雪の日は何だか普段とは違う特別な感じがするものだ。夜半から降り出したなら尚更そうで、目を覚ました時に、時が止まっているみたいな感覚がある。武道が六本木にある灰谷兄弟の家に泊まった日の翌日も、丁度そんな感じの朝を迎えていた。
キングサイズの蘭のベッドで目を覚ました武道は、何の物音もしない室内で、しばらく微睡んでいた。初めて泊まる部屋の天井は見慣れなくて、自分がどこにいるのか分からなくなり不安な気持ちになった。でも、すぐに近くで眠る蘭と竜胆の姿が目に入り、彼らの新居にいるのだと思い出してホッとしていた。
それにしても、部屋の中は恐ろしく静かで、武道はこの世界で自分しか起きていないのではないかと、SF映画みたいな想像をしてしまった。そして、カーテンのかかっていない窓の向こうが真っ白に見えて、一気に目を覚ました。灰色がかった雲から落ちるように降っているのは、雪だったのだ。クリスマス当日に雪が降った事に、武道のテンションは爆上がりした。
「蘭君、竜胆君、雪! 雪が降ってる!」
武道の両側で眠っている二人を、交互にゆさゆさと揺らしながら興奮して叫ぶ。
「ナニ?」
比較的寝起きの良い竜胆が目を覚まし、上体を起こしている武道を見上げてくる。
「雪っス! ほら、窓の外、真っ白ですよ?」
「へぇ…」
はしゃぐ武道とは反対に、竜胆は興味無さそうに返事をした。
「雪ですって! 竜胆君、なんでまた寝ちゃうんですか? 竜胆君ってば!」
既に眠り始めている竜胆を武道が慌てて揺さぶる。
「ナニ、騒いでんの?」
そこに、全く寝起きの良くない蘭の不機嫌な声が聞こえて、武道はどきりとして後ろを向く。蘭が起きるのはいつも昼前だ。窓の向こうの雪に興奮して、思わず蘭も揺り起こしてしまったが、こんな早い時間に起こしては怒られるかもしれないと、今更だけど武道は肩を竦めた。
「あ…蘭君…」
とりあえず謝ろうとした武道は、蘭に肩をぐいっと引っ張られて、あっという間に蘭の腕の中にすっぽり入っていた。武道の顔は蘭の胸元に押し付けられ、蘭の両腕は武道の背中にしっかり回された。下半身はといえば、蘭の長い脚に挟まれて全く動かせない状態だ。
「どーせ、まだ早いんだろ? 寝よ」
蘭はそう言って、武道のこめかみ辺りに唇を寄せてキスをしてくる。
「え? 蘭君、待って。雪ですってば」
何とか蘭の腕から逃れようと、武道が捕らえられた小動物のようにじたばた動く。
「アァ? 雪?」
ようやく、武道が何を言っているか聞こえた蘭が不機嫌な声を出した。
「外へ行きましょうよ!」
「ハァ? だりぃ…って…」
何を言い出すんだろうと蘭は呆れていた。早起きして雪を見る為だけに外に出るとか、あり得ないと蘭は呆れるしかない。
「蘭君、雪は嫌いですか?」
雪が好きか嫌いかといえば嫌いだった。寒いし路面が凍結してバイクに乗れないし、積もった雪に靴がはまるのも嫌いだった。しかも、そう云う時は大抵靴の中に雪が入ってきて冷たいのも、その雪が解けて靴下を濡らし、靴の中が気持ち悪くなるのも、ぞっとするほど蘭は大嫌いだった。
しかし、武道に面と向かって「嫌いだ」とは蘭は言えなかった。だから「別に」と、素っ気なく返事をするしかない。そんな武道と蘭の会話を、竜胆は眠ったふりをしながら聞いていたのだけれど、やっぱり蘭は武道に弱いのだと思っていた。そういう竜胆も、蘭に劣らず武道には弱かったのだけれど。
「じゃあ、早く着替えて外に行きましょう!」
満面の笑顔を浮かべる武道は何物にも代えがたく、灰谷兄弟の心を鷲掴みにしてしまう。勢いよくベッドから飛び降りた武道が「着替えてきます!」と、部屋を飛び出して行く背中を見送りながら、蘭は渋々起き上がった。
「竜胆、行くぞ」
当然のように声を掛けられて「ゲッ」と竜胆が声を上げた。
「起きてるの分かってた?」
「ったりまえだろ。あーかったりぃ。マジでありないんだけど」と、ぶつぶつと文句を言いながら、ウォークインクローゼットに向かう兄の後ろ姿を、竜胆は苦笑しながら見送り、次いで、着替えるために自分の部屋に向かった。部屋の時計はまだ七時を少し過ぎた頃で、こんな時間に蘭が起きるなんて、実際に見ても信じられないと竜胆は驚いていた。しかも、雪の降っている外に蘭を連れ出すのだ。
