猫澤
Public
 

lost virgin


 side:T

「今夜君を抱くから、心の準備しておいてね」
 ――ついに。ついについについに! この日が来てしまった!
 ふよふよと天井付近を浮かぶバルーンアート。床に散らばる工具、壁の設計図、ロボット、よくわからん機械エトセトラエトセトラ……足場もないほど散らかった類の部屋の隅で、オレは本棚を前に立ち尽くしていた。
 部屋の主は今シャワーを浴びている。
 手持ち無沙汰で適当な本を開いてみるが、驚くほどまっっったく内容が入ってこない。それもそのはず、類がシャワーから戻ってきたら、オレは。オレは……大人の階段をのぼってしまうのだ……
 正直めちゃくちゃ緊張している。ピアノのコンクールでも、小学校の劇でも、初めてのショーでも全然緊張しなかったオレがだぞ⁉︎
 本を持つ指先は震え、足元はふらふらと覚束ない。身体中の血液という血液は全て顔に集中しているみたいで、熱暴走してるんじゃないかとさえ思う。よく見たら本も逆さまだった。もうかれこれ数分もずっとこんな感じだ。
 どっどっどっどっと主張し続ける心臓は、いよいよ喉奥まで迫り上がってきた。
 オレだって初心じゃない。類と交際をはじめるにあたって、いつかは体を重ねる日が来るのだろうなと思い浮かべる夜も当然あった。
 類は普段大人びているが、その実結構な甘えん坊だ。
 その点オレは昔から兄気質で、であればこのオレが類をしっかりリードしてやらねばと無駄に勇み、ネットなどで生々しい体験談を読み漁り自爆すること数度。満身創痍で挑んだ成果として、男同士のやり方は、一通り心得ている。
 ちなみにエッチな動画とかは一切観ていない。未成年なので。
 ともかく。
 駄々っ子の類が挿れたがることも想定済みだ。オレも男なので出来ることなら挿入側に回りたいが、多分、いや……ほぼ確実に類は折れてくれないだろう。どれだけ食わせようとしても頑なに野菜を拒絶する類が妥協してくれるとは全く思えないのだ。
 初夜はゴールじゃなく通過点なのだから、どちらが上でどちらが下かなんて争っている暇があったらぱっぱと済ませてしまった方が良い。
 準備をしろと類が言うので、オレは人様のお宅の風呂で自分の尻の用意をするはめになってしまった。おかげで体の方は準備万端だ。心は……ぐうう、武者震いが止まらないが!
「お、落ち着けオレ……イメトレはバッチリだ! 予習してきた通りにすれば何も問題は……
 問題はない、と言い切りたいところだが。
 オレが風呂を借りている間に、類が部屋に敷いたマットレス。枕元に堂々と置かれたローションとスキン。水。バスタオル。だばっと冷や汗が流れる。
 ここまであからさまな用意を普通するか⁉︎ いや普通をオレは知らないが! もうちょっとこう、枕の下に隠すとか、するものじゃないのか、普通は⁉︎
 圧が、圧がすごいんだ。絶対に今夜初夜を迎えてやるぞといった類の圧が。
 そのせいでオレはこんな隅っこで震えている。さすがにアダルトグッズの近くで平然としていられるほどの耐性も度胸もなかった。
 いや、再三言うが、覚悟はしているのだ。本当に。
 それこそ類に「司くん……うちに泊まりに来ないかい?」と稽古中に囁かれたときも(稽古に集中しろ)、「僕の部屋は防音だから、安心していいよ」と家の前で微笑まれたときも(何に安心しろって言うんだ)。もうその時点でオレはちゃんと、「あっ、これ抱かれるな?」と察しがついていたし、その段階を踏む用意周到っぷりに一周回って感心した。
 しかし、しかしだ。
 ここまできて、逃げ場がないのはいい。逃げ出すつもりが元々ないのだから、いくらでも退路を塞いでくれて構わない。
 だが……仮にも愛する相手にこんなことを言いたくはないが……相手は類だ。
 散々演出のための実験と称して、オレを縄吊りにしたり、ポップアップでありえない高さまで飛ばしたり、得体の知れないロボで追いかけ回したり、謎の発明品でオレの前髪を焦がしたりとかした、類である。いくらこちらのイメトレが完璧でも、予想を遥かに超えたことを仕掛けてくる可能性は……大いにある。
 まあ――類に限って、オレが本当に嫌がることはしないと思うが……。誰だって未知な体験に触れるのは怖い。
 果たして行為後、オレはどうなってしまうのだろう。初っ端からマイナーなプレイに走られたらどうしてくれよう。そんな不安が足音もなく忍び寄ってくる。
 性行為には体位があることをネットで学んだ。てっきりオレはずっとこういうことは抱き合ってするものだと思っていたから、その記事だけちょっと真剣に眺めてしまった。
 なんせオレは日々の柔軟を欠かさずするため、男の割に体が柔らかい。ある程度なら類の期待に応えられるのではないかと思ったのだ。
……
 意味もなく忍び足でそろそろとマットレスに近づく。
 思いのほかふかふかと柔らかいそれの上で、試しに四つん這いになってみた。ナシ。次いで仰向けに転がって脚を上げてみた。ナシ。前からされても後ろからされてもただひたすらカッコ悪いではないか……
