猫澤
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break time


「はあ……なんでわたしがこんなこと」
 授業中に何度か震えていたスマートフォン。今更になって指先でなぞって、小さくため息をついた。
 アプリに届いていたメッセージの差出人は、笑顔がよく似合うあの子だ。
 こんな大切な話、わたし個人にじゃなくてグループチャットの方に送ればいいのに。そう思う反面で、わたしだけに送られてきたこの文面が少し、ほんの少しだけ特別な気がして、満更でもない自分がいる。
 裏表のない、わたしと違ってまっすぐなあの子。えむがわたしを信頼して、頼ってくれてるというのなら――わたしはそれに応えたい。たとえ貴重な昼休みを犠牲にしても。
 とはいえ、憂鬱な気持ちが消えてなくなるわけじゃない。
 階段を一段のぼる度に足がどんどん重たくなる。自由な校風が売りの神山高校は、新設校ゆえに吹き抜けが多く、窓から教室の中も覗き込みやすい。
 二階の手前の教室。中を覗けば、目当ての人物はいた。何をしてるのか――大方ショーのことでも考えているんだろうけど――司は机の上に広げた本とトランプ眺めて首を傾げている。
 司以外、知らない人ばかりの教室。司はいつも物おじせず人の教室にずかずか入り込んでくるけど、わたしにはそんな勇気、ない。
(でも、司に伝えなきゃ。あんなんでも一応、わたし達の座長だし)
 かろうじて持ち合わせていたささやかな勇気を振り絞って、入口近くにいた男子生徒に声を掛ける。
「えっ…………あの……
「ん? 誰? 一年?」
「あ…………て、天馬司……せんぱい……呼んでください」
「司?」
 茶髪の生徒はぱちぱちと瞬いて、わたしの姿を上から下へ検分したかと思えば、すぐに興味を失くしたように視線を外して声を張り上げた。
「司ぁー! なんか一年の女子が呼んでるけど」
「む? 女子? ……ああ、なんだ寧々じゃないか! 二年のフロアまでお前が来るのは珍しいな!」
……うるさ……ちょっと来て」
 果たして司は、教室の入り口で居心地悪そうなわたしを見て表情を明るくさせた。
 ちょっとだけ安堵して、でもすぐに後悔する。こいつは、天馬司って男は、どういうわけか声が大きい。ありえないけど――喉にスピーカーでもつけてるの? ってくらい、とかく大きい。
 司の声につられて、教室にいた他の生徒の視線が一斉にわたしに集まる。
 舞台の上で役に入り込んでいる時ならともかく、わたし自身が目立つのも奇異の視線を向けられるのも耐えられなくて。近づいてきた司のカーディガンの裾を掴んで、わたしは早足で階段の踊り場まで逃げ出した。
 変人ワンツーフィニッシュ。司と……あと、幼馴染の類をまとめて、誰かがそう面白おかしく呼び出すくらい、二人は本当に目立つ。
 それで二人とも平然としていられるとか、ほんと一体どういう神経してるわけ? 信じられない。
「ステージのメンテナンス?」
「そう。それで明日はステージでのお稽古は出来ないってさっきえむから連絡が……あの照明のやつ」
「あぁ……
 えむ曰く。わたし達ワンダーランズ×ショウタイムの稽古場所であり舞台でもあるワンダーステージは、その老朽化ゆえに定期的なメンテナンスを徹底していた、そうなんだけど。
 昨日練習中にふと照明のひとつが不安定であることに類が気づいて、すぐにえむのお付きの着ぐるみが上に報告したところ、急遽改修工事……ほど大掛かりではないものの、万が一に備えてメンテナンスが入ることになった。
 はじめこそえむによる職権濫用で生まれたワンダーランズ×ショウタイムだったけど、今はきちんと全員フェニックスワンダーランドに正式雇用されているし、稽古にも給与が発生する。
