犬蓼
2025-01-27 21:43:51
13157文字
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大人じゃない

Rouge, Mon rêveの後日です。
読んでなくても大丈夫……と言いたいところですが、明確に後日という体で書いたので読んでないとむずむずするかもしれません。
美奈レイとはるみちです。

 二人の少女が石畳調の歩道を並んで歩く。同じ歳、別々の制服。一人は濃色、背に黒髪が揺れ、いま一人は明色、頭上に赤いリボンが揺れる。
「でもさー有り得なくない? 誰か確かめたの? 絶対間違いないって言える?」
「知らないわよ。亜美ちゃんに聞きなさいよ。どうして間違いないか二時間でも三時間でもかけて教えてくれるでしょ!」
 うららかな午後、帰途を歩みながら美奈子は力説をしていた。
 と言うか、屁理屈をこねていた。数学の公式を覚えなければテストの点が取れないということから、どうにか逃れられないかとこねにこねていた。
 しばらくはレイもその生真面目さで付き合って、公式の暗記はいかに逃れられない運命かを反論していたが、ついに匙を投げた。投げた、ところだった。
「あ!」
 土台、数学の深淵などというところに興味関心はなく、天才少女の熱弁に二、三時間も当てられたら思考回路は寸前をぶっちぎってショートするだろう。具体的な解決策が提示されてしまった時点でおしまいの会話にここまで乗ってくれるなんてやっぱりレイちゃんは面倒見がいいなぁ、などと半分くらい考えていた美奈子は都合よく、話題の転換先を通り過ぎようとする景色の中に見つけた。
「レイちゃんレイちゃんほら! アレ!」
「あっ……ちょっと!」
 行こう、と指先が制服の袖を摘んで引く。さっきまでの渋面が嘘のようにはつらつとした笑顔と瞬く歩行者信号に急かされて、レイは反論もできずに跳ねる赤いリボンを追い駆けた。


   ***


 半螺旋になった階段を上り、ドアを引き開ける。瀟洒な飾り彫りのついたクリーム色のドアは、見た目に反してずしりと重く、入店して閉じると往来の喧騒がすうと消えた。ゆったりとした室内管弦楽をBGMにした店内は奥に数組、老夫婦と思しき男女、文庫本を広げた壮年、熟年の友誼を交わしているらしき三人連れ。皆それぞれの時間を過ごしている。
 レイが一抹の不安を覚えて見やった傍らでは、美奈子がリボン・タイのウェイターに待ち合わせだと嘘をついていた。ねめつけて嗜めるが、きっと効いていない。見習いたくても到底不可能な度胸と愛嬌だ。
 愛想の薄いウェイターにこちらが待たされて、その行先を視線で追う。窓際のテーブルで事情を確かめているらしい。少女二人という覚えのない約束を怪訝に感じたに違いない知った顔が、目隠しのグリーンの端から覗いた。美奈子はぶんぶんと大手を、レイは申し訳なさを表しながら控えめに。振ると秀麗な面差しが状況を察してふっとやわらいだ。
「すみません……突然お邪魔して」
 案内されたボックス席の向かいを占拠しながら改めて謝罪を口にする。構わないよ、と爽やかな笑みを返された。
「ちょうど退屈していたんだ」
 なんじゃそりゃ、とレイは思ったが隣で美奈子は、あーやっぱり!と膝を打った。声が大きい。
「窓側の席でお一人なら、時間のはっきりしない待ち合わせかなぁって」
 それなら、ちょっとお話しする時間なんかあるんじゃないかと思って。悪びれない横顔を、レイは驚いて見た。
 人波の向こう、通りを挟んでしかも二階の窓辺の人を、知った顔と見切ってから弾むように駆け出すまでは瞬く間。その寸前まで数学の勉強嫌さに駄々をこねられるだけこねていた、そして今またこの一等賞を取った小学生のような得意げな横顔が、成した閃きとも思わせない。目の前のこの驥足の人もきっとそんな即断とは思うまい。レイは内心にそう唱えた。けれど。
 人懐こい笑顔に、ひた、と見据えた眼差しの留まる。
「ご明察。さすがだね」
