猫澤
Public
 

虹のあとさき



 ――恋の先って何があるのだろう。
 通り過ぎていく雑踏。車のエンジン、信号機のサイン、店頭モニター、エトセトラ。あらゆるノイズの溢れる東京の街をあてもなく歩いて、僕はふと足を止めた。
 顔を上げれば、ちょうど目の前のデジタルサイネージにシャンプーのCMが流れ出す。クールにキメて女の子にモテちゃおう、みたいなキャッチコピーの、ありきたりなメンズ向けコマーシャル。不特定多数へ向けて不敵に微笑む彼を見て、すれ違った女子高生達がきゃあと騒ぎ立てた。
「天馬司だ! かっこいー!」
 少女達のうちのひとりが頬を紅潮させてはしゃぐ。
 司の視線に見事射止められた彼女は、夢心地な様子で画面の先をうっとりと見つめている。
「パラスキの舞台も超最高だった〜……
「え、まじ? 行ったの? 聞いてないんだけど!」
「あ〜〜! 将来天馬司みたいな人と結婚したあ〜い!」
「ちょっとそれは夢見すぎ〜!」
 黄色い声をあげて歩き出した彼女達の後ろ姿を、僕はぼんやりと眺めていた。しかしすぐに興味も失せ、何事もなかったようにして踵を返し歩き出す。
 ――俳優、天馬司。かつて遊園地でショーキャストをしていた彼は、舞台経験を積み、今や日本のみに留まらず各国を飛び回る大スターへと成長を遂げていた。
 彼の立つ舞台は即時ソールドアウト。活動拠点はあくまで日本だけれど、その功績はネットニュースで各国に取り上げられるほどにメディアが彼を放っておかないのだ。
 彼の人気の所以はひとえに、仕事を選ばないところにある。事務所のマネージャーが困ってしまうくらい、あらゆるオファーを彼は断らない。サスペンスドラマだろうとバラエティ番組だろうと全力で取り組むのが天馬司のモットーで、そんな彼の姿に元気付けられた人間は決して少なくないだろう。
 かくいう僕も、その一人だし。
 ふう、と息をつく。等間隔に植えられた街路樹を眺め、中目黒のとあるタワーマンションの前で立ち止まる。指紋でオートロックを解除し、エレベーターを待ちながら――僕は少女達の言葉を反芻していた。
……結婚したい、か……
 先々月に誕生日を迎えた。今年で二十五だ。
 ありがたいことに演出家としての実力を其処彼処で買ってもらえているので、司には遠く及ばないが、技術職の割には僕もそれなりに収入が安定している。
 だけど正直、まだこれからだ。やりたいこと、試してみたいことは日々湯水のように溢れてきて、到底、僕には時間が足りない。
 結婚のビジョンはまだ朧げだった。
 エレベーター到着のベルが鳴る。開かれた箱の中に足を踏み入れる。少しずつ進む階層表示。やがて十階で止まり、僕は肩に掛けていたバッグを持ち直した。
 左から六番目の角部屋。スマートロックで解錠し、漆黒のドアを開ける。
 慣性でドアが閉まるか、閉まらないか。そのくらいのタイミングで「ただいま」と口を開いてしまったのは、もう癖だったが、ぱたぱたとスリッパの音が奥から近づいてきてハッとした。
「おかえり、類!」
……司」
 眩しいほど屈託のない笑顔に迎えられて、自然、僕は口元が緩んだ。愛する人に出迎えられるこの瞬間、僕の心は幸福と喜びで満たされる。
「今日オフだったんだねぇ」
「ちょこっと事務所に顔は出してきたがな! 聞いたか? パラスキの舞台、連日満員だそうだ! ま、このオレが出るのだから当然だな!」
 どうも今日の司はいつも以上に機嫌がいいようで、何を言わずとも僕の手を引いて「ふんふん♪」と歌詞のないメロディーを口遊んだ。
 余程公演の成功が嬉しいのだろう。一際大きく引っ張られたと思えば、軽やかにステップを踏んで、僕をリードしながらリビングで踊り始めるほどだ。
