猫澤
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NYの片隅からハローハロー!


 サアサアと冷たい音が司の耳を撫でる。
 夢の淵を歩いていた司はふっと浮上して、ゆるやかに閉じていた目蓋を持ち上げた。
「ん……雨か……?」
 規則正しい生活を心掛けていると、自然、目覚ましが鳴らずとも体が覚醒してしまう。まだ微睡みを揺蕩っていたい気持ちもあったが、重たい体を起こして司は猫のように体を伸ばした。
 カーテンで閉め切られているとはいえ、窓の外は薄暗い。ベッドの下に放り投げられていた類のパーカーを拾って羽織る。当の持ち主といえば、司がベッドから起き上がったことにも気づかずに深い眠りに浸っている。
 ためしにカーテンを開けてみても、太陽は重たい雲に隠されて。やはり室内は薄暗いままだった。
 時刻は八時を過ぎたところ。再びベッドの端に腰掛け、眠る恋人の肩を揺さぶる。
「類。るーいー、起きろ! 朝だぞ」
「んい……ぬう……
「えぇい。もにゃもにゃ言ってないでさっさと起きろと言っている! このねぼすけめ!」
…………さっむ……
 眉を寄せて更にベッドに潜り込もうとするので、勢いよく毛布を引っ剥がせば。類は自分を抱きしめるようにして、その大きな体を縮こまらせた。
 類と生活を共にして知ったこと。類は朝に弱い。というよりも、一度眠りについてしまうとなかなか起きることが困難であるようだった。徹夜をした翌日よりもしっかり睡眠をとった翌日の方が眠そうなのである。
 春先とはいえ小雨降る朝は冷える。半裸でぷるぷる震える類が途端に可哀想になって、ため息をひとつ。そっと毛布を戻した。
 今日がアカデミーに通う日ならばともかくとして、司の論文も類の制作課題も無事締切を乗り越えたばかりだ。思えばここ一週間は互いに忙しくしていて一緒に住んでいるのにすれ違うような日々だった。
 けれどそれもようやくひと段落ついて落ち着ける。昨夜は締切明けのテンションで、それはまあ……盛り上がってしまったので。今朝くらいは多少甘やかしてやってもいいかと思い直した。
 ――ニューヨーク市街の片隅。小さなアパートの一室が、類と司の箱庭だった。元々は単身用の1LDKであったものの、二人とも然程広い部屋を必要としていなかった為とくに過不足なく生活出来ている。
 キッチンに立って朝食の支度を始める。たまには凝り性が出てしまうときもあるが、今日はトーストにベーコンと卵を焼いて、スープを温めるだけの簡単な朝ごはん。冷蔵庫からヨーグルトを取り出したところで、寝室にしている部屋のドアがゆっくりと開いた。
 髪を寝ぐせでぼさぼさに跳ねさせて、適当なTシャツを頭から被った類が大きく口を開ける。
……おはよう、司くん。……ふあ」
「おはよう。全く、アカデミーが休みだからといってだらけすぎだぞ」
「君は朝から元気だねぇ……。羨ましい限りだよ。……もぐ」
「コラー! つまみ食いをするなー!」
 余所見をしている間に類がベーコンをひと切れ摘んで、ぺろりと親指を舐める。行儀が悪い! と司が叱責すれば、眠気でまだとろける眼差しをさらに溶かして、類が小さく笑った。
 ぐっと唇を尖らせる。どうにも類のこの顔を見る度に――つまり毎朝なのだが――絆されている自分がいる。なんというか、そう、なかなか懐かない野良猫が手に擦り寄ってきた時の嬉しさに似ているのだ。
 顔を洗って席についた類の前に、ゴトン、とわざと音を立ててヨーグルトとありあわせのサラダを置く。みるみるうちに悲しげに眉を下げた類は、悲壮感たっぷりに俯いてみせた。
「うわぁ……酷いなぁ、司くん。朝からなんてもの見せるんだい」
「うるさい、人が作った料理に文句を言うんじゃない」
「はあ……緑色の悪魔が食卓に並んでる……なんて日だろう」
「お前の分は小皿にしてやっただろうが……
 自分も類と向かい合うように席に座って、いただきます、と手を合わせる。トーストに齧り付けば、さく、と小気味いい音が鳴った。
 相変わらず雨はしとしとと降り続いている。
 跳ねる後れ毛を手のひらで撫でつけながら、類は緩慢に窓の外を見た。
「ああ……頭が痛いと思ったら。雨が降っていたんだね」
「なんだ、具合悪かったのか? それは……無理に起こして悪かったな」
「いや、気候に因るものだから気にしないでくれ。後で薬を飲んでおくよ」
 スープが類の体に飲み込まれていく。類と生活を始めて知ったこと、その二。司が手ずから作った料理が、自分のことに無頓着な類の体を作っている事実。それが意外と悪い気はしないこと。