 天王はるかの眼差しは空の色をしている。入り日果てた残照の、あるいは夜明けを告げる薄明の、昼と夜を分かつ時刻の夜の側の色。群青、濃紺、宵藍の、移りゆく寸暇を切り出して結んだ輝石のような。その輝石の光がまるで射す先の真価を知っていると言うようだった。
 そして、瞬き一つ。
「コーヒーでいいかい?」
 刻々移り変わる光の景色がそうであるように一瞬前を忘れさせ、空の色の眼差しは柔和に微笑んだ。
「カフェ・オ・レもあるけど」
 気遣いを含んだ声音をかけられて美奈子は、いえ、と決然と答えた。
「コーヒーで。ブラックで」
 レイは慌てて、小声で小脇を小突いた。
「やめときなさいよ」
 こんな雰囲気のあるお店のコーヒーなんて絶対飲めやしないのよ、苦いことしかわからずにしわくちゃのしっぶいしぶしぶの顔になって笑われるのがオチよ、と諌めた。諫めて、悔やんだ。諌めるつもりのその口上を全て出しきってしまってそれから、ああしまった言いすぎた、と思ったのだが、後の祭り。
「カチカチカッチーン!」
 わざわざ声に出し、美奈子は唇尖らせて逆眉立てた。
「レイちゃんはミルク入れてもらえばいいじゃない! あたしは? 大人ですから? コーヒーだってブラックだってなんでもござれよ!」
 意固地だ。だから言っていることがめちゃくちゃだ。そういうことじゃないでしょ、とレイの声も思わず高くなる。
 二人きりなのに喧々囂々とヒートアップしかけたその時に、取り澄ましていた美貌がふはっと笑気を吐いた。
「はははっ」
 立てる声さえ涼やかで。
「仲良いね」
 毒気もなく言われてしまっては赤面して恐縮するしかない。二人して首をすくめて俯いた。
 はるかはそんな二人に好ましげな視線を送りながらウェイターを手招いた。先程までの騒乱を目に留めていないはずのリボン・タイは白々しくやってきて、カフェ・オ・レを二つ頼まれ去っていく。
「ここのは悪くないよ。試してみるといい」
 品よく丸められた指先が秘色のハンドルを摘み上げ、芳しい焦げ色の水面を運ぶ。午後の陽の穏やかなきらめきに照らされるも相まって、ああ美しい人だな、とレイは思った。
 少し前、この人の隣にいつもいる人に会った時もそう思ったのだった。夕景に立つ海の色の眼差しの人。絵画や映像の作品めいて美しく、そんな人と恋人が話し込んでいるところに行きあったものだから、二人きり何を話していたのとつまらない悋気を起こしてしまって。余計なことまでがよみがえって、脳裏にぱっぱと手を振り打ち消した。
 打ち消しきれずに傍らをねめつける。八つ当たりだとわかってはいるのだが。
 向けた視線の先では美奈子が、獲物を狙う猫が瞳孔を開いて真っ黒にするみたいに目を輝かせていた。見定めたのは、線彫で細身に見せる青磁が静かに降ろされた、その隣。女性向けファッション誌が置かれている。
「はるかさんもそういうの読むんですね」
 ハイティーンを脱した頃合い向けの。表紙には俳優初挑戦の煽り文字に飾られた短髪の青年が白い歯を見せている。歌って踊れるアイドルグループメンバーの映画主演は近頃のワイドショーを賑わす話題ではあったが、言われてみれば確かに、目の前の人の興味の対象としてのイメージはない。
「ああ」
 空の色の眼差しが、霹靂閃くようにちらり、手元を見やった。面倒なものを見られた、と言うような。
「少し、気になったからね」
 含むものを感じさせる。それを美奈子は好機と見たようだった。カフェ・オ・レで取られた主導権をどうにか取り換えさんと、力強く一歩、踏み込む。
「かっこいいですよね! はるかさんもそういうかっこいいタイプの人が好きだったりします?」
 何を言っているんだ、何を。レイは思ったが、横顔の眼差しはどうやら出会い頭のフィニッシュ・ブローを繰り出したとは言っていない。急襲のジャブだ、と言ったところだろう。
 しかし。
「君は好きなんだね。こういうタイプ」
