蒲田 海抜 ハザードマップ
蒲田は比較的海抜の低い地域なのだ。まずいことに。
一般的に安全と言われる海抜は十メートルと言われているが蒲田の平均海抜は三メートル強、ところにより海抜〇メートルを下回るエリアもあり、多摩川が氾濫すれば蒲田全域が浸水する可能性があった。流石にアパートの二階までその水位が達することはないだろうが、例えば大地震などによりこの高さに達する津波が引き起こされる可能性もゼロではないわけだ。
さらに、たとえ水が二階まで上がって来なくとも、洪水による下水の逆流というのが高層階でも起こりうるらしい。要対策箇所として挙げられていたのは主にトイレだったが、トイレで起こるならば風呂でも起こるに違いない。そうなった場合は聡実もお手上げである。
それでも一階よりはマシか。一階だったらちょっとの浸水ですぐにアウトだったかもわからん。
見切りの菓子パン一個さえ千円札で支払って得た五百円玉を必死になって貯めている身としては、一階は危ないからやめておいたほうがいいですよ初めての一人暮らしなら、男の人でも、とかなんとか言って五千円高い部屋を貸しつけてきた不動産屋を恨む日もあったが、少なくとも今は、その提案によって救われた命があるかもしれないことを認めざるを得なかった。一階に住んで危ないのは僕自身だけやのうて近隣住民も含んでのことやったんやな。めっちゃできる仲介屋や。やっぱり不動産は地域密着。地元一番。
そんなわけあるか。
そんなわけあるかと思いつつ、本当にそんなわけがないか否かも一応何度か調べていたのだが、何度調べてみても過去に同様の事故報告は見当たらなかった。目撃情報もなかった。ということはだ。もし不幸にも洪水とか浸水とか下水の逆流とか、でなくとも単純に《あいつ》が自分から飛び出していってしまうなどの事故が起こった場合、聡実がこのケースにおける重要参考人物となってしまうわけだ。重要参考人物からの鳥獣保護法違反。いや、それ以前に第一被害者になる可能性が高い。それや。その場合聡実は水浸しの自室に於いて何者かに食い殺された状態で見つかるのだ。父さん母さん兄ちゃん、ややこい死に方してほんまごめん──
なんの話をしているかというと、サメだ。サメとその飼育に関する危機管理についてだ。
なぜサメかというと、聡実のアパートの浴槽にいるのである。サメが。
家賃六万のボロアパートに設置された、とりあえずつけときました~こんなんでもいると思って~といった趣のほぼ真四角の小さな浴槽に、三角のヒレのてっぺんが現れたのはいつだっただろうか。はっきりとは思い出せないが、今日はおらんくなっとるやろ、おらんくなっとってくれ、と思いながら覗く水面には今のところ、まだいる。
ところでまずそもそもサメは危険生物なのか? という問いがある。サメイコール人を喰うというのはフィクションによる刷り込みの可能性もあると考え、これについてはいの一番に調べている。インターネット曰く、
実際にサメが人を襲う事件は非常に稀で、サメが人間を獲物と誤認、たとえばサーフボードに乗った人間を彼らの主餌であるアザラシと誤認した場合などに限られることがほとんどです。サメの種類によっては人間との接触を避ける傾向にあるものも多く、従って、海で遊泳する際のリスクとしては比較的低いとされています。
ただし洋の東西を問わず、一種例外として必ず人間を襲うサメも存在します。それはサメ映画のサメです。
巨大化や突然変異したサメ映画のサメは凶暴で、執拗に人間を狙うのが特徴です。
この記事は参考になりましたか?