 だから、もし予定通り稽古をするなら別の――それこそ青龍院櫻子のいるフェニックスステージの練習に混ざることも特例として認められる。どうするか司に確認しておいてほしい、というのが、えむからのメッセージの内容だった。
 掻い摘んで説明すると、司は顎に手を当て唇を尖らせた。
 男のくせに、っていうのは失礼かもしれないけど、声が大きくてがさつに見える司は、その実結構自身のケアは抜かりない。きちんとリップの塗られたそれを、何の感慨もなくただ見つめる。
「これは渡りに船というやつかもしれないな! 無論フェニックスステージの稽古に混ざるのも、良い経験になると頭では理解している。そうでなくとも、オレ達ならカイトに舞台を借りてセカイで稽古をしてもいい。……だが、お前はどう思う、寧々」
「わ、わたしに聞くの、ずるいと思う」
「はは。そうだよなぁ……
 今、ワンダーステージでは新しい挑戦として、今までとは違ったショーをしてみる方向に風が向いている。
 ワンダーランズ×ショウタイムの強みは良くも悪くも型にはまっていないこと。でも司が主役をして、わたしが歌姫をして、えむのアクロバットも、類の斬新な演出も、その繰り返しばかりでは自ら型にはまりにいっているようなものだ。
 わたし達は常に最高のステージを更新し続けなきゃいけない。
 次の舞台は義賊的な怪盗をテーマにした勧善懲悪ものの喜劇。わたしはえむに少し激しめのダンスを教わっているし、司には簡単な手品を覚えてもらって、実際に観客席で披露してもらう予定。
 類は――類も。これまで以上の演出をと張り切っている。
 ――張り切っているのは、いいんだけど。
「よし。明日の練習は休みにしよう」
 司の決断に、内心(やっぱりね)と嘆息した。
「うん。……類、ちゃんと生きてる?」
「さてな。三限目過ぎたあたりから教師の悲痛な声が隣から聞こえなくなったぞ」
……寝てるのかな。ならいいんだけど」
 一度熱中すると周囲が見えなくなるのは、類の昔からの悪いところだ。
 聞けば朝も昼も夜もこのところは毎日ショーのことばかりで、授業中は教師が類を呼ぶ声が司のクラスまで届いてくるほどらしい。
 わたしも、深夜に類の部屋に明かりがついていることを確認してる。たまに校内で見かける類はどう見てもふらふらと覚束ない足取りで、そのうち転ぶんじゃないかとこっちが心配したくらいだ。
 司も思い当たる節があるらしく、眉を寄せて大仰にため息をついてみせた。
「団員にあまり無理をさせたくないんだが……どうも今回の類はどこか張り切り過ぎているように感じる」
「良いとこ見せたいんでしょ」
「誰にだ?」
「司以外に、いる?」
 ひゅ、と司が息を呑む音がした。
 ジャムをどろどろに煮詰めたみたいな。甘い色合いの瞳が僅かに揺らぐ。
………………
「はあ……さっさと付き合えばいいのに……
「つっ……きあえるかあ!」
「うるさ」
 何を考えたんだか、朱の走った頬。
 色事に無頓着そうな司でもそういう顔をするんだってわたしが知ったのは、誰もいない空き教室の片隅で、突拍子もなく彼の――恋の悩みを聞かされたあの雨の日からだ。
 司は、類のことが好きみたい。
 でも。言うまでもなく類も司のことが好きなのに、司ももうそれをわかってるのに、何故か司は頑なに類の好意を受け取ろうとしない。
 どうせ大した理由じゃないんだろうけど――大した理由じゃないのなら、さっさと付き合えばいいのにと思う。
 年下のわたしに恋愛相談までしておいて、律儀に毎回相談料としてグレープフルーツ味のジュースやらゼリーやらを奢っておいて、変なところで頑固というか、思い込みが激しいというか。
「とにかく明日の練習は休みとえむにも伝えてくれ!」
