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桜霞
2025-01-26 22:17:07
25350文字
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【RKRN】しのぶれど【雑夢】
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【RKRN】しのぶれど【ZAT夢】1
ツイッター(@momijikureha12)の方で呟いてたネタツイを真面目に文章にしたものがこちら(途中)
よろしければどうぞ。
しのぶれど
時は室町後期。群雄割拠煌びやかな安土桃山の産声がもうすぐそこにまで聞こえてくるような、そんな時代。
朝廷や幕府は時の権力を失い、日の本各地は力あるものが力なきものを従える弱肉強食の世が幕を開けていた。
タソガレドキという名の国も、そのうちの一つ。タソガレドキ城の城下町は日々住民を増やし、人と物で賑わっていた。
その内の一角に、タソガレドキ城主、黄昏甚兵衛に仕える武家達に与えられた武家地があった。立派な土塀などで囲われた屋敷では、日々城下の娘が集められ、物語、それらに登場する和歌、楽器、式目、漢籍、礼儀作法などを学んでいた。
「では、本日はこれまで」
師匠の一声で、ありがとうございました、と楚々とした声が揃う。上座から師匠が出て行くのを待って、娘達は伏せていた顔を上げた。
「ねえ、この後うちに来ない?」
「いいの?」
「そう言えば、聞いた? 今度あそこのお屋敷でね、」
「みんな、先程の先生の話に出てきた貝合わせ、うちのを見せてあげるわ。父上が職人に手ずから作らせた物でね
……
」
「ずっと気になってたの、その織、どこの?」
「実は頂き物で
……
」
「それってもしかして、今度祝言を上げる
……
」
少し間を置いて、きゃーっ! という歓声が上がる。その歓声に紛れるようにして、そっと一人の娘が部屋を後にした。誰かが気づいて、「ねえ、さっき、あそこに座っていた方、」と声を潜めて、すっかり綺麗に片付けられた席を指す。
「ああ、あそこに座ってらした方?」
「ほら、監察の、」
家名をヒソヒソと告げられた娘がギョッと目を剥いて袖で口元を抑えた。
「ずっとここに通ってらっしゃるの?」
「最年長らしいわよ。一緒に通い始めた方達は、もうとっくにお嫁に行かれたって」
「ご縁がないの?」
「監察の家と身内になりたいところなんか、そう無いわよ」
「以前も確か、殿のご温情あってのことでしょう? 母上がそう仰ってたわ」
「すぐに出て行かれたみたいだけど、どこか行かれるのかしら」
「街で遊び呆けてるって噂よ」
嘘お、と娘が目を丸くする。
姦しい噂話は後を立たず、次に皆が揃って口を閉じたのは、屋敷の当主の奥方が姿を見せた時だった。奥方の娘が「母上様、」と手をついて頭を下げる。他の娘も同じように三つ指をついて礼をした。
「目付の姫はいずこにおられるか」
奥方の声が朗々と響いた。
「おそれながら、既にお帰りになられたかと存じます」
娘が答える。奥方は自分の背後に控えていた若侍を顧みた。
喉で軽く咳を払った若侍が、失礼、と奥方の前に出て、「いずこへ向かったか知っている者はいるか」と問う。
……
応えは沈黙だったが、娘達が伏せた顔の下で小さく忍び笑いを零していることに、奥方は目ざとく気がついた。
「
……
なるほど。ご無礼仕った」
一礼した若侍が踵を返す。奥方が後を置い、足音と気配が遠くなって、娘達はようやく、体から余計な力を抜いた。
とある武家の屋敷を後にした若侍は、次いで町人や商人が住む町人地へ向かった。道ゆく人々に、監察の娘の特徴を告げて訊ねるも、知らぬと帰ってくるばかり。
「お侍さま、こう言っちゃなんですが、黒髪でちょっと背の高い細身の娘など、いくらでもございますよ」
「む、」
「だいたい、聞いた名前も、それと同じ名を持つ娘が二、三人」
「なに、まことか」
まことまこと、と町人達が揃って頷く。困ったなあ、と若侍は眉を寄せて腕を組んだ。
「ちなみに、お侍さまはなんだってその方をお探しで」
「うん、妹なんだが、父に呼ばれてな。すぐに家に戻らなければならないのだが」
「急なご用事ですか」
「うむ。家に関わることなので、とても急ぐ」
「そりゃあ大変ですねえ」
町人の中でも年嵩と見える男が相槌を打つ。
「私らの方でも隣近所に聞いてみましょう。ちょっとそこの料理屋で、一刻ほどお待ちなさっては」
「ん? いや、しかし
……
」
「闇雲に探したところで埒があきません。さ、どうぞこちらへ」
有無を言わせぬ柔らかな圧に、若侍は戸惑いながらも従った。若侍を案内する男の背後で、町人達は止まっていた時が動きだしたかのようにそれぞれの仕事を再開させた。ひとりが目配せし、ひとりがサッと身を翻す。おい、と声をかけられた男がなにやらヒソヒソと耳打ちされたかと思えば、「合点、」と駆け出した。
一気に街を駆け抜けた男が城郭の水堀に繋がっている河川に止まっていた船を操る男達に声をかけ二言三言話すと、今度は別の若者がサッと走り出して、数件向こうの酒屋に顔を出した。男から言伝を聞いた娘があれそれと指示を出し、また別の男が走り出す。男が辿り着いたのは城下町に入るための最後の関所だった。たくさんの人が行き交う道の脇に、馬が数頭並んでいる。男は、「おーい!」と声を上げ、馬の手綱を持っている人物に駆け寄った。
男に気づいたそのひとが、瞬いて声の方を顧みる。
「お前さんの兄貴が、家のことで話があるってよ。河川向こうの料理屋で待ってるらしい」
ぶるる、と馬が鼻息で返事をした。
暖簾をくぐった人影に、「いらっしゃい、」と看板娘が声を張り上げる。
「あぁ、おかえりなさい。ねえ、ひいさまが来たよ!」
おーう、好きなとこ座んなあ、と厨の方から野太い声が響いてくる。ひいさまと呼ばれた彼女は片頬だけで微笑んで、頭の後ろで高く結った黒髪を揺らし、とある若侍の前の席に腰を下ろした。
「っ、お、お前
……
またそんな格好をして
……
」
驚いて茶を咽せそうになった若者の前には、黒髪を後ろで一括りにして、簡素な着物に袴を履いた、自分の妹が飄々とした顔で気楽そうな姿勢を取っていた。
「はーいいつものね〜」
とん、てん、たん、と調子良く、茶、おにぎり、小鉢、漬物、味噌汁が出される。
いただきます、と彼女は手を合わせて食事を始めた。
「
……
お前、今までどこにいたのだ」
「ちょっとそこまで」
「答えになっておらん」
信じられないと言った表情の兄を目の前にしても、彼女は気にしたそぶりもなく食事を続けた。
「獣のにおいがする。
……
馬に乗ってきたのか?」
「ええ、まあ」
「それの金はどうしているのだ」
「店の手伝い」
はあ、と今度こそ兄は口を開けて呆けてしまった。
「お前、まだこんなことを続けていたのか
……
母上に知れたら卒倒されるぞ」
「大丈夫ですよ、あのひとそんなに繊細じゃないから」
「繊細どうのこうのの問題ではなかろう!」
「それにしてもわざわざ兄上がお越しとは。父上でも帰ってきましたか」
「そうだ」
彼女はあからさまに「うげえ」と顔を顰めた。不敬だぞ、と兄が嗜めても、彼女は眉間に皺を寄せたまま味噌汁を啜るだけだった。
「とにかく、食べ終わったらすぐに帰るぞ」
「えーっ、困りますよう、お侍さま!」
「、え、は?」
突然横槍を入れられて、兄はギョッと瞠目した。横槍を入れたのは、手にお盆を持った店の看板娘だった。
「ひいさまにはうちの帳簿を見て頂かなくちゃ! 本当は兄の仕事なんですけど、戦に取られたから、私がやってるんです。でも、まだ自信ないの! 税を間違えて、お取締りを受けたくないんだもん!」
