部、受け止めてくれるんでしょ」
 目を細め、寧々はそう言って微笑んだ。前までの寧々なら、きっと僕の感情の揺れを気遣って、そっと寄り添うに留めていただろう。何も言わず僕の判断を尊重していただろう。それがいまは、まっすぐに僕を見つめ、臆さず進むべき道を照らしている。
 いまになって、彼女につい司くんの話ばかりしてしまう理由がわかった気がした。共通の友人であることもそうだけれど、寧々はもう、司くんと僕の良き理解者だ。
 司くんなら僕の全部を受け止めてくれる。……うん、その通りだ。それには僕も、絶対の自信がある。
 イチたすイチはニであるように、レイリー散乱で空が青く見えるように、高所から物を落とせば地にぶつかるように。
……そうだね。……頑張ってみようかな」
「うん。まあ……わたしにも火をつけちゃった責任があるし、応援する」
「フフ。ありがとう、寧々」
 口元を緩める。それとほとんど同じタイミングで、ばたばたと忙しない足音が近づいてきた。司くんとえむくんだ。
 音のする方向へ視線を向けると、案の定彼らが大きくこちらに向かって手を振っている。かなり急いでくれたのだろう。ふたりの額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「はあ、はあ……! 待たせたな。着ぐるみには伝えてきたから、荷物を取りに行くぞ、類!」
「ありがとう。せっかくだから司くん、更衣室まで肩を借りてもいいかい?」
「お安い御用だ! えむ、寧々、お前達は各々自主練していてくれ。すぐ戻る!」
「はーい!」「わかった」
「よし、行くぞ類!」
 遠慮なく体重をかけてくれていいからな、と僕の体を支えながら司くんが僕に笑いかける。もうすっかり頼りになる座長の顔だ。さすがに少し良心がいたむけれど、いまはまだ、この状況を最大限利用させてもらおう。
 彼に気持ちを伝えるのは、もう少し勝機を得てから。司くんは心が強くて真面目だから、いま面と向かって伝えてもきちんと考えて答えを出してくれそうだけれど。きちんと考えて出した答えがノーでは困る。
 少しずつ、少しずつ。司くんにも、僕を意識してもらわないと。
 心なしか、ほんの少し――いつもよりゆっくりな歩調。五分とかからない更衣室までの道のりを、十分以上かけて進む。せっかちなきらいのある司くんのやさしい気遣いを感じて、ふ、と表情が緩んだ。
「司くん」
 声を掛けると、ん、と司くんが顔を上げる。
……僕、結構諦めは悪い方でね」
「ん? いきなり何の話だ? まあ、負けず嫌いなところはあるな、意外と」
「ああ。だから――覚悟しておいて」
「む……? なんだ。ゲームの話か……?」
「フフ」
 どさくさに紛れて。僕の方が身長が高いのをいいことに、司くんの頭頂部に擦り寄って鼻先を寄せる。
 待っていて。
 持てる武器全部を使ってでも、かならず君を落としに行くからね。

   *

 さて、あれから時は進んで、そうだな、もう半年くらい経ったかな。
 梅雨入り前の、ほんのり湿った通学路を幼馴染みと並んで歩く。
 昨夜に少し雨が降ったようで、道路には小さな水たまりが点々とできていた。ぱしゃり、ぱしゃりと歩くたびに音が鳴り、街路樹の葉の先からは、瑞々しい朝露が大地にこぼれる瞬間を待ち侘びている。
――それで、そのとき司くんが……
「類……。司の話はもうわかったから……
 はあ、と大げさなため息。隣を振り返り視線を落とすと、すっかり肩を落としてあからさまにげんなりとした様子の寧々の姿があった。
 残念。僕も寧々には話を聞いてほしいから、わざとらしく肩を竦めてみせる。
「つれないことを言わないで聞いておくれよ。何せようやく、晴れて彼とお付き合いする関係になったんだ」
 ――そう。熱烈なアピールと積極的なスキンシップを重ねた結果、僕は司くんと想いを通わせることに成功したのだ。戦略はこう――目には目を、歯には歯を、距離感バグには距離感バグを。意外と司くんは、自分から距離を詰めることはしても、相手から詰められることには弱いらしい。
 はじめは「演出家をも魅了してしまうだなんて、さすがオレ!」と鼻高々にしていた司くんも、惜しみなく愛を囁き続ければ次第に顔を赤らめしどろもどろになっていく。そこがまた愛らしくてたまらないのだ。
「開き直りすぎでしょ。ほんと、司のこと大好きだね……
「フフッ……そうだね。自分でも驚くくらい、彼はすっかり僕の世界の中心になってしまったよ。こんなにも夢中にさせて、本当に罪作りなお星様だ」
「満更じゃないくせに」
「まあね。あーあ、司くんがすっごくかわいかった話、寧々に聞いてほしかったなあ……
 何を隠そう、それはつい先日の週末の話だ。
 学校もショーも休みだからと司くんが僕の家に泊まりに来ていたので、僕達は遅くまで存分にいちゃいちゃしていた。それはもう、普段はショーに全力投球している分、埋めるように触れ合って口づけて、心のゆくまま愛を語り合っていた。
 けれども時間は万人に等しく、夜は更ける。愛しい恋人に夜更かしさせるのはしのびなく、そろそろ寝ようかと部屋の照明を落として。まだ清い関係の僕達は別々の布団で眠りについた。
 しかし司くんの寝相があまりにも悪すぎて、夜中に突然寝ぼけた彼が僕の布団に潜り込んできたのだ。
 聞けば昔ぬいぐるみを抱いて寝ていた名残で、いまも手頃なサイズのものが近くにあるとぎゅってしてしまう癖があるのだという。朝になって白状した司くんの、耳まで真っ赤にした顔を見てしまったら! 愛しさが溢れて溢れて、これはもう誰かに惚気のひとつでも聞かせないと爆発してしまいそうで……
 そこで白羽の矢が立ったのが、寧々だったのだけれども。肝心の寧々は両手で耳を塞ぎ、あーあーと喚いて僕の話を遮った。
「別に司のかわいいとことか知りたくない……! 大体、そんな話を聞かせて万が一わたしが司のこと好きになっちゃったらどうするわけ?」
……寧々が? 司くんを? ふむ……
 口元に手を当て、寧々が恋のライバルになった世界を想像してみる。
 寧々のことは、実の妹同然に大切に思っているけれど……。いや、思っているからこそ。彼女が涙を流すような事態は避けなければならない。
……いくら寧々でも、司くんはあげられないな。僕のだからね」
 ここは心を鬼にして。至って真剣にそう告げると、寧々は大きな瞳をことさら大きく丸くして、苦虫を噛み潰したような表情で吐き捨てた。
「いらないから安心して。バカ!」