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らん
2025-01-30 00:39:48
5921文字
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残心
WB/さくこと
※死ネタ ※未来if
3月新刊序文
長ランを脱ぐ時の気持ちは、「楽しかった」の一言に尽きた。
手に持った卒業証書は思っていたものと少し違った。てっきり表彰状と同じように巻物みたいになると思ったのに、蓋を開けてみれば渡されたのは綺麗に布を張られた冊子のような見開きのものだ。それなりに重量のあるそれと共にやってきた風鈴高校の屋上には誰もいない。たったひとりで空を見上げると、ちょうど大きな雲がのんびりと風に乗って流されている。
しばらくぼうっと眺めてから今度は辺りを見回すと、ボウフウリン初代総代だった梅宮が卒業してからも杉下がせっせと育てていた菜園の隅で咲く水仙も風にゆらゆらと身を任せるように揺れていた。誰が球根を植えたのか知らないが、それなりの数が花開いている。こういうところが、この町の好きなところのひとつだった。
てっぺんを取ると息巻いてやってきたまこち町。あの頃は文字通り独りで、自己肯定の手段として誰よりも強く在りたかった。それが様相を変えたのは、この町の人間と、同じ高校に所属する同級生や先輩達のおかげだ。
誰かが支えてくれると思えるようになった。頼る事も、頼られる事も、全部受け入れられるようになった。諦めていたものが手に入って、そうしていつしか独りさえ怖くなくなった。ひとりで歩んでも、自分の心に温もりがあるからだ。自他共に成長したと言えるだろう。
こうしてこの世界と臆せず向き合えるようになったのは、この町で最初に縁を結んだ人間の影響を多分に受けていた。
「あんたは"ヒトリ"だから」
今でもあいつ
――
橘ことはとの出会いは鮮烈に思い出せる。自分の中では忘れたくても忘れられない出来事のひとつだ。自覚のある痛いところを突かれて、自分が自分を認めるために決めた覚悟を何も知らない相手に否定された。あれは今でも最悪だったな、なんて、卒業前最後のモーニングの席でたまごサンドを食べながら思い出して笑えば、相対していたことはも笑っていた記憶がある。
「もうヒトリじゃないでしょ、総代?」
皆のおかげで、オレは総代へと上り詰めた。ケンカでトップになったわけじゃない。周囲が桜ならと任せてくれたから、ヒトリではなくなったから、オレは望んだものに成れた。
総代として着る長ランともこれでおさらばだ。多聞衆筆頭として今ではケンカ時にオレの相棒と称される杉下は、永遠の憧れと尊敬をしている梅宮と同じ長ランに袖を通したが、オレを両隣からずっと支えてくれる楡井と蘇枋は最後まで長ランにならなかった。
「オレの長ラン想像つきます? 蘇枋さんなら分かりますけど」
「意外といけるかもしれないよ? オレはゆったりしたのが好きだけど、長ランはふたり居れば充分だろ」
見分けがつかなくなっちゃうよ、なんて笑う参謀役を買って出ていた蘇枋に間違えるわけがあるかと笑い飛ばしたのは二年生の終わりだったろうか。
次代総代が欲しいと言うので譲ってやる約束があるものだから、それなら屋上にでも置いておくかと何の気なしに呟いたら、盗まれますよ! と楡井に窘められたのは数日前の話だ。
「誰が盗むんだよ」
「なんでいまだに慕われてる自覚がないんだ
……
」
「流石にもう自覚はしてるよね。その感情が盗むに辿り着かないだけで」
困り顔の楡井と蘇枋との雑談も、ともすれば今日で終わる。卒業しても遊ぼうと約束しているし、それはきっと果たされるけれど、学校生活での毎日と比べてしまえば頻度は格段と落ちるだろう。それは自分の決断のせいで、でも、後悔はない。
なんてことはない。ただ、卒業と同時に故郷と相成ったこのまこち町から出ていくことにした。それだけ。ありふれた卒業後の進路だった。
小さな頃からここが地元の人間は幾らか残るらしい。楡井や安西はこの町から大学に通うと聞いている。オレはこの三年間住んでいたおんぼろのアパートから旅立って、別の町での生活を予定していた。夏頃にはそう決めていたせいか、今更止める人間もいなかった。
一年から副級長として支えてくれていたふたりは特に新天地の家探しなども一緒にしてくれた。唯一年度末より前に成人している楡井に至っては色んな賃貸会社から資料を取り寄せたり、内見まで代わりに行ってくれたりしていたのだ。
故郷にしたいと思ったこの町を離れるのは、正直言ってさみしい。進路が決まった時も、新しい町のアパート審査が通った時も、少しずつこの町を離れる覚悟を積み重ねていったけれど、いまだにささくれのようなもの寂しさは募っている。