 喉仏が上下するのを見守るこの時間が、結構好きだったりする。司の視線に気づいた類が「おいしいよ」と微笑んで、「当然だ」と返すまでがいつもの流れだ。
 フォークでサラダを掻き混ぜながら、司は「あ、」と声を上げた。
「この後買い出しに行こうと思うんだが、何か一緒に買ってきてほしいものはあるか?」
「こんな雨の日に? 今日くらい家でまったりしないのかい」
「そうしたいのは山々だが……ここ数日オレもお前も課題に追われていただろう。そろそろ冷蔵庫の中身が寂しい感じになってるぞ」
 類も司も大食らいではないし、類は食に無頓着なきらいがあるので、週に一度――休日に食材を買い込むのが習慣になっている。が、今週は流石にどちらも忙しくてまだ買い物に行けていないのだ。
 今日の朝食と、頑張れば夕食分くらいは作れるだろうが、冷蔵庫はもはやもぬけの殻。雨の中出掛けるのはたしかに億劫ではあるけれど、生活が懸かっている以上そのままにもできない。
 類は考えるように宙を見つめて、そうだなあ、と呟いた。さく。その間にトーストをまた齧る。
「じゃあラムネをお願いしたいな」
「ああ、そっちもストック無くなりそうになっていたな」
「悪いね」
「気にするな。ラムネくらい大した荷物にはならん」
 頭の回転がはやい類は、思考にかなりのエネルギーを要する。
 手っ取り早くチャージできるのがブドウ糖で作るラムネ菓子だそうで、部屋ではいつもラムネ菓子のストックを欠かさないようにしていた。
 類が作るロボットやドローンと負けじ劣らず――類自身も大概ロボットみたいな奴だった。たまにふざけて司に抱きつきながら「司くんを補給してるんだよ」なんて言う時があるが、それもあながち間違いでもないのかもしれない。
 スープを口に含む。少し水分が飛んで塩気が強い。
「出来れば洗濯も片付けてしまいたかったんだがな……。午後から晴れることに期待するか」
「そうだねえ……昨晩は司くんが盛大にシーツを汚してしまったからね。晴れなかったら向かいのランドリーにでも行こうか」
……オレが悪いみたいに言われてるのが腑に落ちないんだが」
「フフ、嫌だなあ。誰もそんなことは言ってないよ」
 む、と司は顔を顰めた。……朝から情事を匂わせる発言をされるのは、苦手だ。
 類と付き合ってもう一年と少し経つ。当然、何度も体を重ねてきたし、司自身もちょっとこなれてきたと自負しているが――健全な朝の空気と夜の濃厚な空気の温度差に、心がついていかない。どんな顔をすればいいのかわからないのだ。
 昨夜の類は――それはまあ、すごかった。すれ違いの寂しさを埋めるみたいに、朝方まで繋がってお互いを慰めていた。思い出せば顔が火照ってしまうので、ぶんぶんと首を振って思考を振り払う。
 そんな司の姿を見て、類は喉の奥で小さく笑っている。
 甘く蕩けた蜂蜜色の瞳。それがすっと意図的に下を向いた。
「さすがの僕も司くんのその格好は目に毒だなぁって思うけどね」
「は?」
「彼シャツならぬ彼パーカー、悪くないね。もしかして誘ってるのかい?」
「誘っ……んなわけあるか!」
「なんだ。残念」
 いい加減裸なんて見慣れているし、そもそもこの場に異性がいるならまだしも、男同士で素肌に恥じることもない。流石に全裸は控えるにしても風呂上がりに下着だけで室内をうろつくことなんて普通にある。
 なんなら今だって下はパンツしか穿いていないくらいだ。一応は気を使ってパーカーを拝借したのだから、むしろ褒めてほしい。
 漂いはじめた甘い空気を誤魔化すように、咳払いをひとつ。
 ふと、類のサラダが全く減っていないことに気づいた。
 トーストも、ヨーグルトも、ベーコンエッグも、スープも。すべて類の腹に収まっているというのに、それだけが食卓に出した時のまま青々と存在を主張している。
「お前、サラダ残す気じゃないだろうな?」
 びく、と類の手が震えた。
……どうしても食べないとダメかい? 司くん……
「甘えた声出しても駄目だ! ああもう……せめてひと口は食ってくれ。ホラ」
 類が重度の野菜嫌いであることは知っていたし、司だってピーマンがどうしても苦手なので――なまじ気持ちもわかる分、無理強いはしたくないのだが。
 それにしたって偏食を極めている類の健康を気遣って、敢えて食卓に出しているのだ。完食は無理でもひと口は食べてもらわないと報われない。
 レタスを一枚、フォークで突き刺して類の口元へ持っていく。類はこれ以上なく顔を顰めて、レタスを見、司の顔を窺い、またレタスを見て小さく口を開いた。
 しゃく、ごくん。ほとんど噛まずに飲み込まれたそれ。
