人生の転機に悩んでいたら、友人から何故か隣県の個人退治事務所を勧められた。読めば分かると渡されたロングセラー本は、移動中の電車で読もうとしたが、悩みからの寝不足で読めずじまい。眠りこけていたら、あっという間に最寄り駅。そこから徒歩数分。辿り着いたビルの一角。
間の悪いことに、無情にも『休業中』の看板がドアに掛かっていた。がっくり肩を落とし、途方に暮れたが諦めきれず、ダメ元で電話をしてみようかとスマホを取り出した時、「うちの事務所に何かご用ですかな?」亜空間より飛び出たのかと思うくらい、唐突に気配と声が同時にした。持っていたスマホを危うく落としそうになった。ぞっとして振り返れば、細身の吸血鬼が佇んでいる。うちのだって? 吸血鬼が退治事務所を所有しているということか? 訝しんだが、きっちり着こなしたスーツに似合わないスーパーの買い物袋が、その言葉に信憑性をもたせた。
「暫く休みにする予定でしてね。申し訳ないですが、再開の折はSNSでお知らせ致しますので、またお越しくださいますかな」
「は、はあ」
ダンピールである自身の鼻を擽る匂いを疑う。この吸血鬼も体躯に見合わない大きな気配だが、中からも強い気配がする。小さいものもふたつ。本当にここは退治事務所なのか。まさか吸血鬼に乗っ取られて。尋ね人は無事なのかと通報も視野に入れたが、中のひときわ大きな気配が急速に近づいてきた。慌ただしくドアが開け放たれる。
「すみません! ご依頼ですか?」
「あーー! まだ安静にしてろとあれだけ……!」
「十分休んだだろ。仕事しないと落ち着かねーの。それにわざわざ足を運んでくれたのに」
出てきた銀髪の壮年男性に圧倒される。気配は完全に吸血鬼なのに、その瞳は澄みきった青色で。
「ああ、あなたには気配で分かってしまいますね。間違いなくこの事務所の管理者ロナルドです。最近転化しまして、混乱させてしまいすみません。まだ正式には公表していないので内密にお願いします」
「迂闊ルド。だから言ったろ。彼には姿を変えてもすぐバレる」
「んぐ。まさかダンピールの人だとは思わなくて……でもいいだろ。後ろめたいことでもないし、もうSNSでも噂されてるし。どうせロナ戦にも書くんだから」
準備するので少々お待ち下さいと言って引っ込んだふたりの会話は、所用で飲んだ血液錠剤の効果が切れていない耳に、扉越しでも届いてしまった。
『体調は良い!? 赤い目が二つ、鼻も尖った耳も牙もあるな。指は? 20本ある?』
『あー……お前には催眠は効かねえな。やっぱ視覚を誤魔化すんじゃなく変身を覚えたほうがいいかな』
『どっちでもいいが無茶せんでくれ。まだ産まれたてに近いんだぞ』
『おー俺の吸血鬼生は始まったばかりだからな。めっちゃ体軽いぞ。若返った気分』
『私がどれだけ気をもんだか。まだ先で良かったのに、言い出したら聞かないんだから』
『お前だってそうじゃん。したいことしかしないくせに』
『私は享楽主義の吸血鬼だからな。けど君は違っただろう。いくら強くても、やり直しもデスリセットも効かない、ただの人間だった』
『吸血鬼とか人間とか、関係ないだろ。俺がどうしたいか、お前がどうしたいかだけだ』
『君はいつもそうだ! 心配ばかりかけて……』
『だから終止符を打ったんだろ。俺だって怖くない訳じゃなかった。お前の心配をなくしたくて……これでも頑張ったんだぞ? 褒めろよ。もう何も心配いらないだろ』
『……っ! ……ああもう! 君の覚悟なんて、私が一番分かってるんだ!! 生半な気持ちでは成し遂げられなかったことも、痛いほど伝わっている。君はとても頑張った、まさに人生を掛けて。……ありがとう。転化が成功して本当に良かった。君が目覚めるまで、塵にならずとも生きた心地がしなかった』
『ロナルド様が負けてグールになる訳ねーだろ』
『私が三十年かけて培った自信を、こんなところで発揮するんじゃないよ! 君を守るための盾になればと必死で育ててきたのに、それはこんな一か八かの賭けをさせる為じゃなかったんだよ』