聡実はこの記事を百回読んだ。ブックマークし損ねたまま見失って二度と出会えず出典を記すことができないが、読んだ。読んだのちに浴槽を覗き、そして最終的に納得した。聡実宅の浴槽を泳いでいるのは、サメ映画のサメである可能性が高い。この記事は参考になりました。
専門家ではないし専門家に聞いたわけでもないし、大体サメ映画をきちんと一本見た記憶すら聡実にはなかったが、それでもこの推察をするに至った最大の根拠は、サメ本体の推定サイズである。これが規格外で、浴槽の大きさを百%としたら、サメのヒレはそれだけで九十%くらいを占めている。しかもそのヒレは角度からして文字通り氷山の一角、ほんの先っちょしか出ていないのではないか、つまり本体はもうほんまにアホみたいにクソでかいのではないかというのが聡実の見立てである。
見立ての根拠はもう一つある。サメはただぷかぷか浮いているのではなく、時折目に入ったもん全部食うぞコラといったていで暴れるのだが、その暴れっぷりがまた尋常ではない。浴槽どころかアパートの四分の一くらい簡単に持っていくんちゃうかという威力から推定しても、やはりこいつがとてつもない巨体を持っていることは疑いようがなかった。
サメはその巨体をもって、壁──浴槽の中に浴槽以外の何の壁があるのかわからないのだがとにかく浴槽以外の何らかの壁──に、体当たりを繰り返す。僕をこっから出せやこの先に海があんねんと言わんばかりのその癇癪を不用意に引き起こしてしまった際の浸水被害は、畳の部屋の半分くらいにまで及んだ。そんなに水入ってへんやろこの湯船にと思うのだが、どういう理屈なのか、明らかに容量を超えて溢れてくるのだ。あのときは本当に困った。濡れた畳の上に布団を敷くわけにはいかず、聡実は部屋の隅っこで小さくなって寝た。なんやねんこれはという憤りと共に。こっから出せて、お前が勝手に来たんやろ。
ともかくこれはサメ映画のサメで、きっと人間を襲う。襲うに違いない。浴槽に合わせた可愛らしいサイズのサメ映画のサメだったらまだ何とかなったかもしれないが現実は厳しい。このような危険巨大生物が暴れる可能性があるのに、どうなっているかの確認なんてとんでもないという話である。よって、浴槽の中はブラックボックスと化している。
とはいえサメも四六時中ずっとその調子でいるわけではなく、例えば複数のレポート提出とバイトの連勤が重なりキャパオーバーで何も考えられないような時は、いるのかいないのかもわからないくらい静かだった。湯船に浸かれない聡実がムスッとシャワーを浴びている間なんかもおとなしくしている。そういえば今日の来客の際も息を潜めていた。サメどころではなかったから聡実が気づいていないだけかもしれないが、多分。
その巨体が猛威を振い始めるのは、たとえば朝イチにラインの画面を眺めている時とか、貯金箱にお金を放り込んだ直後などといった、聡実の心がちょっとぼんやりし、個人的な懸念事項に気持ちが引っ張られようとするその時で、瞬間こいつは図ったようにその存在を主張しだすのであった。
学業とアルバイト、加えてその個人的な懸念事項のせいで、聡実はすでに疲れていた。そこへきて四つ目のストレス要因、サメである。
聡実はかなり疲れていた。
まともな判断ができなくなっていたと言っていい。
『ちょっと確認したいことがあるので』
十二月になったらもう会わない方がいいと自ら宣言したにも関わらず自ら抱きつき自ら呼び出し、自室に招き、自分のことどう思ってるか聞いて挙げ句の果てにこっちからはなんの答えも返せなかったような相手にメッセージを送ってしまったことがその証左である。確認したいことがあるのでいまから、というのはかろうじて消したが、それを遥かに上回る怪文、『サメ詳しいですか』が4Gに乗って飛んだ。
送ってすぐに何を訊いとるんや僕はと聡実は我に返った。しかし送信取り消しを押す前に既読がついてしまった。お前、カラオケ大会ちゃうんか。真面目にやれや。
『あんまり。なんで?』
あんまり。なんで?