 ――パラスキ。正式名称は『パラノイアスキップ』。SFとサスペンスが融合した巨編小説を三部作に分けて舞台化したもので、司はその一、二部の主人公である二重人格の青年を演じる。司自身の底抜けの明るさと、キャラクターの裏表あるダークな雰囲気のギャップが話題を呼び、追加公演の決定はほぼ確実と謳われるほどの人気ぶりだ。
 ひとしきりくるくるとリビングで踊って、気が済んだのか司は足を縺れさせたまま背後のソファーへと雪崩れ込んだ。僕もまた荷物を下ろして司の隣に腰を下ろす。
 中目黒駅から徒歩三分。2LDKのこの部屋が、今の僕と司の居城だ。
「さて……あとで夕飯の買い出しに行くが、何かリクエストはあるか?」
「司が作ったものならなんでも」
「むう。お前……なんでもが一番困るといつも言ってるだろう」
 上目遣いで司が僕の顔を覗き込む。僕は思わず微笑んで、司の鼻筋に唇を落とした。そうすると司はたちまち照れてしまうって知っているからだ。
「本当になんでもいいんだよ。司の料理はどれもおいしいからねぇ」
「そんなこと言って、類の嫌いな野菜尽くしになっても知らないぞ」
「そんな! いつから僕の司くんはそんな極悪非道になってしまったんだい……?」
 きっと司には通用しないだろうことは承知の上で、よよよと泣き真似をしながら項垂れる。案の定司は鼻でフンと一蹴して、僕のことなど気にせずスマホアプリで今日の献立を思案し始めてしまった。
 ソファーの背もたれに凭れ掛かって、ただぼうっと司の横顔を眺める。
 ――高校卒業と共にルームシェアを始めて七年。
 司とは大学生になってすぐくらいに交際を始めたので、イコール付き合い始めて七年目だ。
 僕も司も大人になった。僕自身あまりそういう自覚はないけれど、二十代も折り返し。周囲の見る目が変わりつつあるのを、最近、痛感している。
 仕事先での接待も増えて、その度に耳が痛くなる話題。
 神代くんはいいひといないのかい。だとか。結婚はいつするんだい。だとか。
(よくもまあ、口を揃えてそればかり)
 愛想笑いにはほとほと疲れていた。その度に僕はささくれ立った気持ちにさせられているのに。
 男女の仲なら、たしかにもうそろそろ結婚を考え始める時期だろう。順当にいけば社会人三年目。仕事にも多少慣れてくる頃だし。大学の知人が子供を産んだという話も耳にする。
 だけど……多様性が認められる時代だろう、今は。
 誰も、僕が同性のパートナーと生活を共にしているとは考えないのが、ことさら可笑しかった。僕も信頼できる友人にのみしか明かしていないのだから当然の帰結ではあるけれど。
……そりゃね。拗ねたくもなるさ)
 真っ白な天井を見上げて息をつく。
 僕がいくら……司くんとの結婚を望んでいても、そして司くんが僕の手を取ってくれたとしても、現行の法律ではこれより上のライフステージには上がれない。
 法で認められない関係。それはあまりにもふわふわしていて、霞のように不明瞭で。七年付き合って今更司の愛を疑うことなどするつもりもないけれど、ただ漠然とした不安の波になって押し寄せる。
 これから先の未来。このまま足元の覚束ない関係を続けて、僕は司を幸せに出来るのか……とか。
 いつか司がこの非生産的で惰性と退廃の夢に塗れた生活から目覚めてしまったら、……とか。
 静かな室内でカチ、と時計の針の音が鳴る。
 人肌恋しくなって司の肩に凭れかかる。司は一瞬息を詰まらせたように思えたけれど、特に言及には至らなかった。
「ところで……今日、事務所で社長と話をしていたんだが……
「うん?」
 ふと、思い出したように司が口を開いたので、僕も視線を司へと向ける。
「結婚情報誌の仕事をしてみないかと」
――結婚情報誌?」