 敵も然る者。バックステップで華麗にかわし、丁寧にカウンターを合わせてくる。痛いらしいところを突かれ、美奈子はぐっと呻いた。
 そういえば最近、アイドルにはしゃぐ様子をあまり見ない。気兼ねしているのだろうか、気遣いか。別にいいのに、とレイは思った。美奈子の〝アイドルの追っかけ〟が今やどうあっても趣味の範疇なのは知っている。
 レイは軽くかぶりを振った。これは本題ではない。そもそも本題が見えない。何の応酬なのだ。美奈子は何を目当てに打っているのだろう。レイは黙って、挟むべき口の有無を探っていた。
 はるかは待っていた。じっと、美奈子の次の言葉を待っている。はるかも美奈子の言葉の真意は探りあぐねていて、けれどどこかそれを楽しんでいるような。産毛の子猫に挑まれた大型犬のようにじっと、居住まい品良く待っている。
 いや、この人の言う〝子猫ちゃん〟はそういう意味ではないはずだ。レイが度々の自分の思考の脱線に眉をひそめた頃合いで、一拍は口ごもった美奈子が決意を新た、真っ向に視線を上げた。
「はるかさんて、どんなタイプが好きなのかな?って。前に聞いた時も答えてもらえなかったから」
 渾身のストレートはそれなりに意表を突いたようだった。朝未あさまだきの色の眼差しがかすかに振れたから。
 けれどその、振れた訳までは探らせない。空は瞬き晴々、洗い上げられた秋天のように爽やかに微笑んだ。
「僕はこういうのよりはかわいい子がタイプかな。君みたいな」
 勇んで両手を振り上げ飛びかかった黄色い子猫がアイリッシュ・ハウンドの鼻先にツンと一蹴、コロンと転がされる。やっぱりそういう意味かもしれない。美奈子は頭を抱えてのけ反り、はるかはそれを見て楽しげに肩を揺らした。
 会話の区切りにウェイターがやってきてカフェ・オ・レを二つ、置いていった。白茶の土に淡い緋で小豆色の靄を掃いた下ぶくれのカップがレイと美奈子の前に並べられる。甘味は試してみて足りなければ足すと良いと言ったのは、はるかだった。言われるままにカップを口に運び、含むと、ほのかな甘味と香りが抜ける。同じように一口含んだ美奈子は遠慮なくシュガーポッドを開けていた。だから言ったのよ、と喉元まで出かかった言葉を二口目とともにレイは飲む。コーヒーシュガーが花の形をしていて、それにはうっかり感嘆詞を声合わせてしまった。
 スプーンでくるくる、小さな渦に花の形が沈んで溶けていく。レイは自分の手元を見下ろした。両手でくるむと下ぶくれがちょうど手に収まる丸みと大きさで、厚手の肌目はカフェ・オ・レの熱量をじんわりと伝えくる。押し黙り、次の言葉を探している美奈子に助け舟を出してやりたいと思ったが、波立たない胡桃色の中からふさわしい言葉は浮かんではこなかった。
 はるかが、ちろとレイを一瞥する。転じて秘色のカップを運び。一口。霜天のように冴えて、空の色の眼差しは今度はレイでなく隣を向いた。
「どうして急にまた僕のタイプが知りたくなったんだい?」
 俯いていた美奈子が顔を上げる。
「あの時の悩みは解決しなかった?」
 美奈子は、あの時、に思い当たったようだった。レイには当たる節がない。きっと知らない出来事だ。はるかがレイを確かめたのは、言って良いことか推し量ったのだろうと感じられた。
「いえ」
 美奈子はかぶりを振った。
「あの時のことは、良いんです。もう解決しました。はるかさんの言うとおりでした」
 負う星のように。美奈子の眼差しは明るい。東天に輝く。それを受けて西の空の夜の色はわずかに細められた。
「そう」
 昇る陽に時刻を譲り去り行く清冽さを点して瞬く。それを見つめた美奈子の、銀色の柄を持つ指先に知らず力が入った。
 くるくると。渦を描いていた手元を引き上げる。切った雫が真ん中に落ちて、渦は緩やかに解けていった。ソーサーにスプーンを戻し、美奈子は背筋をまっすぐと伸ばした。
「『普通の幸せより大切なことがある』。でも、守るものは一つだけじゃないですよね?」
 はるかは答えない。夜の色の眼差しに真向い、明けの星は昇る。