聡実はあたりもさわりも何もない返信を復唱した。もっと言うことあるやろと思うと同時に、仮に自分に同じメッセージが来たら、しかも前述のようなやり取りを交わした相手から来たら、この文句以外に何か返せるかと思案した。返せない。場合によっては無視するかもしれない。
無視しなかった狂児の吹き出しを眺め、聡実は自分もあたりもさわりも何もない返信をした。『ほんならええです』
送ってすぐに灯りを落として寝ようとした。だが、『サメもぐもぐ学部に変わった?』
続けて猫がサメに食われそうになっているスタンプ。例の猫が助けて~と赤い文字で叫んでいる。守備範囲広いなと思いながら、胸中で話しかける。助かるんやろうか僕たちは。
『違います』
サメがおるんです、家に。
とは打たなかった。打たなかった理由は様々あるがとにかく聡実には打てなかった。主な理由はおもんないことゆうとんなこいつと思われたらかなわんということ、次点は聡実の気が触れたと思われてもかなわんということだが、その背後にはさらに、そんなことを言ってまたしても狂児を呼びつけてしまってはかなわんというものがあった。そして、そんなことを言ってまた呼びつけてしまってはかなわんと思ったにも関わらず、彼が来なかった場合を想定すると、とても打てるわけがなかった。
バッシャバッシャと水音がし始めたのを聞きながら、聡実は代わりに『すみません』と打った。追って『忘れてください。』そして今この瞬間即座に眠りに落ちたことにして携帯を放り投げ、布団を被る。布団を被ってもなお、サメがドンドンと浴槽に体当たりするのが聞こえる。
今日は溢れさせんといてや。お前の相手はできひん。
なんやねんほんまに──
風呂 サメ 動画
十一月ともなると学食にくる面々もだいぶ固定化が進む。固定メンバーのうちの一部となったマナ、丸山、聡実の三人は、今日も同じ卓を囲んで昼食をとっている。聡実は持ち込んだ見切りの菓子パンを齧っているが、二人はそれぞれ日替わり麺 (うどん、今日の具はわかめと天かす、マナ曰くハズレすぎる) と、日替わり定食 (B、メインは唐揚げタルタルソース、丸山曰くAもCもタルタルソース、タルタルソースでメニュー組むんだ) を目の前に置き、箸を持ったまま、
「岡ピなんて?」
「やから
……」
先ほど聡実は、風呂にサメが出たらどうする? と尋ねた。それを聞き返されている。
狂児にメッセージを送ってしまったのが怪我の功名の起爆剤となった。あいつになんらかのアクションを起こさせる前に自分で解決してしまえば負い目も期待も感じずに済む。
聡実は議題をリピートした。
「風呂にサメが出たらどうする?」
「「風呂にサメが出たら?」」
声を揃えて復唱されると改めて何を言うてんねやこいつは? が過ぎる響きだと思ったが、マナと丸山はツッコミもせずに聡実の言葉の続きを待っている。聡実は昨夜考えた言い訳を付け足した。
「
……友達が映画つくってて。今脚本書いてんねんけど、もし風呂にサメが出たら普通の人はどうするのか意見聞きたいって。
……普通の人の」
だいぶ苦しい。だいぶ苦しいがしかし二人は何も突っ込まず、むしろその顔をぱっと輝かせた。
「なにそれやべ~! 岡そんな友達いんの?」
「え、うん、地元にな」
「それってうちらの普通で大丈夫?」
「うん」
聡実が頷くや否や丸山が挙手をした。唐揚げを頬張ったまま神妙な顔で「はい」
「はい丸山くん」
「探偵ナイトスクープ一択」
「ナイトスクープこっちでやってるんだ」
「たまに深夜にやってる。俺めっちゃ好きなんだよあれ。風呂にサメがいたら即応募するね」
なるほどと聡実は思ったが、探偵たちはサメを撃退できるのだろうか? マスコミ経由で識者に繋いでもらって駆除?
