猫澤
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てのひらの劣情



『本日は当公演にご来場いただき誠にありがとうございます――
 薄っぺらいタブレット越しに紫陽花色の髪が靡く。
 先月行われた公演の冒頭――客席から期待と熱気のこもった視線を全身で浴びながら、ステージ上で恭しく一礼する、類のシーン。
 ソファーに凭れ掛かり、動画のシークバーを戻しては何度もその姿と声を脳に焼き付ける。イヤホンから流れる類の声、台詞、仕草。……ああ、そろそろ暗唱出来てしまいそうだ。
 オレはタブレットから天井へ視線を移し、声もなく体をソファーへと転がした。ぱさりと前髪が重力に沿って落ちる。耳元では変わらず、類が公演前の注意事項を順に説明している。
 目を閉じて。無意識にほう、と吐息が漏れた。
 ――前々から思ってはいたが、類のやつ、なかなか良い声をしている。
 澄んだ声、とでも言うのだろうか。透明感があって耳触りがいい。トーンも高すぎず、低すぎず。ついつい聴き入ってしまうような、役者に向いた声だ。
 類の声が好きだった。
 だからという話でもないのだが、今のオレは大層不貞腐れている。理由は無論、この画面の中の男、神代類だ。
……
「おや? せっかくのお部屋デートだというのに」
 無遠慮な手が片耳からイヤホンを奪っていくのを感じ、ぱち、と目を開けた。顔を上げれば、タブレットの中で微笑を浮かべるその男とまったく同じ顔がオレを覗き込んでいる。
 当然といえば当然だ。ここは類の部屋。ガレージを改造して作られた、こいつのとっておきの秘密基地なのだから。
「彼氏そっちのけで何観てるんだい?」
 オレの体に覆い被さるようにして、類がオレに頬を寄せる。
 深く吸い込んだ類の匂いに一瞬絆されそうになって、オレは口の端をきゅっと結んだ。努めて厳しく、じろりとその顔を睨む。
……ほう? 先に恋人を放って機械とおしゃべりしていたのはどこの誰だろうな」
「んん? ひょっとしてヤキモチかな。君も可愛いところがあるねえ」
……
 ああ言えばこう言う。口から生まれた類太郎め。しかしその言葉もまるきり的外れというわけでもなくて、オレはただ「ぐぬぬ」と唸るほかない。
 学生という身分でありながらショーキャストでもあるオレ達は、大抵、週末は公演や練習で忙しい。そうじゃなくてもオレはエキストラのバイト、類は路上パフォーマンスでそれぞれ日銭を稼いでることもあって、日曜日をまるっと一日、二人きりで過ごすようなオフは本当に久々だった。
 たまにはゆっくりしようね、なんて言っていたのは類の方だ。それにオレも頷いた。先月までは公演期間で慌ただしくしていたのもあって、恋人らしいことも何ひとつできていなかったから。二人きりで甘い時間を過ごそうと、そう言ったのも類だった。
 ところがどうだ、蓋を開けてみれば。類は朝から作業机に没頭し、オレが声を掛けても気のない返事ばかり。
 ――オレが! このオレが! 声を掛けているんだぞ⁉︎ それをこいつ、チラ見のひとつも寄越さんとは一体どういう了見だ!
