有栖川
2025-01-26 22:13:29
15952文字
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きみのとなりでおやすみがしたい⑤

未来捏造if、記憶喪失でnoeg終了直後まで戻っちゃったkisが恋人を名乗る二十三歳の41と一緒に暮らす話
攻め記憶喪失のkiis
bcr多めです

※実際の医療知識などには基づかないファンタジー記憶喪失なので、フワッと見ていただけると幸いです




05 おやすみ地獄で逢いましょう





 疑惑の引き出しは、文机の横に隠し扉ふうにして設えられていて、鍵が掛けられていた。デザインからして、元々この机に備わっていたものなのだろう。そしてこの机はほぼ確実にカイザーが買い、使用していたものだ。
 となればここに仕舞われているものは、……記憶を失う前のカイザーが隠そうとした何かなのではないか?

——日記か?」

 何の確証もないが、ふと、そう思った。
 逆に言うとそれ以外に、鍵を掛けてしまっておくようなものなど自分にはない、と思ったのだ。カイザーが持っているものなんて、最低限生活に必要な必需品と、そこそこの数の便利家電と、多少はこだわっている衣服、あと大量の心理学や哲学の本ぐらいのもので、とりたてて人に見られて困るようなものは所持していない。たったの七年かそこらで自分のその核の部分が変わるとはにわかには信じがたかった。それに仮に重要書類や金目のものを入れておくにしても、この引き出しはどうにも狭すぎる。

「鍵は…………どこだ?」

 なら考えろ。自分が鍵を隠しそうな場所を探せ。まず思い当たるのは肌身離さず持ち歩いている財布とキーケース。だが、改めて中をさらっても、隠しポケットの類を含めてそれらしきもの出てこなかった。では次はクローゼットのどこか。しかしそこも、掛かっている服のポケットひとつひとつを漁っても、レシートのひとつも出てきやしない。では寝室の他の引き出したちは。思い当たるところを片っ端から探してみたが、鍵なんてひとつもありはしない。
 ……この部屋で日記を使い、仕舞っていたとするならば、この部屋の外に鍵はない気がする。
 七年で思考が大幅に変わっていない限り、カイザーなら、そうする。利便性を……つまり合理性を重視するからだ。この家の外に隠しておくなんて以ての外で、寝室内にしたって、取り出すのに多大な労力を要する床下などは有り得ない。
 だというのに思い当たりそうな場所のどこにも鍵がないということは、……まさかと思うが、

…………世一が隠してる・・・・・・・?)

 そんなバカな、と思うのと同時に、有り得なくはない話だ、とも感じる自分がいた。
 もしその日記帳に、世一にとって都合の悪いことが書かれていて、ヤツがそれに気付いたとしたら。
 たとえば自分たちは本当は付き合っていなくて、顔を合わせるのにも辟易していたなんぞと書かれていたら、世一が何故か行っている「恋人ごっこの嘘」を続けるためには、隠しておくしかないだろう。
 そんなに見られたくないなら棄てるか燃やすかすればいいのにと思わなくもないが、世一たち日本人は「モノには魂が宿る」というアミニズム的思想を信じていると大昔に黒名あたりから聞きかじったことがあるので、苦渋の末とりあえず隠すという選択を取った可能性は十分有り得る。

(だとしたら、世一を問い詰めるか? だが……

 手詰まりに陥り、寝室で立ち尽くす。顎に手を当てて唸っても、クリティカルな答えは出てきそうになかった。まず、まだ世一が犯人だと決まったわけではない。引き出しの中身が日記とも限らない。すべては記憶を失ったカイザーの頓珍漢な思い込みに過ぎず、盛大にスベって、ただ恥を晒すに終わる可能性も高い。
 それにもし世一が犯人だったとして、あの男が素直に白状するような性格をしているだろうか?