 どんな時もカッコいいポーズをキメれるのがオレの特技のひとつであったのに、アイデンティティが音をたてて崩れ落ちてしまいそうなんだが……
 耐えられるのか……オレは……。この羞恥に――
「いっそのことオレが上に乗るという手も……?」
「へえ、初めての夜から大胆だねえ。司くん?」
「のわあああーッ! 出た!」
「お化けみたいな反応はよしてくれ」
 飛び上がった勢いで前転三回キマった。いつの間にシャワーから戻ってきていたのだろうか。類は濡れた頭にタオルを被せて、体操選手よろしくポーズをとるオレに「おおー」と呑気に拍手をしてみせる。
 くそ。余裕そうだなこいつ。緊張してるのはオレだけか。
 ゆるい部屋着越しにもわかる、類の体格。細身だがしっかりと男の体だ。風呂上がりで上気した顔もなんとなく直視することは憚れて、オレはうろうろと視線を泳がせた。
 フ、と類が笑う。
「なんとなく君が考えていることは想像がつくけど……上に乗るのはあまりおすすめしないよ」
「む。なぜだ」
「君、自分で挿れられるのかい?」
「ぬぁっ……
 ぐうの音もでない……
 本来出す用途の器官に、類の、その、アレを自ら挿入するのは、やはり恐ろしい。相応の痛みもあると聞くし、初めてではなかなか中で感じられないとも聞く。
 つまり今夜はひたすら、オレは苦痛と忍耐を強いられるのだ。恥を捨てて白状すれば、結構本気で怖気付いている。本当に入るのか今だって半信半疑だ。
 だがしかし、待てよ? 裏を返せば。自分のタイミングで挿入できるのはかなりのアドバンテージなのではないか?
 その上好きに動けるし、類の動きを制限できる。問題は挿入できるかどうかだが、それさえこなしてしまえば――
「すごい葛藤してるねえ」
「そりゃするだろう……初めてなんだぞ⁉︎」
「うんうん、僕も初めてだよ。一緒に頑張ろう」
「待て待て待てーぇえい早い早い、服を脱がそうとするなまだ早い!」
「ええ……準備しておいてと言っておいたじゃないか」
 類が眉を寄せて不満そうに愚痴る。なんだその可愛い顔は。ちょっとだけ罪悪感を感じてしまうではないか。オレは何も悪くないのに!
「準備はっ、……出来ている、んだがっ!」
「おや。えらいえらい」
「雑にあしらうな! 言っておくが……オレは初めてなんだからな⁉︎」
「それはさっきも聞いたねえ」
「う〜〜! 感じなくても文句を言うなよ……!」
 自分が感じやすいかそうじゃないかなんて、自分じゃ到底わからない。少なくとも後ろの準備をした時は違和感しかなかったし、受け入れる痛みでそれどころじゃなくなるかもしれない。もしかしたら、我を忘れて暴れてしまう可能性だってありえる。
 類とひとつになれたら、一体どれだけ幸せだろう。そう思っても、不安は絶えない。マットレスの上で正座するオレを見下ろして、類はしばらく思案したあと、「はあ」とため息をついた。
 膝の上の。白くなるほど握りしめられた拳を、類の手が包み込む。
「そんなに気負わなくていいんだよ。君が僕を受け入れてくれたらそれだけで僕は幸せなんだ。だから何も考えず、今夜は僕に身を任せてほしい」
「る、類……
「個人的には、もちろん君が僕の手で乱れる姿も見たいけどね?」
「手のひら返すのが早い! オレのときめきを返せ!」
 一瞬本当に、「オレの恋人はなんて出来た人格者なんだ……」と感動したのに。ものの見事に台無しだ。
 喚くオレを片手でいなして、類はくつくつと喉で笑った。
「フフ。本当に、何も気にしなくていいんだよ、司くん。初めて同士、僕達らしくしようじゃないか」
「う……。だが、失敗したら?」
「そのときはそのときだ。急ぐ必要はないさ。ゆっくりでいいよ。少しずつ慣れていこう」
 唇が触れる。額に、瞼に、頬に。触れる度に小さく「あう」「うう」と声を上げるオレを見下ろして、類は甘えるみたいに鼻を擦り合わせた。
 夜空に浮かぶ月のような瞳が、熱を帯びる。オレへの好意で出来たカケラを全て鍋に突っ込んで、どろどろに溶けるまで煮込んだみたいな色だ。
「司くん。口、開けて」
……、」
「良い子だね」
 素直に口を開けば、類が舌を潜り込ませる。間違えて噛んでしまわないように顎を震わせていると、類は奥に逃げるオレの舌を見つけて吸い上げた。
 びく、と指先が跳ねる。類の背中に縋るように腕を回して。腰に溜まる快感。足が、ずるりとマットレスの上を滑っていく。
「それじゃ、始めようか」
 類が指をぱちんと鳴らした瞬間、部屋の照明が全て消えた。一体どうやったんだと驚く間もなく、枕元の間接照明が淡く光り出す。
 ゆっくりと見上げれば、類越しに見える天井に星空。
 開いた口が塞がらない。いや、だって、嘘だろう? 今日は一段と部屋が散らかってるなと思ってはいたが、まさかこのプラネタリウムを隠すために散らかしていたのか? 木を隠すなら森だとでも?