「類には?」
「折を見てオレから話しておこう。午後合同授業なんだ」
「そ。じゃあよろしく」
 まあ、類のクラスを覗いたところで、たぶんまだ寝てるのだろうし。
 事情を知ってる以上起こすのもしのびないから、司が伝えてくれるならちょうどいい。
 わたしはひとつ頷いて、午後の授業が始まる前に、と踵を返した。まだお昼ごはんも食べてなかったし、イベント中のソシャゲも最低限スタミナは消費しておかないと。スキルアップ報酬、回収し損ないたくないので。
 だから。
――付き合えばいいのに、か。むずかしいことを言ってくれる……
 ぽつり、階段の踊り場でひとり呟いた司の声は、わたしの耳まで届かなかった。

 ***
 
 これは自慢じゃないのだが。
 オレはおそらく生まれてこの方の人生、嫉妬という感情と向き合わずに生きてきた。
 誰かを羨む感情が欠落していたのかもしれない。なんせ両親からは愛情たっぷり育てられたし、病弱な咲希に両親が付きっきりになっても、それで咲希を羨ましいとは微塵も思わなかった。父も母も平等に、分け隔てなく、オレにも咲希にも過不足ない愛情を注いでいると知っていたからだ。
 それにオレ以上につらく悲しい思いをしている妹が笑顔になってくれるなら。その程度の我慢、兄ならば出来て当然だと思っていた。
 芸を身につければ、両親も咲希も喜んでくれる。いつしか冬弥も観客のひとりになって、天馬家のリビングという小さな劇場でも十分にオレの承認欲求は満たされていた。
 ところがどうだ。
 類と出会ってから、オレはどうも欲深くなってしまっている。
 ショーのことだけではない。類のことが好きだった。
 類に好きな人がいるのだと聞いて身を引く覚悟さえする傍ら、類に恋心を向けられる相手が酷く羨ましくなるほどには、あいつのことが好きになっていた。
 大凡、スターになる男が抱くべき感情じゃない。
 オレだけを見てほしい。目移りしないでほしい。その柔い唇に、オレの名だけを紡いでほしい。……そんなの、どうかしているだろう。
 類に告白されても、胸中は嬉しい感情よりも恐怖が勝った。その瞬間、オレはどこか腑に落ちたのだ。
 物事に流行り廃りがあるように、恋にだって終わりがある。類と感情をぶつけ合えば合うほどに、忍び寄る終わりが恐ろしくなっていくのだ。
……ぬぅ。やはりここは視線誘導がむずかしいな」
 ギィ、と音を立てて椅子の背もたれに寄りかかり、オレは天を仰いだ。
 自室のルーフウィンドウから射す陽気な日差し。久方ぶりの休日は、自宅が閑静な住宅街にあるのも相俟って非常に長閑だった。
 週を跨いですぐに新たなショーのお披露目がある。
 付け焼き刃でもないよりは、と教本片手に学び始めたマジック。トランプはどうにか板についてきたものの、コインはまだまだ不安がある。
 観客の視線を集めることに関してはオレの右に出るものはいないだろうが、注意を逸らすのは不得手なのだ。
 それはむしろ類の方が上手い。
「類に相談してみるか。……いや、せっかくの休日に声を掛けるのは……
 手探りでデスクの上に放っていたスマートフォンを掴む。ディスプレイを撫でて止まった神代類の文字列。それだけで、オレの鼓動はやや生き急ぐ。
 マジックのアドバイスを、なんて――建前もいいところだ。
 類の声が聞きたい。
 すっと届く柔らかな声が好きだった。あの声が舌に乗ってオレの名前を紡ぐ度にくすぐったい心地を覚える。
 胸が締め付けられる。楽しげに呼ぶ声も、悲しそうな声も、怒りの滲んだ声も、どれも愛おしい。
……
 長い逡巡だった。ディスプレイに触れる寸前で、ぴたりと親指が止まる。あと数ミリ、指先が触れればあいつと繋がるのに、その数ミリを埋める勇気が出ない。
