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しゅらま
2025-01-30 00:00:00
17753文字
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ꪔake you happy
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【朝菊】ꪔake you happy 5
アーサーと本田菊が幸せになる話
『親愛なる菊へ』
「誕生日?」
遡ること
…
ざっくり一年前。確か菊の誕生日騒動やら前の保護者事件やらが起こった後のこと。その日も河川敷でお散歩をしていた二人の間に、ふと誕生日の話題が上がった。今度はアーサーの。
「はい。そういえば聞いていなかったな、と思いまして」
菊からの問いかけに、アーサーのうさ耳がぴくりと揺れる。
相変わらず四つ葉のクローバーを見つけるのが得意なアーサーは、次々と摘んできては菊の掌の上に乗せるというのを繰り返していた。河川敷に着いて数分しか経っていないのに、お陰で菊の手元にはたくさんの緑で溢れかえっている。こんなに渡さなくても既に彼からは十分な量の幸福を貰っているのに。それがどうにも嬉しいような擽ったいような。溢れ出る喜びを噛み締めながら、このクローバーは押し花にして飾ろうと考える。
「生まれた日なんて気にしたこともなかったな。そもそも野生児だから知らないし」
「そうだったんですか
…
」
「ああ。仲間と一緒にいた時は同年代のヤツらと同じ日に祝ってもらってたけど、ここ数年はめっきり」
原因は分かりきっていた。思わず眉根を寄せる菊に、アーサーはもう一本クローバーを渡す。瑞々しくて、虫食いもなく、葉も均等な大きさで、まさに理想の四つ葉のクローバー。
「菊も祝ってくれるのか?」
「それはもちろん」
「そっか」
眼前で耳がピコピコと控えめに揺れていた。素っ気ない口調だし、目元も一見涼やかだけれど、彼の口元には隠しきれない喜びが滲んでいる。
そのちぐはぐな様がどうにも可愛らしくて、愛おしくて。こういうところが堪らないなぁと思うのだ。どんなに嫌な思いが胸中に渦巻いていても、アーサーの魔法にかかればすぐに幸せな気持ちで満たされていく。きゅうきゅうと胸が締め付けられて、心から溢れ出た幸福がつい口元に笑顔を象ってしまう。菊はすっかりアーサーに骨抜きにされてしまって、だけどそれがまた喜ばしかった。
「なら、12月24日がいい」
「クリスマスイブですか?」
「ん
……
まぁ理由は、その
…
言わなくても分かるだろ」
菊はぱちくりと目を瞬かせて、次いで柔らかな笑みを浮かべる。
「何となく。ですが、アーサーさんの口から直接教えてくださるのなら嬉しいです」
「
……
」
逃げ道を用意しているようで、その実残されてはいない。無意識か意識的にかは分からないが、菊のこういうところがずるくて、でもほんのちょっぴり好きだったりする。
アーサーは一瞬口を引き結んで、しばらく目を泳がせていたが、やがてもごもごと何やらを呟き始めた。
「
…
菊と出会った日だから。ずっと寝てたし、当日のことは俺はあんまり覚えてないけど。でもあの日、菊に拾って貰えたから俺は
……
ぅ、も、もういいだろ!」
「ふふ、はい。ありがとうございます」
寒さではなく、別の要因で赤く染まってしまった頬に菊の指が伸びる。手袋が嵌められた手は、数度アーサーの頬を撫でた後、頭の上に移動した。小麦色のふわふわの髪の上に、ぽつりと四つ葉のクローバーが置かれる。アーサーはそれを手に取って、真ん丸な目でじっと見つめた。
「それは私が自力で見つけたものです」
「菊が?」
「はい。私からのプレゼントです。アーサーさんと比べると少ないですが
…
」
「うれしい」
ぽつりと漏れたその言葉。ともすれば川のせせらぎの音に掻き消されてしまうのではというほどの大きさのその声には、確かに歓喜の色が滲んでいた。アーサーは顔を綻ばせながら、目元を優しく和らげて、何度も何度も呟いた。うれしい、うれしいと。
なんの変哲もない、ちっぽけな四つ葉のクローバー。そんなに喜ぶことでもないだろうに、アーサーはくふくふと幸福そうに笑って、目をきらきらと輝かせて、宝物のように掌で柔く抱きとめる。菊はなんだか擽ったいような気持ちを感じながら、彼の髪や耳をふわりと撫でた。
「当日、何か私にしてほしいことはありますか?」
「菊に
…
」
アーサーは少し考え込む素振りを見せた後、パッと顔を上げて、菊と目を合わせながら言った。
「菊と一緒にケーキ作りたい」
「
…
ケーキ作り、ですか?」
菊は少し狼狽した。言ってしまえばケーキ作りなんていつでも出来ることである。それこそ先日のメロンソーダのように
…
特別な日に限ってやるようなことではないのだ。しかも誕生日なんて美味しいものをたくさん食べ放題の日なのに、アーサーのためならどんな高級なものだって、有名店のものだって買ってくるのに
…
手作りのケーキ?
