千代里
2025-01-30 13:57:17
14593文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その37


 ヤルマルたちに自分の過去について語った後、動揺をなんとか静めたオデットは、再び布団の中に逆戻りした。
 思い出すだけで激しく感情を揺さぶられる話をするのは、単に言葉を発していただけだというのに、想像以上に疲労をもたらしてしまうらしい。
 ここ数日は、風邪のこともあって昼夜問わず好きな時間に眠る生活をしていたので、眠気自体はまだ薄い。それでも、布団の温もりはオデットにとっては心地よいものだった。柔らかいものに包まれるというのは、それだけで安心をもたらしてくれるらしい。
 食器を片付けるため、ヤルマルは部屋を出ていき、残ったのはゲルダだけだ。彼女はオデットが食後に飲むべき錬金薬を、必要な分だけ別の器に移し替えている。独特の淡い芳香は、間違いなく薬のものだろう
 その苦さを知っているオデットとしては、なんとか寝たふりでやり過ごせないだろうか、などと思う。
(でも、こうやって当たり前のように日常のことを考えられるのも、きっとヤルマルさんやゲルダが話を聞いてくれたおかげなのでしょうね)
 最も忌まわしい記憶を思い出した直後、オデットは常に透明な影が自分を付き纏っているかのように思えた。その当時の話をしているわけでもないのに、落とせない汚れのように全身に不安という泥がこびりつき、気を抜けばより深い記憶の泥沼に引き摺り込まれる――そんな妄想に取り憑かれてしまいそうになるほどに。
 一人で抱えるにはあまりに重く、暗く、どろりとした記憶。かといってノエに話すにも気引ける。そんな足踏みしていた気持ちを、ヤルマルはさっと掬い上げ、ゲルダは静かに寄り添ってくれた。
 今はそれでいい。暫しの安寧に過ぎなかったとしても、今はそれで。
……ヤルマルさんにも、ちゃんと頼めましたから)
 オデットとしても、いつまでもこの話をノエに隠しておくつもりはなかった。
 かと言って、ヤルマルたちに話したように、自らの口で事細かに説明するのは荷が重い。相手がノエであるなら、尚のこと。
 その折衷案として、詳らかである必要はないので、この件はノエにも概要だけは伝えてほしいと頼んでおいた。
 彼なら既にある程度は察しているかもしれないとヤルマルは言ってくれた。だが、オデットとしてはノエとこの先も行動を共にするのなら、言葉にできない気遣いをいつまでもさせるのは避けたかった。
(兄さんには、わたしの心が整理できたら……ちゃんとわたしからも話をします)
 この話を聞いてもらった上で、ノエにどうしてほしいのか。
 わざわざ考えるまでもなくすでに答えは出ているが、ノエはあの通り、相手を傷つけまいと遠慮しがちな性格だ。過去のせいでノエとの関係がギクシャクするのは、オデットとしては避けたかった。
 布団の中でオデットはノエに思いを馳せていると、ゆさゆさと布団が揺すられる。
「オデット。食事をした後は薬を飲まないといけないんでしょ。寝る前に飲んでおきなよ」
…………
「寝たふりしてもわかってるからね。ほら、寝るのは飲んだ後」
「だって……それ、おいしくないんですもの」
 ゲルダに布団を剥がされそうになり、オデットは精一杯の抵抗を試みてみる。
 だが、病人の抵抗などゲルダにとっては毛筋ほどの意味もなかったようだ。あっさりと布団がずらされ、オデットは袖机の前に並べられたマグたち――小分けされた薬たちが入ってる――を見る羽目になってしまった。
「一昨日は、少しでも早く良くなるために、頑張って薬も飲むって話をしてなかったっけ」
「熱は落ち着いたのでもう大丈夫です」
「ヒューイは、七日分全部飲み切ってくださいって言ってたよ」
 正面から正論を返され、オデットは熱を帯びた薄紅色の唇をちょんと尖らせる。
 不承不承、上体を起こして並べられたマグを見つめる。薬は三種類あるのだが、どれも異なる不味さを誇ると言うのは、一体どういう理由からなのか。もしここにヒューイがいるのなら、懇々と問い詰めたいところだ。
 幸か不幸か、薬そのものの見た目は魔力回復や気力回復に使う錬金薬とさして変わらない色合いをしている。これがもっと禍々しい色だったら、オデットは摂取をより頑なに拒んでいただろう。