 ショーの相談なら気軽に声を掛けられるのに。下心があるから、指を動かせない。動かせないまま、食い入るように画面を見つめてしまう。
 と、その瞬間、オレの意図しないタイミングで画面が切り替わった。
「のぅわあ⁉︎」
 着信だ。動揺して、思わずスマートフォンを投げてしまう。がたんごとん、ごろん。慣性で床の上をスマホが滑っていく。
「お兄ちゃーん? すごい音したけど大丈夫ー?」
「す、すまん咲希! あ! スマホスマホ、」
 慌てて取りに立ち上がれば、画面には『草薙寧々』の文字が浮かび上がっているのが見えた。
 ぱちり。瞬いて、幾分か心臓が冷静を取り戻してから画面を叩く。
「寧々?」
 寧々から電話など珍しい。そんな呑気な思考は、切迫した彼女の声で打ち消された。
『司⁉︎ よかったっ、お願い、早く助けて……!』
――⁉︎」

 ***

「で、お前が珍しく必死だから急いで駆けつけたわけだが」
 寧々から送られてきた住所を頼りに住宅街を右へ左へ、ようやくたどり着いた一軒家、の裏庭。もっと言えばその片隅の植木。指差されるまま顔を上げて、オレは眉をきゅっと寄せた。
 類が干されている。
 比喩でもなんでもなく、本当にまるで洗濯物のように枝に干されている。一見すると死体のようにも見えるが、その表情は苦悶に満ちていた。そりゃ苦しいだろうな、その体勢じゃ内臓が圧迫するだろう。
「いや、何がどうしてこうなった?」
「わたしも意味がわからなくて……
 寧々にもわからないならばオレにはもっとわかりようがない。
 とりあえず気持ちよさそうに寝……ているようにも見えないし、降ろしてやるのが最善だろうか。猫のようなやつだと常々思っていたが、木の上で寝るなんて奇行もいいところだ。
 どちらかといえば類は人に妙なことをさせて自分はしれっと安全圏にいるような男なので、ますます経緯も意図も読めない。
「おーい! 類! 聞こえるか!」
…………かさくん?」
 真下から声を掛ければ微かながら反応を示したので、畳み掛けるように再び声を張り上げる。
「そうだ! 天翔けるペガサスと書き天馬! 世界を司ると書いて司! ワンダーランズ×ショウタイムの主役にして座長、その名も天馬司だッ!」
…………幻覚……?」
「こんな声の大きい幻覚とか最悪過ぎるでしょ……
 寧々よ、聞こえているんだが。
「起きたのならちょうどいい。とにかく早く降りてこい。休日の真っ昼間に何してるんだお前は」
……あれ、なんで僕木の上で寝ていたのかな」
「それはこっちが聞きたいんだが……?」
 徐々に覚醒したらしい類はどこか覚束ない動きで周囲を見渡し、ずるりと枝からその身を降ろした。
 一体どのくらいの時間あの体勢でいたのかわからないが、胃のあたりを押さえているところを見るに相当長い間日向ぼっこに勤しんでいたと窺える。
 暫くぼーっと宙を見つめ、類はやがてじわじわとおもむろに顔を顰めた。
「あー……思い出した。そうだ、ドローンの試運転をしていて……
「類、すごい隈だけど何徹目?」
………………仮眠はとってるよ」
「なるほど」
 視線を真横に立つ寧々に向ければ、寧々もまたオレを見つめて小さく頷いた。奇遇だな、たぶん同じことを考えている。
「寧々。類の部屋まで案内してくれ。こいつを強制連行する」
「ん……こっち」
「は? いや、待って待って、……くっ、司くん、力が強い! 歩ける! 自分で歩けるから!」
 半ば引き摺るように類の無駄に大きな体を抱える。
 言っておくがオレの力が強いのではなく、寝不足ゆえに類の力が入っていないだけだ。
 目の下は隈がくっきりと浮かび、不健康そうな肌の色では食事をきちんと摂っているのかさえ疑わしい。挙句ドローンの試運転をしていて木の上で気絶だと?