「持ってきてよ、食べながら見るから」
「はーい!」
にっぱり笑顔になった娘がパッといなくなったかと思えばすぐに算盤と帳簿と矢立を持って戻ってくる。彼女は行儀悪く片膝を立て、おにぎりを食べながら帳簿を覗き込み、そろばんをパチパチ弾いた。たまに箸と耳に引っ掛けた筆を持ち替えて、ここがああでこうでと娘に分かりやすく説明する目の前の光景を、兄は信じられないようなものを見る目で眺めることしかできなかった。
父はタソガレドキにおける目付、つまりは監察の役を拝した武家である。監察とは領地内外における各武将達の動静を調査し、城主に報告する役目だ。誰ぞが租税をごまかしたとか、敵国から切り取った領地にて不穏な動きがあるとかないとか、調査対象に報告させ、裏付けを取るのが生業である。そして当代の監察当主は、これまでで随一の冷酷無慈悲で評判だった。曰く、村人を食わせるために租税をごまかした領主を容赦無く罰したとか、自然災害が理由で税を納められなかった村からは強制的にあるものを徴収したとか、色々である。
その実は隣国との密輸入のために脱税しようとしていた家臣の摘発だったり、災害による実被害を調査しに行っただけなのだが、どうも世は監察に悪役を被せたがるきらいがあるらしい。
彼女は父親が嫌いだった。基本的に一年の三分の二はタソガレドキ内を行ったり来たりするので、屋敷に帰ってきても挨拶をするだけで親子らしい会話は無い。母は父のそれについて行こうとはせず、今は城下の屋敷ではなく家にあてがわれた領地の屋敷で生活している。兄は父の伝手で城に勤めており、彼女は花嫁修行と嫁ぎ先を探すために城下の屋敷に住むよう、齢十のときに命じられたのだった。
そうしてかれこれ十五年が経った。最初は五年で終わると思っていた花嫁修行も、今ではただの暇潰しである。
馬に乗るために結い上げていた髪を解き、左右に頭を振れば、髪は瞬き一つで結えた跡を消した。簡素な麻の着物と袴から、絹でできた襦袢と着物に召し替える。いつからか、下女は着替えなど手伝いに来なくなった。静かな灯りの無い部屋でひとり支度を整えた彼女は、音もなく廊を渡り、父の部屋を訪った。
久しぶりに顔を見る父は、相変わらず日に焼けて、四角四面の険しい顔をしていた。
「息災か」
「はい」
「そうか。お前の婚姻が決まった」
彼女はく、と片眉を上げた。挨拶も会話もすっ飛ばした宣言に、眉を顰める。
同席した兄が、小声で父上、と嗜めるように言うが、父には聞こえたかも怪しかった。
「明日からは不要不急の外出を禁ずる。屋敷内で大人しくしておるように」
「
……
」
険しい目元の彼女に、父が初めて表情筋を動かした。吊り上げた口端が、小娘を嘲笑う。
「なんだ。わしには知られておらぬとでも思うていたか」
「いいえ。私に桂男が居らぬこともご存じであらせられると拝察しております」
兄がヒュッと息を呑んだ。父の顔が瞬き一つ般若の形相になったが、怒声に喉が震えることはなかった。下がれと一言告げられて、彼女は飄々と一礼し、さっさと父の部屋を後にした。
廊を渡り自室に向かう足が、一歩進むごとに重くなってゆく。
途中で立ち止まりそうになりながら、彼女はどうにか自室に辿り着いた。苦しい帯を解いて、着物をその辺に放り投げ、襦袢姿のまま、パタリと倒れ込む。
肺が空になるほど、長い息を吐いた。思ったよりも自分が絶望しておらず、衝撃を受けていないことに、先ほどの短すぎた会話は夢だったのでは無いかしらとさえ思えてしまう。
いつか来ると、分かっていたことだった。それでも、そんな日は来ないで欲しいと、喘ぐように願っていたことでもあった。
月の光が差す部屋で、彼女はゆっくりと瞼を閉じ、同じだけの時間をかけて開いた。
明日、手紙を書こう。今まで世話になった町の人々に向けて。字が読めない若者もいたが、関わり合いになったどの集団にも一人は読み書きのできるものがいたはずだ。読めぬとなれば、兄を使い走らせれば良い。
武家地にいるだけ、この家の姫としてだけで生きていたら、知ることのなかっただろう景色を見させてくれたのは、間違いなく町の人々だ。
馬で草原を駆け抜けたのも、重い荷を背負って山を登った後の川の清水も、料理の奥深さも、戦のことも、貧富の差も、日々逞しく生きてゆく知恵も。彼女に今まで与えられてきた書物には無かった世界だった。
───婚姻が決まった(がしゃん)。
錠の降りる、音がした。
◆
タソガレドキ城、とある一室に、男が二人。ひとりはタソガレドキ忍軍組頭、そしてもうひとりはその部下の雑渡昆奈門である。二人は常の忍び装束ではなく、直垂姿で座していた。
「なんだか落ち着きませんねえ」
不意に、雑渡がぼそりと呟いた。初老の男は喉奥をくつりと揺らした。
「ま、こんな時でもなければ直垂など唐櫃から出さんだろうな
……
」
雑渡は揶揄うように口元だけで笑う。
「どうします、来なかったら」
「是が非でも来てもらわねば」
穏やかだが、是非を許さぬ声音が続いた。
「戦の数が増えようというときに、監察と忍で相争っていては元も子もない。目付も、重々承知じゃろう。なにしろ、殿直々のご命令じゃ」
「
……
」
雑渡の口元がストンと下がる。途端に感情の無い眦が殊更に目立つ。
監察方と忍軍は、元来、互いに不干渉であることを暗黙の了解としていた。しかし、ここのところの戦の増大、それに伴う情報戦の増大により、現場が混乱したり、何が真実で、何がわざとで、何がどう意図されたものか不明瞭になったりすることが多くなった。これによりついに監察方の配下と忍軍の一部が衝突し、手柄の取り合いの様相を呈した。結果、情報が統制できないことによる内部からの崩壊を防ぎ、これを隙として敵国に付け入れられないようにするため、急遽対策を講じる必要が生じた。これが戦の閑散期である田植えや稲刈りの時期なら現場の仕事を整理するなど、時間をかけて対応することもできただろうが、それ以外の時期はほとんど戦があると言っても過言では無いのがタソガレドキである。今は農作業の閑散期を目前としており、黄昏甚兵衛は手っ取り早く、監察と忍軍を合併することを選択した。
そういうわけで、目付の娘と、歳が近く、次代組頭と目される雑渡に白羽の矢が立ったのである。
「昆や」
「はい」
「嫌か」
「いいえ」
雑渡が忍になる前から面倒を見てくれていた男は、そうかと一言、嘆息混じりに答えた。
「
……
世の習いですよ。これでウチも監察に入りやすくなる。領内の目付の仕事がやりやすくなります。合戦城でも、気にかけねばらなんことが多少減る。今でこそいがみ合ってますが、実際動き始めたら、なかなか上手くいくんじゃないですか」
「お前な」
男は呆れて半眼を雑渡に向けた。
「一応、婚姻じゃぞ」
「でも、相手には伝えないんでしょう」
飄々と肩を竦める雑渡に、男はやれやれと嘆息した。
「監察と我らの間の諍いが落ち着くまでは、伏せた方が良いじゃろう。世間知らずで遊び呆けておるらしい姫君の安全のためじゃ。死なれてはせっかくの合併も無意味と化す」
あんたも人のこと言えねーだろ、と雑渡は言いかけたが堪えた。足音が一つ、雑渡達の部屋へ近づいていた。
「組頭殿」
「目付殿」
互いに向かい合って座り、手を着いて頭を下げる。先に口を開いたのは監察だった。
「此度はご足労いただき、誠にかたじけのうござる」
「いやいや、目付殿におかれては、この日のためにわざわざ検察先から急ぎ戻られたとの由、誠に恐れ入りまする」
組頭は雑渡の方をちらりと視線で見やった。
「これなるは雑渡昆奈門と申す者にございますれば」
「雑渡昆奈門でございます。以後お見知り置きを」