もちろん、アーサーの意思で成された提案なのだから否定するつもりは毛頭ない。ただ不思議なだけなのだ。
「昔、仲間といたときにやってたことなんだ」
そんな菊の疑問に答えるようにアーサーは言った。みどりの瞳はどこか遠くを見据えていて、表情にはほんの僅かに哀愁が滲んでいるように思えた。
「そんな大層なことはやってないけどな。ただその日は
…
いつもよりたくさんの森の木の実とか使って、少しだけ贅沢したりしてたんだ」
「
…
そうだったんですね」
「
…
あ、別に寂しいとか思ってるわけじゃないぞ。アイツに拾われたのは自立した後だったし、ちゃんと別れも済ませてる。そもそも群れの中じゃ俺は浮いてる方だったからな。元々一人の方が性に合うんだ」
またもや足元にあった四つ葉のクローバーを見つけたアーサーがぷちりと茎を折って、拾い上げ、そして中腰の姿勢でぴたりと固まった。菊が疑問に思う間もなく、アーサーは勢いよく顔を上げる。
「ちが
…
!別に菊と一緒にいるのが嫌ってわけじゃなくて、確かにひとりは気が楽だけど、寂しいし、でも菊は俺の心を大事にしてくれるから
……
」
「ふふ、はい。分かっていますよ」
「
……
」
少しだけ拗ねたような顔をするアーサーに、菊はまたくふくふと笑う。
「うさぎさんは寂しいと死んでしまいますからね」
「
…
なんだそれ?」
「日本の都市伝説みたいなものです」
「ふーん
……
」
「怖いですか?」
「俺が寂しい思いをする暇なんて菊は与えてくれないだろ。だから怖くない」
今度はシロツメクサを摘みながら、なんてことないようにアーサーは言った。実際ケロッとした表情で手を動かし続けているので、彼は今の発言を特に何とも思っていないのだろう。
その何気ないアーサーの言葉が、菊は嬉しかったりする。彼からの確かな信頼が垣間見えたようで、ふわふわと心が浮き足立って、喜ばしくて。堪えきれなかった笑みを口元に浮かべながら、菊もまたシロツメクサを摘んだ。
「別に仲間に会いたいとも寂しいとも思わない。俺には家族がいるから
…
。けど、故郷を懐かしいって思う気持ちはある。いつか菊と一緒に行けたらいいな」
「ええ、ぜひ」
くるりと輪っかになったシロツメクサの茎。菊はアーサーを呼び寄せると、彼の右手の小指に小さな指輪をはめた。小ぶりな白い蕾がぷっくりと膨らんで、柔らかな笑顔を見せている。
呆気にとられているアーサーの前に、すらりとした小指が立てられる。言わずもがな菊の小指だ。
「そのときはアーサーさんが案内してくださいね。約束です」
「
…
ああ、約束」
小ぶりの指輪が着けられた小指に、絡められた彼の指。
心がむずむずして、ぎゅっと胸が締め付けられて、だけどそれを表情に出すのも恥ずかしいから、緩まないように唇を引き結んだ。
人間との触れ合いがこんなにも満ち足りた気持ちにしてくれることなんて、前までちっともなかったのに。菊と触れ合う時はいつだってこうなってしまう。恥ずかしい感情のままに走り出したくなってしまう。別に菊に指輪を貰えたからこんな感覚になってるんじゃない。今が特別なんかじゃない。ずっとこうなんだ。菊の傍にいるだけで幸福なのに、触れ合いまでしてしまったら。どうにかなってしまいそうだった。
頬を朱色に染めるアーサーを見て、菊は穏やかに微笑む。そのまま彼を抱き上げて、額と額とを合わせて、同時に目も見合わせた。翠玉と黒真珠の視線が交わって、互いに熱を伝え合う。
「アーサーさんが死なないためにも、とびきりの誕生日にしないといけませんね。ケーキ作りは勿論、誕生日プレゼントも
…
」
「
…
プレゼントはそんな大層なもんじゃなくていいからな」
「いえ、でも
…
」
「というか駄目だ。やめてくれ。菊の気持ちは嬉しいけど、俺はお金持ってないし、返せないから。菊は良くても俺が萎縮しちまう」
「ええ
…
そう、ですよね
……
」
「
…
駄目だからな!」
そして時は経って、約一年後。
ぴかぴかと眩しい色とりどりのイルミネーションと、何を言っているのかてんで分からない洋楽が賑やかな街並みを満たしている。何やら街が妙に浮かれ気分になっているな、と一瞬考えて、しかし菊はすぐに答えに辿り着いた。今日から12月に入ったからだった。
12月といえば人の心を浮つかせるものが幾つかある。クリスマスだったり、大晦日だったり、学生でいえば冬休みだったり。どこか物寂しい雰囲気を漂わせていた先月から、一気に浮き足立ち始める、この一年の節目という時期。先程挙げられた行事に加えて、菊にはもうひとつ特別な催し物が予定されていた。
「誕生日プレゼントは何にしましょうか
…
」
クリスマス用に並べられた品物たちに、相手側の意図とは違う視線を寄越しながら、菊はぽつりと呟いた。12月24日──世間ではクリスマスイブだのカップルがイチャつく聖なる夜だのと持て囃されるこの日は、しかし菊にとってはそうではない。その日は、他でもないアーサーの誕生日なのだ。
しかし誕生日プレゼントはアーサーによって事前に制限されていた。それが菊をどうにも悩ませた。
『大層なプレゼント』の定義って、どれくらいでしょうか
…
どこまでの金額なら許してくれるでしょうか。千円はギリギリアウト? いっそのことアーサーさんの故郷へ
…
でも仕事が忙しくて時間が取れませんし
…
悶々と考え続け、しかし答えは出てくれない。栞なら許してくれるだろうか、と思考を巡らせていた菊の視界の端に、ふとあるものが映り込んだ。