 繰り返すと、「ああ」と短く司が頷いた。
「お前も知ってるだろ、『XXXy』。あれの表紙モデルをやらないかと、先方からオレ指名でオファーがあったらしい」
「モデル。いいじゃないか」
 司が雑誌モデルをするのは初めてじゃない。
 学生時代に散々カッコいいポーズの練習をしていただけあって、カメラの前でも堂々とした立ち振る舞いができるし、カメラマンにも好評だと聞く。本人談なので信憑性の程はひとまず置いておいて。
 なので僕もほとんど二つ返事で肯定を示したのだけど、司の表情は晴れない。それどころか眉を寄せ、言葉を選ぶように僅かに口を開閉させてから、押し殺すように話を続けた。
「だがコンセプトがコンセプトなだけに、相手役がいるかもしれん。かもしれん、というか、いるな、間違いなく」
「相手役……。そうか……そう、だね。そういう、お仕事だからねぇ……
……類は、どう思う?」
 琥珀の瞳に僕が映り込む。真剣な眼差しに、一瞬、返事を躊躇した。
 ――なんだか思い出すな。いつかも外部で仕事を請け負うとなったとき、司は僕や……仲間であるえむくんや寧々に律儀に確認をとっていたっけ。
 本当に、彼は根っからの真面目人間だ。
 正直なところあまりいい気がしないのは事実だが、駄々を捏ねるほど子供ではないし、XXXyといえば日中大手会社が発行する超メジャー雑誌。
 司のコネクションは広がるし、キャリアアップにも繋がる。となれば、断る理由が露程もない。そも、司の仕事に僕の私情を挟む方がどうかしている。
「僕に聞くまでもないよ。……頑張っておいで」
「いいのか?」
「もちろんだとも。僕が君の背を押さない理由なんてないさ」
「それは、そうだが……
 声が少しだけ揺れたのに、気づかないふりをして。
 僕は司の肩を抱いて頬にキスをした。二度、三度と繰り返すうちに、だんだん司の体も弛緩する。何度目かのキスの後、とうとう根負けした司が僕の頬にキスを返して、ふ、と微笑んだ。
……まあ、お前がいいならいい。社長に連絡を入れておく」
「うん。……
 最後に頬を擦り寄せたのは、僅かばかりの見栄だった。
「僕は君とこうして一緒になれただけで十分幸せだよ」
 何不自由ない暮らしと、順調な仕事。何より傍に司がいて、ぬるま湯のような日々に浸かっている。
「幸せだ。本当に」
 高望みをすれば、今手にあるものさえ落っことしてしまうかもしれない。僕はそれがひどく恐ろしい。二兎追えば損をするように、人間が抱きしめられるものには限りがあるのだから。
 だから僕は健気にそう言い聞かせて、自分を納得させている。
……だけど)
 だけど、ふとした拍子に、やっぱり考えてしまうのだ。
 先々月に誕生日を迎えた。今年で二十五だ。
 僕達の幸せにはあとどのくらいの猶予があるのだろう。
 どのくらい、僕は君と歩んでいけるのだろう。

 君もそれを望んでくれているのだろうか、と。

 ***

 海外に行くことの多い司と、演出家の仕事で夜遅くなりがちな僕。
 二人揃って家を空けることが多いのもあって、2LDKの二部屋のうち一室はベッドルーム、もう一室は僕の作業部屋として充てられていた。
 この部屋に引っ越す際「司の部屋は無くていいのかい」と聞けば、「類に隠すようなものは今更ないからな」とあまりに堂々と言ってのけるものだから、一周回って僕は感心してしまったほどだ。さすが、あのプライバシー皆無の自室で生活していた男は言うことが違う。
 そういうわけでありがたく使用している作業部屋で、僕は一人黙々と作業机に向かっていた。
 設計図の上に線を引く。コントロールパネルの位置と配線。プログラムの暗号化。動力源の確保。