「仕方ありません。できるだけ息をしないようにして……一息にぐいっと」
 この数日で身につけた不味い薬の摂取法を唱えつつ、オデットは一つ目のマグの中身をあおる。見た目はベリージュースのように赤いが、ジュースのような甘みはなく、むしろ酸味秤が際立つ。
 マグの半分ほどの量が入ったそれを飲み干し、半分涙目になっているオデット。ごしごしと滲んだ涙を拭い取る。ふうと一息ついて、次の一杯のための小休憩を挟んでいた彼女が、ゲルダが何やら窓の外に目をやっていることに気がついた。
「何か見えるんですか?」
「うん。人がたくさん集まってるみたい。あの人たち、何してるんだろう」
「お祭りか何かでしょうか。そんな準備をしているようには見えませんでしたが……
「そういう雰囲気とは違う気がする。何だか……怖い感じがするよ」
 ゲルダがそんな風に言うのは、この短い付き合いの中でもなかなかに珍しい。
 オデットは二つ目のマグ――こちらは雑草を煮込んだような苦みがひどい――を飲み干し、半身を起こした状態で窓の方へと首を向ける。
 寝台と窓の位置関係で、立っているゲルダほど外の光景をはっきり見ることは難しい。しかし、今のオデットからも、窓向こうに見える広場に黒い人だかりができているのは確認できた。分厚いガラスのおかげで人の声は聞こえないが、何やら物々しい気配は無音であっても伝わってくる。あれは、祭りの浮かれた空気とは程遠い。
「向こうから騎士の人が来てるよ。様子を見に来たのかな」
「それは様子を見に来たのではなく、止めに来たのではないでしょうか……
 最後の一杯――今回も後味になんとも言えない苦味を残す薬だ――を飲み干して、オデットはもう少しばかり身を乗り出して、窓の向こうの景色をつぶさに観察する。
 ゲルダの言う通り、騎士の装備を身につけたと思しき重厚なシルエットの人物が、人だかりの先頭に陣取っていた男と話をしているのが見える。
(いえ、あれは話している……というより……なんだか、怒鳴っているような気がします)
 人だかりのリーダーらしき男は、騎士の装備にも臆さずに、ぐいぐいと詰め寄っている。声こそ聞こえないが、ただならぬ様子の身振り手振りから、温厚な話し合いではないと予想はつく。
 騎士がさらに数名近づいているが、群衆となった人々との人数差は歴然だ。中には、農具を持ち出して、空に突き上げている者もいる。
……なんだか、すごく嫌な感じ。前に異端者の人たちと一緒にいたときも、あんな感じだった」
……ゲルダ」
 窓から視線を逸らし、ゲルダは視線を床に落とす。考えてもみれば、ゲルダはあの襲撃事件の際に自分を知る男に痛烈な皮肉を叩きつけられたのだ。
 お前も、異端者の仲間だったのに、どうしてノエたちのそばに知らぬ顔で混ざっているのか。そう言われたとき、ゲルダは胸に針を突き立てられたかのように顔を歪めていた。
(わたしたちと出会ったとき、ゲルダはあんなふうに表情を変えなかった。わたしたちと一緒に過ごすことで、少しずつ、自分の中の感情を知ったのだと思うのですが……
 だが、喜びや楽しみを知ることの裏返しは、自分の心の鎧を剥がすことでもある。以前のゲルダなら、かつての仲間から非難されようが顔色一つ変えなかっただろう。
「あの、ゲルダは……大丈夫ですか。この前、以前一緒にいた人に酷いことを言われていましたから、その」
「大丈夫なのかな。あの人の言葉を思い出すと、お腹の底がぎゅっとするみたいな、変な感じはしてるの」
「それは、大丈夫とは言わないのではありませんか」
 オデットの不安をゲルダが聞いてくれたのなら、今度は自分がゲルダの不安に耳を貸す番だ。オデットは手を伸ばし、ゲルダの冷えた指先を包む。
 ゲルダは膝を曲げ、オデットへと視線を合わせた。その口元に浮かぶ笑みに、出会ったばかりの頃のぎこちなさはない。自然に浮かび上がった笑顔は、年相応の少女らしいものだった。
「オデットが怒ってくれたから。私がここにいることを、皆が許してくれたから。それが分かってたら、私はそれだけで、大丈夫なんだよ」
 ぎゅっと指先を握り返し、ゲルダはオデットを寝台にゆっくり押し戻す。薬を飲んだなら、後は眠る時間だ。
 布団をかけ直すと、ゲルダは再び窓に視線をやる。ものものしいやり取りは、まだ続いているのだろうか。
「あの人たち、いったいどこから来たんだろうね」