「あ、」
「ただいま帰りました」
「おかえり」
リビングからひょっこりと覗くふわふわのうさ耳と、グリーンの瞳。愛くるしいその姿を見る度に、菊の心は温かなもので満たされる。それは出会いから一年が経とうとしている今も変わらない。
「菊。それなんだ?」
リビングに入って、鞄を椅子に置いたとき。アーサーが投げかけたのはちょっとした疑問だった。仕事の鞄とは別で、菊が持っていた茶色の紙袋。縦長でそれなりに大きいように見えるが、持ち主の様子からしてそこまで重いものが入っているわけではなさそうだ。
そして当の菊は「待ってました」と言わんばかりに目を輝かせ、何やらご機嫌に意味深な笑い声を零す。フフフ、アーサーさん、見つけてしまいましたか
…
、なんて冗談めかして。菊が変にテンションが高くなるのは今に始まったことじゃない。アーサーは少々訝しげな目線を寄越しつつ、でもちょっとの好奇心をその瞳に滲ませながら、菊の続きの言葉を待っていた。
「こちらをご覧ください」
「
……
? 家?」
菊が袋から取り出してテーブルの上に置いたのは、木製の純白の家だった。家と言ってももちろん本物などではなく、どこにでもあるような玩具の代物。掌三枚ほど(※うさぎさん換算)の高さで、そこまで大きいわけでもない。普通の玩具と異なると見られる点はただ一つ。縦に真ん中に切れ目が入っているということだった。
「開けてみてください」
「? うん」
ぱか、と恐る恐る開ける。
果たして中にあったのは、数字の刻まれた小ぶりな引き出したちだった。引き出しには1から24までの数字が一つずつ金色で記されている。
アーサーもこれには見覚えがあった。直接見たことがあるわけじゃないが、ニュース番組で取り上げられていたのを見かけた記憶がある。名前は、確か
……
「アドベントカレンダー?」
「正解です」
菊はにっこりと笑んだ。
アドベントカレンダー。クリスマスまでの24日間をカレンダー形式で数えていくという代物で、引き出しの中にはお菓子や雑貨などが入れられていることが多いらしい。
「少し早いですが、誕生日プレゼントです。これならお金もあまりかかりませんし、私も中身を知らないから、一緒に楽しんで日付を数えられると思いまして
……
駄目でしたか?」
「駄目じゃない」
ふるふると首を横に振るアーサーの視線はずっとおもちゃの家に注がれている。太陽もびっくりのとても熱い眼差しだ。小さな指先は家に触れたり離れたりを繰り返し、心做しかみどりの瞳には星が舞っているようにも見える。菊はゆるりと微笑みを零し、夢中になっている様子の彼に声をかけた。
「よかった。では早速今日の分を開けてみましょうか」
今日は1日だから、「1」の数字が書かれたボックスを開ける日だ。アーサーの指が伸び、指定の箱をカコンと取り出す。2人揃って上から覗き込めば、透明な包み紙にくるまれた真四角のチョコがひとつ、ころんと中に転がっていた。今日のご褒美はとびきり甘いチョコらしい。
隣のアーサーが窺うような視線を寄越してきたので、菊は目元を和らげながら「どうぞ」と言葉を口にする。当人はぱちくりと目を一度瞬かせたが、促されるままにパキパキとした包み紙からお菓子を取り出し、ポイッと口に放り込んだ。
「ん
…
美味しい」
「それならよかったです。明日の分は何が入ってるんでしょうか
…
飴とか? 今から楽しみですね」
「うん。でも明日は菊が食べてくれ」
「私が?」
今度は菊が目をぱちぱちとさせる番だった。
言わずもがなこれはアーサーへのプレゼントであるため、菊が一日のご褒美を貰う理由はないし、彼なりの親切心から来るものだとしても、菊としてはどうせならアーサーに堪能してほしかった。
「美味しいものは一緒に食べた方がいいだろ」
けれど、その気持ちが嬉しいのもまた事実。
「
…
ではお言葉に甘えて。ありがとうございます」
「ん」
正直、アーサーにとっては「菊が作るもの」以外の食べ物はどれもどうだっていい。関心がない。菊は「俺は甘いものが好き」だの何だのと変に勘違いしているようだが、お腹を壊さなければなんだっていいのだ。だからどうせなら味の善し悪しが分かる菊に楽しんでほしかった。大好きなスイーツを食べられる菊も、美味しいって言って貰える作り手も、菊の笑顔を見られる俺も。その方が皆嬉しい気持ちになれるから。
しかしそんなアーサーの考えを知る由もない菊は、アーサーの献身が少し寂しいような、けれども矢張り喜ばしいような
…
という何とも言えぬ心情だ──まぁ、余分に受け取った分はまたプレゼントとして返そう。本田菊は切り替えのできる男だった。
切り替えはできるけれど。
「
…
これ、は」
「
……
」
咄嗟のことには少し弱い。
ダイニングテーブルの隅にちょこんと置かれた、白い封筒。ついこの前の出来事が一瞬頭を過ぎり、必死にその記憶を頭から追い出しながら、その郵便物を手に取る。
結果は何の変哲もないただの書類だった。
菊はひっそりと息を吐き、封筒をテーブルの上に置き直して、すぐにいつもの表情を取り繕った。「早速夕飯にしましょうか。今日はラタトゥイユなんですよ」、軽やかな足取りで台所に向かう菊の背を、アーサーはじっと見つめていた。
普通は気づかないであろうほどの小さな手の震えを、僅かな顔の強ばりを、微かに滲んだ「恐れ」をすぐさまひた隠しにしようとした菊の変化を、彼は確かに感じとっていた。