首を傾げる聡実の内心を読んだように、マナがいやいやと首を振った。「マスコミにネタ渡すのはもったいないって。自分たちで収益化しよ」
「収益化
……YouTubeとか?」
「そーだなー、はじめはTikTokがよくない? バズったらYouTubeでチャンネル作って」
「TikTokやってんの?」
「見るだけ。拡散狙うならTikTokじゃない? あとなんかサメ映画ってTikTokぽいじゃん。インスタより」
インスタのサメは絶対イケアのやつだからと決めつけてマナは携帯を取り出した。
「TikTok検索してみよう」
言いながら画面を数回タップしたマナは「うわ」と声を上げてすぐにゲラゲラ笑い出した。見せてきた画面を覗き込むと、四角いサムネイルは見事に巨大なサメたちの鼻先とギザギザの歯で占められている。丸山は「わー」と声をあげ、聡実は「サメ映画のサメや」と呻いた。こんなんがおるんか僕んちには。知らんけど。
「風呂にサメがいる動画はまだないみたい。ってことは」
「TikTokに商機ありだなこれ」
「でしょ~。でも最終的にはYouTubeね。サメとの生活チャンネル。
……ということで私はTikTokとYouTubeで収益化します」
こんなんでいいの? と聞かれ、聡実はうんと頷いた。「ありがとう。伝えとくわ」
「あは、どんな映画だよって感じだけど」
「採用されたら教えて。てか岡って結構サブカルだよね。ムロマチもだし」
ムロマチ、と聞いてもすぐにはピンと来ない聡実の表情を察したのか、丸山が「森田さんのバンドね」と付け足した。そこで初めて森田のことを思い出した聡実は、先日と同じ轍を遡っている気がするが、後で一応森田にも訊いておくかと考えた。ついでに知恵袋にも。サメ大喜利以上にならない気がするが──
そう心に書き留めながら、聡実は、手元の食事に戻っていく二人のサメ大喜利回答、否、対サメ案を反芻した。
丸山の案は致命的な欠点がある。実名顔出しでテレビに出なければならないという点で、狂児との関係を嗅ぎ回られている聡実には不向きだ。まして普通の大人になる準備をせなあかんと宣言した直後。
……いや、狂児と別に関係なんかないねんけど。
マナの案は顔を出さずとも成立する上アルバイトより割がいいかもしれず、狂児貯金のブースト、並びに今日までの精神的疲労の報いとなる可能性があった。しかし一方で、あのサメを見世物にするのは気が引けるような気がし、またそもそも、動画を撮影している自分の画は脳裏で一切像を結ばなかった。僕が配信。ないやろそれは。ていうか、僕は普通の大人に
……いや、あんなサメ飼っといて何を
……
ちゃうわ。聡実は我に返る。サメ飼っといたらあかんねん。
「
……ちなみに倒すならどうすればいいと思う?」
「サメを?」
「うん。ただそのサメ、めっちゃデカいねん。浴槽よりデカい。風呂からはヒレの先っちょしか見えてないくらいデカい。しかも近づくとめっちゃ暴れる
……」
「
……ほ~?」
「という設定」
二人はうーんと唸った。のちにハッと顔を上げたのは丸山だった。
「めっちゃ風呂沸かす!」
聡実はそわそわしながら授業、その後のアルバイトまでをこなし、天才丸山に胸中大喝采しながら足早にアパートに向かった。
シフトのスイッチが被っていたので一応森田にも尋ねてみたところ「倒し方はわかんないけど俺なら気にせず一緒に暮らすかも、元々シャワーしか浴びないし。サメといえばねこぱにのスタンプ第二段にサメがいたんだよね、まだ原作にはサメとか出てきてないんだけどこれっ」、チエリアンは「カマボコにする。」とのことだったが、丸山大先生による真のベストアンサーを授けられていた聡実はいずれの回答も寛容な心で受け入れることができた。チエリアンの方には大喜利大会の優勝を授けてやってもいいとすら思いながら風呂場のドアを開けた瞬間、「~~~~~~
…………」
聡実は無言でしゃがみ込んだ。大事なことを思い出したからだ。この家の風呂、追い焚き機能ないやん──!
実家にはあった。この家ではそんな機能を使わないから、無いことそれ自体をさほど意識していなかったのだ。
ひとたび意識してしまうとその不在は絶望的な欠陥であった。内見時、風呂に追い焚き機能は要りませんと言ったのは聡実だったが。
「
……最悪や
……」
八つ当たりで浴槽を蹴り飛ばすくらいの暴力性が自分にあってもよかったのではないか、と聡実は思った。そうやって簡単に激情を逃す回路があれば、こんなふうにサメを飼う生活にはならなかったのではないか。それがあればこんなものに悩まされ振り回され頓珍漢なアドバイスを求めすがり、そして惨めな結果にうずくまったりしなかったのではないか。
しかし聡実の脳はこんな状況になってもその体を暴力行為に至らしめることなく、ヒレに向かって「命拾いしたなお前」と話しかける始末だった。悠然と浮かんでいるサメは偉っそうに、そんなんええからはよ僕をこっから出す方法を考えんかいと
……ゆうてへんけど。
立ち上がる気力もなく四つん這いで浴室の敷居をまたぐ。期待が大きかった分失望の質量も半端なく、海底に沈みショートした思考回路が欲したのは、指先だけで探り当てたスマホ。ラインアプリ。黒いアイコンのトークルーム。成田。
なんで? 決まっている。八つ当たりだ。
聡実の激情は体内で苛立ちや無力感や恨みがましさと似た感情に変わり、その後、暴力行為ではなく狂児への八つ当たりとなって発露するのだった。豚まんとりくおじで一度やらかしているのだから、もうやるべきではないとも思っていた。だから風呂を蹴っ飛ばして発散できたらよかったのに、聡実にはできない。なんで?