 無心で、というには程遠い。ここ数日集中力が欠けている自覚はあった。……昔からそうだ。司のことになると、僕は少しだけ思考が浅はかになる。
 あれから一週間。司は雑誌モデルの話を、それ以来してこない。
 なので承諾したのかどうかさえわからなかったが、司が断る理由もないので、大方オファーは受けたのだろうと思っている。
 いつ撮影なのだろう。司と知らない誰かが仲睦まじそうに並ぶ姿が、いつか店頭に並ぶとして、果たして僕はそれを前に平静を保てるだろうか。
 左から右へ。手を動かせば、紙面に不安の滲む直線。はあ、とため息を零してペンを放り投げた。
「るーいー? 洗濯物出してくれないか? 天気がいいから全部干してしまいたいんだが」
「ああ、すまないね。今出すよ」
 ノックの音が二回。間を置いて開けられたドアを振り返れば、洗濯カゴを抱いた司が顔を覗かせた。
 彼は散らかった足元に眉を寄せながら、部品を踏まないように慎重に歩を進めて。その辺に放り出された僕のパーカーやシャツを拾い上げては、どんどん手際良く洗濯カゴの中へと放り入れていく。
 そうして作業台の前を通り過ぎるさなか、設計図を見つめて彼は目を輝かせた。
「お、新しい舞台装置か?」
「会議に通るかはわからないけどね――でも自信作だよ。これがあればワイヤーアクションがより安全かつスピーディー、そしてダイナミックに魅せられる」
「ほう! 是非とも詳しく聞かせてほしいものだな!」
 とか言って、僕が舞台装置の説明をするといつも頭上にハテナを浮かべるくせに。でもそんな司がかわいくて、僕はついつい専門用語多めに装置の性能を語ってしまうんだ。
 フフ、と笑って、……僕は手を止めた。
「ねぇ、司」
「ん?」
「先日の……雑誌モデルの件はどうなったんだい?」
「雑誌モデル? ……ああ、『XXXy』の」
 昔よりいくらか精悍な顔つきになった司が、ふむ、と腕を組む。
 ほんの僅かな沈黙に緊張が走る。司をまっすぐに見つめるのが苦しくなって、僕はそっと手元に視線を落とした。けれど。
「まったくわからん! ひょっとしたらナシになったかもしれん」
 あっけらかんとした声に思わず顔を上げた。
「は? ナシになったって、……どうして」
「ハッハッハ! いやなに、同性のパートナーがいるから相手モデルと過度な密着は出来ません、と素直に上に伝えたら、以後一切話の進展がない」
「なっ……
 どく、と心臓が嫌な音を立てた。聞き間違いであれ、とここまで強く思ったことはない。
 天馬司は今や世界に名を馳せる大スターだ。
 彼の出演する舞台は即刻ソールドアウトが基本で、各国のメディアにも注目が寄せられる期待の星。まだ若い彼はこれからどんどん大きくなる。足元を盤石にするために備える期間が今だろう?
 そんな大スターに。同性の恋人がいると、よりによって外部の人間に漏らすだなんて。軽率すぎて、目眩がする。
「君は昔からなんというか……どうしてそう考えなしなんだ」
「む。だがあの件、類だって納得していなかっただろう」
……そんなことないよ」
「いいやそんなことあるぞ!」
 思いのほかきっぱりと言い切って、司は腰に手を当てた。
「一体何年の付き合いだと思ってるんだ? 嫌なことは嫌だとはっきり言え。オレに今更遠慮はいらん!」
「遠慮なんて」
「してないとでも? お前、高校時代の散々な無茶振りを忘れたとは言わせないからな……! あの頃に比べて今の類は丸くなった! まんまるのぶよんぶよんだ!」
「ぶよ……君はえむくんの影響をかなり受けているよね!」
 さすがにカチンときて言い返せば、当の言い返された本人はつんと鼻先をそっぽ向けた。子供っぽい拗ね方に呆れ半分、苛立ち半分。言葉を失ってしまう。
 付き合いが長い、だって?