受けて、目付が名乗る。先の戦では世話になったと言われ、雑渡は世話をしてやったんだと内心舌を出した。婚姻はどうあれ、これを義父と呼びたくない気持ちが湧いて起こり、雑渡はしかし、呼吸一つでそれらを抹消した。
「して、姫君は」
「では、案内仕る」
目付の娘で、城門を潜ることができるとは言え、登城できるかどうかは話が別である。城下の屋敷に招くのを厭うて城内での顔合わせを提案したくせ、娘には手間をかけたく無かったのだろうかと、雑渡たちは邪推した。
雑渡達は幾つか門を潜り、人目の少ない廊を通り、とある部屋に通された。
部屋には目付の息子と、女がひとり、頭を垂れた状態で雑渡達を出迎えた。上座に座った目付が「顔を上げよ」と声をかけると、女が顔を上げる。彼女はにこりともしなかった。
雑渡は、なんとなく、あれ、思ってたのとちょっと違うな、と感じた。
目付が娘の名をつけて、娘も改めて名を名乗り、礼をする。合わせて礼をして、雑渡は再び彼女を観察した。
愛想はなかった。しかし無愛想でもなかった。自分の名がそれであるから、そうと告げたというだけの、淡々としたものだった。突然の婚姻を忌避するでも、雑渡を拒絶するでも、絶望して不安に苛まれているでもなく、ただまっすぐに、どこか純な瞳が雑渡を見つめていた。ついでに兄も名乗り、雑渡も改めて名を名乗る。
こちらは愛想良く微笑んで見せると、彼女は数度瞬いて、ほんの少し口角を緩めた。
自己紹介も兼ねた他愛無い会話の後、彼女は城の中を見るのは初めてだろうからと、雑渡に案内が命じられた。雑渡は承知しましたと腰を上げ、娘を連れて部屋の外に出た。
廊に出て襖を閉めると、彼女は小さく、しかしはっきりと肩から力を抜いた。
「
……
少し、外の空気を吸われますか」
顔を上げた彼女が、言葉の意図を探るように雑渡を見る。雑渡の微笑から何を受け取ったのか、やがて、彼女はほんの少し気の抜けた顔で、「はい」と首肯した。
雑渡は娘を開けた庭の見える濡れ縁に案内した。この辺りは人通りも少ないので、雑渡が大して気を張る必要がない。
「雑渡殿は、父の部下と聞いておりますが」
「はい」
本来は目付と忍軍に立場の差は無い。しかし彼女に忍軍のことを伏せるために、武士ではない雑渡が目付の部下と彼女に紹介されることになった。
涼しげな瞳が、雑渡を見つめる。
「此度の婚儀は、殿の差配であらせられる」
「左様です」
「ご存知でしたか」
「
……
ご存知なかったのですか?」
「はい。婚儀が決まったとだけ」
「
…………
それは
…………
」
うっかり言葉に迷う雑渡に、彼女は瞬いた。
「申し訳ありません、困らせるつもりは
……
、
……
ただ、似たようなことで、皆様にご負担をおかけしていないかと」
今回のことも、と彼女は瞼を伏せた。
「父が無理を押しているのでは無いかと思って
……
」
「
……
無用の心配でございます。どちらかと言えば、無理を申しているのは殿です」
「まあ」
彼女が瞠目して、にやりと片頬で笑ったのを、雑渡は見た。すぐに袖で隠されてしまったが。
「誰ぞに聞かれていたら手打ちとなるのでは」
「このようなところになど誰もおりますまい」
嘘である。天井裏に様子を探る忍が二人いるのを、雑渡は知っている。
彼女は小さく肩を揺らして笑った。そうして、「誰もおらぬのなら、」と居住まいを正して雑渡と向き直る。そのかんばせには、どこか困ったような、しかし柔らかな笑みが浮かべられていた。
「もし、想う方がいらっしゃるのなら、どうぞその方と添い遂げてください」
「、は」
「殿のお言い付けで、無理は無理でも、どうとでもなりましょう」
雑渡はうっかり呆けてしまった。まさか自分の主の命令をどうとでもしてやると、真正面からこうもあっけらかんと言われるとは、流石に予想外である。
「どうとでもなるのですか」
「さて。どうとでもするかどうかは雑渡殿のご返答次第ですが」
「私の」
彼女はことりと小首を傾けた。さらりと横髪が顔に影を作る。
「あなたのような方に、誰もいらっしゃらないなんて、それこそ嘘でしょう」
「
…………
」
遊び呆けている世間知らずの小娘とは、一体誰が言ったのか。雑渡は無意識に顎を引いて彼女を見遣った。今、試されているのは自分の方だ。
お前こそどうなのだと女に問えば、それは彼女の不貞を疑うことと同義であるし、それは目付の家に対して無礼千万である。雑渡は、「どうやら、ご縁がなかったようで」と答えるしかなかった。
「それも今この時のためと思えば、納得がいくというもの」
「あらまあ、お上手」
彼女が喉の奥でくつくつ笑う。かと思えば、先ほどのように柔らかな笑みを浮かべもする。今度は、どこか悪戯っ子のようでもあった。
「ごめんなさいね。八つ当たりです。せめて殿のご差配であることくらい、知っておきたかった」
「
……
知っていたらどうしました?」
「もうちょっと猫を被って、愛想良くしました。
……
無愛想だったでしょう?」
「ご緊張されていたのかと」
「それもあります」
彼女が笑みを深める。雑渡も、今や彼女に見える己の表情のことなど意識していなかった。どうやら事態は、雑渡が思っていたよりも、だいぶマシな方向であるには違いないらしかったからである。
城からの帰り道に「で、どうだった」と聞かれた雑渡は、「物分かりの良さそうなおなごでした」と答えた。
「馬鹿を相手取るより苦労が無さそうで何よりです」
「ま、てきとうに惚れさせておけ。おなごは情に脆い。いざという時に使えるようにな」
「承知しました」
「溺れるなよ」
「はい」
組頭は雑渡をちらりと一瞥して、小さく嘆息した。
思えばこの男も、盛りの二十代であることを思い出す。
タソガレドキ忍軍組頭をして思考を読むことを躊躇うほどに意志のはっきりした顔立ちは、婚儀のための顔合わせに来る女の顔ではなかった。雑渡と二人になった時とて、そのような態度かと思えば、当の雑渡はどこか機嫌が良い。
いったい何をどうしたのかと思案を巡らされている当の彼女はと言えば、今日も今日とて部屋の中で大の字に寝っ転がっていた。
「はぁーーー
……
」
つかれた、という文字がありありと見える。
ちーん、と聞こえてきそうな脱力ぶりに、様子を見にきた兄は苦笑した。
「お前にしては良くやった方ではないか。粗相もなく、兄は安心したぞ」
しゅるりと、絹が畳に擦れる。彼女が部屋に放った打ち掛けを、兄が拾ったのだ。
「油断なさらぬことですよ、反動で何をしでかすやら
……
」
「そうまで覇気のない声で、一体何をしでかすつもりだ」
ん? と優しい声が甘やかしながら、テキパキと打ち掛けを畳んでいくのを、彼女は見るともなしに聞いていた。
「
……
母は生きていますか」
「生きておられる」
「婚儀には来ますか」
「
……
来られぬだろう」
そうですか、と響かない応えが畳の上を転がってゆく。
彼女は、鼻の奥がつん、としたような気がした。眉間にグッと力を入れると、ぼやけた視界がすぐに明瞭になる。
「雑渡殿はどうであった」
「背がデカかったです」
「お前な、それ以外にもあるだろう、何か」
兄が苦笑する。彼女は先ほどまでと変わらぬ声音で「訳ありですね」と言った。溶けるような声に、寸暇、兄の動きが止まる。
「
……
何故、そう思う」
「勘です」
「勘、か。
……
いやしかしお主の勘はあまり外れた試しがないからなあ」
兄の脳裏を、今は懐かしい二重帳簿や密輸入の証拠といったものが次々と浮かんでは消え、浮かんでは消えてゆく。全て彼女が摘発のきっかけになったのものだ。
「雑渡殿は悪人か?」
「あのひとが悪人なら父も悪人です。
……
善人では無いでしょうね」
