猫澤
Public
 

photographer


 ――いつかの秋。
 まだ熱気の篭る地下のライブハウスから、現実への一歩を踏み締める。白む吐息。じわり、未だ首筋に汗が滲むのを、冷静な木枯らしがカラカラと嗤っている。
 歌も、ダンスも、パフォーマンスも。全て全力を尽くした。
 白石も小豆沢も練習の時より声が出ていた。彰人もだ。観客は遜色ない程湧き上がり、結果としては上々だったように思う。しかしどこか物足りなさを感じてしまうのは、俺達が更なる上を、高みを目指しているからだろうか。
 かの有名なライブイベント――RAD WEEKENDを超える。 そんな彰人の夢を共に追いかけて、二人の夢が四人の夢になって、もう二年だ。今はまだ、その尾を掴む明確なビジョンは無い。けれど着実に、前進はしている。その手応えは日々感じている。
――あっ、青柳くん。ちょっといいかな」
「小豆沢?」
 路地裏の自販機でミネラルウォーターを買っていると、俺を追いかけてきたのだろうか――小豆沢が頬を上気させ駆け寄ってきた。
 今日のライブイベントは夜通し続く予定だが、高校生である俺達は途中で帰らなくてはならない。次のイベントの予定をオーナーに確認している彰人と白石はともかくとして、帰り支度も半端なままの俺は、息急き切らした様子の小豆沢に目を丸くした。
 小豆沢がショルダーバッグから一冊の本を出し、忘れないうちに、と俺に手渡す。文庫サイズの小さなそれは、どうやらフォトアルバムのようだった。
「はいこれ、この間みんなで行ったフェニランでの写真。みんなの分アルバムにしてみたの。良かったら……
「そうなのか。ありがとう……よく出来ているな。俺達人数分を作るとなるとかなり大変だったんじゃないか?」
「全然! 杏ちゃん達喜んでくれるかなあ、とか考えてたらすぐだったよ」
 そう言って小豆沢は表情をふんわりと綻ばせた。
 ――俺達四人にはそれぞれ抱える問題があるが、こと『連携』と『経験』がチームのバランサーを務める俺にとってはマストの課題だ。けれどそれは、俺ひとりでなかなか培えるものではなく。個人の課題はチームの課題と、都合を合わせ、四人で遠出をすることが最近になって増えてきた。
 先週四人で行ったフェニックスワンダーランドも、大きく括ればその一環。
 高所が苦手な俺は絶叫系や観覧車等は荷物番に徹していたが、コーヒーカップとフェニーくんボートはなかなかに癒しを感じられた。その証拠に、写真の中の俺も穏やかな表情をしている。
「写真って、こうして大切な思い出をずーっと形に残しておいておけるから好きなんだ」
「思い出をずっと……
 小豆沢の言葉を繰り返して、口を噤む。
 思い返せば。俺はどこまでも空っぽだった。クラシックにしろストリートにしろ、真っ直ぐ突き進むばかりで、思い出に一切の形はないし、写真なんてもってのほかだった。
 ――幼い頃はあの人達が居てくれたから、救われていたと言っても過言ではないのに。
 記憶の端っこに根付く、淡いカナリアの色。花の綻びを彷彿とさせる笑顔。ふと、それらが恋しくなって、俺は小豆沢を振り返った。
「なあ小豆沢。その、カメラというのは俺にでも出来るものだろうか」
「カメラ? う、うん! プロが使うようなのはやっぱり勉強しないとだけど、今はデジカメでも結構簡単にプロ仕様の写真が撮れるようなのがあってね。……あ! 興味があるなら、私が前に使ってたカメラ、青柳くんにあげるよ」
「いや、もらうのは流石に……
「ううん、気にしないで。使ってもらったほうがカメラも喜ぶから」
 そこまで言われては断る理由もない。
 そうか、と目尻を和らげて、買ったばかりのボトルの蓋をぱきっと開ける。冷たい水が喉を抜け、熱った体が冷めていくのを感じる。
 小豆沢は俺の隣に立ちながら、鈴の音、あるいは小鳥の歌のような楽しげな声をあげた。
「嬉しいな。青柳くん、どんな写真を撮るのかなぁ」
……小豆沢のような、上手い写真は撮れないと思う」
「写真に上手とか下手とかないんだよ、青柳くん。青柳くんが素敵だなーって思った瞬間、全部が、シャッターチャンスだから」