「おはよ、カイザー……あれ? もう起きてたんだ」

 そんなカイザーの葛藤などまるで素知らぬ顔で、とてとてと足音を立てて世一が寝室に入ってくる。シンプルな黒のエプロンをかけ、手にフライ返しを持ったままという間の抜けた格好をした世一に、しかしからかってやる気にもならず、カイザーはおもむろに声のした方へ振り返る。

……たまにはそういう日もある」

 精一杯嫌味っぽく鼻を鳴らしてみたものの、世一にはまったく響いた様子がなかった。

「でも珍しいなって。……ヤな夢見てうなされてたとかない?」
「別に……夢なんぞ滅多に見ねぇし」

 何にも分かってないようなツラして何もかも見透かしたようなことを言ってくる男に、心底嫌気が差す。
 なんで、そんな、理解者みたいな顔してくるんだよ。
 何もわかってないくせして。……人の気も知らないくせに。

「ほら、着替えて、すぐ来て。朝ご飯出来てるよ、目玉焼きは焦がしてないからさ」

 笑顔で微笑む世一の姿は、数日前と何も変わらないはずなのに。焦りと苛立ちが止まらなくて、平静ではいられない。
 キッチンに戻っていく世一を尻目にクローゼットを再び開き、突っ込まれていたジャージを手に取って袖を通す。ポケットの中には何も無い。ルーチン通り洗面台に向かって、日本語が書かれたボトルの中身を勝手に絞って顔を洗った。相変わらずコックは温水に合わされたままだったがどうでもよかった。洗面台にも鍵の姿はない。生ぬるい湯の温度に思考がシャッキリしないままダイニングへ入ると、綺麗に並べ立てられた美しい朝食たちが目に入る。

「ふふん、今日の朝ご飯はちょっと自信作」

 ほら座って、とカイザーを席に着かせようとする世一のエプロンポケットにも、ダイニングテーブルにも、カイザーの求めるものは影も形もなかった。
 無理矢理座らされて押しつけられたフォークを手に取る。昨夜は夕飯を抜いてしまったから、腹が減っていて当然のはずなのだが——けれど世一が手ずから盛り付けたサラダも、小ぎれいによそられた目玉焼きとソーセージも、きつね色に焦げて湯気を立てるパンも、どれひとつ、食べる気にならない。

……カイザー?」

 その様子を、流石に不審に思ったのだろう。
 フォークを握り締めたまま固まってしまったカイザーの顔を、世一が気遣わしげに覗き込んで来る。「嫌いなものは入ってないはずだけど……大丈夫? やっぱり気分悪い?」それから世一が、ゆっくりと、手のひらをこちらへ伸ばしてくる。恐らくは額に手を当てて熱を測ろうとしているのだ。

——やめろ!」

 それがどうしようもなく気持ち悪くて、カイザーは思わず声を荒げてその手を叩き落とした。

「え?」

 世一の目が、驚きに見開かれ、そして歪む。落とされた反動で世一の手がカイザーの皿に突っ込み、目玉焼きに直撃して衝撃で中身が潰れて漏れた。どろり、と、固まりきっていない黄身が零れ落ちていく。
 汚した。その様を見て、カイザーはそう思わずにはいられなかった。
 汚した。この手で。
 潔世一を汚した——不可逆の形に。
 そのことにどうしようもなく胸を締め付けられる心地がして、けれどその意味が分からず顔を振ると、世一が、ゆっくりと顔を上げ、こちらを見てくる。

「なにすんだよ…………

 声音は僅かに震えているように聞こえた。
 当然だろう。ではその目に映るのは恐怖か、怒りか? はたまた失望か?
 んな顔してるなら、一言で一蹴してやるよ。ざまぁみろってな、お前が何を企んでいるのかは知らないがそう思い通りにはならねぇってことだよ、そんな心ない言葉を吐き散らかそうとして、

