カーヴェが帰る気配が一向になくても、いつもなら時間が来れば寝るようにしていた。下手に起きてしまっていて、過剰に気にかけていると警戒されるのを避けるためである。
それでも時折、何か理由を付けて彼女の様子を見に行ってしまうことがある。女一人で閉店間際まで安心して飲める場所は限られている手前、そういうときは大抵彼女はランバドの酒場で酔い潰れていた。あの夜カーヴェを自宅に連れ帰るのを看過してくれた店主は今のところアルハイゼンが彼女の飲食代を一時的に立て替えれば、何も言わずにアルハイゼンを送り出してくれる。
今夜は久々に寝酒を飲もうとして、そのつもりだった酒がなくなっていたという言い訳を用意した。風呂上がりのタイミングで着込んでいた寝巻きから外を出歩いても支障がない格好に着替えて、アルハイゼンは昼の温度を忘れてしまった夜気に身を晒しながらくわりとあくびをする。
目的の酒場に辿り着くと、真っ先にランバドと目が合った。それからふいと視線を差し向けられた先で、金色の頭がテーブルに崩れ落ちている。暖色の明かりの下で日中よりも色彩が飛んでいるように見える明るい色の髪は、自分達が円満な関係だった時分を思い起こさせた。
人の目につきやすい場所に座らされているのは、ランバドの采配によるものだろう。店主が様子を窺いやすいのはもちろん、衆人環視に近い状況になるので個人が下手に手を出しづらくなっている。
大事そうに抱えられる空っぽになったグラスを彼女から持ち上げると、とろんとした瞳が自分から離れていく物を不思議そうに追いかけた。それからそのグラスを持ち上げる存在がいると気がついたらしく、のそりと視線を上げてようやくアルハイゼンを視界に収める。
あるはいぜん、となんとか口は回っているもののゆるゆるとした発音にアルハイゼンは相槌だけで応じた。
「もうこんなにおそいのにどうしたんだ」
「寝酒に飲みたい酒が切れていた」
「そういうときは、妥協してねた方がいいだろ」
わざわざ外まででてこなくたって。そんな至極真っ当なカーヴェの疑問に、アルハイゼンは飲みたかったからと返事を重ねた。
そうすればなら仕方ないなあなんて緩んだままの調子でカーヴェが苦笑する。仕方ないのはこんな時間まで一人で飲んで、店主に面倒を見られながら酔い潰れるカーヴェの方であるのだが。
「酒は買えたのか?」
「これから買うから君もそろそろ帰った方が良い」
そうアルハイゼンに指摘されて、こんな時間と言ったのはカーヴェの方なのにはたと辺りを見回して、ようやく酒場でももう遅い時間だと気がついたらしい。きょとんとしたカーヴェから一度背を向けて、アルハイゼンはボディバックに入る小瓶の銘柄をランバドに伝える。それからカーヴェが飲み食いした代金も一端こちらで支払ってしまった。
「帰ろう、カーヴェ」
「……ねむい」
一応帰り支度は整えて上着も羽織ってくれていたが、どうにも立ち上がるつもりになれないらしい。彼女の腕をつかんで引っ張ってみたが、普段ならあるはずの抵抗も文句もない。いや、眠気を訴えるのは赤子も唱える文句らしいが。
「君がそのつもりなら背負って帰るが」
「んー……んん……」
今のアルハイゼンにはそう遠くない時間に閉店する店に居座りかねない客を事前に退去させるという大義名分が存在する。強引な手法を耳にしてカーヴェはしばらく口元をむにゃむにゃさせながら考え込んだ後で、もう一方の手をアルハイゼンに差し出してきた。男の背に負ぶわれても構わないと思う程度には彼女は眠たかったらしい。
彼女の座る椅子の前でしゃがんでやれば、のそりとカーヴェが背に乗ってきた。彼女は常にざわついていて当然の酒場が少し静まっているのに気がついていただろうか。
そのまま立ち上がればバランスを崩しかけたのか、カーヴェが腕を首に巻きついてくる。息苦しさを感じるものではなかったので、アルハイゼンはそのまま酒場を後にした。