 全部が……
 瞬く。そんな考え方は、したこともなかった。これまでの俺の生き方は刹那的で、音楽以外における感性を磨く機会すら与えられてこなかったから。
 ……いや。でもそれは決められたレールの上を歩き続けた者の言い訳なのかもしれない。
「いつか青柳くんの『思い出』、私にも見せてほしいな」
 小豆沢の言葉に、俺はただ頷いた。
 今はまだ、抽象的なイメージでしかないけれど。俺も、俺の見た景色を、拓けた視界のうつくしさを、チームの皆に見て欲しいと――たしかにそう思ったからだ。

 ……
 ――……
 ――――……

――俺の思い出……か」
 先日、約束通り小豆沢からデジタルカメラをもらった。少し古い型だけどと小豆沢は申し訳なさそうに言っていたが、とても大切にされてきたのがわかる、綺麗なカメラだった。
 登校の途中、何度か試し撮りをしようとしては、最初に写す景色はこれじゃないと首を振る。もっと拘らず好きに撮ればいいのだろうが、シャッターに指を掛ける度に不思議と勿体なく感じてしまうのだ。
 ……もっと心揺さぶられるような、体の内側から温かくなるような、そんな情景を知っているせいだろうか。
 切り取りたかった瞬間は、これまでにもたくさんあった。俺の人生史を振り返ったとき、一番最初に浮かぶのはやはり、初めて司先輩の御宅を訪れた日だ。あの日はじめて、俺は笑顔や喜びの感情を知った。
 過去に戻れるならば、迷わずその瞬間を写真に収めていたことだろう。……戻れずとも、未だ鮮やかにあの日の光景は脳裏に浮かぶが……
 じっとカメラのモニターに映る世界を見つめる。遊歩道を越え、住宅街を越え、いよいよ神山高校の校舎を映したとき、背後から強く地面を蹴る音がした。
 肩を叩かれ振り返る。まず最初に寝癖のついた甘い髪と、マーマレードの力強い瞳が視界に飛び込んで、自然と頬が緩んだ。――そこに立っていたのが、敬愛してやまない司先輩、そのひとだったから。
「冬弥! おはよう!」
「司先輩、おはようございます」
「む。その手に持っているのは……
 先輩の視線がカメラを射抜く。特に隠すようなものでもないので(風紀委員の白石あたりは、苦い顔をするかもしれないが……)ひょい、と顔の横に掲げて見せた。
「カメラです。知人に戴いて……折角なので、普段の風景をいくつか練習に撮ってみようかと」
「ほう? それはいいものをもらったな。ふむふむ……フッ、ならば特別に! オレが! 冬弥の写真の記念すべき一枚目の男になってやろう!」
……えっ。そ、それは……願ってもないことですが……
 突然の申し出にあたふたしていると、司先輩は数歩前へ飛び出して大きく天を仰いだ。司先輩が日々研究している「カッコいいポーズ」の、たしか、三十九番目のポーズだ。
「是非ともカッコよ〜く撮ってくれ!」
……は、はい」
 とても断れる雰囲気ではない。無論、司先輩の申し出を断る選択肢は、俺の中でほとんど無いに等しいのだけれど。
 言われるまま、促されるままにカメラを構える。モニターに映った司先輩を凝視して、カメラが震えていることに気がついた。……いや、震えているのは俺の手か。
 指先が震える。尊敬する先輩を撮影するだなんて、練習をすっ飛ばしていきなりライブ本番に挑むような気分だ。
 しかしあまりぐずぐずしてもいられない。俺は意を決して指先に力を込め、シャッターを切った。ぱしゃ、と小気味のいい音。と共に、モニターに写真のログが残る。
「どうだ?」
「あ……
 二人でモニターを覗き込むと、そこには輪郭のブレた司先輩がいた。全身から血の気が引いていく。やってしまった、と後悔するより早く、司先輩が眉を寄せる。
「む⁉︎ ぶれぶれではないか!」
「すみません……! 少し、緊張してしまって」
……緊張だと?」
 顔を上げ、先輩がじっと俺を見つめる。
 その表情の色を読み取れず、俺はますます狼狽してしまった。怒っているのだろうか……いや、しかし、司先輩は寛大なお方だ、失敗を怒るようなことは滅多にされない。
