バイト帰りに近くのコンビニで買った菓子パンを三つほどお腹に放り込みながら家に着き、手洗いとうがいをしてから、ただいまっす、とリビングのドアを開けると、今まさに弟さんと燐音くんがキスをしようとしているところだった。
前後が入れ替わってしまうけれど、この兄弟と僕は三人でルームシェアしていて、一般的な尺度に照らし合わせるならあまりと言うかできる限り他言はしたくないけど、僕と燐音くんで弟さんをシェア……さすがに言葉が悪いっすね。反省します。ごめんなさい。
……ええと、まあ、つまり三人で仲良く暮らしているから、二人がキスしていることに対して特に疑問は湧かない。
僕がいない間に弟さんを独り占めしていたことに関しては、思うところがないわけでもないけれど。
でも、それは僕も燐音くんがいない間にしていることだから、お互い様だ。
「一彩、ん〜……」
「あ、お帰りなさい、椎名さん!」
「ぶへッ!」
燐音くんの顔面を手のひらで覆った……というか。
「燐音くん、苦しがってるっすよ。弟さん」
「あ、ごめんね、兄さん」
掴んでいた手を離して、弟さんが笑う。さっきまでまあまあ容赦のないことをしてたとはかけらも思えないくらいに、天使みたいに汚れのない顔で。
「お兄ちゃんをなんて扱いすンだよ」
「本当にごめんなさい。でも、兄さんとはもうたくさんしたからね」
特に未練もない様子で燐音くんの膝からぴょんと降りた弟さんは、軽やかな足取りで僕の元へやってきて。
「だから次は椎名さんの番だよ!」
そう言って、ねだるように唇を突き出した。
弟さんのキス待ち顔、餌をねだる猫みたいでかわいいんすよね。
でも。
弟さんの腰に手を回しながら、一応、訊いてみる。
「いいんすか?」
「ウム?」
「燐音くんを放っておいて。僕は嬉しいですけど」
燐音くんの肩を持つ気はないけれど、食べる気満々だったご馳走を目の前で取り上げられて、代わりに肩透かしを食らわされて、まだそれを、現実を飲み込みきれてない顔をしている燐音くんを放ってイチャイチャするのはさすがに忍びない。
「そうだそうだ!」
燐音くんは、途端に元気になったけれど。だから肩を持った気はないですってば。
「俺っちはお兄ちゃんなンだぞ。弟はお兄ちゃんの命令は絶対厳守だろ」
「燐音くん、そういうの一番嫌いなくせに。弟さんが本気にしたらどうするんすか。……でもまぁ、僕は燐音くんのあとでも構わないっすよ」
「ううん」
弟さんが、シャラシャラ綺麗な音が鳴ってもおかしくないくらいに軽やかに、首を振る。
「君主としての兄さんの命令は絶対だけど、今の兄さんは僕ととても仲の良い兄さんだからね。どうするかは僕が決めるよ」
「一彩……!」
燐音くんの声が輝く。
自分よりも他人を主体にしがちな弟さんのことをきっと一番憂いているのは燐音くんだから、その言葉はさぞ嬉しかったろう。
「だから、今は椎名さんとキスするね!」
「一彩ォ……」
「椎名さん、ん〜……」
弟さんは、自分がどれだけ感動的なことを言ったのかの自覚が微塵もないようだけど。
うーん、上げて下げることに本当、容赦がないっすね、弟さん。
そんなわけで、僕が燐音くんに譲る理由はすっかりなくなってしまったので……ねだる弟さんのかわいさを拒む理由もさらさらないので。
遠慮なく、キスさせてもらった。
弟さんが満足するまで……燐音くんが痺れを切らして駄々をこね始めるまでいっぱい、たくさん。
「僕が二人いればよかったのにね」
僕と燐音くんの間に挟まれた弟さんが、口元をほころばせて言う。余談だけれど、ソファやカウンター席みたいな、横並びの椅子に座る時はだいたい、僕らの間が弟さんの定位置だ。
「そうすれば、どちらが先か、で言い争わなくてすむから」
「争ってはいねェだろ。ニキくん殊勝にも俺っちに譲ろうとしてくれたしよ。やっぱこういうのは年功序列だよなァ」
「あれは燐音くんが可哀想だったから、ついうっかり憐れんじゃっただけっす。施しっす」
「ンだと!? ニキのくせにノブレス・オブリージュってかァ!?」
「のぶ……? なんすかそれ。フランス料理の名前っすか?」
「フランス語だってのはわかるのかよ」
「ていうか弟さんが二人いてもどうせ燐音くんが二人とも独り占めする未来しか見えないっす」