 類が次のショーに力を入れていることは知っていた。よくわかっていた。だからといって、張り切る団員の士気を下げるような真似はすべきではないと放っていたオレが大馬鹿だった。一刻もはやく自室で体を休めるべきだ。いいかこれは座長命令だ!
 概ねそんな旨のことを早口で告げれば、いよいよ類は足を縺れさせながら慌て出した。
「待ってくれ、へ、部屋は……散らかってるんだ」
「類の部屋が片付いてたことなんてないでしょ……
「寧々!」
 どうでもいいが、焦る類の声は貴重だな、とどこか俯瞰しながら考える。
 幼馴染ゆえか、勝手知ったる様子で寧々がゆっくりと家のシャッターを開けた。ガラガラと音を立てたシャッターの奥にドアがある。寧々は一度オレと類を振り返って、躊躇なくノブに手を掛けた。
「司、ここが類の部屋」
「む……
 どうしてもオレを部屋に入れたくないらしい類は必死にオレにしがみついていたが、半ば強引に振り解いて中へ足を踏み入れる。
 ぱっと真っ先に目に入ったのは作りかけのロボ。
 次いで、壁一面の設計図。天井に浮かぶバルーン。床に転がるジャグリング用の玉。ふと視線を少し横にずらせば、今度は可愛らしいバルーンアートが並んでいる。
 散らかっているというからもっと酷い部屋を想像していたが。ぐるりと見渡して、オレは感嘆の息をついた。
……なんというか……すごいな」
…………
「たしかにとっ散らかっているし雑然としているが、類らしい部屋じゃないか。この設計図はネネロボか? む、懐かしいな! ハロウィンショーのときの装飾だ!」
「つ、司くん……あまりまじまじと見ないでくれるかい……?」
「何故だ? こっちのショーの小道具も興味ぶか……、む⁉︎ これは!」
 もう少し奥へ歩を進めると、類がいつもショーのときに着ている衣装が指先に引っ掛かった。
 興味本位で少し除けてみる。本棚だろうか、そこにはたくさんのDVDや脚本、資料が乱雑にしまわれていた。
 そのうち一番に目についたディスクケースを手に取って、ラベルを読み上げる。
 類、小学六年、学芸会。……は? 小学六年生の類だと? 普通に観たいが?
 好奇心が疼くオレの視界に、ぬ、と横から手が伸びる。細く、骨ばった男の手。類の手が、オレの両目を隠すように覆う。
「見ないで」
 切羽詰まった声に、思わず類を振り返った。紫陽花の下の透き通った白。困ったように下がった眉。目尻から耳朶まで赤く染めて、類は何かもの言いたげにオレを見つめていた。
……類、顔が赤いぞ。まさか熱でもあるんじゃないだろうな⁉︎」
…………勘弁してくれないか」
「むぐっ」
 ほとんど抱きしめるようにして、類はオレを本棚から引き剥がした。ははーん、さては他にも過去の記録が残っているな? 余程見られたくなかったのだと見受けられる。
 だがそれよりも。
 ……鼻腔から、類のにおいを感じる。
 体温は少し高いように感じるが、距離が近すぎるせいですっかりわからなくなってしまった。なんせ、オレは類のことが好きなので。友愛の範疇ではなく、人として、恋愛感情として、こいつを好きになってしまったので。
 これほど間近に類を感じれば、自然、動悸は激しさを増すし体温だって上がる。
 ふ、と耳元に類の吐息が当たって、叫び出したくなった。飲み込んだ代わりに拳に不自然に力が入る。
 部屋の入り口に立っていた寧々は何か物言いたげにしながら――結局、オレと類には何も触れずに小さく首を振った。
……わたし、そろそろ帰るね。司、類のことよろしく」