 かつて幼い頃に共に連弾した曲だって、司先輩は譜面よりもご自分の感性のまま、自由に演奏することを好んでいた。
 そういう方だ。誰よりも自由で、身軽で、人と人の心の壁をあっさり飛び越えてしまえるような、そんな……
 俗世を振り切り、気高く、空高く羽搏く天馬こそ、司先輩の名に相応しいと、ずっと思っていた。
……
 先輩は何か考えるようにして、口元に手を当て俯いている。このまま二人立ち竦んでいるのもと思い、俺は、おそるおそる先輩に声をかけた。
「えっと……撮り直しますか?」
……、いや、このブレた写真も味があっていい! 良ければデータを後でオレにも送っておいてくれないか」
「え、ですが」
「いい、いい!」
 ぽんぽんぽん、と軽快に俺の肩を叩いて、先輩はにかっと大きく口を開いた。
 眩しい笑顔に気を取られているうちに、校舎からチャイムの音が鳴り響く。びく、と司先輩は大袈裟に飛び跳ねて、焦ったように鞄を持ち直した。
「と、こうしてる場合ではないな。SHRが始まってしまう! ――冬弥! 未来のスターであるこのオレが! 必要とあらばまた被写体になるから、いつでも呼んでくれ――!」
 ではな! と言い残し、それっきり、砂埃が舞う勢いで司先輩は校舎に吸い込まれていった。
 その背を見つめ、ぽつり、校門前に取り残された俺は。
……はい」
 きっともう聞こえはしないだろうが、そう、小さく返すことしか出来なかった。


 午前の授業が終わり、長い昼休み。俺は教室でカメラを弄りながら、人知れず小さく溜息を零した。
 モニターには今朝撮ったばかりのブレた司先輩の姿。
 あの時シャッターを切るタイミングがもう少し違っていたら、もっとましな写真が撮れていたのだろうか。考えても詮無いことを、ぐるぐると考え続けている。
 写真一枚撮るにしても、まだまだ練習が必要だ。小豆沢は写真に良し悪しはないと言っていたが、どうにも信じきれない。だって、歌や楽器と同じだろう。おそらく専門的な知識だとか、技術だとか、そういうものを身につける必要があるのではないか。
 誰にでも最初の一歩はあるものと自戒もあってデータを消せずにいるが、叶うことならば、リベンジしたいのが本音だった。
 カメラを構え、モニターに映る教室を見据える。弁当を掻き込む生徒。談笑する生徒。スマホのソシャゲに夢中になっている生徒。そして――ぬっと彰人の顔が一面に映り、俺は思わず椅子から転びそうになってしまった。
「うわっ……驚いた、彰人か」
「おー。今日は昼休み、図書委員の仕事ねえのか聞きに来たら……冬弥、めずらしーもん持ってんな」
 俺の机の端に行儀悪く座って、彰人が興味津々に手元を覗く。
「ああ……。小豆沢にもらったんだ」
「こはねから? カメラを?」
「そうだ。アルバム、彰人ももらっただろう? あれを見ていたら、俺も、俺が見た景色を形にしてみたいと思って」
「ふーん」
 ぱ、と素早くカメラを奪われる。
 しげしげとカメラ自体のフォルムを眺めた後、彰人はモニターを見て「げっ」とあからさまに顔を顰めて見せた。
「んだコレ、司センパイか? ブレッブレじゃねえか」
………………
「おい……そんなあからさまに落ち込んだ顔するなよ……
 彰人の反応は想定内ではあったが、やはり第三者から改めて指摘されると、それなりに凹んでしまう。
 俯く俺を慰めるように、彰人はやや声のトーンを明るくして話を続けた。
「あー、多分シャッタースピードが遅すぎるんだな。デジカメなら設定いじればちょっとはマシな写真、撮れると思うぜ」
「本当か!」
「こんなことでいちいち嘘言わねーよ」
 ほら、とカメラを返される。設定はここだ、と指差して。――ピッ、と彰人の指がボタンをタップするたびに、電子音が手元から鳴り響く。
 こはねから教わらなかったのか、という彰人の問いには静かに首を振った。
 無論、電源の入れ方やシャッターの切り方までは口頭で説明を受けているが、レンズの種類やモードは自分で触った方が直感的に覚えられると思うから、と小豆沢は言っていた。
 俺の説明を、ふうん、と彰人は気のない返事で流す。