わからん。
わかってたらこんなことにはならん。
絶望に呼応するかのように、サメが見えない水中でゆっくり尾鰭を動かしたのを感じた。あまりにはっきり感じるので、まるで聡実の体の中で勝手にウォームアップを始められたかのような錯覚に陥るほどだった。
『サメの映画見ませんか』
脈絡もクソもない八つ当たりを吟味の一つもせずに送信すると、途端にどんと部屋が揺れた。体当たりが始まったのだ。溢れた水の塊が床を叩く。こっから出せと言っている。
出せるもんなら出したいわ僕かて。お前がおらんかったらこんなライン送らへん。
『ええよん』
八つ当たりを無視しない狂児のせいで、もう風呂場が壊れそうだ。
サメ映画 おすすめ
妙な言い方になるがこうとしか言いようがない、前回同様本当にやってきた狂児は、聡実と顔を合わせるなり「聞いたんやけどな、サメ映画のおすすめ」とその真面目さとマメさを遺憾なく発揮してきた。
聞いたんや
……と思いながら駅の商業施設に足をむける。あいにく上映中のサメ映画が見当たらず、狂児と聡実はレンタルビデオ屋にてサメ映画を物色することとなっている。後からついてくる狂児に聡実は一応尋ねた。「誰に?」
「店っぇ~~知り合いの子?」
語尾を上げた後さらに「子ぉかなあれ?」とぼやいている。ほんまに知らん。それは。知らんけど最低やなこいつと思いつつ上りエスカレーターで後ろに立った狂児を振り返ると、彼は片眉を上げながら「頭が二個あるサメの映画勧められたわ」
「
……なんなんですかそれは」
「驚くのはまだ早いで聡実くん。2では頭三個になんねん。続編のたびに頭増えて、最終的に六個になる」
「ヒット作やん
……」
あるかな~それ。などと言う割には興味がなさそうなのが透けて見えた。なんなら今その設定を聞いた聡実の方が気になっているような気配さえあった、サメの体に六個も頭が生える余地はあっただろうか。
とはいえ聡実も元々サメ映画に特別な感情は抱いておらず、サメ映画というのが果たして分類として確立されているのか否かも知らない。新作。準新作。SF。ホラー。ロマンス。サメ。みたいになっているのだろうか。
レンタルビデオ屋特有の眩しい照明に目を細めながら棚を物色していると、「聡実くんは何見たいの」と尋ねられた。隣に並んだ狂児のほうは見ずに「デカいサメを倒すやつ」とだけ答える。「ほーん」と気のない返事。
「それはようさんありそやな」
「そうなん? 知らん」
「俺もよう知らんけど。せや、借りたらどこで見るん?」
ビデオ借りて見るとこて、寂しいおっさんの集う店しか思い浮かばんわ~ははは。と笑う狂児が示唆する店が一体なんなのか、ぼんやりとはわかるが具体的には想像ができない聡実は、だんだんと苛立ってきた。
「変な店行きたくないんでうちでいいですか」
「またお邪魔してええの?」
サメの棚が見つからない。狂児はただ真面目でマメで、そのくせわざと露悪したりして、僕らの会話は上滑りしている。
目の前の棚に並んだ聡実の知らない古いドラマがごっそり貸し出されている。そこから視線を外さぬまま、聡実は「あのな狂児さん」と呼びかけた。
「ん? あった?」
「映画、借りなくても見られるんです。実は」
「そうなん? ビデオあるってこと?」
「いや、サメを見られる」聡実は唾を飲み込んだ。「うちにサメがいて」
そしてようやく狂児の顔を見る。
一文字に結んだ口の端に小さな皺が見えた。
「なんて?」
自室で眺めるこいつはほんまにデカいなと聡実は改めて思った。サメではなく狂児である。デカい狂児は風呂場の入り口上部に手をかけ、「サメやな」と呟いた。
「わかりますか」
「
……サメのことよう知らんけど、サメってわかるよな、なんか」
サメの実地見聞でも来客は来客かと思い、聡実は熱い茶を入れた寿司の湯呑みを渡した。二人して立ったまま茶を啜り、灰色のヒレを眺める。
「お風呂入られへんやん聡実くん。銭湯とかあんの?」
「シャワーは浴びれるんで
……」
「疲れとれへんよ」