夜道を歩きながら、くったりとアルハイゼンの背に寄り添う柔らかくておそらく普段よりも温かい体を意識する。愛しい女性の肉感を肌で感じて、本来は性欲を煽られるべきなのだろうとアルハイゼンはぼんやり考える。けれど今はただ、嫋やかな体に許されていることが幸せだった。
この人を家に連れ帰ることを許されていること。借金を理由にあの家に留まってくれていること。それどころか、アルハイゼンを同居人と認めて日々の食事を用意し、読んだ論文の意見交換はもちろん日常会話を厭わないでくれていること。
そういう日々の中で少しずつ、アルハイゼンの目が行き届く場所でゆっくりと羽を休めるようになってくれたこと。不意に疲れてしまった瞬間に、打ちひしがれた精神を隠さずにいてくれること。時に一進一退になってしまいながらも少しずつ穏やかに日々を紡ぎ始めたカーヴェを傍で見ていられること以上の甘やかな幸福をアルハイゼンは見つけられていない。
じんわりと疼く胸をそのままにしていると、突然首から鎖骨の辺りに緩く回っていた腕に僅かではあるが力が込められた。それでも、うっかりアルハイゼンの首を締め上げてしまわないようにだけ気をつけているらしいことだけははっきりと分かる。
「――きっと僕は明日には忘れているだろうから、君も忘れてほしい」
耳の近くで聞こえてきたカーヴェの言葉にはいともいいえとも返せないうちに、まだ僕には資格がないから、と寄る辺ない言葉が続いた。彼女が言わんとする資格とはなんだろうか。何かを求めたり挑んだりする時、もはや誰かに許可を得る必要などない力量の持ち主であるとアルハイゼンは判断している。特に彼女の分野では今、横に並び立つ者など両の手を用意しては過剰なくらいであるというのに。
「僕を見捨てないでいてくれてありがとう」
カーヴェが慎重に息を吸い込んだのが分かった。それから同じだけ丁寧に言葉が紡がれる。アルハイゼンの体はいくらかの反応を示してしまっただろうが、それが拒絶と捉えられなかったと祈るしかない。
「君の家に連れて行ってくれて、僕らの家にするのを許してくれたのが嬉しい」
どうやら彼女がアルハイゼンに伝えたかった謝意は、アルハイゼンがどん底にいたカーヴェを見つけた日の事だったらしい。かつて振り払われた手を即座に繋ぎ直せなかった事実は認めるが、その時ですらアルハイゼンはカーヴェを見捨てたつもりは毛頭なかった。その思いを彼女は理解してくれているだろうか。
「だめな僕を君になら見せられる」
仕事がうまくいった時や、彼女の行き過ぎた善意が苦境に立つ人に真に必要とされていたと分かった瞬間に見せる安堵と喜び。彼女には確かに見えている天穹を地上にうまく引き寄せられないで、憔悴や苛立ちを隠せないでいる姿。
外では抑えてしまう場面も必要かもしれないそれらを、カーヴェはあの家では一つも我慢しないでいてくれた。学生の頃は先輩風を吹かせたいがばかりに隠されていた事も多かったらしい彼女の気持ちを詳らかに曝してもらえる時間。誤解を恐れずに表現するのであれば、アルハイゼンはそれを確かに愛している。
もちろんカーヴェが苦しんでほしいなんて言うつもりは少しもないが、苦しんでいるならその事実を隠さずにいられる場所があるべきだった。そうしてそれが自分の傍であれば、これほど光栄なことはない。
「そんな僕を放っておいてくれる」
一方でその問題解決をアルハイゼンに求めている訳ではないと、アルハイゼンは理解していた。馬鹿げた想像を捨てきれず、搾取されていると知りながらも善意を選択してしまう気質には時折文句を言うことだってある。けれどそれ以外の大半は彼女の専門分野に関わるものであり、アルハイゼンが口を挟んで根本的な解決に導くなんて事も叶わないのだ。
だから、その苦悩を知ったところでアルハイゼンがカーヴェにできる事などほとんどない。そういう判断に彼女が価値を感じてくれているのであれば、アルハイゼンからしてもありがたかった。
酸素不足を感じているとばかりに押し出される呼気がうなじに触れたかと思うと、額が肩口に押しつけられた。月明かりより一段色の深い髪が首筋に当たるのが少しばかり擽ったい。