「つか、こういうの一番は相棒のオレを撮るもんじゃねえのかよ」
……彰人も撮らせてくれるのか?」
「当たり前だろ。……お前が嫌だってんなら、良いけど……
……いや。ありがたい。俺の日常に、彰人は欠かせない存在だからな」
……おー」
 彰人の頬が僅かに染まる。嬉しそうな反応に俺は気を良くして、大きく頷きながら言葉を続けた。
「あと出来れば白石と、暁山と、……それから草薙と、神代先輩あたりも撮っておきたい。……やはりこの中だと暁山が一番の難所だろうか」
…………
「彰人? どうした、そんなに固まって」
……なんでもねえ」
「? ……ああ、勿論学校が終わったら小豆沢も撮らせてもらうつもりだ。大事なチームメイトだからな」
「そうかよ……
 ……? 今度は「はあ……」と重たい溜息をついて、そっぽを向いてしまった。
 彰人の気分がコロコロ変わるのは今に始まったことではないが、今回はまた突然の急直下だ。何か気に障ることを言っただろうかと首を傾げる。わからない。人付き合いは、たぶん少し、苦手な方だった。
 ――俺にとって大切なもの。この神山高校には司先輩が通っているからという理由で進学したけれど、自分でも思っていなかったほどに、掛け替えのない時間を過ごせている。
 本当は、そういうキラキラした時間のひとつひとつを小豆沢のように切り取れたなら。俺の見る景色を、うつくしいと思うものを、言葉だけでは尽くせない想いを、出来る限り彰人や友人達に伝えたいと思うのだが、なかなか難しい。
 ……これも経験、だろうか。ままならないな、と息をついて、窓から覗く空に視線を向けた。
 世界はこんなにも、他人事のように青々としているというのに。
「ほら。これで司センパイ撮り直してみろよ」
「ありがとう。恩に着る。……司先輩は先程のブレた写真でいいと仰っていたが、やはり俺の気が済まなくてな」
「だろうな。んじゃ、さっさと行って無念晴らしてこい」
「ああ」
 彰人に促されるまま席を立ち、三年の教室へ向かおうと歩き出す。
……ったく」
 俺の背を見送って彰人は小さく何かを零していたが、俺が振り返るとさっさと行けと手で払われてしまった。
 だがその顔は少し笑っているような気がして、ふ、と微笑む。彰人のこういうところにはいつも甘えてしまっていて、申し訳ないと思う気持ちもあるのだが。
 しかしやはり言葉にするのが苦手な俺はありがたいと思ってしまうのだ。


 さて、肝心の司先輩だが、三年の教室にはいなかった。
 神山高校の昼休みは他校よりも比較的長く、ゆったりと昼食の時間を過ごせる。きっとこの時間は司先輩も例に漏れずランチタイムだろう。
 いつもなら中庭でひとりでランチをしてるイメージがある、が。
……いないな……
 三階の窓からきょろきょろと中庭を眺めてみても、先輩らしき人影は見当たらない。遠目で見ても目立つお方だから、見落とすことはまずないと思うが……
 はて。中庭にいないとすれば。
…………屋上か?」
 上を見上げ、屋上へと続く東階段をやや早足で上っていく。
 果たして、屋上の鍵は開いていた。ということは、先客がいるということだ。
 神山高校は普段から屋上を開放しているが、それ故に物珍しさがなく、わざわざここまで訪れるような物好きは変人くらいしかいない、らしい。彰人の受け売りだが。
 こと去年の初夏あたりからは司先輩と神代先輩が屋上で何やら作戦会議をしていることが多く、迂闊に立ち入るべからず――と生徒達の間ではまことしやかに噂されている。
 たしかにあの二人のショー談義に水を差すのは心苦しい。
 先日のフェニランでもワンダーランズ×ショウタイムのイベントショーを見せてもらったが、お二人とも、本当に楽しそうにショーをするのだ。
 そんなところに混ざって、お邪魔にならないだろうか。俺は少し逡巡して。鉄製のドアノブに手をかけ、そっと傾けた。
 隙間から冷たく澄んだ空気が踊り場へと流れ込む。ふと、風に乗って覚えのある声が耳に届き、ぴたりと手を止めた。
――それで、冬弥がカメラを始めたらしくてな」
「へえ……
(この声は、司先輩……と、神代先輩?)