武道は自分がどれくらいすごい事をしているか知らないから余計凄いよなと、竜胆は感心するしかない。
「竜胆君、準備できました?」
竜胆の部屋の扉を開けて覗き込んでくる武道を見て、竜胆はぎょっとする。
「ちょっと待った。その服は止めろ」
「えー。格好良くないですか?」
武道は相変わらず恐ろしく趣味が悪い服を平然と身に着けていた。武道の部屋のウォークインクローゼットに、蘭と竜胆が見繕った服が置いてあるというのに、それに気が付かず、家から持参した服を着てしまったようだ。
「無いな」
「えー? マジっすか?」
どこが? と武道が不満そうに声を上げている。
「ちょっと待ってろ。今見てやるから」と、竜胆は盛大にため息をつき、午後は予定通りショッピングに行き、武道の服をもっと買い足そうと思ったのだった。
マンションのホテルのような玄関を出ると、辺り一面真っ白になっていた。停められた車も雪で覆われ、白い物体になっていた。
「うわぁ」と、武道は歓声を上げたが、付き添いのような兄弟は「さみぃ…」と呟いただけだった。そして、オレらはここにいるから、タケミチは遊んで来いよ」と蘭が言った。武道は少し寂しく思ったが、とりあえず真っ新な雪の上に自分の足跡を最初に残したくて、一人で歩いてみる事にした。
「あんまり、遠く行くなよ」
竜胆に声を掛けられた武道は「はーい」と元気良く返事をして、マンションの敷地内に飛び出して行った。足を踏み出す度に靴の底に雪が踏み固まるぎゅっという音がする。そして、六本木の街はまだ眠ったままで、武道しか動いているものがいない状態だ。車も走っておらず、鳥すら飛んでいなくて、白い雪の上にある足跡は、もれなく武道のものだった。あまりにもシンとしているから、一面の銀世界に、武道は一人きりのような気持ちになった。蘭も竜胆もいなくなった気がして、武道は慌てて振り返ると、マンションの玄関先で蘭と竜胆が自分の身体を抱きしめるように立っていた。興奮して歩き回って、上着が脱ぎたくなっている武道と違って、本当に寒そうにしている。同じ年ごろの子供なのに、蘭と竜胆が雪遊びしている姿が想像できなかった。実際、雪が目の前にあっても、二人とも全く興味が無さそうだ。段々申し訳ない気分になってきた武道は、蘭と竜胆が待っている場所に戻る事にした。
「どうした?」
思ったより武道が早く戻って来た事に、蘭は気がついた。
「もう、帰りましょうか」
武道がそう提案すると、蘭も竜胆も不思議そうな表情を浮かべて首をかしげる。その鼻の頭は寒さで赤く染まっている。
「まだ、遊び足りないんじゃないの?」
竜胆の言葉に武道は黙って首を振った。すると、べしゃっと額に雪の塊が当たったので、武道はびっくりしてしまった。顔を上げると、蘭がニヤニヤして次の雪玉を作っているのが見えた。すると、気がついた竜胆も素早く雪玉を作り、武道にぶつけて来たので、武道は慌てて逃げ出した。武道は二人から離れた先の大きな木の幹に隠れて、根元に積もった雪で雪玉を必死で作った。或る程度作ったら、今度は反撃を開始する。並んで立つ蘭と竜胆に向かって雪玉をぶつけると「うわっ」と蘭と竜胆が驚いた声を上げた。武道が続けて雪玉を投げると思っていなかったようだ。学校にもほとんど通っていない二人は、きっと雪合戦をした事が無いのだろう。そういう訳で、この勝負は珍しく武道の方が有利だった。武道は楽しくなって、笑いながら次から次へと雪玉を投げ続けた。その都度、蘭と竜胆が悲鳴を上げた。そして慣れた頃には、今度は武道が集中砲火に合う羽目になった。雪玉は三人の間を激しく行き交って、誰かにぶつかっては爆ぜるよりぱらぱらと散っていった。そうして粉になった雪が曇天から差してきた光を浴びて輝いて、雪の結晶になってキラキラと光りながら三人に降り続いた。
蘭がいて、竜胆がいて、自分がいて、皆で笑っている。それをとても幸せだと武道は思って、この光景を自分はきっと一生忘れないだろうと思った。
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