シノハラ
2025-01-28 12:55:08
3598文字
Public レイチュリ♀
 

その恋無敵にて

チュの無敵の片思いの巻き添えになるシのレイチュリ♀

「最近恋をしてるんだ」
 そう言われてレイシオは思わず身構えた。発言主のアベンチュリンは自分の正式な患者ではないが、精神疾患を抱えて現在進行形で治療を受けている。ついでに言うなら、おそらく寛解宣言を受ける日は来ないだろう。
 そういう手合いの人物にとって、恋というものは文字通り劇薬になる。相手が病に対する適切な知識を持ち、上手に患者を制御できるのであればどんな薬よりも精神の安定をもたらしてくれる傾向にあるのは否定しない。けれど、相手に知識がなかったり、あったとしても非常に負担が掛かるような関係構築をしてしまったりした場合、それはもう目も当てられないような状態になることも珍しくはないのだ。
「一生片思いだと思うけど、それでいいと思ってる。いや、それがいいって言った方がいいかもしれない」
 レイシオの緊張など気がつかないとでも言いたげに、アベンチュリンは穏やかに目を細めながら成就するつもりは端からないのだと意思表明してくる。予想もしていない展開に少々眉根に皺を寄せかかってしまったが、アベンチュリンはこれから説明するから黙って聞くようにとばかりに余裕綽々の態度でいる。
「君もまあ予想は付くだろうけど色々あって。誰かに触れてもらいたいとはもう思わないし、一緒にいてお喋りしているだけで幸せなんだ」
 からころと空っぽになったグラスを回して、底に溜まった氷を転がして遊ぶアベンチュリンの手元は今のところ怪しくはない。彼女と仕事の後に食事をしたついでに酒を飲むのは珍しい事でもなくなっていて、アベンチュリンの最適な酒量もそれなりに把握できている。今夜飲んだ量はレイシオがストップをかける程でもなく、後一、二杯飲んだら理性はそのままに気分良く酔えるくらいの状況だったはずだ。
「それって友愛と何が違うんだろうって僕も思うことはあるけど、姉さんや母さんに感じる好きとはやっぱり違うし、もしも恋人ができたって聞いたらすっごくショックだと思う。ずっと独り身でいて僕と遊んでくれたらいいのに」
……随分な無茶を言っている自覚はあるんだろうな」
 その様子では思いを伝えるつもりもないのだろう。本人がそう望んで過ごすのであればともかく、誰の手も取れない人生に苦しむ者は珍しくも何ともない。彼女が選んだ相手に無邪気な呪いをかけるのを聞きながら思わずコメントを返してしまえば、僕もそう思ってるとくすくすとアベンチュリンが笑った。
「教授はこれを恋じゃないと思う?」
「君は僕がそれは恋とは違うものだと言えばそれで納得するのか?」
「しないかな」
 ならどうしてわざわざ質問すると申し立てた苦言はからからと笑うアベンチュリンの声に掻き消されてしまう。どこかで隠れて杯を重ねてきたのではなかろうかと訝しんでしまう調子に表情を苦くすると、ごめんごめんとアベンチュリンから全く悪気のなさそうなぺらぺらな謝罪が帰ってきた。
「もしも違ったとしても、僕はこの気持ちを恋って呼ぶことに決めたから」
 だから、レイシオに何か言われても覆すつもりには少しもならないらしい。会話がそこで一瞬途切れて、その隙を狙ったバーのマスターがアベンチュリンのために新しい杯を差し出してくれた。ご機嫌でありながらもどこか柔らかな調子を保ちながら礼を述べてから、アベンチュリンは最近お気に入りらしいカクテルに口を付ける。
「とっても幸せなんだ。僕の初めての恋がこんなに豪勢でいいのかって思うくらいに楽しくて、ちょっとの事で嬉しくて。それとも僕が省エネなだけかな?」
 二口ほど甘い色のカクテルを飲み込んでから、アベンチュリンはグラスを丁寧にテーブルに置きながら満足げに息を吐いて微笑む。その笑みの残留に混じる煌めきに、レイシオは彼女が恋をしていると直感した。
 若者だらけの大学に長々と在席していれば、そういう思いを胸に抱いたまだ大人になりきらない少女達の瑞々しい思いを目にする機会はいくらでもある。それと似たような様相をしているアベンチュリンの思いが、下手に踏みにじられないでいてくれれば良いとは思う。
 もちろんレイシオだってそうは思うが、どうして今彼女がそうやってレイシオの隣でにこにこ笑っているのかこれっぽっちも分からなかった。恋バナなんてそれこそトパーズ辺りを捕まえてやってくれれば良かろうに。どう考えても門外漢で経験値の著しく低そうなレイシオを捕まえてすることではない。
