雨竜くんは好奇心が旺盛です。私も知らない若者文化をよく知り、勉強してくれています。先日の遊園地でも、キャラクターのカチューシャをつけるという楽しみ方を教えてくれました。頼れる可愛い私の弟です。彼と居ることが、私にとっての癒やしの時間になっています。
ですから、できる限り願いは叶えてあげたいものです。
「兄さん、赤ちゃんプレイをしましょう」
私の部屋を訪れた雨竜くんがまっすぐな瞳で言いました。たまにこういうことがあります。彼なりに思い詰めて、それがいきなり発露する。青天霹靂ですが、私は鷹揚に頷きました。
赤ちゃんプレイという言葉は知っていました。一度、叢雲……過去の知り合いに説明されたことがあります。世の中には色々な方法を発明している方がいるのですね。なんでも、赤ん坊のまねをして甘えることで癒やされるというリラクゼーションらしいです。
雨竜くんが赤ちゃんプレイを言い出す――甘えたいのでしょう。立派な秘書とはいえ、まだ少年。両親と会う機会も少ないですし、さみしい気持ちも想像できます。疲れも溜まっているのでしょう。
私はからかうように笑って立ち上がります。歓迎するため腕を広げて。
「おやおや♡ まだまだ甘えたい盛りなのでしょうか? いいですよ」
「ありがとうございます!」
雨竜くんはぱあっと顔を輝かせます。喜色満面、純粋な笑顔に、私の心も嬉しくなります。そして雨竜くんは私の手を取り、ベッドへ引っ張って行きました。添い寝でしょうか? 可愛らしい要求ですね。私は促されるまま横になり、隣をぽんぽんと叩きます。ここに寝そべってくれていいのですよ?
雨竜くんは手にしていたトートバッグから、よだれかけやガラガラといったグッズを取り出します。いつの間にそのようなグッズを揃えていたのでしょうか。
可愛らしいピンクのよだれかけ。クマかハムスターかわかりませんが、そのような生物が描かれています。本気ですね。
ボタンを外し、雨竜くんは。
私の首に、よだれかけを着けました。
「えっ? 雨竜くん……もしかして?」
「一度出した言葉、二言はありませんよね?」
武士のようなことを雨竜くんが言います。もちろん責任ある立場で、朝令暮改は避けたいところではありますが、情報伝達のミスであれば撤回はしたいのですが。
もしかして、赤ちゃんプレイをしたいと言うのは。
雨竜くんは変わらず純粋な笑顔で言いました。
「赤ちゃんになるのは、兄さんです」
あまりの言葉に私は赤面します。もう三十路を手前にした、しかも雨竜くんの兄である男が、赤ん坊の真似をして甘える? 考えられません。私は体を起こそうとしながら言いました。
「う、雨竜くん、それはちょっと」
雨竜くんの手が、優しく私を押し留めます。有無を言わさない強さでベッドに寝かされてしまいました。
「赤ん坊はそんな喋り方しませんよ」
「……っ」
私は言葉に詰まります。一度引き受けてしまったのは事実。ここで無理を言えば、雨竜くんは私への信頼を失ってしまうでしょう。「やっぱり兄さんは嘘つきだ」などと言われて、あの男の方へ行ってしまうかもしれません。
私は視線を逸らしました。せめて、小声で。
「……ば、ばぶぅ……」
「可愛いですよ、兄さん」
雨竜くんの満足げな声に、私の視界が滲みます。大の男が涙目になってしまいました。
「うう……」
羞恥に震える私の横で、雨竜くんは哺乳瓶をシャカシャカと振ります。怯えて顔を隠す私に、雨竜くんは得意げに説明しました。
「大人の粉ミルクというものが売ってるんですね。栄養価に優れているそうです」
知りません。いえ、そういった市場があるのは知っていますし、ビジネスチャンスだとは思うのですが、そうではなく今は聞きたくないという意味で、知りません。
温度を確かめた雨竜くんは、私を抱き起こして顔を覗き込みます。唇に向けて、哺乳瓶の乳首を差し出しました。
これを? 赤子のように、吸えというのですか?
「あーん♡ ですよ、兄さん」
「っ! さすがにそれは、あむっ……!」
私が反論しようとした瞬間、口の中にシリコンゴムがねじ込まれます。動揺して唇を閉じると、うす甘いミルクの味が広がりました。舌で押し返そうとしても、その度にミルクが溢れます。口を開けると、雨竜くんがさらに哺乳瓶を押してくるので、私は唇で咥えることになりました。
「よしよし♡ 吸ってくださいね♡」
「むぅう……」
飲み終わるまで満足しないでしょう。私は覚悟を決めて、目を閉じて吸い付きます。ちゅうちゅうと吸うと、雨竜くんは嬉しげに呟きます。
「兄さん……すごくイイですよ……」
何がいいのでしょうか。私は、はやく終わってくださいと祈りながらミルクを飲み下しました。
雨竜くんに抱き起こされたまま、体を預けてミルクを飲む。段々と雨竜くんの温かさや、近い心音、囁く声に現実感が失われていきます。
「その調子ですよ」
反論するのも疲れ、私は素直に聞き入れます。雨竜くんは私の背中を撫でながら哺乳瓶を傾けます。あと一息です。じゅ、と最後のミルクを吸い、私の口から哺乳瓶が外されました。
「ぷはっ!」
「偉いですよ、よくできましたね……」
雨竜くんが私の背中をとんとんと叩きます。抱きしめて、頬を擦り寄せます。甘いミルクの香りと雨竜くんの体温。
私は飲み物を飲んだだけです。それなのに何度も褒められて、こう頭を撫でられるなんてことが、私の人生にあったでしょうか。常に高塔として邁進し、高みを目指して生きる。努力の果てにあるものは努力でした。
それが、どうでしょう。私は雨竜くんに甘えていただけで褒められて撫でられています。体中を弛緩させて、ベッドに転がっているだけで。
「兄さん、次はどうしましょう? お歌でしょうか、こちょこちょでしょうか」
雨竜くんが何か言っています。私はこみ上げる笑いを堪えきれず、薄く笑って言いました。
「ぁぅ……♡」
私は雨竜くんの部屋をノックしました。すぐ雨竜くんが返事をし、ドアが開きます。きょとんとした顔の雨竜くんに、私は言葉を詰まらせました。
「兄さん、どうしました?」
「雨竜くん……あの……」
私は拳を握ります。羞恥に、体の芯が熱くなりました。
「……その」
俯くと、雨竜くんが赤面した私の顔を下から見上げようとします。緑の瞳は優しげで、こんな少年に私は――私は。
私は唾液を飲み込んで、言いました。
「また、赤ちゃんにしてもらえませんか……♡」
おしまい。
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