 ああそうだ、その通りだとも。大学進学を機に始めたルームシェア。程なくして僕達は交際を始めた。それはもう紆余曲折あったし、それなりに苦難もあったけれど、すべて二人で乗り越えてきたんだ。七年間もだよ。
 だから、司との関係には愛着がある。安心がある。僕はそれを軽い気持ちで壊したくないのに。踏み躙りたくないのに。
 他人に執着しない、この僕が、唯一どうしても手放したくなかったのが天馬司、君だというのに!
「大体それはそれ、これはこれだろう? 公私は分けるべきだ。分けるべきだと、君が昔、僕に言ったんじゃないか」
「ふん。そんなの忘れたな。オレは忘れっぽいから」
「っこら、司……!」
 怒気を含めて声を荒げれば、司はしてやったと言わんばかりににやりと口角を上げ、僕の腕を掴んだ。
 手を引かれるまま。リビングのソファーへと乱暴に押し倒され、胸に彼の手が当てられる。一瞬呆けて見上げているうちに、腹の上に司が馬乗りになって。ふふん、と彼は得意げに鼻を鳴らした。
「お前こそ忘れてるんじゃないのか?」
 ――カチ、と。壁掛けの時計の針が進む音。
「オレの夢は、昔も今も変わらん。オレの渾身のショーを見て、観客に心から笑ってほしい。だが、オレが今一番笑顔でいてほしいのは……類、お前だからな」
 アプリコットジャムの瞳が蕩ける。司の手が伸びて、するすると僕の頬を指先で撫ぜた。ささくれ立つ僕の心を宥めるように。
 そうして、ことさら笑みを深めた司が歯を見せた。
「だから類が笑えない仕事を請けることはできん!」
……仕事を選ぶのは君のポリシーに反するだろう? それに、いつか干されてしまうよ。芸能界は生き馬の目を抜くような世界だ」
「無論、我ばかり貫くつもりはないが、だがな……
 瞬間、勢いよく司が胸に倒れ込んできて、思わず「ウッ」と呻いた。
 甘え下手だった僕の恋人は、七年の時を経るうちにすっかり僕に絆されて、今じゃ僕限定で甘え上手だ。上機嫌で猫のように胸元に擦り寄る司を見下ろし、はあ、と息をつく。
 天井を見上げた僕の瞳は、たぶん揺らいでいた。
「お前、いま、ほっとしただろう?」
……
「ふふん。スター街道まっしぐらのオレにかかれば、お前が考えてることのひとつやふたつ読み取れるように――んむ」
「ん。もう黙って、司」
 図星だったのが悔しくて。やや強引に唇を奪えば、柔らかい感触に目眩がした。
 口付けるだけじゃ足りなくて、噛み付いてやろうと口を開ける。うっすらと持ち上げた瞼。視界いっぱいに、感じ入る司の表情が見えてほんの少しだけ沈んだ気持ちが浮上する。
……ああ……
 ああそうだよ。そうだとも。司の目論見通り。ほっとしたさ。
 仕事だから、役者だから。役柄司が誰と抱き合っても、キスしても、僕は許せるけれど。僕なんかに操立てて半端な演技をする方が怒るけど。天馬司のパートナーとして隣に立つのは――そりゃ、僕がいいに決まってる。他の誰にも譲れないに決まっている。
……む、ぷは! こら、話してる途中だろうっ」
「対話はもう十分だろう? ……はあ、本当に、ほんっと〜〜に、バカだね君は……
「何だと⁉︎ それは聞き捨てならない――、」
 反発しかけた司は、しかし僕を見上げてぴたりと動きを止めた。
 次の瞬間、耐えきれなかったように彼が噴き出す。
「ふは……なんて顔してるんだ、類」
「さあ、知らないな……。僕は今どんな顔してる?」
「天馬司のことが好きで好きで仕方ないーって顔だな!」
 ……ふむ。言い得て妙だ。僕はいつだって天馬司が好きで好きで仕方ないのだから。