彼女の脳裏には、形の良い笑みを浮かべる雑渡がいた。町のおなごなら、誰もがきゃあと可愛らしい悲鳴をあげそうな男だった。しかし、彼女のくちびるは、静かに「つめたいひとでした」と紡いだ。
「
……
何か嫌なことを言われたか?」
「いいえ。此度の婚儀が殿の差配であることを教えてくれました。いいひとです」
「どっちなんだ」
がくりと肩を落とす兄に、彼女はふと、柔らかく微笑んだ。
「にいちゃん」
「兄上と呼べ」
「たぬきが上手くなりましたね」
兄は何事か返そうとして、しかし、押し黙った。奥歯を噛み締め、じっと妹を見つめている。
彼女は先ほどまでの脱力ぶりが嘘のように素早く起き上がった。兄と向き直るその表情は、どこか晴れやかで、爽やかな初秋の風を思わせた。
「私、きっと帰ってきません。母にも会うことはないでしょう。よろしく頼みます」
「うん。任せよ。後顧の憂いなく、お前はお前のことだけ考えておれば良い」
彼女は笑顔のまま片眉を寄せた。ここは両家のために尽くせと言わねばならぬところである。
しかし、夕陽のきらきらと揺蕩う瞳は、腹違いの妹に手向けた言葉を撤回する気はないようだった。
「まだまだですね」
「何、私は父のようにはならぬさ」
彼女は肩を竦めた。何ともまあお人好しの兄らしい頑固さであった。
翌日から、彼女は嫁入り前の支度を始めた。母が参列しないとなれば、おそらくはもう二度と顔を合わせることもないだろう。父は数日屋敷に泊まったかと思えばすぐに地方の検察へと戻って行った。兄は城勤めなので、手を借りられるほど余裕のある忙しさではない。
これまで世話になった礼と卒業の挨拶がてら、彼女は師範を頼った。彼女が嫁ぐことに、「あのじゃじゃ馬が、」と誰かが呟いたのを、彼女の耳は漏れなく聞き取った。咎める者は誰もいなかった。
師範はあれそれこれと入り用になるものをつらつらと並べたて、彼女はそれを一つ残らず書き留めた。最後の授業とでも言わんばかりに、初老の師範は婚儀の前から後の数ヶ月までの作法を彼女に伝えた。
「結局、あなたが一番優秀な生徒でしたね」
「十五年も学べば誰とてこうなります」
「そういうところを殿方の前で見せてはいけませんよ」
「
……
」
彼女は半眼で、内心このクソババアがと毒づいた。師範が彼女のことを己の戦果で唯一の傷として疎ましく思っていることは確かだった。彼女のいる限り、なるべく早めに良いご縁を得て、褒められる花嫁になりたければ師範の元で、なんて宣伝できなくなるからだ。最後に門を潜る時、彼女を見送った者は誰もいなかった。
家に帰って、彼女は父に告げられた婚儀の日まで、ひい、ふう、みいと指を折って数えた。
衣装は今から繕えば間に合うだろうが、まずは言われたものが屋敷にあるかどうか、調べるところから始めないといけない。色々と取り揃えるのに幾らかかるのかも、正確な値を出さなければ。とかく金のかかりそうなことで頭が痛いが、あんまりにも地味では何を言われるか分からず、そのために家の評判を多少は気にするだろう父、特に母が良い顔をするはずがなかった。
年に二度しか開けない蔵は、相変わらず真っ暗で埃っぽい。彼女は町に出かける時に着ていた服を使い潰すつもりで、蔵から物を出して納戸に移し、納戸から物を出して蔵にしまった。
いざ始めてみると、何が何やらどれがどれやらで、彼女は眉間に皺を寄せ、耳に筆を引っ掛け、片手に収集物を記帳した紙の束を持ち、首を傾げながら屋敷の中を行ったり来たりした。
「姫さま、こちらに居られますか」
下女の声である。なあに、と声を張り上げると意外な回答があって、彼女はうっかり持っていた箱を落としそうになった。
「雑渡殿の使いの方です」
落ちそうになった箱を何とか支えたまま、彼女は怪訝そうな顔を隠さず、ええ? と顔ごと視線を声の方に巡らせた。視界の先には様々なものがずらりと並ぶ棚、開けた戸から差し込む光を背に、下女と、初めて見る男が立っている。老齢の下女は呆れた風情を隠さず、男は顰めつらしい顔をしていたが、彼女には男が戸惑っているのが手に取るように分かった。
箱を元の場所に戻し、彼女は足をかけていた梯子からひょいと飛び降りて音もなく着地した。下女に「ありがとう」と彼女が言うと、一礼した老婆はそそくさとその場を後にする。
「こんな格好で申し訳ありません。ご用件をお伺いします。
……
先にお名前を伺っても?」
「は。山本陣内と申します」
頭を下げた山本に、彼女も名乗って一礼した。
「先ぶれもなくお訪ねして、まことに申し訳ございません」
「あぁ、いえ、こちらこそ
……
」
普通の姫なら自分から袴を履いて倉の中を検めるなんてことはしない。であるので、いわゆるそれらしい格好で、かつ来客を通すための部屋で、茶でも飲みながら応じることができる。山本殿もきっとそういうのを想像してたんだろうなあ、裏切ってごめん、と思いながら、彼女は改めて山本が彼女を訪った訳を訊ねた。
「は、
……
雑渡昆奈門から、文を預かって参りました」
「ふみ」
彼女の脳裏に、座布団を足でこねる猫が思い浮かぶ。これは猫のふみふみ。
次いで、巻物が幾つか彼女の眼裏を転がっていく。それは史。
はて、と彼女が小首を傾げていると、山本は懐から包紙を取り出した。白い紙の上下の端が後ろに折られているそれを見て、彼女は瞠目した。
「あっ、文か。
…………
えっ、文!?」
驚いて反射的に身を引き、山本を見る彼女。
そんな彼女の反応に、思わず怪訝そうに瞬いてしまう山本。何を言ったものか、山本は再度「文です。あなたに」と彼女にそれを丁寧に差し出した。
私に、と手を伸ばしかけて、彼女は慌てて腰紐に括り付けていた手拭いで指先の埃を軽く拭った。
改めてそっと受け取ると、自分でも気づかなかったぐらい強張っている指先に、紙の感触が仄かに伝わる。
まるで何事か非常に珍しい品でも目にしたかのように文をじっと見つめる彼女の瞳に、確かに喜色があるのが見えて、しかし山本は内心首を捻った。どうも、婚約者から手紙をもらったにしては、反応が想像していたものと違う。政略による婚儀なのに文を寄越すのかと戸惑われたり、顔合わせで上手く行っていたらしいから、色のついた情でも垣間見えるのかと思いきや、彼女はただ純粋に、文が自分に届けられたことに驚いていた。
「
……
あの
……
」
「!」
はっ、と息を呑んだ彼女が我に返ったのか、顔を上げる。
「おそれながら、返書をいただきたく」
「あ、はい! はい、そうですよね、はい、えっと、
……
どうぞこちらへ」
彼女は屋敷の奥に山本を通した。部屋に上がるのは流石に憚られて廊に座した山本に、下女が茶と菓子を持ってくる。彼女はさっさと文机を出して、そっと、丁寧に書状を開いた。
肩に力が入っているのが、傍目にも分かる。
「
……
あの、山本殿」
「はい」
「恥を忍んで、お尋ねするのですが。
……
こういうときの返書は、香など焚き染めた方が良いのですか?」
瞬くごとに、山本を伺うようにしていた娘の瞳が揺れ、眉が寄り、気まずげに視線が逸れる。
「あ、いえ、その
……
」
山本は慌てて咳を払った。
「においについては、好みの差が激しゅうございますから、はじめは何もされぬが宜しいかと」
「なるほど。ありがとうございます。
……
すみません、このようなこと、お聞きして
……
」
「いえ、お気になさらず」
彼女は手早く墨を擦り、紙を用意し、筆を取って、
「
…………
」
少しだけ何か思案するかのように遠くを見た後、きちりとした姿勢で迷いなく腕を動かした。程なくして返事が書き上がったのか、他の紙を当て、墨が乾いたのを確認し、丁寧に折りたたんだ後、これまた丁寧に包紙に収める。