「ふ、……はは、ははは! お前、……ロマンチストだな、類!」
「当然だろう? 僕を誰だと思ってるんだい?」
 そうだった。こいつは生粋の演出家だ。腹の底から湧き上がるくすぐったさに、オレは耐えきれずひとしきり笑って。
 類の愛撫に素直に感じ始める頃には、すっかり緊張も解けていたのだった。


 side:R

「よく頑張ったね、司くん。お疲れさま」
「ん…………はあ……
 くてりと脱力する司くんの髪を撫でる。甘いカスタード色をしたそれに鼻先を寄せると、僕の家のシャンプーと、ほんのり汗の匂いがする。
 司くんに無理をさせるわけにいかないと思う反面で、まだもう少しこうして裸のまま触れ合っていたい気持ちもあって。僕は枕に顔を埋める司くんを抱きしめるようにしてマットレスに寝そべった。
 天井では星々が煌めいている。我ながらくさい演出だと思いはしたが、司くんは喜んでくれたようだから良しとしよう。他でもない、これは彼だけのための仕掛けなのだから。
「こんなこと聞くのはデリカシーがないかもしれないけど……気持ちよかったかい? 僕は君を満足させられたかな」
……ほんっっっとう〜〜にデリカシーがないな……!」
 ごち、と拳骨が降ってくる。それも割と普通に痛い感じの。ひどいよ司くん、と嘘泣きをすれば、司くんは唇をツンと尖らせて「嘘泣きやめろ」と僕の頬を抓った。
 僕の記憶が確かなら。
 最中の司くんは、可愛かった。でも、司くんに恋をしてしまった時から僕にとって司くんはいつだって可愛くて、かっこいい。だから僕視点では上手く判断がつかないのだ。
 控えめに喘ぐ姿も、くすぐったそうにする姿も、痛みに耐える姿も、過ぎた快楽に混乱する姿も。全てが愛おしくて、終始僕は理性をフル動員させなければいけないほどで。
 せっかくの初夜だ。嫌な思い出は残したくないし、一晩で僕の想いを伝えきれると思ってはいないけど、出来うる限りの愛と感謝を伝えたい。
 司くんはこんな僕をロマンチストと揶揄するが、そもそも演出家はロマンチストでなんぼだ。
「というかだな。むしろオレの方が聞きたいくらいなんだが? お前、最中はオレのことを気遣うばかりで自分のことは後回しにしていただろう……
「そりゃあ、君に負担がかかる行為なのだから当然だろう?」
「だがこういうのは……二人でするものじゃないか」
 僕は僕でちゃっかり愉しんでいたにもかかわらず、根っからの善人な司くんは僕を気遣って少しだけ肩を落とした。
 僕も司くんもステージに立つ者同士、派手な情痕は残せない。きっと司くんは気づいていないんだろう。他人からは絶対に見えないところ。太腿の付け根や臍のあたりに、密かに僕が君を愛した印があることに。
 本当に司くんが気に病むことはひとつもないのにな。彼の向上心はこんなことでも発揮されるのかと驚かされてしまう。そんなところが大好きだし、そんなところに僕も惚れたのだけど。
「かっこいいね、司くん」
「んん? 何だ今更。オレは四六時中いつでもかっこいいだろう!」
「そうではなくて。うーん、……まあそれでもいいか」
 汗で体が冷えてしまう前に、用意していたタオルで司くんの体を拭う。
 赤ちゃんじゃないのだから自分で拭ける、と司くんは暴れたが、僕がしたいのは赤ちゃん扱いじゃなくて恋人扱いだ。いいから、と制して好き勝手していれば、そのうち司くんも諦めて大人しくなった。
「心配しなくても、ちゃんと僕も気持ちよくさせてもらったよ。お望みならレポートでも書こうか? 今日の感動を忘れないうちにね」
「やめろ」
「いやあ、何事も復習は大事だよね!」
「絶対にやめろ!」
 大切な初めて記念日だ。出来ることならカメラでも仕込んで始終撮影したかったところを、泣く泣くやめておいた僕を司くんはもっと手放しで褒めるべきだと思う。