狂児は急に年長者ぶった。「早よ言ってくれたらよかったのに。俺こう見えてトラブル強いねんで」
「
……やからサメに詳しいか聞いたやろ」
「あー、詳しくはないけど、言うてくれたらとりあえず見にくるし
……」
聡実だってあんな聞き方でそこまで察しろとはかけらも思っていない。そうではなく、もう会わんいうて抱きついて無茶言うて家呼んで自分のことどう思ってるか聞いてほんでこっちからはなんの答えも返せなかったような相手を家に呼ぶのはどう考えてもほんまに
……気まずいねん。それはわかるやろ、わかれや。
と思ったが、きっかけとなるメッセージを送り現実そのように誘導したのもまた聡実自身である。狂児に対する自分の支離滅裂な行動を思うと比喩でなく眩暈がした。
「噛まれたりしてへんの」
「今のとこは」
「良かった。ほんでこん中どないなっとんねん」
「分かりません。ただ、こいつめっちゃデカいと思います」
「せやろなあ」狂児は顎を擦る。「撃つか」
聡実はギョッとした。「撃つ」
「水ん中は無理やけどヒレは出とるからな。あ~でもこっちで手に入るかな。大阪から持ってきてもええけどちょっと」
それはまずい。聡実は狂児の銃輸送シミュレーションに待ったをかけた。「僕のうちで発砲事件起こさんといてください」
狂児は眉をあげてこちらを見たが、すぐにここが山奥ではなく都内の駅近住宅街だということを思い出してくれたようで、「せやな」と頷いた。
「それにヒレだけ撃っても死なへんのちゃう」
「そしたら銛とか? なんか目とか突いたらいけそうやん」
「目ぇどこやろ。頭出してもらわんと」
「映画やったら海辺でやっとったらばっしゃ~って頭出」
「
……」
「てくるけどそんなんしてアパート壊れたらたまらんな。聡実くん住むとこなくなってまうしなあ」
「
……まあ別にそれは」
「ええんや」
聡実の返事にちょっと笑った狂児は、そうなっても大家との交渉勝てるような気ぃするな、俺、と、真偽の判別がしづらいことを言った。そして、「やってみる?」
ヒレがぬうと動いた。
聡実は会話を反芻した。どこからが真でどこまでが偽なのかをわからないなりに考えようと思ったのだが、サメがどこからやってきてどこに行きたいのかわからないのと同程度に、狂児の真意は何一つわからなかった。わからないなら聞くしかないのだが、やってみるって何をですか、という問いは喉に張り付いて言葉の形にならない。もがいているうちに狂児が先に「なーんちゃって」と全てを打ち消した。
陽当たりが良いだけで縁起の悪い部屋は沈黙の海の底に沈む。サメだけが悠々と浮かんでいる。
同じく海底にいる狂児の静かな声が沈黙を破るまでどれくらいの時間が経ったかわからないくらい、聡実はひっそりと息をしていた。「聡実くんは」
「
……」
「どうにかしたいねんな? このサメ」
「
……はい」
「どうにかしたい言うんはバラっぁ~~、倒すとか、そっち方面でええねんな?」
「それしかなくないですか。発砲はちょっとアレですけど」
改めてヒレを眺める。
今は猫をかぶっておとなしいからといって、狂児が帰れば絶対に暴れ出す。念願叶ってここから飛び出した暁には聡実を食い殺すだろう。
……もしそんなことがなくとも彼が何かに体をぶつける音を聞くのはもう辛かったし、見せ物にもしたくない。撃ち殺すことも目玉に銛を刺すことも茹でることもできないけれど、どうにかしなければならない。それが殺すということなのかどうかはわからないが、それしかなくないか。そういう気持ちで言った。
他に残っている案はチエリアンのベストアンサーくらいだ。殺生しても聡実の血肉になるなら意外といいかもとなげやりに呟く。「カマボコにでもしますか」
数秒後、「あっ!!」とデカい声が上がった。びくりと後ずさる聡実を指差す狂児の見開かれた目と口もまたデカい。圧強いねん。「なんですか」
「聡実くん、おったわサメ専門家が。ほぼ第一人者や」
「海洋研究者かなんかですか。顔広」
「ヤクザは人脈
……いやちゃうねん。聡実くん、ええもん食えるで」
食える?