「そうですね……。騎士の人に何か不満があるとしても、あんなにも人を集める必要はないと思います」
 暖かい掛け布団の中は平和そのものなのに、窓ガラス一枚挟んで不穏なやり取りが行き交いしている。そう思うと、やはり気持ちが落ち着かない。
「オデット。私、ヤルマルにあれが何か聞いてくるね」
 ゲルダも、オデット同様気持ちが落ち着かないのだろう。薬が入っていたマグを手に持つと、ぱたぱたと足音を立てて部屋の外へと行ってしまった。
 暫しの静寂。寒さを遠ざける分厚い窓ガラスは、刺々しいやり取りも人々の喧騒も、全て遠くに追いやってくれる。聞こえるのは暖炉の炎の心地よい音だけだ。
 炎の音は、薬との激闘を経たオデットに心地よい眠気を与えてくれた。自分の心の重荷を誰かに分け与えた安心感もあるのだろう。薪がパチンと爆ぜる音に耳を傾けながら、オデットはとろとろと浅い眠りについた。
 
 深すぎず、かといって浅すぎて眠れた気がしないというわけでもなく。断片的な夢のかけらを行き来するような眠りから、オデットはゆっくりと意識を浮上させる。
……んぅ」
 もう少し寝ていたいという気持ちを、意味のない呟きに変えて、寝返りを一つ。頭の位置を変えたおかげで、耳の位置も変わったからだろうか。枕元にいる誰かの気配や声が、はっきりと伝わってきた。おそらく、自分はこの来訪者の気配で目を覚ましたのだろう。
……ほら、見える?」
「ああ。これは……思った以上に大事になってるね。一時的なものだといいのだけれど」
 声の主やゲルダとヤルマルだ。口ぶりから察するに、ゲルダがヤルマルに窓の外の様子を見せている、といったところか。
「ねえ、ヤルマル。あの人たちは、どうして騎士の人と喧嘩してるの?」
「あれは、別に喧嘩をしているわけじゃないらしいよ。宿の親父さんが聞いた話によると、彼らはあくまで『陳情』に来ているだけ、ってことらしい」
「ちんじょう?」
「お願いをしにきてるってこと。前にも、町の人は騎士団に陳情に来ていたんだ。前回は、ここまで大掛かりではなかったけれどね」
 その話は、オデットにも聞き覚えがある。ルーシャンとヤルマルが初めて詰め所に行った時、ピヌヌが陳情に来た町の住人たちの相手をしていたという話だ。
 彼らの目的は、税の引き下げを貴族に直談判することだった。今回も、それと同じことを騎士たちに頼んでいるのだろうか。
 その話を聞いたゲルダは、「うーん」と疑問を孕んだ声を漏らし、
「どうして、騎士の人にお願いをしたら、貴族の人にお話できるってことに繋がるの?」
「騎士たちは、本来神殿騎士団に所属している。だが、彼らはこの土地の貴族が神殿騎士団の人に『自分たちは武力を持った部隊の準備ができないから、騎士団の力を一部貸してくれ』って頼んでいるんだ。だから、ピヌヌやイレーナたちは、貴族に雇われた騎士団でもあるというわけさ」
 そうはいっても、雇用関係にあるからすぐに話ができるわけでもあるまいとは、ゲルダにも分かったのだろう。ひとまずは納得したと相槌を打ってから、
「あの人たちのお願いは、前にヤルマルが話していた、お金を一杯とられたら困るって話?」
「それもあるようだが……今回は、それだけじゃないらしい」
 窓の鍵を開く音。続いて、ばたんと戸を閉める重たい音が続く。
 布団の中にも届いていた、窓から差し込む柔らかな光がふつりと消えたので、おそらくヤルマルが雨戸を閉めたのだろう。この宿は冷気を完全に追い出すための分厚い木製の雨戸が据え付けられている。夜になる前にこれを閉めることで、内側の熱を外に逃さない作りになっているのだ。ヤルマルが一足早く雨戸を閉めたのは、窓の外の騒動がオデットの体に障ると思っての気遣いだろう。
「騒動を見に行った野次馬の人が、宿にも来て教えてくれたんだ。今回は異端者の件も争点になっているようだってね。異端者や、彼らが率いた魔物が騎士団の人たちを襲ったことが、町の人にも伝わってしまったらしい」
 その話を聞き、もともと覚醒しかけていたオデットは、完全に目を覚ましてしまった。ヤルマルが話している一件は間違いなく、オデットたちにも関わりのあることだ。
「あの……それって、わたしたちが遭遇した襲撃のことですよね」
 もぞもぞと布団から顔を出すオデット。起きていたのかいと肩をすくめたヤルマルは、首を縦に振ってみせた。