 司の手が僕の両頬を包む。見上げれば、今も昔も変わらない眩むほどの笑顔がそこにあって、自然、僕の表情も綻んでしまった。
「フフ……そうかもしれないね」
 君は本当に、……人を笑顔にする天才だ。
 司の首裏に手を伸ばして引き寄せる。舌を伸ばしてみても拒まれなかったので、僕はそれを都合よく解釈して。
 もっと深く交わるべく、体を反転させて司と共にソファーへと沈んだ。


 射し込む朝日に起こされて目を開けた僕は、昨日とまるで違う世界に瞬いた。
……見違えるな)
 つい先週までは独り寝か、仕事場でそのまま仮眠といった毎日を送っていたので、割合久々にすっきりと気持ちのいい朝だ。昨夜は司と随分盛り上がったからか、程よい疲労ですんなり入眠に至れたのもある。
 一方で司の方はまだぐっすりと夢の中だ。
 痛々しい歯形の残る肩。流石に首筋に痕を残すわけにはいかず、代わりに口付けた鎖骨から下は鬱血痕が密集している。薄暗い中ではさして気にならなかったが、明るいところで見るとちょっと病的で……我ながら少し引いてしまった。
 だけど、これくらいは許されたいとも思う。指輪で司と結ばれようにも、法律が僕達を突き放すし。世間に言い触らそうにも、立場がそれを許してくれないし。
 欲を司にぶつけて、愛情は満たされてもどこか飢えている。こればかりは仕方のないことなので、もうこれ以上どうこう言うつもりもないのだけど。
 司を起こさないようにベッドを抜け出して、床に落ちたよれよれのシャツと下着を拾う。郵便受けを覗きがてら洗面所に向かって顔を洗えば、顎の手触りが気になってシェーバーに手をかけた。
 今日は午後から舞台稽古の打ち合わせがある。そこで件の舞台装置を提案してみるつもりだ。かつて司共々籍を置いていた劇団なので、多少の無茶振りや融通はきくかもしれないが――入れ替わりの激しい業界だ。上手く提案が通るかどうかは、僕の手腕にかかっている。
 紫の歯ブラシを取って口に含む。
 そういえば……司の予定を聞いていないが今日は仕事だっただろうか。料理は科学メンタルで腕の上がった朝食を振る舞ってあげたいところだけど、司の手料理も食べたいし。出掛ける前に起こすべきか否か、悩ましい――
「類――!」
「⁉︎」
 ごふ、と口の中の泡を吐き出しそうになる。瞬時に杞憂を悟ったが、それにしたって近所迷惑に匹敵する声量だ。
 慌てて口を濯ぐと、間髪いれずに洗面所の引き戸が開けられた。
「なんらい、つかひゃ……? ひょっとまっへ、」
「おはよう! ああそのままでいい、とかく聞いてくれ、良いニュースだ!」
……?」
 タオルで口元を拭いながら首を傾げる。よほど慌てて飛び起きたのか、司は恥じらいもなく真っ裸のすっぽんぽんだ。流石に朝だし、そういう気分じゃないし、欲情したりはしないけど。普通に目のやり場に困る。
 仕方なく上に着ていたシャツを脱いで司に被せる。そのさなか「どうしたんだい」と尋ねれば、頭を出した司は爛と目を輝かせて頬を紅潮させた。
「例の雑誌モデルの件、『XXXy』の担当と話し合って、それならソロかパートナーと一緒に撮影はどうかと打診が来た!」
「へえ…………えっ?」
「類! お前も一緒に撮るぞ!」
 突き出されたスマホの画面。裸眼では少しピントが合わなくて目を皿のように細める。
 ――XXXyは、結婚情報誌だ。だからこそ表紙はウエディングドレスを着た女性か、式を挙げるカップルを想定した男女がシンボルとなっている。ソロにしてもパートナーと撮影するにしても、男だけが表紙を飾るのは異例だった。