……カイザーのごはん、だめになっちゃったじゃん」

 だけど、とてもそんなこと言えやしなくて、代わりにヒュッと喉を鳴らす。

「なんで……
「え? カイザー?」
「なんでキレねぇんだよお前は……

 それでとうとう、口から、そんな無責任で身勝手な言葉が転がり落ちてはじけた。
 なんでまだそんな顔してられるんだよ。
 嘘つきのくせに。
 嘘吐いて騙してるくせに。
 ……お前だって・・・・・罪人のくせに、いったい何故、そんな、美しく清らかな瞳をして、愛を向けてなぞこられる。

「怒れよ。それが正常な反応だろ。俺の癇癪のせいでお前の手が汚れたんだ。今のは怒る場面だろーが、何俺の心配なんぞしてやがる。……怒れよ! 頼むから怒ってくれよ!」

 手が、飛び出る。
 黄身でドロドロになった世一の手を掴み取って、わからず屋の子供同然にそう叫んだ。カイザーの力の強さに世一がうっと呻く。
 けれどそれでも、世一は首を横へ振って、カイザーの嘆願を斬り捨てる。

「怒んないよ」

 世一が言った。

「怒んない。勘違いしないでほしいけど、べつに我慢してるってわけじゃないから。ただ、怒る気はない」
……どうして、」
「カイザーと幸せになりたいから。……幸せになれるって信じてるから、俺は怒るよりもお前に寄り添いたい」

 ささやく青の双眸は澄み渡って美しく、温かく、どこまでも優しかった。

…………ふざけるなよ!」

 気付いた時には、衝動的に掴んだ手を払い棄て、叫んでいた。
 ふざけるなよ。ふざけるな。世一が何を考え何のために動いているのかまったく全然わからなくて、まるで宇宙人と喋ってでもいるみたいだ。
 いや……下手をすると、宇宙人のほうが話が通じるかもしれない。気に食わないハズのことをされて怒りもしないコイツより、領土拡大のために攻めてくるエイリアンの方がまだ、理解が出来る。

「ッ、これ以上、お前なんぞといられるか……!」

 頭がどうにかなりそうだ。
 もう一秒と長く、コイツと同じ空気を吸っていられない。その一心から、ガタンと音をたてて勢いよく立ち上がる。「カイザー、待て!」そこでようやく焦ったように目を見開き世一が叫んだ。自分のせいで心を掻き乱されている姿がやっと見られてせいせいする。けれどそのぐらいで溜飲が下がる——というか落ち着けるような精神状態では最早なくて、カイザーは世一の制止を振り払い、ダイニングから駆け出していく。

「カイザー!」

 もう何も知るもんか。
 その一心で、脇目もふらず玄関に走った。スマホはジャージのポケットに入っている。充電も十分だし、決済機能も全部入ってる。外をぶらつく程度で困ることはない。幸いのことキャップとサングラスも玄関にある。
 それに……たとえ変装がなくても、まともなやつなら、今日のカイザーに話し掛ける度胸など持てないだろう。それでも声を掛けてくるやつがいるとしたら余程の身の程知らずで蛮勇の持ち主だ。

「頼むから俺をひとりにしてくれ……!」

 追ってくる人影を背に感じながら、ワケも分からぬまま叫んで、靴を履いて走り出す。
 振り返ることは決してしなかった。そうしたら決意が鈍ってしまうような気がしたから。
 だから一目散に走り続けて、……そのせいで、置いて行かれた世一が、黙ってスマートフォンを手に取り、誰かに連絡を取っていることには、気付けなかった。




 怒り任せに自宅を飛び出し、ランニングコースを逸れて、足が勝手に向かうまま地下鉄に乗った。ジャージでうろつくのは近場のみと長年決めていたはずだが、今はもうとにかく一秒でも早く世一から離れたくて、そんな些細なことはどうでもよく思えた。
 キャップを目深にかぶり直してマリエン広場駅で降りると、近場の美術館の方を目指してふらふらと歩きはじめる。もしかしたらもう一度糸師冴に会えるかもしれないという欲目が、ほんの僅かにあった。あれから一日が経過しているので、もうヤツもドルトムントへ移動してしまっているかもしれなかったが、それでも、藁にも縋るような思いだった。

