それを目にした瞬間、盛霊淵の瞳は大きく開き、唇は薄く開いたまま、はくはくと声にならない声を零そうと懸命に働く喉が震えた。宣璣は見たことのない反応に首を傾げると、人差し指の背で盛霊淵の頬をそっと撫でて反応を窺った。
「霊淵?」
盛霊淵の眼球がぴくりと反応した。しかし見る見るうちに開いていく瞳孔に、これは只事ではないぞと焦りが生まれてくる。
「霊淵どうしたの。なにがあった?」
「な、なにかあったのはお前の方だろう」
ようやく聞こえた声はなんとかして絞り出したようで聞き取り辛い。まるで深く傷ついたかのような声音に宣璣の胸は永遠に抜けることのない棘が刺さってしまったように痛んだ。
「俺が?」
「その顔は誰にやられた!」
宣璣は盛霊淵よりも身長が高い。一気に二人の顔の距離が近づいたのは、盛霊淵が宣璣の襟を掴んで引き寄せたからだ。彼がここまで激昂する姿を見たのは数える程度(三千年前、宣璣がその身を失ってから、つまり盛霊淵の晩年くらいだろうか)である宣璣は、びっくりして思わず額の紋章が赤く点滅させてしまった。
「誰だ! 言え!」
「えっと……なんていうか、不可抗力? 俺が悪い……いや、悪くはないんだけど、自ら打たれにいったといいますか」
「……」
「とりあえず一旦落ち着こう。ごめん、見苦しいところ見せちゃった。帰ってくる前に治しておくべきだった」
「……」
宣璣が謝ると盛霊淵の目尻がぴくりと反応する。どうやら不用意な発言をしたらしいが、宣璣は気がつかないフリをして盛霊淵を部屋の奥へと押し込んだ。宣璣は帰宅したばかりで、二人が騒いでいたのは玄関付近、しかもドアが少し開いていたのだ。お人好しの隣人が顔を覗かせる気配を感じた宣璣は、早いところ家の中へと逃げ込んでしまいたかった。きっとあとで冷静になった盛霊淵は、取り乱している姿を見られたことを恥じると思ったのだ。
盛霊淵を寝室に誘導した宣璣は、肩を寄せ合うようにしてベッドの縁に腰をおろす。カーテンを閉め切った部屋は薄暗く、照明をつけた方がいいのだろうが、宣璣はあえてそのままにした。
乱雑にシャツを脱いで翼を出し、腕と一緒に盛霊淵を包み込むようにして抱き締める。宣璣の首筋と鎖骨の間に頬を押しつけた盛霊淵は、手のひらをあたたかい皮膚にぴったりと合わせ、心臓の鼓動を感じながらそっと目を閉じた。
宣璣の脈動は盛霊淵の全身を駆け巡る血液のように彼の中に伝わっていく。自身の心臓も長いこと宣璣に預けていたからか、二つの鼓動はそう時間を置くことなくぴったり重なり、まるで始めから一つだったかのように動き出した。
脈拍が落ち着いた盛霊淵の瞳には僅かに冷静さが戻ってきて、二度三度瞬くとゆっくり顔を上げた。
「小璣」
宣璣が瞳を覗き込む。盛霊淵が少しだけ首を伸ばすと、宣璣は小さな唇に触れるだけのキスを一つ落とした。
「街を歩いていたらカップルが喧嘩していて。始めはそのまま通り過ぎるつもりだったんだけど、段々怒鳴り声が激しくなっていって、彼女が「もう別れたい」って言ったのがきっかけだったんだろうな。彼氏が殴りかかりそうになったから……」
「庇ったのか」
「気がついたときには」
「……彼女に怪我は?」
「なかったよ。彼氏の方も一度殴ったら血の気が引いたのか謝ってくれたし。まあ、謝る相手が違うだろって話なんだけど。恋人同士なんだから喧嘩するのは当たり前だけど、暴力で怖がらせるのは違う」
「いや。その二人はお前に謝るべきだ」
盛霊淵は冷えきった声でそう言い切ると、宣璣の赤く腫れた頬をそっと撫でた。痛みなど感じていなかったはずなのに、盛霊淵の瞳が痛みを訴えかけてきて、まるで泣いているかのように濡れていて、宣璣は急激に患部が熱を持ったように感じた。
「お前がよくても、私が嫌だ。彼女を庇った行為を否定はしない。だが、何人であろうとも美しいお前を傷つけることは許せない」
盛霊淵にとってこの世で最も美しいのは宣璣であり、文字通り心臓よりも大切なのも宣璣である。なによりも大切な宝贝を傷つけたものを許せるほど人皇の心は広くはなかった。
宣璣は己が傷ついたことよりも盛霊淵の心を傷つけてしまったことが衝撃で、足元の地盤がみるみるうちに崩れていくようなどうしようもない不安に駆られた。
盛霊淵は波乱の人生を送る中で涙を流すことはなくなった。陛下が泣くのは心の奥底のさらに底、何重にも重なった重い棺の中で、盛霊淵本人も気がつかないほどひっそりと声もあげずに泣くのだ。
そうやって己の感情を消し去ろうとするから、積もりに積もった感情の欠片たちが溢れそうになっても気がつかない。そういうときは宣璣がどろどろに甘やかし、蕩けさせて、快楽の海の中で泣かせてやることで悪夢に魘されることもなくぐっすり眠れるようになる。
慎重に慎重を重ねて保ってきた心のバランスが、今、目の前で崩れそうになっている。
宣璣は盛霊淵の目元にある涙のような窪みに吸いつくと、腕に抱いた身体ごとシーツに身を預けた。
「俺が悪かったよ。ごめん、霊淵。今日はなんでも言うことを聞きます。哥哥のお仕置をいい子で受けます」
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