 いや、わかっている。神代類という男がいかにショーに対して一途であるのか、オレはようく知っている。
 オレは類に惚れているが、同時に類が編み出す演出にも心を砕いてしまっているので。結局、類が一度没頭し出したら、オレは大人しく待つしかないのだ。
 最初の数時間はこいつの部屋を片付けたり、掃除してやったりしているうちに過ぎた。キッチンを借りてセルフで茶を淹れ、あとで類と摘もうと思っていた菓子を開け、我が物顔で寛ぐこと更に数時間。
 そしてようやく、今に至るわけだが。
 類の体越しに首を伸ばして作業机を確認すると、なんかよくわからない物体が組み上がっていた。四角い何か機械のようなものは、あれで完成しているのかそれとも未完成であるのか、機械に関して素人のオレにはさっぱりわからない。
「終わったのか? 作業は」
「概ね完了と言ってもいいくらいには。いやあ、思うようにテストで動いてくれなくて時間が掛かってしまったよ。だけど出来栄えは期待していてくれたまえ。フフッ……開いた口が塞がらなくなってしまうかもしれないな」
「それは楽しみだ。とことんハードルを上げておくから覚悟しろ」
 これだけ未来のスターを放置して作り上げた代物だ。さぞ素晴らしい舞台装置になるのだろう、と暗にプレッシャーをかければ、余程の自信があるのか類はにやにやと口元を緩めてみせた。
 それはまるで満点のテストを自慢する子供のようで、やれやれと肩を竦める。あーあー……、絆されてしまった! 手を伸ばして類の髪に差し入れれば、気持ちよさそうに細められる視線。ふにゃふにゃ、ゆるゆるの表情がどうにも可愛いと思ってしまうから解せない。
 類はもうすっかり演出家から恋人モードにシフトチェンジしたらしく、オレの体を押しつぶしたまま、オレが手にしていたタブレットに手を伸ばした。
「これ、先月の公演かい? ああ、そういえば撮影が入っていたね」
「ん」
 オレ達がショーキャストとして所属するフェニックスワンダーランドは、非常にショーが盛んなテーマパークである。
 園内にはいくつかのショーステージが点在し、キャストもかなりの数を採用しているほどだ。
 最近はショーを目当てに遠方から訪れる客も増えてきたため、いつからか強化施策の一環として、フェニックスワンダーランドの公式ブログで各ステージ・劇団の練習風景や実際の公演の様子などを紹介するようになった。
 この動画もそのひとつだ。フェニランの宣伝大使も務める我がワンダーランズ×ショウタイムは、特に特集を組まれることも多い。
「座長として、内容の確認をな」
 不自然な理由ではなかったはずだった。実際、ワンダーランズ×ショウタイムが関わる動画は全て念入りにチェックしているし、そうしていることを同じ時間を過ごすことの多い類もよく知っている。
 だから。画面いっぱいに映る恋人の姿を、うまく誤魔化したつもりだったのだ。
「ふーん……その割に、動画は冒頭の挨拶から動いてないようだけど」
「うっ」
「そんなに繰り返し観るほどいい出来だったのかい、僕の挨拶は」
「なっ……き、気づいていたのか⁉︎」
 咄嗟に顔を上げたオレを、しまりの悪い笑顔が迎える。
 嵌められた。カマをかけられたのだとようやく気がついて、慌てて口を手で覆い隠すが、あまりにも遅すぎた。
 モフ、とオレの肩口に顎を乗せ、それはそれは楽しそうに見つめる類の視線が突き刺さる。じわりと紅潮する頬を隠すように、オレは類から視線を逸らして呟いた。
「いや……違うんだ、声が……
「声?」
…………なんでもない」
 口を開けば開くほど墓穴を掘ってしまいそうになる。
 手近にあったクッションに顔を埋め、これ以上の自白がないよう首を左右に振る。
 大体、今更過ぎるだろう。
 類に告白して、付き合って……もういくつかの季節が過ぎたけれど。否、過ぎたからこそ、「お前の声が好きで……」なんて本人に直接言うのは気恥ずかしくて仕方がない。察せとは言わんが汲み取るくらいはしてほしい。
「司く〜ん……
「なんでもないと言ってるだろう! ええい、いい歳した男が目をウルウルさせるな!」
 なおも擦り寄る類を手で押し退ける。
 高校生の頃ならまだしも、オレも類も大学進学してもうじき成人する。だというのに未だに泣き落としが通用すると思っているのだ、この男は。
 狭苦しいソファーの上で、大の男二人がもちゃもちゃと攻防を繰り広げる様は、側から見たらさぞ滑稽なことだろう。大変腹立たしいことに、リーチがある分軍配は類に傾いた。
 脇腹をくすぐられると弱い。力の抜けたオレをくるりと呆気なく仰向けにさせ、さらに類がのし掛かる。よくある手口だった。何のって、……類と肌を合わせる時の、だ。