「
……
菊」
俺にしかできないことはなんだろうって、あの日からずっと考えてるんだ。どうしたらお前の心の重荷を取ってやれるかな。菊の不幸を防ぐことが出来るかな。ぐるぐるぐるぐる考えて、だけど答えは出ないまま。出口のない問いだけがずっと頭の中に転がっている。熱意だけをずっと持て余している。
なぁ、菊。俺もお前のためになりたい。特別なことがしたい。でもそれが何か分かんないんだ。悔しい、もどかしい。俺は結局何も出来ないんじゃないか。
そんなとき、ふと目に留まったのはあるものだった。ひとつの案が思い浮かんで、上手くいくのか分からなくて不安になって。でも動かないと何も始まらないから。
*
『
12月1日
親愛なる菊へ。
こんなのが入っててビックリしたよな。驚かせてごめん。でも俺にできることは何かって考えた時、これくらいしか思い浮かばなかったから。どうか許してほしい。
菊はいつも俺に色んなものをくれるだろ。本を買ってくれたり、お菓子をくれたり。特別なプレゼントじゃなくても、毎日ご飯を作ってくれたり、掃除してくれたりする。いつも貰ってばっかりなんだ。だからクリスマスくらいは何かしたいって思って、今日菊が買ってきてくれたやつを見て、これなら俺にもできるんじゃないかって思ったんだ。
名付けて、アドベントレター。
俺がその日の出来事を書いて、次の日こっそり菊のカバンに忍ばせる。だからこれが上手くいってれば、今の俺にとっての翌日、つまり2日にこの手紙を菊が読んでるはずだ。これをクリスマスイブまで続ける。
菊がくれたあの小さな家に比べたら、俺のこの手紙なんてすごくちっぽけで情けないものだけど、菊のことだからこんなものでも喜んでくれるって信じてる。それに手紙だったら本音も恥ずかしがらずに言えるだろうし
…
まぁ、できるだけ頑張るよ。
それじゃあ、これから今日の出来事を書く。ただここまででたくさん書いちまったし、あんまり長くなりすぎても悪いから、今回の分は端的に書いておく。
今日は菊がアドベントカレンダーを買ってきてくれた。そんでご褒美はチョコだった。味は
…
言っちゃ悪いが、あんまりよく分からなかったな。
あのさ、ずっと勘違いさせてたけど。実は俺甘いものが好きなわけじゃないんだ。俺が好きなのは「菊の作る食べ物」と「菊と一緒に食べる物」だけ。甘いものは菊と一緒に食べる機会が多いからそういう風に勘違いさせちまったんだと思う。今まで辛かったってわけでは断じてないけど、俺一人で食べるくらいならどうせなら菊に味わってほしいから、今度からは菊が食べてくれ。
俺は舌が馬鹿だ。超馬鹿舌。どれが美味しいとかよく分からないし、お腹壊さなけりゃ何だって同じだって、そう思ってた
……
今までは。
菊。お前の料理に出会ってからは違う。菊のご飯はどれも温かくて、ほんのり甘くて、優しい味がする。お前の料理はどれも美味しいって思える。菊が「美味しいですね」って柔らかく笑うから、俺もそう思える。食事を楽しいことだって思えるようになったのは菊のお陰だ。ありがとう。
…
やっぱり手紙の力って偉大だな。こんなこと、口頭じゃ死んでも言えない
』
「本田さん?どうしたんですか?」
「いえ
…
大丈夫です、すみません」
どくどくと鼓動がうるさくて、眦に溜まった涙をどうにか零さないようにすることで必死だった。会社で泣くなんて初めてだった。
会社に着いて、鞄を開けた時。覚えのない白の便箋が入っているのを見て心臓が止まるかと思った。あのときの出来事は、もしかしたらアーサーを巻き込んでいたかもしれないという恐れは、菊の心に深く刻まれていた。
震える手で開けると、アーサーお手製の手紙が中に入っていた。子供らしいちょっと崩れた文字で、漢字も少し不格好。けれど、きっと。辞書やスマホで一生懸命調べながら書いたのだろう。その努力と、優しさと、愛と。全てが嬉しくて、感極まって、どうにも心が揺さぶられてたまらなかった。
ああ、でも。物申したいことがひとつある。
『p.s:恥ずかしいからこの手紙のことは直接俺に話さないように』
この感情を帰っても伝えられないなんて、そんなのあんまりだ!
*
『
12月2日
約束を守らない菊へ。手紙のことを話さないようにって書いたのに、帰ってすぐさま俺を抱きしめてきた菊へ。話してないから約束を破ってないなんて屁理屈並べた菊へ。ハグも禁止。
今日は本を読んだ。菊が買ってきた本。シャーロック・ホームズ、緋色の研究ってやつ。これも確か俺の名前の由来なんだよな? この本の著者の名前は「アーサー・コナン・ドイル」だからって。「うさぎさんは勇敢な上に聡明でいらっしゃるから、きっとこの名前が似合います」って言ってたもんな。確かに中々に悪くなかった。登場人物の言葉の節々に故郷の懐かしさも感じたし、ミステリー小説なんて読んだことなかったけど、トリックもまぁまぁだったし。本棚に閉まってあった続きも、まぁ読んでやってもいいな。
俺は菊からもらったこの名前を気に入ってる。かっこいいし、お前に名付けてもらったし、何より菊と家族になれた証みたいなもんだから。前までは名前に頓着してなかったし、何なら嫌いなまであったけど、今は菊に呼びかけられる度に心が浮き足立ったりする。この擽ったさも、温かさも、全部菊に出会えてから知ったものだ。ありがとう。
あのアーサー王みたいに、信念を貫けるような、かっこいいやつになりたい。この名に恥じない男になれるように頑張るよ。