『あ、バカ……、泣くなよ。……お前髪伸ばしたり格好変えたりしたくらいであんま変わらないと思ってたけど、涙脆くなったよな』
『昔も今も私の涙腺は繊細なんだよ! 君だってなんだその顔は。昔から泣き虫五歳児は変わらないな』
『もう立派なおっさんだわ。もらい泣きだっつーの』
ポコポコとお湯が沸く音や、カチャカチャと食器の擦れる音が会話の合間に聞こえてきた。ほら手を動かせと言いながら、口も止める気がないようだ。
能力が落ち着くまでは仕事セーブしなよ、人気作家のセンセーショナルニュースだ、暫くは世間の注目の的と思え、食欲は? 食べれるなら豪華にお祝してもいいけど、少しは血液を摂取したほうがいい……等々、聞いているこちらが母親の小言を聞いているように気恥ずかしくなる。
しかし『ああうるせーうるせー』と流す声に鬱陶しさはあまり感じられず、心配は伝わっているように思えた。
『あとでじっくり話し合うとして、まずはようこそこちら側へ。こうなったら、とことん楽しんでもらおうじゃないか。人間では味わえない、夜の世界をな!』
『時間は無限にあるんだから、世の果てまでじっくりと案内宜しく頼むぜ。最後まで責任取れよ? あーーもう! お前のせいで俺の人生めちゃくちゃだぜ!』
詰るような言葉とは裏腹に、興奮に色めいた口調は楽しげに弾んでいた。
『君には言われたくない! めちゃくちゃになってるのはお互い様だ。もう途中下車は出来んからな? 最後までついてこいよ』
ピピピ、ピピピ、と空気を読まない電子音が鳴った。非日常な会話に似つかわしくない、日常的なキッチンタイマーの音が耳に届いて、いっそ滑稽にも感じられる。音は程なくして止められた。
『ほら、冷める前に紅茶を持っていこう』
紅茶ということは、先ほどのアラームは蒸らし時間の終わりを告げるものだったのだろう。スプーンの震える音が近づいて、ティーカップが運ばれてくるのが分かる。カチャリと開いた扉から、ふたりが姿を現した。
「すみません! お待たせしました」
提供されたお茶はとても香り高く、ひとくち飲んだだけでその美味しさに驚いた。
「紅茶、とても美味しいですね」
忖度なく告げると、事務所長は同居吸血鬼の三十年かけた数少ない成果だと笑った。
「何を言う! 昔から私の淹れる紅茶は特級品だったわ!」
「より一層美味しさに磨きが掛かったってことだよ」
茶々を入れ合っても、満更でもなさそうにふたりとも口元を緩めている。出会って三十年は経ったとはにかむ彼らが交わす視線は、それは優しいもので。
交際をしている彼女が紅茶を好きなことを話し、お勧めの銘柄を訊ねた。黒髪の彼が父親や祖父が気紛れに卸す品が一番美味いと、取扱い店の名刺を差し出したので、商売上手ですね! と一同で笑った。
「ああ、つい雑談に力が入ってしまいましたね。本題をどうぞ」
気持ちは九割方定まっていた。背中を押して欲しかっただけだ。
「いえ、もう依頼は受けて貰ったも同然です。お陰様で、買っていた指輪を彼女に渡す決意がつきました。人間と吸血鬼の前に、私と彼女がどうしたいかですよね」
土産の菓子折りと謝礼を半ば強引に渡して事務所を出ると、ふたりの会話がまた聞こえてきた。
『おめでたいけど何だったんだろ? 俺、何もしてないのに申し訳ねえ』
『どっかで聞いた台詞だったな。盗み聞きは感心せんが、寛大なドラちゃんは野暮なことは言わんでおこう』
『はあ? なんの話?』
人の良さそうな事務所長と違い、敏い黒髪の彼にはやはりバレていた。慈悲に感謝して、今度こそ事務所を後にした。
帰りの電車で本を読み、友人の言葉をようやく理解した。今度飲みに誘って、いい酒を奢ろう。
事務所での彼らの会話を思い出すと胸が熱くなって、無性に彼女に会いたくなった。彼女への最寄り駅は、もうすぐそこ――。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.