 やはり噂の通り、お二人で何やら話し込んでいる様子だが、話題に自分の名が上がっていると気づいた瞬間、背中に嫌な汗が流れた。
 先輩はどうやら今朝の出来事を神代先輩に話しているようだった。やはり気を悪くさせてしまっていたのだろうか。普段の溌剌とした元気はなく、低く、落ち着いたトーンで司先輩が言葉を紡いでいるのが、この距離でもわかる。
 聞き耳を立ててしまうのは、罪悪感があった。けれど心とは裏腹に体はざわざわと司先輩の言葉の続きを待ってしまって。俺はぐ、と手持ちのカメラを握りしめ、そっとドアを半端に半分開けたまま、隙間からその様子を窺った。
 幸い、司先輩も神代先輩もフェンス越しにグラウンドを見ているようで、俺の存在には気づいていないようだ。
 司先輩が口を開く。
「記念にと一枚撮ってもらったのだが、これがものの見事にブレていて――
「まあ、初めてならそういうものさ」
「ああ、いや。無論、わかっているとも。だが――オレはそれが、少しばかり、嬉しくてな」
 それはなんだか、笑いを含んだような声だった。
 気を悪くさせたわけではないと知り安堵する。そして同時に、ひとつの疑問が浮かんだ。……嬉しい、とは、どういうことだろうか。
 俺の疑問を代弁するかのように、神代先輩が柔らかな口調で尋ねる。
「嬉しい?」
 うむ、と司先輩は頷いた。
「冬弥が今、新しいことを始めようとしている。この瞬間を、一瞬を、写真に撮りたいと思えるほど尊いものだと感じてくれている。オレはたぶん、あいつのそういう成長が嬉しいんだ。そしてその第一歩にこのオレが関われたことが、誇らしい」
……
 足が、鉛になったようだった。
 司先輩のことは、本当の兄のように慕っている。血の繋がった実の兄はいるが、年が離れていることもあり、俺はあの人達と朗らかな時間を過ごしたことは一度たりとない。だからこそ、先輩が本当に俺の兄だったならと、幼い頃はそんなあり得ないイフを想像してつらい日々を乗り越えてきたのだ。
 司先輩は、俺の心の拠り所だった。
 そんな人が、こんなにも。俺をまるで本当の弟のように見てくれている。俺の成長を喜んでくれている。それは俺にとっても誇りであり、歓喜の心は筆舌に尽くし難い。
「緊張したと言っていた。ピアノコンクールでさえ汗ひとつかかなかったあの子が、オレの写真一枚に震えていたんだ……
(司先輩……
 喉元に熱いものが込み上げる。吐き出すことは叶わず、俺は静かに足元の砂利を踏んだ。
「類にも覚えがあるんじゃないか?」
……まあ、否定はしないよ。年下の幼馴染を持つ身としてはね。ただ……
 不自然に区切られた神代先輩の声。その声に引き寄せられるように、顔を上げる。
 視線の先。神代先輩の手が司先輩の頬に伸び、その柔肌を優しく撫ぜた。
「折角二人きりだというのに、愛しい恋人は他の男の話ばかり。つれないとは思わないのかい」
 ――恋、人……
 文脈から、それが司先輩を指していることは察せられた。
 神代先輩と、司先輩が、恋人。
 納得する気持ちと共に、少しだけ、心に衝撃が走る。意外だとか、そういった感情よりも――いつから、という疑問で頭の中がいっぱいになった。
 彰人は知っているのだろうか。暁山や草薙は。咲希さんは……
 俺だけが知らなかったのだとしたら、それは少し、悔しい。
 けれどきっと、誰も知らないのだろう、とも思った。
 すべらかな肌を桃色に染めて、嬉しそうに微笑む司先輩の表情は、俺の知る兄の顔でも、先輩の顔でも、役者の顔でもなかったから――これは神代先輩だけに見せる特別な表情なのだろう、と。