』
『
12月5日
失敗した。
今日はお盆を割ってしまった。木製のやつを棚から落としちまって、それはもう綺麗に真っ二つに割れた。菊が帰ってくるまで怖くて仕方なかった。「怒られるかも」「出ていけって言われるかも」って、嫌な考えが止まらなくて。今思えば菊がそんなこと言うはずないし、そんな失礼なこと考えてたそのときの俺を今すぐにでもぶん殴りたい気持ちだけど(あ、コレ解釈違いって言うんだろ)、でもそのときは「どうしよう」って気持ちで頭がいっぱいで仕方なかったんだ。許してくれ。
で、帰ってきてそのことを報告された菊は。真っ先に俺の怪我を確認して、安心したように笑って、それから件のお盆を見て大笑いしてたよな。「こんな綺麗に割れることあるんですね」って、すごく笑って。おまけにスマホで写真まで撮ってさ。それで拍子抜けした。安心して、それから「割ってよかった」って気持ちも出てきちまって。
いや、これは語弊がある。反省してないってわけじゃない。菊に迷惑かけたのは事実だからな。でも菊が笑ってくれたから、こういう失敗も悪くないなって思ったんだ。前までは失敗がすごく嫌いで、まぁ今も嫌いなのは変わりないけど、失敗にも価値はあるって思えるようになってきたんだ。別に高尚な精神からじゃない。俺の失敗を見ると菊が笑顔になってくれるから──ううん、これもなんか語弊があるな。菊がすごく悪い奴みたいに聞こえる。
菊が笑って許してくれるから。まぁいいやって思えるんだ。俺は菊の笑顔が好きだから。柔らかい笑顔が好きだから、俺の失敗で少しでも菊に笑顔を届けられるなら悪くない。
…
やっぱり菊が嫌味なやつみたいに聞こえちまうな。
』
『
12月11日
今日は散歩の途中で久しぶりにアホ毛にあった。繁忙期だってすごくぐったりしてたな
…
忙しいのにほっつき歩いてていいのか? まぁ息抜きも大事なんだろう。それで締切が間に合わなかったとしても自己責任だしな。
それから何故か河川敷で四つ葉のクローバー探しの競争が始まった。正直この分野じゃかなり長けてるという自負はあったんだが、あのアホ毛も中々やる。まぁ当たり前に俺が勝利したわけだけど、かなりギリギリだったし、これからもっと腕を磨く必要があるな。
それで、菊はあんまり見つけられてなかった。俺とアホ毛の四つ葉の量を見てビックリして、少しだけ落ち込んで、俺がクローバーを上げるとすごく喜んでた。もう何十回もあげてるのに、毎回「今初めて貰いました」みたいなテンションでお前は喜ぶよな。いい加減慣れろよって思うけど
…
まぁ、慣れとかそういう問題じゃないんだろうな。菊の反応を見て俺が嬉しいのも事実だし。
菊は俺がすることを全部受け止めてくれる。成功でも、失敗でも、全部笑顔で受け入れてくれる。天邪鬼な俺の言葉でさえも蔑ろにしないし、それどころかひとつひとつを愛してくれて、俺が本音を口にしやすいようにもしてくれて。俺がやりやすいように導線を引いてくれて、でも決して無理強いはしない。俺が本気で嫌がることは絶対にしない。そういうところが好きだ。菊の傍にいると居心地がいい。安心して、微睡んでしまうんだ。
』
『
12月17日
今日は快晴。布団を干した。
干してる間に菊と一緒にクッキーも作った。オーブンが上手く動くかの確認をするためって菊は言ってたけど、まぁ菊のことだから本音は「クッキー食べたい」とかだったんだろう。
ホットケーキミックスと、卵と、牛乳を混ぜて。生地を伸ばして。それから菊が取り出したのは兎の型抜きだった。してやったりみたいな顔で取り出してきたもんだからちょっとムカついた。
それからシートの上に乗せて、オーブンに入れて、十数分くらい待って。オーブンからいい匂いがする頃合に2人でクッキーの様子を覗いて、焦げかけてたもんだから慌てて取り出して。何ともまぁ不格好なことに、兎の耳の先端は他より色が濃かったな。焦げるまではいかなかったし、普通に美味しかったけどさ
…
出来たてのクッキーってあんなに美味しいんだな。舌を火傷しそうにはなったけど、また食べてみたい。
それからクッキーを食べて、ちょっと休憩したあとに2人がかりで布団を取り込んだ。そして行儀の悪いことに菊がすぐさま布団に飛び込んた。しかも俺を道連れにして。
干したてのシーツや枕は、冷気でひんやりと冷たくて、でもぽかぽかと太陽の匂いがした。そこにクッキーの香りが混じって、温かくて甘い匂いのする布団の出来上がり。せっかく干したのに、あーあって悪態をつこうとしたけど、あながちこういう香りも嫌いじゃなくて、結局言わなかった。いつもの柔軟剤の匂いも好きだけど、こういう菊との思い出が詰まったやつも、まぁ悪かない。
来週からまた一段と寒くなるらしい。クリスマスには雪が降るんじゃないかって噂だ。菊も風邪には気をつけろよ。
』
『
12月20日
今日は手紙を菊の鞄に入れ忘れた。恥ずかしかったけど、約束を破るのも悪いと思って、白い便箋を直接菊に渡した。
それでさ、菊。お前どんな顔したか知ってるか? これ以上ないほどの満面の笑みだよ。「ありがとうございます」って、満開の桜みたいに笑ったんだ。鏡があったら見せてやりたかったくらいだ。それがどうにも嬉しくて
…
やっと分かった気がする。散々遠回りしたけど、ようやく分かった。俺がお前のためにできること。
』
*
「アーサーさん」