「こちら、お手数おかけしますが、雑渡殿にお渡しください」
「かしこまりました」
「あと、あの」
「はい」
返書を懐にしまった山本が彼女に向き直ると、彼女は堪えきれなかったかのようにふわりとはにかんだ。
「あまり、こういった経験がないもので。文、嬉しかったですと、お伝えください」
「
……
かしこまりました」
手土産の菓子まで持たされて、山本は彼女に見送られ、目付の屋敷を後にした。
道中、思わず、嬉しかったと、照れくさそうに笑う彼女が思い起こされる。組頭の話では無愛想な娘で、雑渡からは馬鹿ではないおなごだと聞いていたが、先ほど山本が見た彼女とはどれも食い違う。
確かに返書をしたためる所作は洗練されていたが、どちらかと言えばコロコロと表情が変わる方で、年相応の娘らしい邪気の無さだ。あれを敢えて演じているとしたら、相当強かな女か、はたまた山本の忍としての腕が落ちたか。
思案しながら詰所へ戻って雑渡の元を訪うと、雑渡は山本に文を預けた頃からあまり変わらぬ態度で文机に向かっていた。
「早かったな、陣内」
「は
……
」
返書を差し出すと、雑渡は「どうだった」と斥候に聞くのと同じような声音で山本に問うた。
「どう、と申されますと」
「お前の姫さまの印象」
「さて。馬鹿ではない、とは確かにその通りかと思いますが」
「うん」
開いた書状を、雑渡の視線が追う。まるで報告書に目を通すかのような雰囲気である。
ふと、山本の脳裏に、嬉しかったですと微笑む彼女が蘇る。
「
……
小頭」
「うん」
「それ、ちゃんと読んでくださいね」
「うん。
……
うん?」
ちゃんと読んでるが、と言わんばかりに顔を上げた雑渡が見たのは、どこかむつかしい顔をした兄のような部下だった。
「返事も、ちゃんと書いてください」
「そりゃ、書くが
……
何かあったのか?」
「
……
そういう訳じゃ
……
ありませんが
……
」
口にした言葉と食い違っている顔をする山本に、雑渡は怪訝そうに眉を寄せるだけだった。
◆
雑渡はほとんど定期的に、彼女へ文を寄越した。二度目、三度目と回を重ねる毎に、彼女は雑渡への評価を「意外にマメなんだな」に改めていた。
そうでもしなければ、誰ぞと文のやり取りが続いているということが、夢のようで信じられなくなってくるからだ。
はじめの内は世間話などもしていた他家の姫とは、婚儀を祝う文を送ったきりで、それ以降、文のやり取りをするような友人は彼女にいなかった。彼女が馴染んでいた町の人々の中には、字の読み書きができない者や、墨や筆などの道具を揃える金を惜しむ者もいる。
ちゃんと書状が届けられて、返書でしたためた内容を踏まえたものを受け取って、またそれを踏まえて返事を書くことの、楽しいことと言ったらない。
受け取る度に安堵して、返事を受け取ってもらえて、読んでもらえるのが嬉しくて。まるで児戯のようだと頭の隅では分かっているけど、やめられない。彼女は雑渡から受け取った文を、入れる物がなくて中身が空のまま放って置かれていた漆の箱に、すべて大切に保管していた。
しかし、とある日の文は、さすがに嬉しいばかりではなかった。近々戦が始まるから、しばらく文は返せないとあって、彼女は武運を祈りますとしたためようかと考えながら、雑渡の手跡を追った。
「戦の前に、一目お会いしたい」
どき、と心の臓が音を立てて止まる。
彼女は努めて、ゆっくりと息を吐いた。
顔に上った熱を瞬きひとつで散らし、あくまでもいつも通りに筆を走らせる。返事を貰えて嬉しいこと。戦が始まるのならいつも以上に心身に気を使ってほしいこと。忙しくなるだろう時期に、彼女へ時間を割くことが問題なければ、お会いしましょうとしたためて、できるだけ常のように山本へ文を預ける。
お土産を持たせて、山本を見送って、彼女はひとつ嘆息した。戦が始まるという、それだけで、胸の奥が重く沈んでゆく心地がする。戦は富める者を豊かにするが、貧しい者を地獄に叩き落とす。しかし、戦わなければ次にこの世の地獄を見るのは自分達だとも思う。
同時に、雑渡と会うのか、と彼女は何度目か、心臓を固くさせた。不思議なことに、今まで自分の見聞きしてきた好いものであったり、食べて美味しかったものだったりを文で雑渡に教えるのは楽しいのに、直接会うとなると、途端に足が引いてしまう。
何故なのか、自分でもはっきりよく分からなくて、彼女はちょっとだけ混乱した。会おうと誘われて、どうして頬に熱の上った感覚がしたのかも分からない。彼女は何度目か、嘆息した。
雑渡が場所と時間を指定した文に諾の返事をして、彼女はあまり着飾らずに待ち合わせ場所へ出向いた。少し化粧をして、普段滅多に袖を通さないので綺麗なよそ行きの着物を選ぶだけでいっぱいいっぱいで、それ以上はなんだか自分の中の枠のようなものが壊れるような気がしたのだ。要するにキャパオーバーである。
あんまり気にしすぎても空回る気がして、彼女は雑渡と会うということをあまり考えすぎないようにした。
町から山に通じるいくつかの道のうちの一つ、そしてその道中の茶屋で、彼女はお茶と団子をお供に雑渡を待っていた。春の終わりの頃とあって、日差しは暖かく、吹く風も爽やかだった。まさに出かけるには打ってつけの日だ。
道に面して張り出された席で町の方へ続く道を眺めていれば、あの背の高い御仁のことである。すぐにそれと分かるだろうという彼女の予測は、見事に裏切られた。
「お待たせしました」
聞き覚えのある声に死角から名を呼ばれて、彼女は思わず瞠目して振り返った。小袖に袴、背には風呂敷包みを負って、雑渡はニコニコと機嫌の良さそうに笑っている。
「び、
……
驚きました」
「そうですか」
「てっきりあちらの方からおいでになるものとばかり
……
」
「ちょっと野暮用がありまして」
言いながら、雑渡も腰掛ける。様子を見にきた店員に「私も同じものを」と言って、雑渡は「いい陽気ですね」と息を吐きながら言った。
「ええ
……
ちょっと歩いたら汗ばむくらい」
言って、彼女は雑渡が汗を一筋たりともかいていないことに気がついた。この時期になると酷ければ汗の臭いも漂うほどだが、雑渡は山を一つ越えてきただろう風情なのに、それがない。文字通り、涼しげな顔をしている。
「
……
今日はどちらまで?」
「山向こうの村と、その先の川を越えたところにある村まで」
「それでは、朝早くから出立なさったのね」
「ええ、まあ」
「お疲れでしょう。お忙しいのに、お時間を割いていただいて、ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ」
折よく店員が運んできた茶と団子を受け取って、雑渡が器に口をつけるのに合わせて、彼女も残りの団子を頬張った。串を通した団子にそのままかぶりつくのは姫らしくないかしら、と口に入れた団子の感触を味わってから思い出す。もう遅いから諦めよう、と彼女は串を皿に置いた。
「あなたも、何かと忙しいのでは」
「雑渡殿ほどではありません。必要なものはほとんど蔵にありましたから」
「ですが、暇というほどではないでしょう」
「ええ、まあ
……
」
彼女は弱冠遠くを見張るかした。彼女の脳裏には、なかなか終わらない花嫁衣装の繕い物が立ちはだかっていた。
お茶のお代わりを訊ねた店員に断るついでに雑渡のぶんの料金も渡し、二人の器が綺麗になる頃、雑渡は初めて自分のぶんが既に支払われていることに気付いた。
「宜しいのですか」
「はい。今日、お誘い頂いたお礼です」
そう言われては強くは出られない。雑渡は厚意に甘えることにして、町で何か土産でも持たせようと決めた。
「普段はお出かけにはならないのですか」
「以前はしょっちゅう外出していました」