 そう思うと、自然と、俺の指はカメラの輪郭を撫でていた。
……む。なんだ、拗ねているのか?」
「そうだと言ったら?」
「ハッハッハ! お前の機嫌の取り方はとぉ〜ぜんっ、心得ている!」
「へーえ。どう機嫌を取ってくれると言うんだろうね」
 司先輩はフン、と挑発的に鼻を鳴らして、神代先輩の耳朶を指先でくすぐった。
 首裏に手を回し、そっと引き寄せる。俺が「あ」と目を見開くよりも先に、二人の影が合わさって。そして、音もなく離れていく。
「ん……
……どうだ? ご機嫌になっただろう!」
……フフ、たかが一回のキスくらいで、甘く見てもらっては困るよ」
「むう。未来のスターからの口づけだぞ? 少しはありがたがらんか」
 今度は司先輩の踵が浮いて、再び影が重なる。風で二人の髪が靡く。突き抜けるような青い空。薄くかかる白雲。眩いほどの、朗らかな秋晴れの陽光。
――……、きれいだ)
 ほとんど無意識だった。
 無意識のうちに、俺はカメラのシャッターに指を掛け、それを切っていた。
 ぱしゃ、ジジジ、と音が鳴った瞬間、はっと我に返る。
「! 誰かいるのか?」
 シャッター音は先輩方の耳にも届いたようで、ぱたぱたと足音が近づくのを感じ、俺は咄嗟に屋上の影に隠れた。
 陽当たりのいい屋上とは対照的に、踊り場は暗く、司先輩の声がキン、と反響する。ひそやかに声を押し殺せば、司先輩は階下を覗いて悔しそうに声を上げた。
「ぬあ、なんて逃げ足の速いやつ……! 類、追うぞ!」
……。おやおや」
「待て――! 曲者め――!」
 ……、足音が遠のく。
 冷たい壁に背を預けたまま、俺はずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
 鼓動がはやい。こんな感情は初めてだった。後ろめたさ、と言いきるには少し違う、不思議な昂揚感があった。
 デジカメのモニターには口づけ合う司先輩と神代先輩が写っている。被写体ブレもなく、逆光もない、素人目には十分完璧なアングルだ。まさに、俺が見た景色のそのまま。うつくしい世界が切り取られていた。
……彰人は凄いな。設定ひとつで、こんなにも……
 こんなにも思い描いた通りの写真が撮れるなんて。
 ……だが。
(これは……残すべきではないだろうな)
 ピ、と薄暗い踊り場に電子音が鳴る。俺は迷わず削除ボタンに触れ、瞬きをする間にも、二人の神聖なキスシーンはすんなりとこの世から存在を消した。
 それを見届けて、知らず知らずの内にゆるく口角を上げる。胸がすく思いとはまさしく、今の俺の心境を表すのだろう。
 カメラを抱き締めて、小さく息を吐いた。
 感嘆の吐息だった。


 教室へ戻ると、彰人は依然、俺の席に座ってスマホを弄っていた。
 俺の帰りを待っていたのだろうか。俺の存在に気づくなり、白い歯を見せて彰人が表情を綻ばせる。
――お。良い写真は撮れたかよ?」
「ああ」
「どれどれ……
 カメラを掠め取って彰人がログを開く。けれどそこには、今朝に撮ったブレた司先輩の姿しか残っていない。彰人は怪訝そうに眉を寄せ、オリーブ色の瞳を俺に向けた。
……? んだ、コレ……写真、増えてねえじゃねえか」
「いいんだ、それで」
……はあ?」
 形に残さない方が美しいものもある。
 少なくとも俺は、衝動的に押したシャッターを、画角に収まった彼らを、形あるものとして残したくはなかった。たぶん、俺だけが抱えていたい景色だと思ったのだ。