「おう、珍しく賢いじゃねェか、ニキきゅん」
「……やっぱり、二人いても解決はしないね」
「ごめんな、一彩!」
「弟さんごめんなさい!」
「え?」
僕と燐音くんの顔を交互に見る弟さんに、怒ったり傷ついたりしている雰囲気は感じなくて、ほっとする。燐音くんもおおむね、同じ気持ちだろう。
以前、僕を放って二人だけで仲良くしないで、と珍しく弟さんに訴えられたことがあるのに未だにこうなってしまう原因の大部分は燐音くんにある。のは間違いないけれど、僕がついうっかり相手をしなければいいだけの話なので、僕にもいくらかは責任がある。……いや、この人は僕がついうっかり買ってしまうような売り言葉をわざと選んで発言してるから、不可抗力って部分もあるっす。ごめんなさい、弟さん。
幸い弟さんは別段怒ってはいなかったけれど……少しくらいなら拗ねてくれてもよかったけど、それはそれでまた話がややこしくなる。
「でしょ? 弟さんもそう思いますよね」
軌道修正としてはやや無理矢理感があるなあ。と思いながらも弟さんの少し前の言葉に同意すると、彼はゆるゆると首を横に振った。
「ううん。そうじゃなくて。二人の僕がきっと喧嘩をしてしまうと思うんだ」
「喧嘩っすか?」
「どっちがどっちの相手をするか、でか?」
僕は、実の兄とすら喧嘩らしい喧嘩をほとんどしない、いい子の弟さんからその発言が出たのが意外だったのだけれど、燐音くんは多分もう、答えがわかってるんだろう。
にやにや笑いながら訊いた燐音くんに、弟さんがはにかみながら答えた。
「ううん。どっちも、がいいからだよ」
「ってェと?」
「ウム。その……兄さんか椎名さん、どちらか一人しか選べないなんて、嫌だから……多分もう一人の僕も同じように考えるから、そうしたら、どっちも僕のだ、って、きっと喧嘩になると思うんだ」
……なるほど。
最初から答えをわかっていてわざと間違えてみせて、弟さんが自ら正解を口にするよう誘導するなんて、燐音くんは性格が悪い。と思ったけれど、今回ばかりは撤回するっす。
グッジョブっす、燐音くん。
いつも控えめな子が向けてくれる独占欲なんて、どれだけあってもいいっすからね。
「……ってことはつまり、シェアじゃなかった、ってことっすね」
「え?」
「こっちの話っす」
首を傾げた弟さんのかわいい唇に、キス。
僕と燐音くんで君をシェアしてるつもりだったけれど、実際は僕らが君のペットだった、ってことっすね。……これも言葉がよくないっすね。まあ、ニュアンスで察してほしいっす。
「ん……あ、もう終わり?」
「いやあ、僕としては君が満足するまで続けて全然いいんすけど」
「一彩ォ〜、お兄ちゃんはァ〜?」
「燐音くんが拗ねてるんで」
というか、君には見えてないでしょうけど、君の後ろからものすごい形相で僕を睨んでるんで。
「拗ねてはねェよ。当然の権利を主張したまでだ」
くるり、と弟さんが振り向く。
「ふふ、拗ねてる兄さん、とても愛らしいよ」
「だろォ〜!? お兄ちゃん、さっきから放っておかれて寂しくてよォ〜、だから慰めてほしいなァ〜」
今にも人を眼力でピーしそうだった顔を、弟さんの視界に入るまでのほんの一瞬でそこまで崩せるのはもう立派な特技っすよ。褒めてないっすよ。
「手のひらくるっくるっすね、燐音くん」
「俺っちの手首は一彩のためなら無限に回転するンだよ」
「なんすかそれ」
「一彩、ん〜……」
「聞いてないですし」
でもまあ、燐音くんの手首がどれだけ人間を辞めようと、弟さんが幸せならどうでもいいですけどね。
……ああ、なるほど、そういうことっすか。
シェアとかペットとか、あまり印象のよくない言葉を使ってまで僕らの関係に名前をつける必要なんてない。そんなことどうでもいい。
僕らはお互いに幸せを与えたりもらったりする関係なんだって、それさえわかっていれば。
だから僕も、君を幸せにしてあげるし、君に幸せにしてもらいたい。
「僕にもキスしてほしいっす、……一彩くん」
一彩くんの腰に手を回しながらおねだりした僕を見て微笑んだ彼は、世界中の誰が見たって絶対に、幸せな顔をしていた。
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