それでも、この町で沢山のひとから貰ったものがあるから踏み出したいと思ったのも事実で、貰ったもので埋めた心臓と共に明日からこの町の住人ではなくなり、新しい一歩を踏み出す。
「今日が最後ね」
卒業式の前、いつも通りポトスで朝食を食べたあと、店を去る時。珍しくことはがキッチンから出てきて、出入り口まで一緒についてきた。
「たくさん来てくれてありがとう。次の町でも元気でね」
もっと小言を言われたり、これまでのようになにか諭されたりするかと考えていたが、想像よりもずっと呆気なかった。それはもうこの数ヶ月で充分すぎるほど伝えてくれたということだろうか。それとも、最後の日に多すぎる言葉は要らないと考えたのか。
どうあったとしても、ことはらしい応援だと思った。思ったけれど、少しくらい、引き留めてくれても良かった。名残惜しいと感じてほしかったと言ったら、あいつはなんと返してくれただろうか。
「ことはちゃんに会いたくなったらポトスに来てよ」
きっと、そんなことしか言わなかったかもしれない。
それでも、少し。ほんの少しだけ、オレは欲張っても良かったのかもしれない。
何を隠そう、オレはほぼ毎日顔を合わせていた眼前の相手のことが好きだった。
橘ことは。はじめて、自分のために料理をしてくれた人。助けてくれてありがとう。誰もがいちいち覚えていないだろう言葉が記憶に残るほど、当時は言われてこなかったそれを素直にくれたひと。自身を諭す言葉を対抗心もなく信じられて、吸収出来るだけのものをくれるひとだった。とても同い年とは思えないくらい出来た人間で、安心出来る相手だった。
この三年間、一度だってこの感情を伝えられたことはない。もう二度と同じ時間のなかでも伝えられない。今日が最後のチャンスだと分かっていた。
それなのに、たったの二文字だというのに、声は上手く形にならず、結局のところオレは感謝しか言えなかったのだ。
「
……
また、来る」
今までありがとう。ぜんぶ美味かった。
上手く音に乗ったのはそれだけ。
好きだと言う機会はまた次だろうか。離れてみて、恋しくなったら告げられるかもしれない。そんな何もかもを呑み込んで、今日はことはに送り出されたのだった。
「桜さーん、下で皆待ってますよ」
重苦しい音が思ったより大きく響いて来訪者を告げる。溌剌とした声だけでよく分かった。楡井だ。入学した時もコイツと一緒に登校したな、と懐かしみながら屋上を後にして、オレは人生で一番人間として過ごせた青春に区切りをつけた。
卒業してからしばらくのことは、正直もう既に覚えきれていない。忙殺されたといえばいいのか、充実していたといえばいいのか、とにもかくにも、まこち町には頻繁に帰らなかった。
幼い頃は散々言われた髪や瞳の風貌は、バイトさえ選べば何も言われなかった。周囲も勝手に染めていると判断してそれが地毛かどうか拘る奴も格段に減った。瞳もオッドアイだと説明すればそれだけで終わる。オレの生きづらさのいくつかは大人になったというだけで軽減されて、それに少しばかり辟易とした。オレが生きてた世界はずいぶん狭い世界だったらしい、と一ヶ月ぶりに集まった一組の面子にこぼしたら、そんなもんだよねぇとそれぞれ何某か覚えはあるのか笑ってくれた事はよく覚えている。
まこち町に帰る時は必ずポトスに寄ってオムライスを食べた。新しい街で暮らしてからようやくオレは自炊をするようになって、何度かオムライスにも挑戦しているけれど、ことはの作るオムライスの味には程遠い。一度だって近づけないのだ。ケチャップで味を付けているだけのはずなのに、なぜかチキンライスの味は同じにならないし、見た目だって綺麗に出来ない。卵は破けないようにするのも難しいし、ことはみたいにあんな素早く作れないせいでいつもチキンライスが冷める。
「何千回作ってると思ってんのよ」
十九歳になってから訪れた時、誕生日を祝えなかった代わりにことはから奢ってもらえたオムライスを食べながらごちたら、そんな返しがあった。それもそうか、という思いと、どうせならこの味をいつでも食べたいのに、という思いが綯い交ぜになる。そう言うだけなのに、やっぱり言えなかった。まるで告白みたいで、困らせたくなくて。何を困らせるのかは上手く言葉に出来ない。たぶん、自分に対する言い訳だった。
「恋人とか、出来たの?」
「ンな暇あるか。
……
お前は」
「ポトスの売上を考えるのに精一杯」
「あっそ」
珍しくことはが色恋に言及するものだから、ついでとばかりにオレも聞いた。まだ誰もいないのだと安心して、それで、この日も何も伝えられなかった。ことはの質問の意図は、分からないまま。
それから数ヶ月、オレは一度もまこち町に帰らなかった。楡井と蘇枋にはオレの今住んでいる街まで来てもらって、他の面子とは旅行に行った。まこち町に帰らなくても、会いたい奴には大抵会えて、電子機器の発達している現代では連絡を取るのも容易かった。