 ブレた星の写真。それもなんだか、今はいっとう、特別で。
 だから、これで良かった。彼らが秘密を楽しんでいるうちは、俺も、それを胸に秘めておきたかったから。
 教室のカーテンがたなびく。その先に広がる青は、やっぱりどこか他人事で、だけど俺はおそらくその色を一生忘れられない。
 ただそれだけが、確かだった。

 ……
 ――……
 ――――……

 ――春。
 エレベーターを降りた、そのさなか。なだらかに吹き抜ける冷たい風に紛れ、微かに青いにおいがして、ふるりと両目の睫毛が震えた。
 とある都内マンションの一室と対峙する。SMSで送られた住所をなぞり、目当ての部屋のブザーを鳴らせば。十も数えない内に内側のぱたぱたと走る音が大きく近づき、俺が瞬きしている間に、ドアの取っ手は勢いよく傾いた。
 覗いた金糸。五年の月日が経っても変わらない、自信に満ち溢れた眼差し。視界に俺の姿を捉えるなり、司先輩は喜色を一面に浮かべ、白い歯を覗かせて「よく来たな!」と笑った。
――すみません、司先輩。予定より到着が遅くなってしまって」
「なに、気にするな! 天馬司主催のホームパーティーへようこそ。今日はゆっくり寛いでいってくれ!」
 ――あたたかい。
 室内に一歩招き入れられた途端、柔らかな空気が寒さに凍える体をほぐす。
 靴を脱ぎ揃え、リビングと思しき部屋へ歩を進める。
 真っ先に目に飛び込んできたのは大きなモニターといくつかのトロフィーだった。ああ、司先輩らしい、と笑みが浮かぶ。テーブルを囲むソファーでは、先に到着していた暁山と彰人が我が物顔で寛いでいた。
「あ、冬弥くん来た来た」
「おせーぞ冬弥」
「すまない。電車が混み合っていて遅れてしまった」
 テーブルには大きな鍋がカセットコンロの上でぐつぐつと煮立った音を立てている。
 母校、都立神山高校を卒業して四年。かつての旧友はみな大学進学に就職とそれぞれの道を歩み、活躍の噂を風の便りで聞いている。
 草薙は舞台役者として海外を飛び回っていると聞くし、司先輩の妹である咲希さんは晴れてプロのキーボディスト兼コンポーザーになった。ここにいる暁山はファッションデザイナーとしての独立と、服飾専門の会社を立ち上げるべく日々奮闘しているらしい。一方の俺と彰人は――変わらず、あのチームでストリートミュージシャンとしての実力を研鑽する毎日だ。
 そして、司先輩は――
「やあいらっしゃい、青柳くん。久しぶりだね」
「神代先輩」
 明るい声と共にキッチンから現れたのは、エプロン姿の神代先輩だった。
 こうして直接お会いするのは、実に先輩方の卒業式以来だ。調理の為かヘアピンをしているので正確にはわからないが、記憶より少しばかり髪が伸びたように思う。
 さっと手を差し出すと、やや筋張った細い手指で力強く握り返された。
「お久しぶりです。お変わりないようで何よりです」
「君も変わらないね。鍋の用意、出来ているからどうぞ掛けたまえ」
「ありがとうございます」
 促され、小さく頭を下げる。
 トレンチコートを脱いで彰人の隣に腰を下ろせば。神代先輩は長い指でコンロの火加減を調節し、キッチンから持ち出した食材を次々に並べた。肉、肉、椎茸、肉、肉……。その後ろから手元を覗くようにして、司先輩がちくりと刺々しい声をあげる。
「ちゃんと野菜も用意してあるだろうな?」
「抜かりはないよ。ほら、ピーマン」
「何故選りに選ってそいつを⁉︎」
「フフフ、死なば諸共だよ。僕達一蓮托生の仲じゃないか♪」
 そう言って神代先輩はにんまりと目元を和らげ、司先輩へと手を伸ばす。