「行きつけの店でも?」
「あ、いえ、そういうわけでは
……
ないような
……
あるような
……
」
働く代わりに飯を食わせてもらっていた店のことは行きつけと呼んで良いのだろうか。顎に指を添えて首を傾げる彼女の視線が、ふと、とある店に留まる。
雑貨屋である。棚には櫛や紅も取り扱っているようだが、一際目立つのは簪だった。数人の女性が店の中で商品を眺めている。
「気になりますか?」
「、その
……
」
「寄って行きますか」
「あ、いえ。
……
ちょっと
……
埒外なことを思っただけで
……
」
今度雑渡が首を傾げる番だった。埒外とは、と黙然と促すと、少しだけ視線を彷徨わせていた彼女は、意を決したように口を開いた。
「この頃、佐渡の金が値上がりしたな、と」
「───」
雑渡は瞬いて、思わず雑貨屋に並べられているきらきらしい簪を見やった。ほとんどが漆や鼈甲だが、一部メッキの加工をしているだろうものも遠目に見つけられた。
「分かっています、らしくないことは。でも、その、
……
装飾が細かいとか、材質とか
……
らしくないことくらいしか、
……
」
忘れてください、と彼女が俯く。そうすると、雑渡からは綺麗なつむじしか見えなくなってしまう。雑渡は少し思案した。
「では、あなたらしいということですね」
「、」
反射的にか、パッと彼女が顔を上げる。丸くなった瞳は何度か瞬いて、やがて彼女は困ったように柔らかく微笑んだ。
結局、彼女の土産は雑渡の話す諸国での経済や物のやり取りの話になった。雑渡は、目をきらきらさせながら雑渡の話を聞く彼女がひとにぶつかりそうになるのを何度かさりげなく庇ってやったがしかし、彼女は背を抱かれても袖を引かれても、そんなことはどうでもいいとばかりに雑渡をあれこれと質問攻めにした。
今日はありがとうございました、色々お話いただいて、いやいや私ばかり喋って、いや私こそ、ご武運お祈りしております、と和やかに終わった逢引きの後、二人して「これでよかったんだろうか
……
」なんてことを思っていたと互いが知るのは、まだ先の話である。
◆
戦火が城下にまで及ぶのは稀である。彼女は変わらぬ日々を送っていた。変わったことがあるとすれば、雑渡との文のやりとりがなくなったことくらいだ。
敵情視察など、先んじて色々とやることがあるらしい兄は、身軽に一人で出立した。父はとうとう彼女が起きている時に屋敷を訪うことはなく、彼女が気がついた時には城に詰めて、他の武家と共に騎乗で町を進んでいた。中央を、黄昏甚兵衛がゆったりと進む。
「お見送りもなさらぬとは。先が思いやられまするな」
下女の堂々とした陰口に、彼女は半眼になって嘆息した。
「まだこの屋敷が本邸だなんて思い込むほど子供じゃないわよ」
老婆はギョッとして彼女を見やったが、彼女は知らぬ存ぜぬで繕い物を続けた。老婆はそそくさと部屋を後にして、彼女が厨に顔を出した時には下男の老体と何やらヒソヒソと話し込んでいるようだった。
彼女は朝に神社に参って、知っている顔の無事を祈り、昼間は繕い物や家のことをして、日が沈めばさっさと眠った。暗がりの中で他にできることもやりたいこともなかった。
二、三週間も経つころ、出立の時と同じように、黄昏甚兵衛は騎乗でゆっくりと帰ってきた。追随する部下は多少減っているが、行軍の様子から、此度もタソガレドキの勝利で戦が終わったのだろう。身内の帰還、戦勝の安堵、行軍の中に知った顔のいない絶望───悲喜交交湧き立つ町の陰で、彼女は相変わらず繕い物をしていた。とはいえ、ただの布だった頃からは見違えるほど、彼女の手元には見事な白衣装が完成を間近に控えていた。
父は帰って来なかった。戦の後は褒賞の差配があるから、目付は忙しくなる。兄もしばらくは帰って来ないかもしれない。おそらく、父に顎で使われているに違いなかった。
結局、戦が終わって一番に彼女の元を訪れたのは、山本陣内だった。
「ご無事のお帰り、お喜び申し上げます」
突然の来訪にも関わらず、彼女はおなごらしい格好をしていた。そして驚いた素振りもなく、丁寧に頭を下げる。合わせて、山本の体も自然に動き、頭を下げた。
中にどうぞ、と彼女が半身を引きかける。しかし、彼女は、ふと瞬いて、山本を覗き込んだ。
「何か
……
ございましたか」
問われた山本は、思わず瞬いて、口元を手で覆った。若い娘に気取られるほど、顔にも気配にも何かが滲んでいたらしいことに、己の中にある動揺が、しっかりと手に取るように分かる。
「
……
」
組頭が、と言いかけて、山本は「雑渡が」となんとか言い直した。
「負傷しました。全身に火傷を負い、意識は戻ったものの、指ひとつ動かせぬ有様です」
「───」
彼女はゆっくりと息を吸った。くちを真一文字に引き結び、奥歯をグッと噛み締め、力を入れた眼は、真っ直ぐに山本を見つめていた。
「ご家族の元に、いらっしゃるのですか」
静かな声音だった。寸暇、山本は言葉を失った。
戸板で運ばれる雑渡に、面影はなかった。全身が爛れ、赤黒い肉が剥き出しになって、夜闇にも不気味な光沢を持った血が、音もなく吹き出していた。雑渡は、かろうじてひとの形を保っているだけだった。早く治療しなければならないのに、誰もが一度は雑渡に触れるのを躊躇った。
山本は、眼裏にこびりついて離れない雑渡の姿と、目の前にいる娘の姿に吐き気を感じながら、「はい」と答えた。山本の胸中を知ってか知らずか、それがようございます、と彼女が頷く。
「戦の後ですが、薬や包帯は足りているのですか」
「今は、備蓄がございます故、なんとか
……
」
「いずれ足りなくなりますね。用意します。人を遣ってくださいますか。お忙しければ私が参りますが」
「あ、いえ、私が参ります、
……
おそれながら」
山本は怪訝そうな顔で彼女を見遣った。
「姫さまがご用意なさるので」
「? はい。どうせ父は何もせなんだでしょう」
「、
……
」
否定しかけて、事実その通りなので、山本は開けた口を閉じた。目付は、戦の後、それぞれの軍が受けた被害を把握し、戦果との塩梅を吟味して補填や褒賞を差配しなければならない。幾ら娘の婚儀の相手とは言え、目付の家を継ぐでもなし、死にかけている一兵のことなど、いちいち気にかけている暇はないとでも言いたげな態度は、山本たちの胸中を不穏に重たくさせた。
やれやれ、と彼女が嘆息する。
「兄は何とか都合をつけるでしょうが、早くて一ヶ月でしょう。それまでの繋ぎが要りますね。備蓄はあと何日ほどで底を尽きますか」
「
……
七日ほどかと」
全ての備蓄を雑渡に回せるわけではない。大なり小なり、怪我をした者は他にもいるのだ。皆、自分ではなく雑渡に使えと治療を遠慮するが、それを許す雑渡ではないことを、山本はよく知っていた。
苦慮を抱える山本に、彼女は「分かりました」淡々と頷いた。
「三日後にはものを揃えます」
「恐れながら、宛がおありでしたら、私が直に伺いますが
……
」
「次からはそうなさってください。でも、最初は私と参りましょう」
「
……
?」
不思議そうな顔をする山本に、彼女は「あるところにはあるのです」と神妙な顔をして言った。
三日後、山本は、忍務と称して詰所を抜け、彼女の元を訪った。彼女は一抱えほどもある葛を背負って、「では参りましょうか」と町へ出た。
彼女が向かったのは社寺地の方だった。彼女は勝手知ったるとばかりに敷地内にある屋敷に入って「ごめんください」と声を張り上げた。程なくして、住職と見られる坊主が現れ、「これは姫さま」と床に手を着いて頭を下げる。
「伴の方をお連れとは。ようやく姫さまらしくおなりあそばせて」
「住職、この方はうちの家人ではございません。失礼ですよ。謝ってください」