「初めて会った時に聞いたこと、って覚えてますか?」
 レイはもちろん知らない。はるかに出会った時、美奈子と一緒にいたのはレイではないのだ。
 蒼眸が撓む。薄い唇が繊月のように弧を描いて、はるかは答えた。
「何だったっけ?」
 嘘だ。
 と、レイは思った。
 穏やかに暮れる夜の色の須臾を映した眼差し。秀麗な顔貌にものを言わせた〝完璧な〟微笑みだ。だからこそ。嘘だ、とレイは感じた。
 なぜそんな嘘を。本当は覚えているのではないのか、と喉元まで出かけた。それを遮ったのは大仰な不平の声だった。
「ええー……
 不満も露わ、唇を尖らせてテーブルに突っ伏す。行儀が悪い。さっきまでレイの喉にあった言葉の代わりに小言が飛び出していった。
 小言はむなしく赤いリボンの後ろ頭にくだけて散る。伸ばした手足をばたばたと泳がせ、美奈子はコーヒーをブラックで飲むよりも顔をしわくちゃにして不服を表した。はるかの回答をただの嘘ではなく、それには答えない、という意志表示と取ったようだった。
 肩の力が抜ける。レイは両手で囲ったままのカフェ・オ・レを口に進めた。ほんのり甘くて香ばしい。ほっと溜息が出る。
 隣では美奈子がまだじたばたしている。何とか取り付く島はなかろうか。溺れる者に藁のひとつも投げたまえと伏したまま上目遣いに取り縋る。
「みちるさんは答えてくれたんですよー!」
 その名を美奈子が口にした時、秘色のカップを支えた指がわずかに振れ、蒼眸はかすかに瞠目した。気のせいかとも思うような一瞬。けれど無縫の青涯にわずかな綻びを見た。
 そのことは、レイを動揺させた。海王みちる。その名を出してはこなかったけれど、話題の陰に存在はずっとあったのではないか。いや、そも、ここまでのやり取りのほとんどは、いかにその名を引き出すかのための応酬、というか美奈子の一方的な奮闘であったようにさえ思われる。彼女自身が言ってしまった時点で、敗着のはず。それなのに。
 名一言にこの人はこんなにも眸を揺らすのか。
 隣でリボンと髪躍らせ美奈子ががばりと起き上がらなければ、あやうく下ぶくれの小豆色のカップを両手から取り零すところだった。片肘ついて前進気勢豊かに身を乗り出すその様子を、悪徳商人が悪い商品売り込む時の姿勢じゃない、と思うことで平静を得る。
「みちるさんはちゃんと、覚えてる、って言ってくれたんですよ!」
 ここを好機と美奈子は前のめりに進む。
「この間、ちょーっと相談に乗ってもらって、その時に」
 少し前のことだ。火川神社に美奈子が来なかった。その日、何か約束していたわけではないし、いつも必ず来いと言っているわけでもない。作戦会議に勉強会にただ何となく、と五人集まりがちだが取り決めごとがあるわけでもない。関係を進めてから美奈子は特に入り浸って時に勉強、主に長話に花を咲かせていたが、気が向かなかったくらいの理由で来ない日があっても不思議はなかったのだ。けれどどうにも種火の燻るようなじわじわとした思いを抱いていたところに白猫のアルテミスが現れ、何か思案顔をしていた心配だ、と言ったのだ。
 アルテミスの助言と美奈子の過去の行動から見当はすぐついた。夕暮れの公園で、けれどそこにいたのは一人ではなくて、燻る種火はますます熱を持った。木立の裏に隠れてなどというわかりやすさで、どうにか会話を盗めやしないかと覗っていたら、あっさりと露見した。
 先に気づいたのは、みちるだった。察しの良い人だ。仕方ないところもあるだろう。けれど。
 美奈子の悩みに先に気づいたのはアルテミスだったし、隠れ潜むレイに先に気づいたのはみちるだった。レイにはそれが悔しかった。
 本当につまらないことだけれど。
 だから。
「あたし気づいちゃったんですよ! あーはるかさんの気持ちわかるなー、って……
 その言葉は埋み火を熾した。
 思わず眉根が寄った。思わずだ。けれど自分でそうとわかるほど、眉間が深くなる。ゆっくりと、両手で囲った下ぶくれのカップを下ろした。それを、はるかが見ていた。