「だからさ」
 そう思った瞬間、アベンチュリンがレイシオに視線を投げかけてきてレイシオはぱちりと瞬きをしてしまった。恋の話をしている者がわざわざ部外者を見るとは思いもしなかったからである。
「君がそんなことになるとは思えないから本当に念のためで言うんだけど、君は僕を好きになっちゃだめだから」
「どうしてそんな話を本人に?」
 あり得ない。何を考えているんだこいつは。その二言は口にこそしなかったが、表情から大体読み取られてしまっただろう。堪えられなかったのかアベンチュリンが悪戯が成功した子供のように笑って、にいっと上がる口元をそのままにレイシオの顔を覗き込んでくる。
「だって心配になっちゃって。万が一にもないのにね」
 ベリタス・レイシオが僕の事を好きになるなんて、と自虐的な発言をしているのもいただけないがフルネームを唱えられているのも大分いけない。この店は二人が気に入っている程度には他の誰かも気に入る要素があるバーであるため、長いカウンターには自分達の他にももう二組ほど客がいた。こんな訳の分からない状態にある二人が他人からスターピースカンパニーのアベンチュリンとレイシオであると特定されないように祈りながら、レイシオはアベンチュリンを睨み付ける。
「酔っているのか? いや、こんなところで飲んでいるんだから酔っているのは分かっているからそういう揚げ足とりは控えてもらう」
「飲んでる量もペースもいつも通りだよ。でも、本当に君といると楽しいから我慢できなくなっちゃって」
 ああ、この前仕事が早く片付きすぎて余った時間で博物館に行ったのも楽しかったな。すぐ見終わっちゃうかと思ったけど君がたくさん説明してくれるから、時間もうまく使い切れたのに長くいたような気分にならなかった。もしも君が良かったら、二人で旅行でもしてまた見に行きたい。どこかで君が気に入りそうな企画をやってる博物館とかあるかな?
 ――なんて止めどなく喋り始めたアベンチュリンを前にして、レイシオは彼女の前で初めてきっつい酒をオーダーした。味は気に入っているもののしっかりと酔っ払ってしまうので、他人の前では長らく封印していたカクテルだった。
 それを二杯、いや三杯。記憶が正しければ。
 愚行を通り越して蛮行である自覚はあったが、こんな訳の分からない状況で正気でいられる方がよっぽどどうかしている。
 突然告白してきた女がこちらの事を好きにならないでほしいけれど、一生独り身でいてほしいと呪ってくる。一つ一つの要素はまあまあどこにでもある陳腐さであるはずなのだが、それを一つのセンテンスに押し込んだ瞬間とんでもない異彩を放ってくる。普段の話術をどう悪用したらこんな文章が出来上がるのだ。
 彼女の人となりはそれなりに把握できていたつもりだったが、途端にその全てが怪しくなってくる。レイシオは今までアベンチュリンの何を見ていたのだろうか。常日頃から同僚がこんな様相の女であっても困るのだけれど。それにしても、いや、その。
 なんなんだこいつ――……
 そう口にしたかはレイシオはもう覚えていない。なんとか瞼を持ち上げると自宅の天井が視界に入ったので、どうやらちゃんと帰宅はしたらしい。ただし、寝入る場所を派手に間違えたようで見えているのはリビングの天井だったが。
 がんがんと痛む頭のこめかみを押さえながらソファから起き上がりつつ、記憶を掘り返そうとすると不安そうなアベンチュリンの表情が浮かんできた。そう、たしか彼女は強かに酔っ払ったレイシオを前にして、自分との旅行がそんなにも嫌だったかと尋ねてきたのだ。
 どう考えてもそこではない。アベンチュリンはアベンチュリンで一体レイシオを何だと思っているのだ。
 そんな彼女の懸念を払拭するためにレイシオは大学の休みの時期を伝えてやったはずだが、後は何も思い出せなかった。それなりの醜態は晒していそうなので、そのまま忘れてしまった方が良いとレイシオは自身に言い聞かす。
 幸い今日は休みだったので、もう一度寝てしまった方が良いと判断する。夜のトレーニングの予定を組み直しながら水だけを飲んでソファに戻ろうとして、寝室の方が良かろうとレイシオはリビングを横切った。
 その先で先客が眠り込んでいるなどとはこれっぽっちも思わぬまま。