 腰を抱き、すりすりと司先輩に頬を寄せて。するといつもは凛々しいお顔の司先輩も一瞬で音が出るほど赤くなり、離れろ、と慌てたように神代先輩の肩を押し返した。
 隣で彰人がげんなりした顔をする。砂でも吐き出さんばかりの表情に、くすりと笑みが浮かぶ。
 神代先輩と司先輩は昔から仲が良かったが、最近は尚のこと仲睦まじい様子で、微笑ましい。
「はー……いちゃつくなら他所でやってくんねえかな……
「いやいや、ここ類と司先輩のおうちだよ? 外であんなラブラブオーラ出されたらそっちの方が街中パニックだって」
 その通り。片や新進気鋭の凄腕舞台演出家、そして片や今をときめくスター俳優として、メディアに引っ張りだこなお二人だ。
 特に隠すこともなく、お二人が恋仲であることは既に世間に公表されているので、きっと暁山が言うようなパニックは起こらないだろうが。お二人とも年代を問わず人気のある方々ゆえに、一歩外に出ればあらゆるカメラのシャッター音が鳴り止まない様子は、想像に難くない。
 ……。シャッター、か。
……そうだ。司先輩、今日はこれを持ってきたんです」
「ん? ……おお、これはあの時のカメラではないか! 懐かしいな」
 コートと共にソファーの下に置いたボディバッグから、ひとつのデジタルカメラを取り出す。五年前に小豆沢から貰って、以来ずっと俺が使い続けている愛用のカメラだ。
 何度か新調することも考えたし、彰人がいつかの俺の誕生日に新しいカメラを買ってやろうかと打診してきた時もあったが、俺なりの愛着があって同じものをずっと使っている。
 俺にとっては御守り、みたいなものだったかもしれない。
 この五年で幾度と切ったシャッター。けれど変わらず、ログの一番目にはあの日の写真が残っている。
「では久々に、このオレが冬弥の被写体になってやるとしよう!」
 言うなり勢いよく立ち上がり、司先輩はリビングの真ん中で仁王立ちした。手を翳したり、腰をひねったりと様々なポージングを披露する姿は、俺が初めてカメラを構えた日から月日を感じさせない。
 感じさせない、けれど、やはり時間は皆平等に流れているのだ。
 ――司先輩は、俺にとって、とても大切なひとだった。
 誰よりも輝いている、素敵なひとだった。
 だからこそ、今日という日に立ち会えることを何よりも誇らしく思う。これから幸せになる貴方へ、これは俺が手向けられる唯一。
「神代先輩」
「うん?」
「神代先輩も、一緒に、是非」
 きょとん、と檸檬色の瞳が丸くなる。
「僕も一緒でいいのかい?」
「勿論です。だって今日は――
 俺がすべてを言い終える前に、傍らに立っていた暁山が神代先輩の背中を押した。
「二人の同棲記念日、でしょっ」
「うわっ、ちょっと瑞希、押さないでくれ、」
「のわー! 類お前っ、お前の図体でのし掛かられてはたまらんのだが⁉︎」
「僕も不本意だよ!」
 押された拍子に神代先輩の下敷きになった司先輩が、神代先輩諸共床へと崩れ落ちる。
 誼譟を前に、カメラの電源を入れる。モニターを覗いたまま動かない俺を見兼ねて、彰人はそっと俺に耳打ちした。
 ……その声には、僅かに揶揄の色が混じっている。
「手、まだ震えてんのか?」
……いや。大丈夫だ」
 シャッタースピードは最速にした、と言えば、ぶは、と彰人が噴き出す。
 ただ少し、モニター越しの世界に見惚れていた、それだけだ。軽快なシャッター音が時を切り取る。眩いフラッシュ。笑い溶ける声。
 きっともう、俺の写真は二度とブレない。