 視線を翻す。
「美奈子ちゃん」
 呼んで、右で眇め、口角を吊る。鋭利な夜の色の眼差しは滔々と流れていた美奈子の長広舌を瀬切り、レイも我知らず固唾を飲んだ。
「ほしいの?」
 天王はるかという人は、いつも爽涼とした風をまとい、年下の少女たちに心配り細やかな、寛厚の人だとレイは漠然と思っていた。けれど今目の前のその貌を、見たことがある。傲然として威丈高、鼻持ちならない〝見知らぬ戦士〟によく見た貌だ。
 こういう時にする貌だったのか、と、レイは思った。
 ロープ際から起死回生。思わぬ言葉を投げかけられ美奈子は驚き目を丸くする。動揺と狼狽と蒼惶がいっぺんに駆け上っていくのが見えるようだった。
「ままま間に合ってますが!?」
 ぶんぶんと振る首とともに長い髪がひらひらと舞い踊る。二つ並べ置けば連獅子のようだったかもしれないが、あいにくと、いや幸いか美奈子は一人だ。
「いえいえいえ気持ちわかるってそういうのじゃなくて! うちのレイちゃんと同じなんだなー……って、そういうことですからね?」
 頭を振りながら舌を噛まずによくぞというほど。早口言葉のように述べられた言い分に、首を捻ったのはレイだった。
「はあ? 何よそれ。あたしとみちるさんじゃ全然似てないでしょ?」
 思わぬ方からの言葉を振り返る。のけ反ってまた首を振った。
「違う違う! 似てるとか似てないとかじゃなくて一緒なんだって!」
 意味がわからない。風貌、立ち居振る舞い、どこを取っても無尽の茫洋を揺籃にして生まれ育ったようなあの人と、我ながらすぐ火がついて口が過ぎる、いつまでも熾火が消えず胸を焦がす自分とでは同じところなどないではないか。はるかの手前、そこまでは開かなかったが美奈子ならば自分のそういう性向を言わんとしていることは伝わるはずだ。思いながらレイは詰めた。
 また二人きりで喧々囂々。それを眺めながら、はるかはゆるり秘色のカップを口に運ぶ。ああこれは完全にしてやられたな、とどこかで思いながら舌戦をやめられない。あの人ならそんなことはないはずだ。レイがそんなことをちろと考えた時だった。
 あかね射す。玉響の夜空の色の眼差し。蒼眸が窓ガラスの向こうに往来を見た。
「みちるさんに何の相談したかって話、したじゃない!」
 秘色のカップがテーブルに降りる。核心を聞き流しながらレイは振り返った。少し手間取って向かいの歩道にその人の姿を見つけ、あっと思った時には、はるかはもう立ち上がっていた。
 窓に接しておらず状況を把握できていない美奈子が驚き仰ぐ。秀麗な面差しは爽やかに微笑んだ。
「ほしければ、あげるよ」
 青年が流し目を送る表紙をこちらに向ける。きさもなめらかなテーブルの天板をすべらせ寄越してきた。
「カメラマンの腕を確めたかっただけで、僕は本人がいればいいからさ」
 差し向けた指を、とん、と一度置く。大見出しの俳優の名の下にそれよりも小さく、等サイズ等間隔等色に並んだゴシック体の中。五文字を指し示し、目的は達したと離れてゆく指先を慣性のままに追うと、一笑。視線はわずかにレイの隣。背の高さと隙なく整った顔貌を活かして得意げ満面。大人気ない、と思いかけて、レイはそれを打ち消した。それはふさわしい言葉ではないような気がした。
「楽しかったよ。じゃあ、またな」
 手帳様、合皮の伝票ホルダーを取り上げて立ち去る背のその行く末に視線を先回りさせる。芍薬のような立ち姿はさっきと同じところにあって、迎えに歩み寄ったりしない。こちらを見るように高かった海の色の眼差しは、やがて翻った。
 信号の変わるのを待ちきれないとばかりに長い足を急がせて小走りになる。午後の陽を浴びた亜麻色の髪跳ね、人波を縫う。それを、見つめ待つ。
 隣合って立って、その表情まではわからない。わからないが二言三言ののち、みちるがたぶん可笑しそうに、口元に手を当てた。
 レイの頭上を越して覗き込んだ美奈子が呟いた。
「ダシにされてる気がする」
 レイは答えた。