 ぐ、と飲み込む。蜂蜜のようにとろとろで、甘ったるい眼差し、雰囲気。どうもオレはそういうロマンティックなムードがすこぶる苦手で、たじろいでしまう。
「何するんだ……近いぞ、類、」
「近づかないといちゃいちゃできないだろう?」
「いちゃ……。散々放っておいて今更、」
「だからその埋め合わせをね?」
 頬に類の鼻先が触れる。ちゅ、ちゅと何度もリップ音を立てて唇が触れ、むずむずするような感覚にオレは顔のパーツを寄せた。
……くすぐったい」
「我慢して」
「むぅ……
 しぶしぶ、甘んじて類の好きにさせてやる。
 付き合っている、とはいっても、オレ達はあまり熱に浮かされるような恋をしていない。
 元々はショー仲間で、気の合う友人だったから、二人で会っても口を開けばショーのことばかりで。大事な公演があればたとえ何日も触れられなくても平気だし、世間一般的な恋人同士の熱情よりは、余程ぬるく乾いている自覚があった。
 だけどひとたびスイッチが入ると途端に空気が変わる。特に類はそういうオンオフの切替が上手い男だった。告白はオレからだったのに、今じゃ類の方がずっとうわてで、熱烈に口説かれる度に筆舌しがたい感情に襲われる。類のペースに翻弄されてしまう。
 するり。
 類の手がオレの手に絡んで、くすぐるように指の腹で手のひらをなぞる。反射的にぴくんと手指が震え、ふ、と震えた吐息が漏れた。
「フフ……手、感じちゃった?」
……馬鹿言え、手で感じるわけ……
 ないだろう。そう言葉を続ける前に、指先で指の股を擦られる。
 人差し指と中指の間をするするとなぞって、指先の腹を合わせ、握る。なんてことない。ただ、手で遊んでいるだけ。それだけだ。……だというのに、手の甲の筋をくすぐられ、ぞわぞわとした感覚に背筋がわなないた。
「っ、…………
「そう言う割に、君の顔はとろんとしてるけれど……?」
「ちが……、る、類の」
「うん」
 先を促す割に、手の動きは止まらない。
 類の体がより一層密着する。耳元に息がかかって、じわり、目に涙の膜が浮かんだ。唇が耳朶に触れる。そうして類の、少し興奮した間隔の短い呼吸が流れ込んで、耳の中まで犯される。
 声が脳まで侵食してぐずぐずに頭の中を溶かそうとしてくるみたいだ。好き勝手されてない方の手で類の胸板を軽く押して悪足掻きじみた抵抗をすれば、それを咎めるように熱い舌が耳殻をねぶった。
「ひ、ぅ、類の、声が……
「僕の声が? 気持ちいいのかい?」
……
 そうだけど、そうだと素直に頷くのはあまりにも悔しい。
 むすりとへそを曲げた振りをしてそっぽを向く。それは無言の抗議だったが、類は都合よくそれを受け取ったらしい。くつくつと喉奥で可笑しそうに笑って、まなじりを下げながらオレの顔を覗き込んだ。
「だんまりは良くないなあ」
……っ、ぁ」
 今度は両手とも類に絡め取られ、肌の上を指先でそっと撫で回される。
 くすぐったい。くすぐったい、のに、どこか情事を思わせる触れ方に腰がだんだん重たくなっていく。ただ手を絡め合わせているだけなのに、全身を類に愛撫されているかのような錯覚を起こしてしまうのは何故なのか。
「あれ、司くん、手汗でしっとりしてきたね」
……ふ、……っ、」
「ほら、こんなに濡らして……僕の手に吸いついて離れたくない〜ってしてる」
…………、」
「からだは正直、だねえ」
 ぶんぶん、と力一杯首を振った。どこかで否定をしないと、いよいよ羞恥でどうにかなりそうだった。
「も、なんなんだお前……っ! 恥ずかしい真似を……
「おや、心外だ。ただ君の手を握っているだけだろう?」
 ああそうだ、そうだとも。ただ手を握っているだけ。
 ――だったらそのいやらしい触り方をやめろ!
 余程そう言ってやりたかったが、類の指がするすると皮膚の薄皮をなぞる度に、ぞわりと産毛が立って声が出そうになる。ふー、ふーと息を荒げるオレを見下ろして、類はことさら嬉しそうに「フフ」と笑みを浮かべた。
「体温が上がってきたね。それに脈も速くなってる……ドキドキ、しているんだね……?」
「ッるい……ささやくの、やめろ……!」
「どうして?」
 暗がりに光る獣の眼差しのような。欲に濡れた瞳で。湿った艶のある声で。囁きかけられる度に、叫び出したい衝動に駆られる。
「あ、あたまが、おかしくなる……から」
「なればいいよ。僕の声で……気持ちよくなって、」
……はぅ……
 ぞくぞくと。内臓ごと愛撫されたような感覚が爪先のから脳天まで駆け巡り、首が大きく仰反った。
……ぐずぐずに溶けちゃった君が見たいな……
「ふ、ぁ……
 情事の時特有の濡れた声。類だって腐っても役者なので、きっとわざとに違いなかった。オレが類の声を好きなのを知って、わざと、こんなねっとりと責めているんだ、と。
 唇が震える。
 こんなの。普通にセックスした方が何十倍もましだ!