「カマボコですか?」
フカヒレ 消化
狂児が連れてきたのはとある中華料理人だ。「裏中の陳さん」と紹介された。
「裏中
……?」
「今は裏中やけどごっつい銘店出身やで。フカヒレ料理が得意でサメの漁からこなすねん。な」
「漁はしばらくやってないけどね」
「超巨大ザメでも何でもスープにできる言うとったから連れてきてみました~」
「はぁ
……」
そんな奴おってたまるかと思ったが聡実が世の道理全てを知っているわけではない。少なくとも聡実より狂児の方が知っているだろうと思う。さらにサメが泳ぐ浴槽を前にするとどんなツッコミも野暮だ。
陳さんは聡実の見たことのない道具を風呂場の床に並べて《漁》の準備をしている。その後ろに突っ立っている聡実は、同じく並んで突っ立っている狂児に「裏中ってなんですか?」と尋ねた。「裏社会の中華?」
怪訝な声に対して狂児は眉を上げ、意味深に顎を引いてみせた。こちらを向いてすらいない陳さんの視線を逃れるように口元を手で覆って「事務所の裏にある中華」
「
……」
「ちなみに隣にあるのがとな中」
「知らんわ。略すな。学生か」
とな中の逆隣にもう一軒新しいのができてわけわからんようになったからそっちは逆中やねん、などとどうでもいい情報を付け加える狂児を無視していると、今から殺されるのを察したらしいサメが暴れ出しそうな気配があった。あ、と思った聡実が痛みの予兆に胸を押さえるよりも早く、急所を突かれたサメは動きを止めた。
あっという間に解体されて順次取り出されていくバラバラのそれを呆然と眺めながら
「あ
……」
と声を漏らす聡実の隣で、狂児もなぜか細い息を吐いている。二人して視線を釘付けにしたまま、狂児は「聡実くんはこれでよかってんな?」と呟いた。独白のようにもこちらに問うているようにも聞こえた。無言で頷き作業を見守る。間違いなくこれが正しい処遇だと思う気持ちを遥かに凌駕する喪失感があった。暴君に情が湧いたのか。アホくさ。
ついさっきまで叩いていた軽口が遥か遠くに吹き飛んで消えた。
報酬がわりのサメを持ち帰った陳さんがあのサメからフカヒレの姿煮を作る、と狂児が連絡をよこしてきたのは、漁からたった数日後のことだった。『金曜日そっち行くんやけど、食べへん? 持っていくヨン』
サメがいなくなってから聡実の心は不思議と凪いでいた。『狂児さんも食べましょう。一緒に』 と送り、そのままアルバイトに入った。朝までたっぷり働いてから携帯を見ると、既読はついていたがまだ返事がない。珍しいと思ったが追って何を送るでもなくそのまま約束の日を迎えた。狂児が『ほんならお邪魔するわ』 と送ってきたのは当日の夕方だった。『夜勤?』
『夜九時まで。十時には部屋にいます』
帰宅した聡実はシャワーを浴びた。湯船に浸かることはしなかった。空の浴槽を眺めながら濡れた髪を掻き上げ、結局どこにもいけなかった可哀想なサメのことを思った。これからそれを食う。聡実の血肉となれば結果的に彼は自由を得たことになるだろうか。
狂児はりくおじの紙袋をぶら下げてやってきた。中から出てきたのはチーズケーキではなく大きなタッパーで、蓋を開けると、テレビでしか見たことのないような立派なフカヒレが、とろみのついた黄金色の煮汁を纏って鎮座していた。
「ほんまは二ヶ月くらい干すらしいねんけど、無理言うて生で作ってもろてん」
「そんなんできんねや」
「十二月になってまうな思て」
顔を上げて狂児を見た。心の読めない表情をしていた。「
……そうですね」
タッパーは大きすぎて電子レンジに入らなかったので、聡実はせっかくのフカヒレを箸で割き、百均で買った平たい皿に盛った。それをレンジで温めている間に茶を沸かし、狂児に三度目の寿司の湯呑みを手渡す。狂児は三度目にしてやっと「これ、家から持ってきたん?」と尋ねてきた。