 泣きそうな類とは打って変わって、司は満足げに頷く。
「美味いか?」
……これは世紀の発見なのだけど、君にあーんされても不味いものは不味いということを知れたよ……
「そうか美味いか。それは世紀の大発見だな。興が乗ったらまた食わせてやってもいい」
「僕いま宇宙人と会話してるのかな? ハローハロー?」
「誰が宇宙人だっ!」
 すっかり機嫌が降下した類の頭を小突いて、空いた食器をキッチンに下げる。類手製の食器洗い乾燥機はなんと洗い終わったら自動で食器棚に収納する機能付きだ。
 二人で生活をするにあたり家事をどう分担するか取り決めようとした司を制して、類が作ったのは家事お手伝いロボットだった。アナログに思考が偏りがちな司とは違い、類はなんでも効率重視で自動化させてしまう。
 ――この箱庭は小さなワンダーランドだ。
 玄関先にはペンギン型のお掃除ロボットがいるし、棚には学生時代から愛用しているカメラ付きのドローンが数体。司好みの観葉植物のそばにバルーンの犬。バルーンアートは天井にも飾られている。そして、三時になったらおやつの時間を告げる鳩時計。
 少しずつ、少しずつ、司の生活は類の色に染まっている。
 寝室に一度戻って司が出掛ける支度を済ませると、その間に類は食後のコーヒーを淹れてくれていたようだった。揃いのマグの片割れを差し出され、冷蔵庫に凭れながら啜る。
「類は今日どうするんだ?」
「特に予定は無いよ。強いて言えば映画でも観ながら君とのんびり過ごしたいかな」
「名案だな! オレも類と観たいと思っていたミュージカル映画があったんだ」
「いいね。楽しみだ」
 類が口角を上げるのを見ると、嬉しくなる。
 自分と同じだけの熱量で、ショーを語り合えて。好きだと告げれば愛してると囁かれるような、手を差し出せば握り返されるような、そんな生活が司は何より気に入っていた。
「なるべくすぐ帰ってくる」
「うん。いってらっしゃい」
 少し背伸びして唇を合わせる。コーヒーの香りと、ぬるい類の体温。離れがたく鳴ったリップ音が、雨音に溶けて混ざり合っていく。


――こんなところか?」
 ラムネ菓子が詰まった缶の山。そのうちひとつをカートにのせて、人知れず司は呟いた。
 通い慣れたスーパーの中はそれなりに賑わっていた。いつも通りの順路で一箇所ずつ巡って、買い逃しが無いかカゴの中を確認する。肉よし卵よし野菜よし。
 類に買い出しに行かせると野菜のたぐいを一切買ってこないので、買い物は専ら司の担当だ。料理もどちらかといえば好きな方で、少し高めの米を吟味しながら今夜は彩り豊かなパエリアにしようと決める。
 それにしても、二人での生活にも随分と慣れた。
 何をするにしても、考えるにしても。司の思考には類の影が過ぎる。こうしてスーパーで食材を眺めている時も、アカデミーで出来た友人と出掛ける時も、役作りに没頭する時も。いつだって頭の片隅には類の存在があるのだ。
 バガーから食材の入った袋を受け取ってスーパーを出る。小降りにはなってきたが、雨はまだ降り続いている。
 ――頭が痛いと言っていた。帰ったらホットミルクでも作ってやろうか。蜂蜜をたっぷり入れて、その甘さにほっと綻ぶ顔が見たい。
 鼻歌交じりの帰路の先。ふと、アパートの下に見慣れた紫陽花色を見つける。屋根のある軒下とはいえ、薄着でスマホを触る類の姿に苦笑した。
「風邪ひくぞ」
「ん、ああ――おかえり。待っていたよ、司くん」
 顔を上げた類の、目尻がふわりと緩む。
「次のホリデーに君と一時帰国する話を寧々にしたら、喜んでいたよ。これは気合入れてショーの準備をしないといけないね」
「フフン。世界的スターになるこのオレと、世界的ステージディレクターになるお前が手を合わせるんだ。どんなものだろうと最高のショーになるに決まってる!」
「流石、ブレないなあ、君は」
 えむと寧々とはセカイを通じていつでも会えるけれど、『ワンダーランズ×ショウタイム』としてショーをする機会は減ってしまった。海を隔てているのだから仕方がない。その分、帰国した際にはとびっきりのステージを作る約束だ。
 荷物を類に預けて傘を閉じる。散る水滴。コンクリートの地面に出来た、水溜りに映る空。一筋の光が射して雨雲が流れていく。
 ほとんど同時に、類と司は顔を上げた。
「おや。ちょうど雨、あがってしまったね」
「その方がいいだろう。類、洗濯物干すの手伝ってくれ」
「そう言うと思って、作っておいたよ。物干しロボット」
……天才か?」
「だろう?」
 ぽたりと落ちる水滴に光が反射する。きらきら、きらきらと。
 二人の未来は今日も――目映ゆい。