「っ……えろいこと、したいなら、すればいいだろ……!」
「ん〜? してるじゃないか、今」
「だから……!」
 間接的に触れるよりも、直接触れてほしい。オレだって男なので快楽にはめっぽう弱い。
 どうせするなら何も考えられなくなるほどめちゃくちゃにしてほしいのに、中途半端に触れるから理性も溶けきれなくて、宙ぶらりんの快感だけが弱火でくつくつと煮込まれ続けている。かと言って追い縋る真似をするのは、なけなしのプライドが許さない。
 腰を僅かに揺らすオレを見下ろして、類はその中心をわざとらしく膝で押し上げた。パンツ越しの刺激にでも体はびくりと跳ね、頭の中が真っ白になる。
「あれ、勃ってしまったのかい? フフッ……えろいことしたいのはどうやら君の方みたいだね、司くん?」
 類の言葉を噛み砕いてようやく理解に至ると、途端に羞恥で顔が熱くなった。
「お、オレは……! っ類が囁くから……!」
「僕が囁くとえっちな気分になってしまうって?」
……! ……! ……!」
「いたたた、ごめん、悪かったよ。いじめすぎたね」
 キャパオーバーだ。
 言葉での応酬ではこちらの分が悪すぎる。最終的に足の爪先でげしげしと類のふくらはぎを蹴って抗議すると、類は笑って謝りながら片手を解放した。
 細く、大きな類の手がオレの頭に触れる。髪の一本一本を慈しむように指で梳きながら、頬に、額に、鼻先にと、宥めているつもりか、幾度もキスが降ってくる。
 魂胆がみえみえだというのに、類の少しだけ湿った唇の感触が心地よくて。結局オレは口をつんと尖らせながらも、それを拒むことはついぞ出来なかった。
「フフフ。そんなに恥ずかしがらなくても……君が僕の声を好きなことくらいとっくにお見通しさ」
「は……?」
「司くん……好きだよ」
 二人きりの部屋。ガレージのシャッターは完全に閉め切られているから、オレ達の声は外に聞こえないし、外の音もここまで届かない。
 だというのに類は他の誰にも聞かせる気はないとでも言うように、耳元でぼそりと、吐息まじりに続ける。
……ひぅ、…………
「普段の頼りになる君も、かっこいい君も大好きだけど……僕の手で、声で、とろとろになっちゃう君も……素敵で、」
「は、……はぁ……、」
「だ〜いすき……
……!」
 耳が性感帯になってしまったのかと思うくらい、感覚が過敏になっている。
 ぱち、ぱちっ……と頭の中がホワイトアウトして、体が大きく痙攣して。
 甘イキしちゃったね、と遅れて類の声が聞こえてきたが、それに反応するよりも、オレを飲み込もうとする大きな多幸感の波に溺れないようにするのに精一杯だった。
 ぎゅうう、と類の手をきつく握りしめて、肺いっぱいに類のにおいを吸い込む。暫し硬直していたオレは、ゆっくり、ゆっくりと体を弛緩させた。
……可愛い。フフッ……
「はふ、……い、意地が、わるい……
「すまないね。寂しい思いをさせてしまったから、僕なりに反省を伝えているつもりだったんだけど」
 嫌だったかい?
 悪びれず、緩く綻ぶ口元をじっと見つめる。その先に眠る舌先を想像して、無意識にオレはこくんと喉を鳴らした。まだ今日は、唇にそれを貰っていない。
 もういいだろう。類だってとっくにその気だろう。
 誰も、類しか見ていないなら。ぐずぐずに溶かされた頭はもうすっかり甘えたな熱を孕んでしまっている。オレをこんな風にさせた責任はちゃんととってくれないと、困る。から。
……類」
「ん?」
……………………えろいこと、したい」
 完敗だ。
 白旗を揚げてそれだけ呟くと、ふふ、と類が笑った。
「勿論、いいとも。……たくさん甘やかしてあげるよ、……君が満足するまで」