「絶対、されてるわ」
 ひらひらと手を振ると、それぞれに片手を挙げて応じる。その指先まで美しいこと。踵を返す前には当然のように、みちるの抱えていた荷をはるかが受け取った。
 添い歩く背が雑踏に消えるのを、つい、見送ってしまった。見送って、深い息をつく。並んで座り直し、脱力した。
「みちるさん、何の用事だったんだろ」
 美奈子がぽつり落とした。レイはもはやぬるんだカフェ・オ・レを運びながら答えた。
「そこの、横路地を入ったところに画材屋さんがあるのよ」
 古くて小さな店だ。だが商いとして長い分、伝手も広くプロの客も多いらしい。両手四方ばかりの敷地に所狭しと商品が置かれているような店だから、直接の用事がないはるかは遠慮したのだろうと推察できる。
 美奈子がぱちぱちと瞬いた。なぜそんなことを知っているのかということだろう。
「この辺の古いお店は、だいたいおじいちゃんの知り合いなの」
 社と氏子としての関係もあるし、商店街の古株同士個人的な付き合いもある。諸々雑事の代理を仰せつかることもあり、結果として、レイもそこそこ顔が広い。美奈子は感嘆もらし、眼差しに一番星を輝かせた。
「さっすがレイちゃん」
 努力の手柄でもないことを称えられるのは面映ゆいが、目を輝かせる美奈子は掛け値なしにかわいらしかった。
 名探偵の推理は進む。
「じゃあ、あの四角いのキャンバス? みちるさんにしては大荷物だったわけね!」
 レイは頷く。絵に合わせて絵の具を調達したかったのか、あるいは店の方からの依頼で複製なり修復なりをみちるが請け負ったのかもしれない。そういったことの仲介もしていると以前に聞いた。
「あれ持って歩いて帰るってわけでもないだろうから、はるかさんの車はあっちの駐車場じゃない?」
 少し行った先の駐車場は、美奈子ももちろん知っている。もっともらしい貌を作り、深く頷いた。
「謎は解けた!」
「全っ然、解けてない」
 解いたのはほとんどレイで、美奈子は疑問を提示しただけだ、というのはこの際構わない。そんなことよりもきちんと聞いておきたいことがある、とレイは美奈子をねめつけた。
 視線を受けて美奈子は拗ねた顔をする。
「えー……はるかさんはすぐ気づいたのに」
 またそれだ。むっと顔をしかめたレイに、美奈子は眉尻下げてカップの下ぶくれを囲い込む。弁舌振るっていたせいで、そこにはまだ胡桃色がたっぷりと揺蕩うていた。
「みちるさんも夢を見るんだって」
 レイは首を傾げた。それは知っている。そんなのはずっと前から開示されていた情報だ。美奈子だってあの日に初めて聞いたわけでもないだろう。そう思って傾げた。
「だからあたしのことを訊こうと思ったんでしょ?」
 美奈子はぎゅっと眉間に皺を寄せた。真剣に言葉を探している。
「そうなのよ? 確かにずっと知ってたんだけどさー……でも、あの時、気づいたんだもん」
 黎明に輝く星の光がレイを直ぐと見る。
「同じなんだなぁって」
 飛び込んできた光に思わず、瞠る。
 夢は。
 特に予知の夢は、見て楽しいわけではない。
 だからこそレイは、それを請け負うのが自分で良かった、と思っていた。
 美奈子がため息をつき、まだ波々湛えた胡桃色に向き合った。小豆色濃いハンドルをつまんで口に運ぶ。ぬるんだカフェ・オ・レは甘く、おそらくほろ苦い。
「その、レイちゃんと同じみちるさんがさぁ、あの時のノーは嘘じゃなかったって言ったのよ?」
 イエスか、ノーで。符牒があるのだろう。みちるにはそれだけで通じていたが、レイには何のことかさっぱりだ。あの二人と出会った時に隣にいたのは自分でないと、忘れているのではないか。そう言って詰め寄ると、美奈子はもにょもにょとまた言葉を濁した。
「レイちゃんて変なとこにぶちんよねー」
 横顔で、両手で支えた小豆色の端を噛む。それならいいわと言ってしまいそうになるレイの先を奪って呟いた。
「あたしとレイちゃんは……イエス、ってこと」