 話題性は、あると思う。率直に言って。ただ、それに天馬司を起用するということは……一歩間違えれば取り返しがつかない爪痕も残しかねないわけで。
……、」
「類。もう一度聞くぞ。お前はどう思う?」
 喉が震える。
 だのに、僕の心は、視線は、メールの文面に釘付けになってしまっている。
……いいのかい? 僕が君の隣を飾ってしまって」
「何を言ってるんだ? お前以上の適任がいるか!」
……。言い方を変えよう。僕が君のパートナーだと世間に知れ渡ってしまうけど、いいのかい」
「構わんが?」
 きっぱりと断言されて面食らった。
「オレはこの七年間、お前とパートナーになったことに後ろめたさを感じたことなど一度もないぞ。お前は違うのか? 類」
……!」
 ――ああ、今。
 春の雷鳴の如く、僕の世界は色を変えた。
 有り体にいえば、僕はまた司に惚れ直してしまった。彼はいつも僕の閉ざした世界をこじ開ける。そうして、世界は僕が思うほど僕達に厳しいものではないのだと教えてくれるんだ。
「僕も、」
「ああ」
「僕も、君と一緒になったことに後悔なんてない」
「そうだろう、そうだろうとも!」
 白い歯を見せて。夏の昼の太陽のように、司はぱっと表情を輝かせた。
「楽しみだな!」
「うん。……そう、だね。………………っ」
 思わず司に手を伸ばして抱きしめる。
 喉の震えは誤魔化せたつもりだけれど、シャツに顔を押し付けた拍子に水滴を吸ってしまったので、司にはしっかり伝わってしまった。昔から兄気質な司の手が、ぽんぽんと大袈裟に背中を叩く。
「はは! 泣くな泣くな、男だろう」
 だって仕方ないだろう。報われたような気がしてしまったんだ。
 僕と司の関係が、世界に許されたような気がして。
……おたがいさまだろう……?」
「馬鹿を言うな。オレのは貰い泣きだからノーカンだ」
……相変わらず、支離滅裂な理屈だ」
 でも案外それも悪くなくて、僕は不器用に微笑みながら鼻を啜った。

 ***

 さて、ここからは完全に後日談である。
 今受け持っている劇団の稽古を通しで見守り、今日、僕はくたくたになりながら帰宅した。
 もうじき初回公演が間近に迫っている。ぶっちゃけ死ぬほど忙しく、このところ深夜に帰る日々だったので、まだ夕方であると言える時間帯に帰ってこれたのは本当に久方ぶりだった。
 来週には、おそらくこのドタバタも多少は緩和されるだろう。
 だというのに、今度は入れ替わりで司が撮影で渡英してしまうらしい。
 窓際に置かれたオレンジ色のキャリーバッグが視界の端に映るたび、寂しさが押し寄せて溺れそうになってしまう。
 撮影は短期ではあるものの、またしばらくは独り寝だ。それならいっそ作業していた方がいいかもしれない。……なんて言ったら、きっと司は怒るのだろうけど。
――何を読んでるんだい?」
「んー……?」
 シャワーを浴びてリビングに戻ると、司はソファーに腰掛けて雑誌を捲っていた。
「『XXXy』の色稿サンプルだ。なかなかいい表紙だぞ」
「ああ、あの……
 司の肩に手を回して隣に腰を下ろす。司はちら、と僕を見て、そうするのが自然であるかのように、僕の肩に頭を預けた。
 お揃いのシャンプーのにおい。少し癖があるけど、柔らかい髪。きゅう、と心臓が締め付けられる。
 ――数日前、僕と司は例の結婚情報誌の表紙を撮るべく撮影スタジオを訪れていた。
「君と違って僕はああいう畏まった場での撮影には慣れていないから……流石に少し、緊張したね」