「そうです」
「ええ趣味しとるね」
冤罪やと思ったが何も答えずに電子レンジのブザーを待つ。温まった皿が熱くて持てずにタオルで包み、親指の付け根に自分の箸、狂児にはとっておいたコンビニの箸を挟んで運んだ。
「ありがとう」
「取り皿とかないけど」
「ええよ」
端から中央に移動させた小さなちゃぶ台の真ん中に皿を置く。その着地を見届けた二人は一瞬顔を見合わせ、すぐに視線を落とした。
「
……いただきます」
「いただきます~」
フカヒレの味の良し悪しはよくわからなかった。聡実が今まで食べてきたフカヒレ的なものとの違いを説明せよと言われたらできない。ただ、これがあのサメだったということははっきりとわかった。
聡実は涙を落とした。
「
……どうしたん」
泣きながらそれを口に運び続ける。
ひとくち食べた瞬間に聡実は悟った。いや、自分のことだから、初めからわかっていたのかもしれない。あまりに馬鹿馬鹿しいが、サメは聡実の、狂児に対する思いだった。
狂児のことを考えるたびにここから出せと暴れ、際限なく感情を溢れさせ、全容がわからないほど大きく、映画だったらよかったのにどうしてもどうやっても何度見ても毎日本当にそこにあるそれを、聡実は制御できず、共にいられないと決めつけ、殺して食った。
出られたか? 狭いところから。自由になれたか?
なれてへんよな。元の場所に戻ってきただけや。
「
……聡実くん? どっか痛い?」
首を振る。
「まずい?」
「まずくない。
……好きです」
「
……ほんなら、よかった」
「けど多分、ずっと消化できへん」
狂児は箸を持った手を下ろした。
聡実は箸を止めずに続けた。「今から言うことはなんでもないです。なんでもないねんけど、僕は狂児さんが、特別や、どうしても」
行儀が悪いと分かってはいたが、口に詰め込んだままうめく。
「しんどい。特別で。どうしていいか分かれへん。
……しんどい。」
ずっと鼻をすする。
「そういう味がする」
聡実が皿のほとんどを平らげるのを狂児は黙って見ていた。
◇◇◇
空のタッパーと共にアパートを後にしてホテルで仮眠をとった狂児は、翌朝始発の新幹線で新大阪に戻った。狂児の用事は聡実にフカヒレを届けることだけだった。自宅に戻る前に銭湯に寄った理由は、広い湯船とサウナに入りたかったというのが一つ、もう一つはもっとのっぴきならない事情からだった。
寝られればいいというには広すぎる部屋に戻ると、玄関の上がり框の先にすでに水溜りができていた。廊下の先、浴室の扉の下から続くその表面はうっすら波立っている。靴下のまま水溜りを踏んで進み風呂場の戸を押し開けると、聡実のうちよりも広い浴槽に、灰色の尖ったヒレが浮かんでいる。それが元気に暴れている。
実のところ狂児には、暴れるこれをどうにかしようという意志が一切なかった。生まれてしまったものはどうしようもない。ここから出せないならどうしようもない。ほんならずうっと一緒に生きていくしかないやんと思っていた。刺青と大差ない。その心は? 風呂に入れんようになる〜、ははは。
聡実もまたこのサメを飼っているとわかった時、衝撃と共に仄暗い喜びを感じたのは事実だ。それをどうにかしようという彼の奮闘は、狂児にとっては寂しいものでもあった。しかし上京からこちらの彼の言動を思い返せば妥当、社会通念に照らし合わせれば考える余地なく真っ当な要望である。だから手を貸した。のに。
聡実の涙を反芻する。
波が溢れる。
巨体がドンと狂児を揺らす。ここから出せと喚いている。
サメ どうすればいい