 花の形の砂糖を溶かしたカフェ・オ・レを含む横顔を、レイは見つめた。黙っていれば美少女、なんて失礼な形容もあるけれど、レイはそうは思わない。いつも何かを見つけてはレイのところに持ってきて延々とおしゃべりしている。そういう美奈子こそ、あの明るい星の化身なのだ。けれど今。
 長い髪の合間に覗いた耳朶を真っ赤にして押し黙った美奈子を見つめ、レイも顔を赤くした。
 歳上の美しい人と何を話していたのか、と問い詰めた時もそうだった。言いにくそうにする美奈子を絞り上げて出てきた言葉に、レイは顔を火のように赤くして俯いたのだ。
 美奈子はテーブルに降ろした小豆色の下ぶくれを両手で転がし手遊びながらもごもごと話を継いだ。
「はるかさんは、呼び捨てにする以上の関係だって言ったのに、みちるさんはノーだって……
 ちろり、横目にレイを見る。
「レイちゃんは、あたしのこと美奈って呼ぶようになったじゃない?」
 レイは口を開きかけ、また閉じた。それは、と呟きまたさらに口篭る。
 つまらない話だ。これもまたつまらない嫉妬の話なのだ。けれどここで、この場で、この話題の上で、これを黙秘するのは不実のような気がした。うなじまで上る熱を感じて俯きながら、レイは答えた。
「アルテミスがそう呼んでて……いいなって、ずるいなって……
 そう思ったんだもの。
 消え入る語尾を奪って静かに室内管弦楽が響く。やっだレイちゃんアルテミスにやきもち?なんて笑われるに違いないと思って目をつむっていたのに、四小節を聞いても返る言葉はなく、八小節めに顔を上げた。
 レイの前に形容しがたい表情の美奈子がいた。驚きと喜びと照れをよくこねて感動でふくらまして香ばしく焼き上げたような顔をしていた。
「えーへへへ、やだぁ……レイちゃん、アルテミスにやきもち?」
 素直の在庫を出し尽くしてしまったレイは、そうよ悪い?なんてひねくれを発揮してしまったけれど美奈子は、悪くなんてないわよ嬉しい!と言ってこんがり焼き上がったパンのようにふかふかと笑うばかりだった。
 ふっかふかに笑いながら、アルテミスなんて猫じゃん、などと言っているが、猫かどうかはこの際レイには関わりない。ルナの例もある。
「アルテミスはあんたの相棒でしょ?」
 プリンセスに侍るセーラーチームのリーダーとして、先んじて目覚めた戦いの日々を傍らで過ごしたのは他ならぬアルテミスだ。その信頼は美奈子自身にもあるだろう。無自覚にも。
「つまり、呼び捨てにする以上の関係はイエスとは限らない……?」
 まだ、不承知顔。にぶちんはどっちだ、と思ってレイは口先を尖らせた。
「大体、あんたはあたしのこと呼び捨てにしてないじゃない」
 驚き瞠る。目を丸くしてレイを見、えっと呟いて固まった。あまりの驚き様にレイもつられて固まってしまう。
 たっぷりと空白を持ち、深く息を吸い、二音を確かめるようにゆっくりと発した。
「『レイ』?」
 二人で見つめ合って押し黙る。音もない。自分の顔はもちろん見えないけれど、全天に先駆けて一星、輝く明るさを目の前に、レイは見た。
 突に、はにかむ。
「えっへへへへー」
「なんで呼んだ方が照れてんのよ!」
 先に我慢できなくなったのが自分でなかったことにほっとして、美奈子の前から雑誌を奪い取った。感極まって、あやうく泣いてしまうところだった。
 はらはらと捲る。半ばを過ぎた頃合いでようやく目当ての顔が現れた。これが音楽の専門誌であったなら、捲るページも数えるほどだったろう。
 ヴァイオリニストは楽器を抱いてこちらを見つめ微笑んでいる。夜空のような濃紺のシルクの光沢つややかなドレスに身を包み、青波うねるやわらかな髪を編み込みで飾るのはレースと小花と黄色のリボンだ。
「麗しいわねぇ……
 呟きに、かぶせるように美奈子は断言する。
「レイちゃんも綺麗よ!」
 振り返り見れば、へにゃり。ボールをくわえたレトリバーのように笑み崩れる顔は、呆れるほどいつもの。けれど。いつもならはいはい何言ってるのと受け流すところだけれど、悪戯心と好奇心のぽつりと点る。