「これは失礼いたしました。で、例のあれですな、少々お待ちを」
よっこいせと立ち上がった坊主がサッと奥に消えてゆく。やれやれ、と彼女は半眼で嘆息した。
「すみません、ああいう御仁で」
「あ、いや
……
」
「あれでも明に行って帰ってきた優秀な人なんです」
「えっ」
明と言えば、海を越えた外つ国、大陸の中の大国である。現代で言う留学を無事に済ませてきた高僧とも呼べる存在がこの寺にいたとは、山本さえ知らなかった。
程なくして「お待たせしました」と戻ってきた住職は、どこにでもいるおじさんという感じで、鼻につくような居丈高な雰囲気は、どこにも感じられなかった。
「紫雲膏
……
火傷用の塗り薬ですな、それと、紫雲膏の材料と、調合を写したものです」
「ありがとうございます」
「懐紙でも、油紙でも、とにかく薄い紙か布に、薄うく塗り広げ、幹部に貼り、包帯で固定なさってください。薬は、朝と晩に一度ずつ変えるがよろしかろう」
「承知しました。これで何日ぶんですか」
「さて
……
日に懐紙一枚であれば、二ヶ月は持ちますが
……
」
二人は顔を見合わせた。彼女はすぐに住職に向き直った。
「また来ます。おそらく次はこの山本殿がおひとりで来られますから、よろしくお願いします」
「承りました」
恭しく頭を下げる住職に彼女と山本も礼を返し、二人は寺を後にした。町外れの辻堂まで来た二人は、彼女の背負ってきた葛に荷物をまとめることにした。
葛には、たっぷりの包帯と、たくさんの懐紙、油紙、古着や布が入っていた。薬はさておくとしても、それ以外であれば、二十日は持つだろう量だった。なんとか隙間を開けて住職から受け取った木箱を入れて、今度は山本が葛を背に負った。
「山本殿が背負うと途端に小さく見えますね
……
」
「そうですか?」
頬に指を添えてまじまじと見つめる彼女に、山本は改めて向き直った。
「姫さま、此度はまことに、お礼の申し上げようもございません」
「ああいえ、大したこともできず
……
」
「いいえ。大したことでございます」
力強い声音に、彼女は思わず口を噤んで瞬いた。いつになく真剣な顔の山本が、しっかりと彼女を見つめている。
「これは、必ず、届けます」
「
……
はい。皆様どうぞ、お大事になさってください」
山本は初めて、彼女に深々と頭を下げた。
小さくなっていく山本を見送って、彼女はひとつ、長く息を吐いた。
やらないよりはやった方が気が楽だから、山に入って薬草を採れるだけ採って、他に調薬に必要な材料を調達できるよう、町の方々に顔を出してあれこれ交渉し、住職に話をつけて、ほとんど徹夜で包帯を巻いたが、はて、これで良かったのかしら。
勝手に家名を使えば、目付が立場を利用して贔屓をしていると捉えられなくもない。三日間、ほとんど寝ていない彼女の頭は、これくらいしか考えられないほどには、頭が回っていなかった。
雑渡の意識が戻ったのは、雑渡が彼の家に運び込まれてから二週間が過ぎてからだった。戦で大火傷を負った日から締めて一ヶ月、もはや若い命は帰って来ぬだろうと構えていた忍の隠れ里の大半は安堵で肺を空にした。
一方の雑渡はと言えば、左目は使えんわ左耳も機能しないわ寝返りを打とうものなら全身の表面が捻じ切れそうになるわ、じっとしていても肌の表面をじくじくとした痒みを持った痛みが這いずり回るわで、何か考えていなければ数拍ごとに意識を失いたいと絶叫しそうになる程だった。心底から楽になりたくて、自分の加減を問う者が現れれば、どこそこの薬草を使って楽にしてくれという懇願が何度も口の中と喉元を行き来した。
けれども、それが音にならなかったのは、ひとえに諸泉尊奈門という十になったばかりの、こどものせいである。
見てくれが恐ろしいからか、それとも痛々しいからか、尊奈門は涙をポロポロ溢しながら雑渡に薬を塗り、水を飲ませ、包帯を替えた。初め意識が朦朧としていた雑渡は、高坂の手指が随分と小さくなったものだと思ってしまった。
陣左なら、泣くだろうが、楽にしてくれはするだろうと、固まった首をなんとか動かした先で雑渡が見たのは、目をまんまるに見開いたこどもが、静かに涙をこぼす様だった。数拍して自分が身を挺して助けた男の倅だと思い出した雑渡は、何も言えなくなってしまったのである。
大人達はと問うと、こどもは「みな、出はらっております」と大人の口調を辿々しく真似して言った。
「けがをしたものが多く、動けるものが少ないから」
「そうか。
……
お前の父は?」
雑渡は意識して、柔い声を心掛けた。何か言おうとする度に、掠れた喉が引き攣れて痛む。
「雑渡さまのおかげで、無事でございます。今は、戦の後始末に出ています。高坂どのも、同じく
……
山本さまは、城に詰めておられるそうです」
そうかと答えて、雑渡は己の脳みそが働いていないことに気付いた。普段ならば人の話を聞いているうちから次の指示が弾き出されているのに、それが無い。鉛のように重い体は、雑渡の意識を泥濘の中へ引き摺り込んでいった。
次に雑渡が目を覚ましたのは、日差しの眩しい昼間のことだった。
「雑渡さま、」
弱々しいが聞き覚えのある声音に、やはり左が聞こえんなと落胆する。
「陣左
……
」
「はい、」
すぐに傍寄る気配がして、雑渡は息をついた。吸い口が差し出され、唇に当てられる。最小限の動きでそれを喰むと、少しずつ水が流し込まれる。口の中が、喉が、胃の腑が冷たく染み渡るそれを歓迎して、雑渡はゆるりと緩慢に瞬いた。そっと吸い口が外される。何も言わぬでも望んだとおりに動いてくれる高坂に、雑渡は胸の内を楽にした。
「ご気分は、いかがですか」
「最悪だね
……
」
「痛むところなど、ありますか」
「全身」
「
……
これ以上の麻酔は、体に毒だと」
「だろうね」
忍であるが故に、ある程度の毒薬には耐性をつけて育てられたせいで、雑渡達の体は薬が効きにくい。毒には耐えられても、代償として良薬が効能を失うのだ。
「
……
尊は?」
「今は、家で休ませております。今晩から、あれがお側につく予定です」
それまでに、何か召し上がってください、と高坂は腰を上げた。
「粥など、お持ちしましょう」
「ん
……
」
高坂の離れる気配を追おうとして、肌の痛痒い感触に阻まれる。これでは空気を察して気配を読むなどとてもではないが難しい。雑渡は苛立ちを嘆息に変えた。
程なくして、高坂は鍋と脇息を持って雑渡の元に戻ってきた。自分の意思では全く動かせない体を助け起こしてもらい、なんとか座って、脇息に体重を預ける。
匙で掬った粥をふうふうと冷まして差し出す高坂に、雑渡は何も言わなかった。普段なら甲斐甲斐しいねと揶揄っているところ、そのような元気もなければ、自分の腕を動かして匙を持つのも億劫だった。
「どれくらい経った」
「ひと月ほどでございます」
「領地の切り取りは」
「万事予定通りに監察が取り計らっております」
「怪我人は」
「雑渡さま以外は、皆ほぼ全快です。諸泉殿は引退されるとの由にて
……
」
「もうそろそろ定年だったしね。いいんじゃない。組頭は?」
「山本殿と城に詰めておられます」
「押都は」
「他領の動きを探っております。もう間も無く帰還するかと
……
」
「そう」
粥をほとんど噛まずに舌で押し潰して胃の腑に流し込みながら、後は何を確認するかと雑渡は思考回路をさらった。何か忘れている気がするような。しかし、今回は戦後処理をどのように進めていくか事前に監察側と詳細を詰めていたのだから、何も憂うことはないはず、とそこまで考えて、雑渡は「あ、」とひとりの娘を思い出した。
「そうだ。私の縁談ってどうなったの?」
「
……
それが、生きております」