「む、緊張していたのか? 全然わからなかったが」
「そうかい? なら僕の演技力もまだまだ捨てたものじゃないな」
 表紙の他にいくつかピンナップも撮って、司の対談特集ページに使用されている。僕は対談には参加していないけれど、司からいざ雑誌を受け取って流し読んでみると、見事に僕の話題ばかりでさすがに照れてしまった。
「こういう雑誌って、付録に婚姻届がついてるんだな」
「ああ……、この手の雑誌は女性読者が多いから、可愛らしいデザインのものが一緒についてるイメージがあるねぇ」
「そうなのか」
 類の手がけた演出は素晴らしい、だとか。類の傍は安心感がある、だとか。
 そういった司の言葉を噛み締めていると、それまで隣で大人しくしていた司がやや落ち着きなくそわそわし始めた。
 はじめは対談を僕に読まれて照れているのかと思ったが――司は人を褒めるのに照れたりはしないし、世に出すものを恥ずかしがるような性格でもない。
 ただ、昔から隠し事が下手な男ではあった。
「でも、これからは男性読者も増えるだろうなっ」
「どうしてだい?」
……、ん」
 観念したように突き出された紙。
 折り畳まれたそれはどうやら付録の婚姻届であるようだった。しかしぱっと見でも女性向けの可愛らしいものではなく、どちらかといえば黒と青を基調とした大人っぽい色合いで。思わずぱちぱちと瞬く。
「おや。珍しいね……
「オレと類が表紙だからな。男性目線でリデザインしたそうだ」
「へえ……
 なんとなしに、婚姻届を開いて。
「え」
 目に飛び込んだ『天馬司』の文字に、思考が止まった。
「つ、司……これ……
「当然、残りの空欄はお前が埋めてくれるだろう?」
 うっすらと頬を染めて。少しだけ怒ったように眉を吊り上げながら、司は僕の顔を覗き込んだ。僕の太腿に置かれた司の手は僅かに震えていて、司にしては珍しく緊張しているのが伝わってくる。
 きっと気を利かせてくれたのだろう。婚姻届は男性カップル用に内容が改変されている。勿論まだ法律で同性婚が認められたわけではないから、僕が記入したってこのまま役所に出せるものではないけれど。
 ごっこ遊び、みたいなものだけれど。
「いや、待って……ちょっとこれ、一旦保留にしてもいいかい?」
「はあ⁉︎ 何故だ!」
「話は最後まで聞いてよ、僕の沽券に関わる問題だよ」
……類の沽券?」
 おうむのように繰り返した司にうんと頷く。だってこんな大事なこと――こんな軽々しく済ませたくないに決まってるじゃないか。演出家・神代類のプライドだ。
「最高の演出でばっちり決めてみせるから、仕切り直しさせて……僕の渾身のプロポーズを受けてほしい。これを書くのは、それから」
「! まあ、そういうことなら仕方がないな」
 司はこほん、とひとつ咳払いして。
「オレを待たせるからには最高のプロポーズを期待してるぞ!」
 曇りのない笑顔に、陰鬱な気分などすっかり吹き飛んでしまった。
 次に司がこの家に帰る時。その時一体どんな演出で彼の心を射止めようか、今は心の底からわくわくしている。
 夢を叶え老若男女に愛されるスターになった司だけれど、彼の道はここで終わりではない。むしろここからだ。
 もっともっと、彼の名は世界に広められるはず。彼は世界に笑顔を咲かせられるはず。
 僕はその背を押して、彼の帰る場所を守る一人になりたい。だから司が不在の間にだって、今よりもっと演出の幅を広げてみせようじゃないか。
 誰よりも。この僕が天馬司という男を輝かせられる、その証明として。