「ああ、そうさ。騎士団を異端者が襲撃。迎撃したものの、首謀犯は捕まっていない。これでは、いつ町に異端者が襲いかかってくるか分かったものじゃない。だというのに、この町を統治している貴族は様子すら見にこないのか。責任者は顔ぐらい出すべきだ……って論法さ」
「たしかに、異端者という敵が近くにいると分かったら、不安になってしまうものなのかもしれませんね……
「ノエたちの話では、襲撃者に以前この町にいた住人が混ざっていたらしい。このことが町の住人に漏れていなさそうなのが、まだ不幸中の幸いかな。分かってしまっていたら、きっと身内同士の異端者狩りが加速していただろう」
 ヤルマルの言葉に、オデットはノエの父親がいた街で目にした光景を思い出す。
 竜に故郷を襲われて難民となった人々を、領主は自身の懐でもある街の中へと引き入れた。領主は彼らを難民として遇したが、元から住んでいた者にとって彼らはよそ者にすぎない。外からやってきた彼らが異端者の手先ではないかと疑い、彼らを追い出せと声をあげた者もいたことは記憶に新しい。
 人々の不安は、ふとしたきっかけで暴力という形に爆発する。それが魔物に向くならまだしも、同じ人間同士で争う結末になっては、あまりに悲しい。
「ただ、この話を聞いて、少し妙だなって思ったんだよね
「妙、ですか?」
「騎士団は、自分たちが異端者に襲われた、などと公表していないはずだ。彼らは町の外で襲われたわけだし、まだ調査も完全に済んでいないうちから話を流せば、言い方は悪いがこんな風に詰め寄られる結果になりかねない。情報統制の仕方を誤るほど、あの隊長さんは迂闊にも思えなかった」
 可能なら、町の人を不安がらせない形で収束する方向で、ピヌヌは舵を切ろうとしていたはずだ。だが、彼女の予想を反して、人々は想像以上の早さで情報を得て、制御できない形で行動を始めている。
「いったい、どこから情報を得たのかは知らないけれどね。単に口が軽い騎士がいただけかもしれない。ただ、それけなら、異端者の中に町の住民が混ざっていた……という話も聞いていそうなものだけれど」
 ぽつりと呟くヤルマル。暴動のような陳情の理由には、納得できるものがある。けれども、どうにも奇妙なまでに、暴動の理由が散乱せず、一方向に統制がとれているようにも思えるのだ。
 騎士への非難や陳情と同じくらい、身内同士での諍いが起きていても不思議ではない。だというのに、彼らの怒りの矛先は騎士や貴族にだけ向いている。
……流石にただの考えすぎかな。誰だって身内を疑いたくない。そういうことだろうか)
 根拠のない推論を、ヤルマルは片手で払うような所作で振り解く。
「あれだけ皆さんが主張しているのなら、町を治めてる貴族の方も来てくれるのでしょうか」
「貴族が来たところで、何もかもが解決するとは思えないけれどね。むしろ、顔を出すことで、危険に身を晒すことにもなるから、そこは慎重になるんじゃないかな」
「えっ。その偉い人は、この町の一番偉い人なんじゃないの。偉い人なのに危険なの?」
 ゲルダのシンプルかつ純粋な質問に、ヤルマルは苦笑いを浮かべる。
「一番偉い人でも、殴られれば怪我をするし、ナイフで刺されれば死んでしまう。陳情が言い合いに変化し、言い合いが制御されない暴力に変わってしまう可能性はあるってことだ。そうなったら、偉かろうがなんだろうが関係ない」
 貴族に人々が手をあげないのは、攻撃すれば最後、どんな報復が待っているか分からないという恐れがあるこそだ。もし、感情が理性を上回ってしまえば、その恐れすら消えることになる。
「それなら、この辺りを治めている貴族の人は、顔を見せない方がいいのでしょうか」
「難しいところだね。ここまで声が膨れ上がっているのに無視を決め込んだら、領主様に土地を任せている、更に上の貴族が黙っていてくれるかどうか」
 以前も聞いた話だが、シュガーグレイヴやその近辺を統治しているのはルグロという家であるという。
 だが、現在オデットたちがいる場所は、貴族の統治している領土という意味で捉えると、ニヴェールという家の領土の一角という扱いになる。ルグロ家の人々は、あくまで広い領土の一部をニヴェール家から貸してもらい、自領という形で統治を任されているに過ぎない。
 長い年月の間、ルグロ家が統治しているのなら、これまでの功績を盾にすることもできるが、もともとこの周辺は没落した他家の領土をニヴェールが接収し分配したものである。ルグロ家はまだ新参者の統治者に過ぎず、異端者をのさばらせていたとなれば、良い印象は持たれないだろう。