「えっ」
雑渡は素直に驚いた。一度死に体になった男との婚儀を、あの監察の家がそのままにしておくのは意外に過ぎた。組頭は老体で、次代と目されていた雑渡が自分では碌に動けないような有様なのだから、忍軍と協力体制を取るのではなく、忍軍を取り込む方向に、とっとと舵を切りそうなものだが。そちらの方が、婚儀などと、まどろっこしい真似をせずとも、黄昏甚兵衛に働きかけるだけで事足りる。
「戦後処理に忙しいというのもありますが
……
どうも、監察の家の方で、何かあるようで」
「ふうん
……
?」
雑渡は脇息に頬杖をついた。差し出された匙を、ぱくりと咥える。
「気になられるようでしたら、探りを入れて参りますが」
「うん。まあ
……
流石にちょっと、かわいそうだしね」
冷戦状態にあった監察と忍軍も、雑渡と監察の娘の婚約で、表向き、仕事をするだけなら、諍いや問題は激減した。互いに合理に寄っているところがあるのだから、一度きちんと噛み合わせた歯車がそう簡単に外れることもないだろう。
鏡で自分の見てくれを確認したわけではないが、もしかすると一生寝たきりの、後はただ死を待つしかない男に、年若い娘が嫁がされるのは、あまりに哀れがすぎる。
婚約が破棄される方向に進んでいるならば良しと、雑渡は気軽に高坂を送り出した。
翌日、高坂は山本に聞いた場所を訪れていた。厳しい武家屋敷の間に、人がひとり、ようやく通れるくらいの門の前で、高坂は何度か瞬いた。仮にも家中のひとつである監察の屋敷が、こんなにもこぢんまりとしているはずがないからだ。
「御免」
声を張り上げると、少しして、初老の下働きらしい無愛想な女が顔を出した。雑渡の遣いと名乗ると、老婆は高坂を中に通し、庭に面した部屋の前で「姫さま、雑渡さまの使いの方でございます」とぶっきらぼうに言った。
「お通しなさい」
高坂は廊の板間に手を着いて頭を下げ、障子の開けられる音を聞いた。一礼した老婆がそそくさと下がる。
「どうぞ、お顔をお上げください」
「は、」
手を着いたまま、高坂は顔を上げた。初対面の高坂に驚くそぶりもなく、きちりと座した娘が静かにこちらを真正面から見つめているので、高坂は寸暇、意外に思った。
「お初にお目にかかります。高坂陣内左衛門と申します」
彼女も三つ指を着いて、名を名乗る。丁寧で、真面目な声音だった。あの男の娘なのだから、こちらを見下して当然と心のどこかで思っていた高坂は、少し意表を突かれた心地だった。
「その後、雑渡殿をはじめ、皆さまはいかがお過ごしですか」
「おかげさまで、皆、回復に向かっております。雑渡に関しましても、昨日、意識を取り戻しましてございます」
「それは
……
ようございました」
ほ、と安堵の息を吐く彼女の頬が、柔らかく綻ぶ。高坂は数度瞬いた。彼女が本当に心底から雑渡の容体を案じていたらしいのを、想像できていなかったということに、高坂は初めて気がついた。
「ですが、ひと月も生死の境を彷徨われたのですから、まだまだ予断を許さぬ状況でしょう。また必要なものがあれば、いつでも仰ってください」
「
……
は、
……
もったいなきお心遣い、感謝いたします」
とんでもございません、と彼女が会釈する。それがどうにも、婚約者という立場からではなく、ひとえに重態の身内を案じる者のそれで、高坂は少しだけ混乱した。
「
……
時に、姫さま」
「はい」
「此度の姫さまとの御婚儀について、目付殿はいかなるお考えをお持ちでいなさるか、ご存じはございませんか」
彼女の顔から、す、と温かみが消えたことに、高坂は目ざとく気が付いた。
「
……
父はここのところ城に詰めておりますので、婚儀については、延期とだけ聞き及んでおります」
「左様でございますか
……
」
「寧ろ、高坂殿は何かご存知ではありませんか」
思わず、高坂は言葉を詰まらせた。しかしすぐに取り繕って、「生憎、」と申し訳なさそうな声音を操る。
「我らにも今しばらく沙汰はなく
……
、」
「
……
そうですか」
嘆息しながら言った彼女を、盗み見る。静かな瞳の中に諦念が見え隠れして、高坂は心に蓋をするように瞼を伏せた。
「褒賞やら何やらが落ち着くまでは、何も動かないかもしれませんね」
「左様でございますか」
「父が何も言わぬはいつものことですが、兄からの便りなどもさっぱりですし
……
、雑渡殿や皆様方に、どうぞお大事になさってくださいと、くれぐれもよろしくお伝えくださいませ」
「承知仕りましてございます」
屋敷を辞そうとした高坂に、彼女は土産として、昨日採取したばかりの薬草と包帯を持たせた。風呂敷包みを渡された方の高坂は、今度こそ小さく瞠目した。
「昨日、採取された、とは
……
」
「? そのままの意味で
……
あぁ、煎じるならもう二、三日は乾燥させた方がようございます。委細は山本殿がご存知です」
「え、あ、はい、
……
まさか、姫さま、御自ら
……
?」
高坂に覗き込まれて、彼女はちょっとだけ罰が悪そうにくちをきゅむりと引き結んだ。ちら、と視線が彷徨う。
「その
……
まあ、はい
……
手間も金も節約になりますし
……
その
……
らしくないことは承知なのですが
……
」
日々、やることがなくて、暇で、なんぞと言ってはならぬことぐらいは、彼女にも空気が読めるつもりだった。
「山に、入られたのですか」
「あ、はい」
「お一人で」
「はい」
「危のうございます」
「え、あ、はい
……
? そうですか
……
?」
「
…………
」
片眉を寄せて怪訝そうに高坂を見上げる彼女に、高坂はうっかり言葉を失った。
しっかりしているんだか、そうでないんだか、よくわからない姫さまである。
次に山に入るときは絶対に二人以上でと言い含めて、高坂は彼女の前を辞した。彼女はきちりと頭を下げて、高坂を見送ってくれた。
薬草と包帯を持って帰ってきた高坂を見て、雑渡はふと、自分の記憶より医療品が充実しているということに、ようやく気がついた。
「陣左、それ」
「目付のご兄妹からのご厚意でございます」
「
…………
」
「いずれ身内になるのだから気にするなと兄君が仰せでした」
雑渡は思わず眉間を指で抑えたい衝動に駆られた。実際は腕も足も、思ったように動かなかったが。全ての動作を、焼け爛れた肌が阻害する。
「
……
身内贔屓じゃないかい」
「いえ、妥当な手当です。贔屓と強いて申し上げるならば、配給に二ヶ月かかるところを、一ヶ月に縮めていただきました」
「
…………
それぐらいはしないと、寧ろ体裁が悪い、か
……
」
「まあ、父にはごり押した、と仰っておいででしたが」
雑渡は嘆息を堪えきれなかった。自分が配下達に好かれている自覚はある。目付に貸を作ることになるとか、他の家臣からどう言われるかとか、そういう政治的なものをいったんさておいて、自分の命を優先してくれたのだろう。
尊奈門の泣き顔が脳裏をよぎる。
……
現在進行形で身を助けられている分際で、余計なことは言えたものではない。それに、高坂が妥当と言うのなら、そうなのだろう。
「ご兄妹は、父君に似ず、ずいぶん義理堅いんだね」
「全く、話の分かる方々でございます」
高坂の言い分に、雑渡は思わず、小さく吹き出した。
「私との話がだめになったら、お前に任せようか、陣左」
「は!?
……
ご冗談はおよしください。私は家を出た身ですよ」
「そうか。だめか」
「だめに決まってるでしょう」
しかし、雑渡は何を思ったか、以降しばらくの間、彼女とのやり取りを、城に詰めている山本の代わりに、高坂に頼むようになったのだった。
つづく
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