低く甘い声がまどろみの中からアーサーの意識を引き上げる。数度瞬きをして、ぼんやりと眩しい光に目を慣れさせると、ベッドの横脇にいた菊と目が合った。彼は顔を柔らかく綻ばせてからアーサーに顔を近づけると、額に優しく口付けを落とした。
「お誕生日おめでとうございます」
「
…
ありがとう」
俺だけの誕生日。俺だけの祝福の言葉。
菊から注がれるものがどうにも嬉しくて、カーテンから零れる白い光も祝福しているようで、擽ったくて。誤魔化すように口をキュッと引き結んだ。
ベッドから体を起こし、菊と連れ立ってリビングへ向かう。暖房の入っている部屋はぽかぽかと温かく、ダイニングテーブルには既に朝食が用意されている。トースト、目玉焼き、ベーコン、ウインナー、それからコーヒー。目玉焼きは半熟で、トーストはサクサク、ベーコンもカリカリ。いつも通りの朝食だけど、やっぱり菊の作るご飯はとても美味しかった。
誕生日だからって特に何かするわけじゃない。何やら菊はたくさん祝いたそうだったけど、あんまりにも大仰な祝福は俺もどう反応すればいいか分からないから、抑えてもらうように頼んでおいた。菊は不満げだった。
「
…
部屋の飾りつけは?」
「駄目だ。そもそもそれって日本で一般的なのか?」
「
…
あまり、しませんけど」
「尚更駄目だ」
「そんな
…
」
菊はしょんぼりしていた。
でも何もしないかって言われるとそうでもない。
「やりましょう、アーサーさん!」
袖を捲り上げて準備万端の菊が張り切った様子で言った。
俺の誕生日の本番は午後から。およそ一年前から約束していたケーキ作りをするのだ。
砂糖、卵、薄力粉、バター、イチゴ、その他諸々。材料は既に揃っている。あとは混ぜたり焼いたり飾り付けしたりするだけだ──まぁそれが大変なのだけれど。
まずは砂糖や薄力粉を量る。確か砂糖が60g
…
「菊」
「どうしました?」
「クッキーのときも思ったけど
…
ケーキってこんなに砂糖入ってるのか」
「
…
」
小皿の上に乗っかる山盛りの砂糖。菊はしばし無言でそれを眺めていたが、すぐににっこりと笑って、砂糖を豪快にボウルの中に入れた。
「また後日運動しましょうね」
「
…
菊、ずっとそれ言い続けて結局してないだろ」
そんな一悶着もありつつ。
全卵と砂糖を入れて、ハンドミキサーで豪快に混ぜて(勢いがすごくてビックリした)。それから振るった小麦粉を入れて、また混ぜて。溶かしバターと蜂蜜を入れて、さらに混ぜて。一生分の混ぜ作業を行ったんじゃないかって思う頃に、ようやくスポンジケーキの生地が完成した。そのまま型に流し込んで、オーブンの中に突っ込む。飾り付け用の生クリームは買ってあるから、ここで少し休憩を挟む。
「アーサーさん、お料理が上手になりましたね」
「
…
そうか?」
「ええ。前までは調味料をあちらこちらに零して
…
メロンソーダのときも」
「菊」
「ふふ、ごめんなさい」
今日の主役はアーサーだ。主役が嫌がることはもちろんしない。
アーサーは菊の言い分にちょっと拗ねる素振りを見せたが、しかし確かにな、と密かに納得する。初期はあっちこっちに材料を飛ばしまくりだったのが、今は
…
まぁ、多少汚れてはいるけれど。マシにはなった。
そりゃそうだ。菊の出会いから今日で一年が経って、彼と料理をするようになってから半年以上は経過している。むしろ上達しない方がおかしい。
料理って楽しいんだよな、とアーサーは思う。
楽しいから半年以上も続けられた。継続が苦ではなかった。その喜びを知ったのは菊と出会ってからで、そもそも楽しさを味わえるようになったのも菊のお陰で。
「(ちゃんと伝えなきゃな)」
どれだけ天邪鬼でも、本音を言うのが苦手でも。今日という日くらいは。だってこの日は俺の誕生日である以前に、そもそも菊が俺を拾ってくれた日でもあるのだから。
「菊。ちょっといいか?」
さて、スポンジ生地があと数分ほどで焼き上がるといった頃合。寝室に姿を消していたアーサーが、リビングのソファに座っていた菊に声をかけてきた。
菊は穏やかに返事をして立ち上がろうとするが、彼の目の前に立ったアーサーがそれを制する。そしてちょっと咳払いをして、居住まいを正してから言った。
「今日の分のアドベントレター
…
これで最後だ」
「ええ、ありがとうございます。後で読ませていただいて
…
」
「いや。今日は俺が読み上げるから」
「え」
ぴたり、と菊が動きを止めた。手紙を受け取るために伸ばしかけた手が中途半端に宙を彷徨い、やがて菊の元へ戻る。自分のことで手一杯なアーサーは、菊が目を真ん丸にしているのも放って、頬をほんのり赤らめながら読み上げ始めた。
「『
12月23日。
今日はなんにもなかった。だからいい日だ。
…
ビックリしたか? 何にもなかったからいい日って。ちょっと変だって思うよな。俺も初めてこの言葉を聞いたらきっとそう感じると思う。でもさ、これには理由があるんだ。
俺は、平凡な日は当たり前じゃなくって、ある日途方もない不運にあって、突然消えてしまうことを知ってる。貴重だって知ってる。だから、このなんでもない日々が続いたのは良い事だ。菊と何気ない日々を過ごせることは、何よりもかけがえのないことだ。
平凡な日々にありがとうって、楽しいって。こういうことをもう一度思えるようになったのは菊のお陰だ。日常を取り戻して、それからそう思う余地と幸せを与えてくれた、菊のお陰なんだ。ありがとう。