 バレたときの反応を想像するのも楽しかったが、万が一にも司くんに嫌われてしまったら僕は手に負えなくなってしまう。そのくらいの想像を働かせる理性はあってよかった。
 クローゼットから適当なシャツを出して、司くんに羽織らせる。袖に腕を通した司くんは、そこで何やら考えるような仕草をして、真っ直ぐに僕を見つめた。
「だがたしかに復習は大事だな。次はオレも……もう少し、積極的になれるようイメトレに磨きをかけておこう」
「恥ずかしがる君も素敵だったよ」
「ぐああ……やめろ、お前、人の傷口を思いっきり抉るんじゃない……!」
 初めては後背位が一番受け手に苦痛がないと聞いていたから、先人の知恵を有り難く拝借して後ろから抱いたのだけど。司くんにとってはやっぱり恥ずかしい……というか、屈辱的なポーズだったようで、半べそをかきながら腰を上げる司くんに僕は酷く煽られた。
 やっぱり上に乗ればよかった、と嘆く彼の希望は、また慣れてきた頃に追々叶えてもらうとして。
 何より。そんな自分で許せない格好すら、僕の前では許してしまうのかと思うと。仄暗い欲求が満たされるような、そんな気持ちになってくる。
 彼の頸にキスを落とす。物言いたげな眼差しを受けて、僕は努めて和やかに微笑み返した。
「シャワー浴びるかい?」
「こんな夜中に浴びたらお前のご両親に迷惑だろうが。朝になったら貸してくれ」
「気にしなくていいのに」
「気にするわ! あと汗くさいだろう、あまりひっつくな」
「気にしないよ」
「気にしろ!」
 ふふ、と知れず声が漏れてしまう。司くんとの言葉の応酬はいつも楽しくて、僕は彼からの反応を引き出したいがためにいつも彼をからかってしまう。
 僕の言葉ひとつで一喜一憂する君が愛しいと言えば、君はどんな顔をするだろう。
 司くんの体を抱き寄せて、首筋に顔を埋める。同じシャンプーのにおい。僕のシャツを羽織る君。
 ねえ、はしゃいでいるのは僕だけかい?
「ん、こら……類」
「つれないことを言わないでくれよ。やっと君とひとつになれたのに」
……
「司くん? 照れているのかな?」
……うるさい。もう寝るぞ!」
 耳まで真っ赤にして、司くんがそっぽを向く。僕はええ、と不満を垂らした。もう少し睦み合っててもいいじゃないか。夜は長い。眠ってしまえば朝はすぐだ。そんなの、勿体ないとは思わないのかな。
 もちろん身体的に疲れているだろう司くんを労る気持ちは十二分ある。だからワガママは言わずに、僕はひとりで勝手に盛り上がることにした。
 そうすれば、即興好きな彼のことだ。きっと再び舞台に上がってくれるに違いない。
「司くん。好きだよ」
……
「だーいすき」
「お前……さては寝かせる気ないな……?」
「司くんは? 僕のこと好きかい?」
 あ、嫌そうな顔をされた。ちょっと傷ついて眉を下げると、司くんはいかにも「ぐぬぬ」と言い出しそうな面持ちで、顔のパーツを真ん中に寄せた。
 その顔、結構スターにあるまじき顔だと思うんだけど。可愛いからまだ当分は指摘しないでおこうかな。なんて。ぼんやり考える僕の唇に、司くんの唇が、ふにゃりと当たる。
 赤い舌が「べ」と覗く。驚いて呆然とする僕を嘲笑うみたいに、司くんはブランケットを勢いよく頭まで被って隠れてしまった。
「おやすみ!」
……ふっ……フフフ! あー……おやすみ司くん」
 やっぱり、スターらしからぬ照れ隠しだ。
 でも、今僕の腕の中にいるのはスターの君じゃない。僕が愛してやまないのは、いつでも素直に怒って、泣いて、笑って、誰かを惹きつける、お日様みたいな君だから。
「愛してるよ」
 ブランケットを捲り上げて、赤く染まる耳たぶに唇を落とす。
 うんうん。足癖の悪さも、追々直していこうね。