さぼてんのパンは恋しかったし、団子も食いたかったし、たい焼きも久々に思い出した。だけど、その代替品が今の街には揃っていて、まあいいかと妥協も出来るようになっていた。
まこち町にはいつでも帰れる。オレがはじめて故郷だと思った場所は、今もまだそのまま存在している。ポトスでオムライスを食べて、コーヒーを飲むこともいつだって出来る。風鈴高校はいまだに不良校で、ボウフウリンも存続している。クラスメイトや先輩のいくらかはあの町に残っていて、招集がかかればどうせ皆まこち町に集まるのだ。
あの町が変わることなんて無いと思っていた。何もかもが十全で、オレは今の生活に挑むばかりで、そうしてそこでもある程度の安寧を手にしていた。それだから、慢心していたのかもしれない。いや、慢心なんかではない。変わらないものなんか無いと学んでいたのに、変わらないままを求めたのはオレだ。馬鹿だと笑われても仕方ない。もう、どうしようもない。
とても暑い日だった。そろそろ夏休みに入る時期。あと一ヶ月かそこらで楡井が成人するから、楡井だけ先に酒が解禁になる。それならば梅宮や椿野あたりに声をかけて、ちょっとしたパーティでも開けるような店を知らないかと聞く予定だった。蘇枋やオレが呑めるようになるまで解禁しないだとか抜かしてたけど、むしろオレとしては先に呑んで後から追いつくオレに色々教えてほしかった。
ことはもそういえば先に成人してたな、とふと思い出して、どうせならパーティを開くという口実で美味い酒の話でも聞いてみようか、なんて、滅多に打たないメッセージを打とうとしていた日。
家に帰ってきてから早々にシャワーを浴びて、ゴールデンタイムらしいバラエティ番組を流し見していたときに、その電話は掛かってきた。番組よりもスマートフォンに釘付けだったオレの目はその電話を取り逃がさない。
表示された名前は楡井で、メッセージもなしにかかってくるのは珍しいなと思いつつ通話ボタンをスライドする。
「もしもし」
当たり前の挨拶をしたつもりなのに、電話越しの相手からの返答はない。楡井? 名前を呼ぶと、よく分からない濁った声がいくらか流れて、もう一度呼んだら今度こそ楡井らしい声が聞こえてきた。
「桜さん、っ
……
おれ、なんて、言ったらいいか、っわかんなくて」
電話越しのノイズが酷い。これは楡井自身のせいなのか、それとも電波の問題か判別がつかなかった。ついでゴトンと何かが落ちたような鈍い音をマイクが拾い、そこでようやく原因は楡井なのだと特定できる。思わず溜息をつきたくなったがぐっと堪え、代わりに問うてみた。もしかしてもう酒でも飲んだんだろうか。いや、楡井に限ってそれはないだろう。となれば、非常事態か。
「おい楡井、大丈夫か。近くに誰かいねぇのか?」
いつもより腑抜けていそうな楡井に呼びかけてみるも反応は無い。一度切ってやろうかと思い始めたところで、ようやくマイクがまた音を拾った。
「桜」
見知った声だ。数年前、オレがまだ青臭かった頃にはよく高校の放送室から全校宛に流れていた声と似ている。素で聞くと華やかなのに、スピーカーを通すと途端に煩くなるこの声の持ち主は一人しか知らない。
「梅宮?」
珍しい。まさか楡井が梅宮と一緒だったとは思わず、呆けた声で相手の名を呼ぶと、電話越しの世界はシンと静まり返っている。時折梅宮以外の鋭い何かが声と共に漏れているくらいで、それが何の音かは分からなかった。とにもかくにも挨拶はするべきだろう。何を言うべきか逡巡してから、結局安直な言葉を紡ぐ。
「あー
……
久しぶり」
「ああ、本当に。
……
お前は元気か?」
「どうせ楡井から聞いてんだろ。なんも変わんねぇよ」
二言、三言の会話だけで分かる。何かがおかしい。高校の校内放送ですら煩かったあの梅宮の陽気さが無く、ただ空虚で、静かだった。本気で怒っている時とも違う。悲しんだり、共感している時の彼でもない。
とんでもない何かが起こっているのではないか。
じわじわと耳朶から不安が繁殖して、無意識に声を潜めた。
「なんかあったのか」
聞かなければ良かったと、いまだにあの日を後悔している。それか、もっと勿体ぶってくれたら。そうしたら、オレはどうしていたのか、全く想像できないが。
「ことはが亡くなった」
聞こえてきた言葉は、ひとつも理解できなかった。梅宮の放つ言葉の意味が分からない。
ことはがなくなった。『ことは』とは、橘ことはのことだろうか。『なくなった』には、どんな漢字を当て嵌めればいいのか。
それなのに、別のものが唐突にクリアになった。
あの音。あの、鋭く吸ったり吐いたりする音の正体。抑えられなかった息。ノイズのような、生きている人間だけが吐けるもの。
あれは、嗚咽だ。
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