「管理不行き届きの罰として、領土を没収されてしまったら、家としてもたまったものじゃないだろうね。だったら、形だけでも顔を出して、ちゃんと執政をしていますって姿勢を見せた方がいい……とも考えられる」
 あとは、貴族同士の見栄やら折衝やらの問題だ。そこまでくると、一介の冒険者に過ぎないヤルマルとしてもお手上げである。
「とにかく、ボクたちがこの騒ぎに首を突っ込んでも良いことはなし。この件は、任務で出かけている四人にも後で伝えておくよ」
 流石のノエも、自分の家族が関わっているわけでもない騒動に、自ら首を突っ込むようなことはしないだろう。ヤルマルはそう締めくくり、薄暗くなった部屋のランタンに灯りを灯した。
 雨戸の向こうでは、今も騒乱が続いているのだろうか。それらを全て締め出したおかげで、部屋は不穏な気配とは無縁でいられる。
(でも……この町にいる以上、わたしはあの騒ぎに無縁でいられるとは……思えません)
 おそらく、ヤルマルは病床の自分のために雨戸を閉めたのだ。それが分かっているので、この考えはそっと胸にしまいこみ、オデットは再び布団の中で目を瞑る。
 今度こそ、柔らかい静寂に包まれて、オデットは眠りの底に沈んでいった。
 
 ***
 
「ノエさん。そして皆さんも。まず、私からお願いがあります」
 長らく人が使っていなかったのだろう。古びて塗装も剥げ落ちた家の一角で、ヒューイはそう告げた。
 怪しげな洞窟の隠蔽を暴き、洞穴を潜り抜けた先。廃棄された村と思しき一角に足を踏み入れたノエたちを待っていたのは、無人の村――最初はそう思えた。
 てっきり誰も住んでいないのかと思いきや、朽ちかけた家から出てきたのは薄汚れた衣服の少年。彼は、おもちゃの剣を振り回し、ノエたちを警戒の視線で睨みつけた。
 取り尽くしまもない彼の代わりに、ノエたちの応対を買って出た人物。それが、シュガーグレイヴにいるはずの錬金術師――ヒューイだった。
 彼は、ノエたちを自分の仮の住まいであるという建物に案内すると、暖炉にかけていたケトルを使って茶を振る舞い、遥々やってきた一同をもてなしてくれたのだった。他の建物同様、廃墟に近い外観だったが中は意外と整えられており、傷んだ気配こそあるものの、必要最低限の生活ができるように整えられていた。
 ようやく、ひと心地ついたものの、洞穴や集落の謎は何一つ解決していない。何から切り出すかと思った矢先の発言が、先ほどのものだった。
「私が皆さんにお願いしたいことは、ただ一つ。彼らのことは、ここにいる皆さんの胸の内に留めておいてもらいたいのです」
――それは、ここに暮らす人間がどうしてこんな所にいるかっていう理由によるな」
 ばっさりと切り返したのはルーシャンだ。彼は渡された茶に口もつけず、ヒューイの眼鏡越しの双眸を睨み続けている。
「あの子供たちは何だ? 家の中にも気配があるってことは、他にも人がいるんだろ。どうして近くにシュガーグレイヴっていう立派な町があるのに、こんな辺鄙な場所に隠れるみたいに暮らしているんだ?」
「彼らは、シュガーグレイヴに……いえ、他のどの町にも滞在できない理由があるのです」
「その理由について、教えていただけますか。事と次第によりますが、僕らとて、訳あって隠れている方々を無闇に暴き立てるような真似はしたくありません」
 何かやむを得ない理由があって、町から離れなければならない事情があるのなら、考えなくもない。ノエの穏やかな物言いと姿勢に、ヒューイも安堵を覚えたのだろう。
 自分の淹れた茶に口をつけ、暫しの瞑目の末に、
……先日、この近辺に異端者が出没したという話を聞きました」
「ええ。魔物と一緒に姿を現した。捕縛には至らなかったようだけれど」
「ここにいる人たちは、大枠で言うなら……彼らの仲間です。身内と言い換えても良いでしょうか」
 ヒューイの説明を聞き、一同はそれぞれ表情を変える。
 それは驚きであり、困惑であり、はたまた良からぬ可能性に気がついた嫌悪でもあった。
「異端者の身内の方がいるのなら、ここは異端者の拠点なのでしょうか? その割には随分と……人気がないように見えましたが」