 この麗しい人ならば言うであろう言葉。
「あら、ありがとう」
 これは心地良いかもしれない。すました微笑も様になるような。
 レイはふともう一度眼下の往来を見た。並んで歩く二人の姿はもう雑踏に紛れ見分けることもできない。
 写真の中の、空と行き会うまで広がる海のような眼差しは、きっとレンズに向けられていただけだろう。けれどさっきこの眸は確かに、彼女の前にあの涼風の人が現れるまでレイたちを見ていた。
 名一言に心の震える気持ち、つまらないことだとわかっているのに抱いてしまう想い。
 歳上。大人の人たち。ずっとその認識で来たけれど、存外、近いところにあるのかもしれない。
 いやでもレイちゃんにはきっと暖色の方が黄色とかオレンジとか、なんてもにょもにょと呟いている美奈子にあらためて、向いた。 
「美奈もかわいいわよ」
 指を伸ばし、午後の陽に光る前髪にそっと触れる。間近の指に寄り目になった、その暢気な顔にくすりと笑う。
「あんたの心配するようなことはないわ。大丈夫よ」
 指の離れるに合わせるように暢気の顔色が変わる。丸く開かれる眸が、なぜわかるのかと問うてきた。
「あたしだってわかるわよ。みちるさんの気持ちは」
 片方の名前だけを出したのは、ちょっとした意趣返しだ。自分の行いを棚に上げてうろたえる美奈子を視界の隅に放り置く。向かいの空席には秘色のカップが静かに陽を浴びている。
 目の前では取りすましていたあの人たちも今頃そんな話をしているのだろうか。さすがにそれはないか。空想におかしみを噛んで、ページを閉じた。ありがたく持ち帰り、記事内容は家でじっくり読むとしよう。
「ほら、それ飲んだら出るわよ」
 雑誌を鞄にしまいながら呼びかけると、一拍。それから、美奈子は反駁を寄越してきた。
……せっかくだし、ケーキとか頼まない? 奢るから」
 いつにない申し出にレイは眉ひそめる。声を小さく、顔を寄せた。
「やめときなさいよ。高いわよ、ここ」
 どういう感情か、ふっふっふと美奈子は低く笑って見せた。少しくらいの持ち合わせはある、大船に乗ったつもりで、などど言われてはよりいっそう不安も募る。カップを引き下げに来たウェイターに声をかけるのを視線ばかりで見守った。
 手渡された革表紙を、開いた美奈子の顔がこわばる。おそるおそると覗き込んだレイも硬直した。
 そうっと閉じて、そうっと置く。
 小豆色の底に残ったカフェ・オ・レを一息で空け、いそいそと店を出る。
 半螺旋の階段を駆けるより速く降りて、ようやく息ついた。
「びっ……くりしたぁ!」
 思わず振り返り仰ぎ見、美奈子が呟いた。コーヒー一杯がディナーセットにデザートまで付けられそうな値段だった。肯いて顔を見合わせると急におかしくなって、互いに声を立ててしまった。背伸びなんてそうそうするものではない。
 帰りましょ、と言って一歩、踏み出すと美奈子が、手を伸べてきた。レイは首を傾げた。
 その手に何か乗っているのかと思えばそうでもない。差し出されたパーの形をうっかり眺めていると、意を決したように少し声が震えた。
「良かったら、持つけど」
 その顔を見ると眉尻を上げてみょうに凛々しく、背筋を伸ばして胸を張って。思わずふっと息がもれた。
「ばっかねー」
 背伸びなんてするものではない。そうそう。
 レイは差し向けて開かれた掌に自分のそれを重ねた。みちるの気持ちはわかる。けれど。
「あたしが……好きなのは、あんたなんだから」
 重ねた手をぎゅっと握る。早鐘を打つ胸を堪えて見つめると、破顔一笑。明の星は満天よりも輝いた。
「もう一回!」
 もう一回だけお願い、と鞄を持ったままの方の指を立てた美奈子に、レイは顔を赤くした。
「もう言わない!」
 背を向けて、握ったままの手を引いて歩き出す。引きずられるふりをして揺れる黒髪を追いかけ、追いついた。
 同じ歳、別々の制服。うららかな午後の陽の中。二人の少女は、手繋ぎ、並んで歩いていく。