「お、おお、すまないな! 連絡ありがとう、寧々」
「うん。……司も、休みの日なのにありがと」
「どうってことない。仲間のピンチに駆け付けてこそスターだからな!」
 はいはい、と気のない返事と共にドアの閉まる音がする。寧々から連絡がきた時は本当に何事かと思ったが、何にせよ、一大事でなくて良かった。
 耳鳴りがするほど静まり返った室内。防音にでもしてるのだろうか。外の音は一切聞こえてこない。
 となると、二人きりのこの状況では逸る心臓の音が類に聞こえてしまうような気がして、咄嗟に少し距離をとった。
 普段の飄々とした態度を見せてくれればこちらも多少はいつも通りに振る舞えるのに。今日に限って、類はただじっとオレの顔を見つめるばかりだ。
「類、本当に大丈夫か? 少し横になった方がいいんじゃないのか?」
「恥ずかしいんだよ、よりによって君に部屋を見られて」
「わけがわからん。お前、一時期はやたらと家に来いだの誘ってただろう、オレのこと」
「それは……
 言い淀んだ類を見つめていれば、類は一度視線を外して。ゆっくりと絡めとるように再びオレの姿を瞳に映した。
……司くん、君こそわかってるのかい?」
「ん?」
「僕は君が好きなんだよ」
 ぴく、と指先が震える。
「好きな子が自分のテリトリーの中にいるって、普通に結構……興奮、する……と思うんだけど……
……!」
 類の手がオレの頬を撫でたかと思えば、そのままするりと首裏にまわって、髪の毛先を掻き分けて、頸を擽った。
 全身の熱が顔に集中してるんじゃないかってくらい、どうしようもなく熱くなって。唇を噛み締める。オレは今どんな顔をしているんだ。
「待っ、……すまん! オレが不躾だった!」
「うん……わかってくれたならいいよ」
「だが! その……本当に、類らしい良い部屋だと思ったんだ。ショーへの熱意が感じられるし、類がこれまで培ってきた知識や思い出が詰まってる。そうだ、まるでおもちゃ箱みたいな――
「司くん」
「う、おっ?」
 不意に足を払われてバランスが崩れる。このまま転ぶかと思いきや、背後にあったソファーに尻もちをついた。
 もしや、夜、類はここで眠っているのだろうか。置き去りになっていた柔らかいブランケットに指が沈む。
 顔を、上げて。息を飲んだ。
「キス、されたくなければ黙って」
……っ」
 吐息がぶつかる。オレか類か、どちらかが微かにでも動けば触れてしまいそうな距離。類の瞳の色が一層濃くなって、気を抜けば引き寄せられそうな。月の引力のような。そんな魔力めいた何かを、信じたくなってしまう。
 るい、と音にならない声は、類の耳に届いたのだろうか。
 そのまま見つめ合った時間は十秒と満たない。けれど途方もなく永く感じた。このままオレは類が飼う蛇に魅せられて、石になってしまうのか。
 でも実際のところ類は蛇を飼ってはいないし、魔力もなければ魔法も使えない。しがない錬金術師。人なのだ。
 睡眠をとらなければ、食事を疎かにすれば、あっさり死んでしまえるような人間。
 ……永遠に思えた時間はあっさり終焉を迎えた。
 類が、先に顔を逸らした。
「お茶を用意するよ」
「いい、構うな。類、頼むから寝てくれ。ひどい顔だ」
……君を誰よりも輝かせたいと思ったら……キリがないほど、演出の案が浮かんでしまってね」
「オレはスターだからな! 気持ちはわからなくもないが、体調管理が出来なくては元も子もないぞ」