「ノエさんの言うとおりです。彼らは異端者の仲間として彼らと共に行動することもありますが、決して積極的に活動しているわけではありません。巷で聞くような、誰かを襲うような真似もしていません」
 ヒューイは、窓の向こうへと視線をやる。ノエたちの様子が気になるのか、窓辺には先ほどの子供たちがそろりと顔を出していた。ノエもそちらを見やると、彼らの顔はすぐさま引っ込んでしまう。どうやら、まだ警戒は解けていないようだ。
「たとえば、異端者として活動すると決めた方がいます。その場合、彼らの家族もまた、異端者の仲間として扱われます。本人の望むと望まざると拘らず」
 たとえ、自分は違うと主張しても、周りが彼らに『異端者』のレッテルを貼る。それは避けられない事項だ。
「他にも異端審問の冤罪から逃げた方、魔物の襲撃によって住む場所を失ってしまった方……彼らは、やむを得ず、生きるために異端者として活動する者の手をとり、彼らの庇護下に入りました。とはいえ、過激な活動は好まず、誰かと争うでもなく、静かに過ごしていたいと考える者もいる。そのような方々が、ここに集まって暮らしています」
 数は決して多くない、とヒューイは続ける。大半は女子供の中でも戦う力を持たない者や、好戦的な考え方に反対を唱える者である、とのことだった。
「異端者も、一度身内として引き込んだ以上は、無碍に扱うことができないのでしょう。実際、彼らの身内もいるわけですからね。だから、必要最低限の物質を供給しているようですが、それ以外は放任状態なのだそうです」
 ヒューイは、そこでもう一つ息を挟む。
「彼らはただ、静かに暮らすことを望んでいます。町の方々には一度も迷惑をかけていない……とまでは言えないでしょうが、少なくとも自ら武器を手に取って傷つけようとしているわけではない。ですから、どうか、彼らを見逃してはいただけませんか」
 ヒューイの説明を聞き、ノエは一行へと視線を送る。無言の問いかけの理由は、「どうするか」というものだ。
「一度も迷惑をかけていないわけではない……と先ほど言いましたね。では、彼らは間接的に町の人に危害を加えている、ということですか?」
「その可能性はある言わざるを得ません。異端者の仲間が彼らに提供する物資の出所が真っ当である、と私の立場では言い切れません」
 奥歯に物が挟まったような物言いだが、それもまたヒューイなりの精一杯の誠意の示し方なのだろう。
 この話の間、ヒューイは、自身が異端者の仲間だとは言っていない。つまり、彼はあくまでこの集落に外からやってきた協力者に過ぎないのだろう。
「ここに暮らしている人の話を騎士や教会に伝え、保護することはできないのですか」
 質問をしつつ、ノエはそれは難しかろうと思ってもいた。
 異端者に対して向けられてきた視線の数々を、ノエもこれまでの旅路でよく知っている。予想通り、ヒューイはゆっくりと首を横に振った。
「騎士団を率いるピヌヌ隊長は、規則に従う厳命な方です。異端者の仲間を見逃すようなことをしてくれないでしょう。それに、教会はもっと危険です。彼らの異端審問は、白を黒にすることも可能なほど苛烈であるという噂ですから」
「では、どうしてあなたは彼らの協力者になったの」
 もしバレればヒューイとてタダでは済まない。それをわかってやったのかと、サルヒは問う。
 ヒューイは、悪戯を指摘された子供のような苦笑いを浮かべ、
……子供が、来たんですよ。夜遅くに、私の診療所に。母親を治す薬を売ってくださいって」
 顔を見る限り、町の子供ではない。おまけに、こんな夜更けに来るなどと、何か表沙汰にできない理由があるのは明白だ。頑なに唇を閉ざす子供を何度も宥めすかし、ヒューイはようやくこの集落の存在を知った。
「面倒ごとだろうとは分かっていたのですけれど……放って置けなかったんです。ここには食料はありますが、薬や薬草の知恵をもつ者はいない。病に罹ればそのまま放置されてしまう。そんな状態を見てしまいますと、ね」
 もし、ノエたちが騎士団や教会に集落のことを話せば、自分も見逃してもらえないに違いない。それが分かっているはずなのに、ヒューイは相変わらず人の良さそうな笑顔を浮かべ続けていた。その裏の感情は、彼との関係がまだ浅いノエには分からない。
 たとえ異端者の仲間として突き出されても、彼はノエたちを恨むようなことはないだろう。ただ、静かに残念がるのだろう――そう思えるような、冬の湖のような静かな微笑だった。