そんな菊の力になりたいと思った。特別なことがしたいって思った。俺にしかできないことを見つけたいって思った。
でも
…
菊だってクローバーを見つけられるし。俺だからこそできることって、あったとしてもきっと限りなく少なくて。そのことに散々悩んで
…
でも、原点に立ち返ってみた時、大事なのは俺だからこそできることじゃなかったんだ。』」
アーサーは手紙から顔を上げた。用意してきた言葉はここまでだった。
一歩進んで、俯く菊へ歩み寄る。そして膝の上に置かれた彼の手を取った。少しだけ濡れていた。
「俺が何よりもしたいのは菊を幸せにすることだった。俺にしかできないことを探すのに時間を割くくらいなら、今俺ができることをして菊を幸せにしようって思ったんだ。
俺は体が小さくて、できることが少ないから、菊を不幸なことから守ってやることは出来ない。でもその小さな傷を
…
少しの幸せな思い出に変えることはできるみたいだから」
白い便箋はすでに幸せの象徴に変わっている。
「俺は俺の方法で菊を幸せにしたい。これからもずっと。だからずっと一緒にいたい
…
菊」
俺は、今なら。お前に胸を張れる自分に少しだけなれたから。だから。「隠し事は悲しい」って寂しげな表情をしていた菊を、笑顔にするためにも。
「すきだ」
隠し事を伝えるよ。
菊は俯いたままでいたが、暫くすると無言で両手を広げた。それがなんだかおかしくって、アーサーはちょっぴり笑いながら、その腕の中に飛び込んだ。
「泣き虫」
「
…
アーサーさんに言われたくないです
…
」
涙を流す菊がアーサーの肩口に顔を埋めているせいで、衣服がどんどん湿っていく。在りし日とはまさに真逆だ。
「私もすきです。アーサーさんのことがだいすき
…
最期まで、ずっと一緒です」
「言ったな? 俺より先に死ぬなよ。天使だって殺してやる」
菊の「すき」は、やっぱりアーサーの求めているものとは違っていた。そして菊もきっと”分かっている”上でそうしたのだろう。でもアーサーはそれが全然辛くない。それどころか、今この瞬間をこの上なく幸福に感じる。
「菊、ありがとう」
この感情に出会えてよかった。菊に出会えてよかった。ただただ今は満たされている。
こんなにも幸福だったら、いつか罰を受けるんじゃないかって前から思ってた。来るかも分からない恐怖に怯えてた。でも今はそれでもいい。一秒でも長く菊と一緒にいられるなら、こうして抱き合えるのならそれでいい。
ぎゅうぎゅうと抱き締めあって、菊の腕の力強さが少し可笑しくて
…
しかしそこで、何やら嫌な匂いが鼻をかすめた。アーサーの鼻先がひくりと動く。
「なぁ
…
なんか焦げ臭くないか?」
「
…
も、もしかして」
思い当たることはひとつしかない。2人は揃ってキッチンへ向かって、オーブンを開けて──そして案の定、真っ黒焦げなスポンジケーキがそこにあった。
菊が顔を覆い、「あああ」と何やら悲鳴を上げながらその場に崩れ落ちた。アーサーが菊の顔を覗こうとしても決して顔を見せようとしない。本気で落ち込んでいるらしかった。
「ごめんなさい。せっかくの誕生日なのに
…
泣いたり、焦がしたり
…
なんて情けない
…
」
「
…
菊」
ぱちくりと瞬きをしたアーサーは、次いで首を傾げた。情けないなんて、そんなことを思う必要は微塵もないのに。しかし大人の威厳とやらがズタズタにされてしまっただろう今の菊には、ただの言葉を伝えたとして何も響かないだろう。
アーサーはウンウン唸って、そしてピコーンとひとつの案を思いつく。けれどもそれを成すには自分一人の力だけでは足りなかった。
「菊、ケーキ取ってくれ。それから切って」
「いえ、でも
…
」
「いいから」
「はい
…
」
顔を上げた菊は今にも死にそうな表情をしていた。張り切っていた分、失敗が余程胸に響いたのだろう。
そのまま彼はよろよろと立ち上がり、のろのろとケーキを取り出し、ふらふらとした手つきで包丁を手に取った。正直指を切るんじゃないかってとても心配だった。本当は自分でやりたかったけれど、包丁の使用は禁止されているため、やきもきした気持ちのまま見守るしかなかった。
しかしさすが菊と言うべきか、綺麗な六等分のケーキが出てきて、無事アーサーの杞憂に終わった。踏み台の上に乗ってそのうちのひとつを皿に取り分けたアーサーは、クリームをたっぷり絞り出し、それから一口パクリと食べた。
「!?? アーサーさん!?」
「ん、中々悪くないぞ」
「そんなわけ
…
」
「『失敗や嫌な出来事を、2人ならまぁいいやって思える』
…
俺も今そう思ってるよ」
フォークでもう一掬いすると、アーサーは呆気に取られている菊の目の前にずいっと差し出す。菊はただ促されるままに黒焦げのケーキを食べて、もぐもぐと咀嚼して──それから柔らかく破顔した。
「苦いですね」
「ああ。でも
…
今度焦げたものを食べた時、きっと今日を思い出すだろ? そう思うと悪くない」
「ええ
…
ええ、そうですね」
失敗の記憶も全て未来の糧になる。菊は温かな視線をケーキに注いだ後、もう一口放り込んだ。そしてもう一度「苦い」と。
「願うことなら焦げたものはもう食べたくないですけどね」
「そんな事言うなよ」
拗ねたような口調でありながら、アーサーはくふくふと笑って言った。
「失敗の記憶まで菊と一緒にいれて嬉しいよ」