「……でも、こうやって助けてもくれる」
今日だって本当にお酒がほしかったのか、とカーヴェが小さな小さな声でアルハイゼンに問いかけた。帰ったら飲んで寝ると後ろのカーヴェに聞こえるだけの声量で答えたはずなのに、彼女の耳には届かなかったのか返事はない。
「父さんのことだって」
遠出なんてめったにしない癖にと指摘されてしまえば、さすがに言い訳もできなかった。単純に興味があったと説明したところで、その関心はカーヴェを源にしているのが明らかである。
「自分が君に大切にされているんじゃないかって、たまにうぬぼれそうになるんだ」
自分にとって唯一であるこの人を、アルハイゼンは大切にしたいと思っている。うっかりでも自らの手で籠の中に入れてしまわないように気をつけながら、彼女が凍えきってしまわないようにできたらとずっとずっと願っていた。
その腐心が彼女に伝わるべきではないと思っていたはずなのに、そう受け取ってもらえていると分かると途端に喜びを感じてしまう自分がいる。愛おしいと思う人に自身の好意を肯定的に受け取ってもらえて、何とも思わない者などきっとどこにもいないのだろう。
「君はそうとは思っていないだろうけど、僕には君が僕の人生に付き合ってくれているって思ってしまう」
そうできていると思ってはいなかった。けれど、そうあれればいいとアルハイゼンは思っている。どこにいても彼女が彼女らしくあれば良いと思うと同時に、その長い旅路の後にアルハイゼンの元に舞い戻りその日々を伝えてほしいと願ってやまない。
「それが嬉しいって思うんだから、僕はきっと」
きっと、と囁いてくれたのに最後の一歩を躊躇って、カーヴェは黙り込んでしまった。小さく鼻を啜る音が聞こえて、今すぐ彼女を背から下ろして抱きしめてしまいたくなる。
カーヴェの喉を強ばらせているのはたとえば先ほど上げた父親の事だったり、それが原因で海外に行った母親の事だったりするのだろう。家庭を壊してしまったとかつてアルハイゼンに告げた彼女が、家庭を作る前段階でもある関係を築くのを恐れていてもおかしな話ではなかった。
両親の件に比べれば些細な事だが彼女からすれば、自身の借金も気になるところだったりするのだろう。その全てが彼女にとってうやむやにはできない影だと、嫌という程アルハイゼンは他ならぬ彼女自身から知らしめられていた。
「君が君の思いを語るときに、必要な資格は一つもないよ」
それでも、アルハイゼンはその全てを些事として扱ってしまいたかった。彼女のこれからの決断を左右するものではないと、無責任に保証してしまいたかったのだ。
その一言がひょっとしたらかつてのような激しい拒絶を引き起こすかもしれないと予期していながら、アルハイゼンは黙り込む選択を選べない。祈るような気持ちでぴたりと止まってしまった彼女の呼吸を窺いながら、まるでさして重要な事でもないのだと言いたいがために歩調を変えずにアルハイゼンは歩みを進めた。
「……うん」
アルハイゼンの勝手な甘言に彼女は憤慨しなかった。傷つきもせず、まるで男の中にある葛藤を見通したように、甘くありながら切ない相槌でアルハイゼンの耳を擽る。ありがとうと同じ響きで囁くと、カーヴェは片方の腕をずらしてアルハイゼンの腕をぎゅっと掴んだ。
カーヴェの息がまた震えるのが分かった。その言語の形をしていない感情の波長に煽られて、アルハイゼンの鼻先もつんと痛んでしまいそうになる。
今夜だけでいい。酒に溺れた勢いで、自分自身を甘やかして許してやってほしい。
どうしても彼女が躊躇ってしまう最後の思いを聞きたくなって、アルハイゼンは普段は使わない角を曲がって馴染みのない道に入り込む。アルハイゼンが時間稼ぎをしていると愛しい人に気づかれないように祈りながら。
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