 一瞬の沈黙。やがて、それを破ったのは、
……できることなら、騎士の方々に報告はしたくない。僕はそう思っています」
 暫しの黙考の末、ノエは居並ぶ仲間たちに視線を送りつつ告げる。
「異端者の仲間でも、か?」
 真っ先に反論を投げたのはルーシャンだった。ノエは苦い顔のまま、ゆっくりと頷く。
「彼らは、異端者と呼ばれる人々の関係者なのかもしれません。ですが、僕らはこの場所に到着して一度も危害を加えられてはいません。それを理由にするのはダメでしょうか」
 ノエの言葉に、ダメだと言い切る者はいなかった。
 異端者の仲間だから、彼らは敵だ。そう言い切ることなどできないと、この場にいる誰もが分かっている。
……異端者の仲間だから、という理由があれば町の人は彼らを弾圧する。だから、町に保護を訴えることもできない」
 サルヒの呟きに、ヒューイは「残念ながら」と返す。彼の言葉が嘘ではないと、ノエもよく知っている。
 ノエの父が直轄していた街にて、外からやってきた難民というだけで、異端者の仲間ではという疑惑の視線が向けられていた場面を、彼は何度も目にしてきていた。それは、イシュガルドでは日常の一つとして当たり前のように起きている出来事なのだ。
 竜の血を少し飲まされたからといって、それが不可抗力だとどれだけ抗弁しても、被害者であった少年――コーディが異端者として突き出されかけたのと同じように。
 縋る相手が誰もおらず、手をとってくれる人が異端者と呼ばれる集団だけだった。自分の夫や息子、あるいは妻が異端者として活動すると決めてしまい、その家族であるが故に巻き込まれるしかなかった。
 生きるために、そうするしかなかった。
 望んでそうしたわけじゃないと言い切れるほど、頑なにもなれず。
 かといって誰かを傷つけてまで生き延びようと決意できるほど強くもなれず。
 ここにいるのは、そのような「あわい」を揺らいできた人なのだろう。
「こいつらが武器を持っていますぐ襲いかかってくるってわけでもないのなら、俺はこれ以上は何も言わない。俺たちは騎士団の雇われ傭兵ではあるが、所詮は傭兵でもあるからな」
 緊張をはらんだ空気をかき混ぜたのは、これまたルーシャンの一言だった。彼の言葉に追従して、オランローも頷く。
「任務を与えられた兵士として、報告すべきなのだろうとは分かっている。だが、報告されたが故に、義務に従って望まない行動をせねばならない、ということもある。あの隊長とて、無抵抗の者たちを引っ立てるような真似はしたくないだろう――と、今は言い訳をしておく」
 ノエは、二人に深く頭を下げる。
 イシュガルドで長く暮らした経験のあるルーシャン。ならびに、部隊としての規律を重んじるオランローにとって、この決断は決して軽々とできるものではない。
 彼らにとっての重い決意を背負うのは自分であるべきだと、ノエは強く瞑目をしてから、再びヒューイに向き直る。
……一つだけ、聞いてもいいでしょうか。ここで暮らす人たちは、町に下りたことはありますか。市井に紛れ、その中で暮らしたことは?」
「いいえ、ないはずです。この隠れ里で暮らしている方々の顔は、私は全員覚えています。もし町を歩いていたら、すぐにわかります」
……それなら、僕としても彼らの秘密を守ることを受け入れられます」
 不思議そうな顔をしているヒューイに、ノエは説明を続ける。
「先日、異端者が巡回中の騎士を襲撃した事件がありました。その異端者の顔ぶれに、町に流れ着いた方々が混ざっていたんです。僕たちは騎士の任務の手伝いをしていたので、その現場に居合わせていました」
 逃げていた異端者と共に行動をしていたのは、町で暮らしていた流れ者の一人――アンディ少年の父親だった。正式な住民でなくとも、人手不足の騎士団では、門壁の隙間を掻い潜り、あるいは検問の隙をついて忍び込んだ者の全てを摘発はできまい。そのまま流れ者の一人として大人しく暮らしているならまだしも、異端者と手を組んでいるとなれば話は別だ。
「ノエさんは、この隠れ里の住人が異端者の密偵として町に紛れこみ、情報を横流ししているのではないか、と思ったのですね」
 厳しい顔つきで頷くノエ。もしその可能性があるのなら、たとえ彼らに害意がなかったとしても、隠れひそむ彼らをピヌヌたちに突き出すしかなくなってしまう。