2人で黒焦げケーキを完食した後、最後のアドベントカレンダーを一緒に開けた。「24」の箱に入っていたのは矢張りチョコで。でも今回は小ぶりなものが二つ入っていて。口の中の苦味を消すために2人して放り込んだけれど、味覚が変になってしまったのか、焦げたケーキが恋しく感じて。それは双方同じだったのか、顔を見合せて。そして2人して笑った。
焦げたケーキも、土砂降りの雨も、じくじくと痛んで止まない傷も。どんなに情けない失敗や嫌な出来事も、ぜんぶ宝物のような思い出になる。全て貴方と一緒なら。
*
『
12月24日
ずっと暗闇の中にいたんだ。
照明もなく、窓から差し込む光さえない、狭く暗い部屋の隅で、俺はいつも縮まっていた。息を潜めて、イチャモン付けられないように震える耳を手で抑えて、だけど手も震えてるもんだから正直あんまり意味なくて。いつ手が伸びてきてもいいように、部屋の中心には背を向けて、ぎゅうっと目を瞑っていた。
夕方だけが俺の支えだった。安心出来る時間だった。一応夜もあいつはいなかったけど、キツイ香水の匂いと一緒に、よく女を連れて帰ってくるから気は抜けなかった。夕方になったらキッチンに行って、冷蔵庫を漁って、一日分の栄養を貪っていた。ただ無闇に食べると面倒くさい目に遭うから、表示された日付を超えてる食品だけ選んでた。そんで、しょっちゅうお腹が痛くなって。薬なんてあるはずなくて、トイレに行っても治んないし。でもあいつが帰ってきたらトイレに閉じこもってる訳にはいかないから、部屋の片隅で、必死に痛みを堪えてた。それでも内外両方から痛みを食らうのはよくあった。
世の中ぜんぶクソ喰らえだ。さいあくだ。なんで神様はこんなところに俺を産み落としたんだ。嫌がらせか。じゃあ、それだけなら。俺の生まれてきた意味ってさ。
痛いのは嫌だった。だからあの男の下に居続けるのは嫌だったけど、だからと言って死にたくもなかった。はるか昔、通りすがりの人間に教えてもらった、死に際に天使様が迎えに来たというあの童話。そのおとぎ話を理由もなく信じて、部屋の片隅でそのお迎えを待っていた。こちとら神様にも見捨てられた身の上なんだ、それくらい夢見たっていいだろう。
まぁ現実はそれよかよっぽどすばらしいお迎えだったわけだけど。
菊は知らないんだろう。俺がどれだけお前に救われたか、感謝してるか、そしてお前を愛しているか。
この世の人間全部殺してやるって気概だったのに、「菊」っていう人間がこの世には存在するって知った瞬間、まぁいっかって思えるくらいには好きだ。冷たいモノクロの視界で、お前だけが温かで色鮮やかに映ってる。俺は「この世界はクソ」だってことを痛いほど知ってる。世の中最悪なことばっかりだって。菊がいようがいまいが世界は最悪だって事実は変わらない。でも、どんだけ世界が最悪でも、俺の視界は菊のお陰でちょっと綺麗で、お前がいるなら捨てたもんじゃないかもなって思ったりしてる。
菊の笑顔が好きだ。酷く安心できるから。菊の温かな手が好きだ。いつだって抱きしめてくれて、幸福にしてくれて、そして何より、あの日俺を救ってくれた天使様の手だから。大好きだ、愛してる。何度生まれ変わったって、この先俺がお前以上に愛せる人物は現れない。そう断言できるくらい、好きなんだ。
なぁ、だから。最近ようやく分かったんだ。俺の生まれてきた意味。さらに言うと、この小さな体を持って生まれてきた理由───』
「アーサーさん」
「菊。もう出る時間か?」
「はい。お忙しいならすぐにとは言いませんが
…
」
「いや、大丈夫」
リビングからひょっこり顔を覗かせる菊を見て、アーサーは密かに手紙を隠した。これは俺の自己満足のやつだから菊には見せられない。というか、こんな書き殴りな上に感情ダダ漏れの手紙、絶対に見せたくない。
菊とお揃いの手袋を手に取って、もこもこのアウターを着て、こじんまりとした靴を履く。そのまま扉を開けると外から白い光が差し込んだ。雲一つない、澄み渡るほどの快晴──雪が降るなんて言ってた癖に、天気予報は嘘つきだ。
「今日は何しに行くんだ?」
「ふふ、実はですね。アーサーさんのクリスマスプレゼントを取りに行くんですよ」
「は!?」
アーサーはうさ耳をピーンとさせた。
「なっ、おま
…
約束破ったのか!?」
「あれは誕生日プレゼントだけのはずです」
「はぁ!?」
「何を言ったってもう遅いですよ」
わなわなと震え出すアーサーに、さすがの菊もまずいと思ったのか、彼は勢いよく土手の上を走り出した。しかし人が兎の瞬足に勝てるはずもない。アーサーはあっという間に追いついて、それから菊に激突する。想定外に勢いづいてしまったのか、お互い「痛い!」と悲鳴をあげて、それからぱちぱちと目を見合せて、堪えきれなかったように2人して笑い出した。通行人の温かかったり冷たかったりする視線はものともせず、ただ2人、寒い冬の朝の土手の上で笑っていた。
菊にはなくて、俺にはあるもの。この小さな手も、短い腕も、足も、長い垂れ耳も。菊にはなくて、俺にはある。俺がそれらを持って生まれてきたのは、菊には足りないものを、他の誰でもない俺自身が補うため。
この小さな体では、菊の不幸を防いだり守ったりすることは出来なくて。でもこの体で生まれてきたからこそ、それを小さな幸福には変えられるから。それが俺のできることだから。
「(だから、きっと。ぜんぶ菊のためだった。)」
菊。俺はお前を幸せにするために生まれてきたんだ。
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