 ワンダーランズ×ショウタイムはオレがいて、寧々がいて、えむがいて、類がいて。そうしてようやく成り立つショーユニットだ。いかなる理由があろうとも、誰一人だって欠かせない。
 それは惚れた欲目を抜きにしたって同じことだ。
「お前にとってオレが大事な役者であるように、オレにとっても類は大事な演出家だ」
 類がいなくてもオレは輝けるが、類がいなくてはオレは満たされない。
 手を伸ばして類の袖を引く。その耳朶に留まるターコイズのピアスすら羨ましい。好きなんだ、と、切実な言葉は飲み込んで、俯いた。
……あと、大切な友人、だ」
「それから?」
「ん?」
「大事な演出家で、大切な友人で、あとは? まだあるだろう?」
「っ欲しがるな!」
 いつの間にか幾分と調子を取り戻した類が、にやにやと口元を緩ませてオレの顔を覗き込んだ。
「言わないぞ」
「司く〜ん……
「言ってほしければしっかり休め。……そうしたら、まあ……考えてやらんこともない!」
……ずるいなあ」
 ふらり。類の体が傾いて、咄嗟に手を伸ばす。
 垣間見た類は微笑んで、オレに引き寄せられるままソファーに体を沈ませた。
 そんなつもりはなかったのに、意図せず抱きしめるような体勢になってしまって内心焦る。耳元に類の心音を感じる。生きている温度が服越しに伝わってくる。
 押し退けることも突き飛ばすことも簡単だろうに、そうしないのは。頭で綺麗事を並べながら、類を拒絶できないのは。それはたしかに、
「ずるい。言うつもりなんてないくせに」
 男二人が寝そべるには狭すぎるソファーの上で。類は世界からオレを隠すみたいに、オレの体を抱え込んだ。
 衣摺れの音がやけに大きく聞こえる。類の指先が、オレのまっさらな耳を摘んで、なぞって、擽る。
「司くん」
「っ、類、早く寝てくれ」
……わかった」
 存外あっさりオレの体は解放されて、類はぐちゃぐちゃに丸まったブランケットを広げた。
 赤青白黄色。カラフルなバルーンに囲まれた御伽の国みたいな部屋の隅。ふと足元に落ちているクマのぬいぐるみを拾い上げて、耳についた糸くずを払ってやる。
「君に嫌われたくないからね。大人しく寝るとするよ」
「そんなことで嫌ったりはしないが」
「じゃあ好き?」
「おやすみ!」
 悪びれない類の顔目掛けてぶん投げたクマは見事にクリーンヒットした。
 程なくして、規則正しい寝息が聞こえてくる。クマのぬいぐるみと並んで眠る類の姿は幼くて、ぐぬ、と人知れず唸ってしまう。こんなところでも嫉妬か。情けないぞ、天馬司。
 恋は人を狂わせる。よく言ったものだが、本当にそうだ。
 窓から射す陽光はぽかぽかと暖かい。誘われるまま、オレは類の前髪に手を伸ばした。さらりと指通りのいい髪を除ける。覗いた額に、そっと顔を寄せる。
――あ。そうだ、一度えむに観客の注目を集めて、その隙にオレと寧々がステージ横に捌ければ……
 ルーズリーフを一枚、それからペンを拝借して走らせた。目を閉じれば浮かぶ情景。光り輝くワンダーステージ。観客も、寧々もえむもみんなが笑っている、そんなイメージばかりが湧いてくる。
 類も。
「早くショーがしたいな」
 長閑な休日もたまには悪くないけれど。どうせならもっとはちゃめちゃで頭がおかしくなるくらい、刺激的な時間を過ごしたい。
 お前がオレをそうしたんだ、神代類。
 類の目が覚めたら、とびっきりのショーをしよう。喜ぶだろうか。驚くだろうか。でも最後には笑ってくれたらいい。
 それだけでオレは終わりのない恋を信じられる、そんな予感がしている。