「彼らはこの地に長らく住み着いていますが、麓のシュガーグレイヴには一度も顔を出していないと言っています。距離が近い分、下手に顔を出して自分たちが何者かが知られるのを恐れているようです」
 そういう理由ならと、ノエは顔に残していた険しさをすっと引く。ヒューイが騙されている可能性や、里の住民が嘘をついている可能性もゼロではない。だが、それを疑っていてはキリがない。
「わかりました。では、僕らは皆さんのことを黙っておくと約束しましょう。ですが、万が一ということもあります。僕らがシュガーグレイヴを去るとき、ピヌヌ隊長には巡回任務の強化について、それとなく具申しても良いでしょうか」
 町の警備を担当する騎士たちに何も伝えずに立ち去ったあと、この隠れ里が好戦的な異端者に利用されるようなことがあっては、ノエたちは結果的に異端者に協力したことになってしまう。
 所詮は付け焼き刃の発想ではあるが、全く示唆もせずに立ち去るよりは、少しでも双方に誠意ある姿勢を見せたい。そう考えた末の妥協案だった。
「ええ。その程度なら構いません。どのみち、ここに住む彼らも最近の同胞の活動に懸念を抱いて、住む場所を変えるべきか話していたところだったようなのです」
「最近の……? 先日の騎士への襲撃は、身内である彼らにとっても予想外だったのですか」
 ノエの質問に、ヒューイは張り詰めた面持ちで頷く。
「その件については、この後私が往診に行く方のほうがよく事情を知っています。もしよければ、同行しますか? 一人ぐらいなら、その方も怪しまないと思います」
「ええ、許していただけるのなら」
 では僕が、とノエが挙手をする。ノエが率先して前に出た理由は、先だって子供に声をかけた時と同じ理由だ。居並ぶ面々の種族や性格を考えると、ノエが最も聞き込みに適している。
 ヒューイは、残った面々へと視線を送り、
「私の往診には少し時間がかかります。皆さんのことは、他の方に私の友人であり、協力者であると伝えておきますので、外の様子を見ていても怪しまれることはないでしょう。警戒されるかもしれませんが、彼らに危害を加えることだけは避けていただけますか」
「向こうさんが拳を振り上げない限り、な」
「旦那様。そのような挑発的な物言いをしては、相手がより警戒することになります」
 サルヒに脇腹を小突かれて、ルーシャンは身を竦ませる。だが、彼の冗句めいた物言いには、ある程度の本気が混ざっているとヒューイも分かったのだろう。
「ええ。彼らにもしっかり言い含めておきます。一度、この件について話をしてきますので、席をたってもいいでしょうか」
 これ以上、膝を突き合わせて話を続けていても仕方がない。ノエの首肯を受け取り、ヒューイは白衣に似たローブを翻し、隠れ里の外へと向かう。
 追って、窓の向こうにちらほらと感じていた気配が遠ざかっていくことにも、ノエたちは気がついていた。おそらく、家の中で話をしている一同を、皆、息を潜めて見守っていたのだろう。
……この里の人にとって、ヒューイさんは外から来た方のはずです。なのに、あそこまで、皆が心配してくれている」
「随分と慕われているようだな。あの錬金術師は」
 オランローの呟きには、微かな安堵があった。残った面々にも、異端者の仲間の存在を秘匿する手助けをするという意味でバツの悪さはあるものの、ほっと胸を撫で下ろしているとわかる緩みが漂う。
(みんな、きっと、コーディさんやマルコさんたちのことを思い出していたのだろうな)
 自分もそうだったと、ノエは内心で異端者にならざるを得なかった人々の顔を思い出す。
 彼らのこれまでの生活を守ることは、ノエたちにはできなかった。異端者に拉致された者を連れ戻すと公言した以上、街の人たちは彼らへの疑心を拭いきれなくなってしまう。実は異端者の仲間になっているのではないかと、不安と懸念の目で帰還者を見るしかなくなってしまう。どれだけ、彼らが今まで通りの平和な生活を望んでいたと主張しても、一度生まれた溝は消えてくれない。
 だが、今回は違う。今回はまだ、彼らの生活を守ることができた。それがただ、口を閉ざしているだけであったとしても。
(いつか、こんな風に誰かを疑わずに生きられる時がくれば、よいのだけれど)
 そのための道はあまりに遠大で、果てすら見えない。
 それでも、自分は一歩を歩んでいくと決めたのだ。
 ノエが瞑目した瞳を開いたころ、話を終えたヒューイが部屋に戻ってきた。