……は、クソだせぇ、マジで笑えるぜ、最悪だ)

 だが当然、そう都合良くヤツの姿など見つかるはずもなく。
 期待が空振りに終わったせいもあってか、賑わう市街をひとりで歩いていると、どうにも寂寞めいたものがせり上がってきていただけない。そうして思い出すのは、つい数日前、このあたりを世一に「デート」だとか言われて連れ回されたあのときのことだ。

 あの日世一は幸せそうにカイザーの手を引き、微笑んでいた。
 カイザーはその横顔に心惹かれ、可愛い、なんて思わされ、コイツが好きなんだと自覚させられてしまった。
 救われない恋心を。
 ……こんなことならいっそ気付かずにいたかったのに。

(クソが、俺はどうしたら救われる)

 あいつへの気持ちを知らなかった頃に戻りたい。そう思わずには、とてもいられなかった。そのぐらい今のカイザーは世一に心乱されていて、そしてその混乱は失われた過去によっていや増していく。

 もしかしたら二十六歳のミヒャエル・カイザーおまえも同じだったのか?

 答えのない自問自答に自嘲しながら、肩を落とし息を吐く。記憶を手放したのは、ひょっとしてこの救いようのない愚かな感情を終わらせるためだったのだろうか。だとしたら自分勝手にもほどがあって笑い話にもなりやしない。
 だいたい、忘れたところで、結局カイザーはまた世一を好きになってしまったのだ。そしてきっと何度忘れても、あの男が真っ直ぐ向き合ってくれるたび、ミヒャエル・カイザーは潔世一に恋をしてしまう。
 未来の自分はそんなこともわからないぐらい愚か者だったのか。
 それとも或いは、そんなことは分かっていて、でもそれでも、消し去りたい何か・・・・・・・・——

——ちょっとちょっと、そこのおにーさん」

 と、混迷しはじめた思考が、突然後ろから肩を叩かれる感触で遮られた。「おにーさんてば、聞こえてる?」突然のことに驚いて思わず立ち止まると、追撃のように二度、三度とバシバシ肩を叩かれる。
 クソが。けっこう痛い。お前自分の力加減を自覚してやれよバカかと罵りたくなって、けれど口を開いて罵倒を浴びせかけるより先に、三度目の正直と言わんばかりに名前を呼ばれる。

「ありゃ? 気付いてない? いやコレ気付いてはいるよね? もー、だから〜……こっち見てってばー、カイザー・・・・
「は? ——あっ」

 その妙に馴れ馴れしい調子の英語に、ギョッとして思わず振り返ってしまい、そして引っ繰り返ったような声を漏らした。
 するとその間抜けな様に、肩叩きの犯人がいたずら成功した悪ガキのようにニッと笑う。

「おー、やっと見た。おっすおっす、元気してますかー。ちょっとお話しないー?」

 カイザーは思いきり舌打ちをして、立ち止まった自分の選択を後悔した。
 コイツは……最悪だ。まさかあり得ないだろうと思っていたはずの、余程の身の程知らずで蛮勇の持ち主のご登場ときた。

「お前……スペインチームに所属していた…………

 蜂楽廻が、——潔世一の〝親友〟が、そこにいる。
 何でだかは知らないけど。




◇ ◇ ◇




 街中で蜂楽に見つかり、ウッカリ振り返ってしまったのが運の尽き。
 たでさえ目立つ風貌をしているカイザーと身バレに無頓着としか思えない大声を出した蜂楽のせいであっという間に衆人環視の的になってしまい、カイザーはやむなく、殆ど観光客には知られていないような、昔からこのあたりに居を構えている隠れ家的な店に蜂楽を連れ込んだ。
 心底心外だったが、最早こうするしかなかった。とにかく一度人の目を撒かなければ話にならないし、蜂楽ごと引き摺って連れて来ない限り、蜂楽がカイザーを追いかけたりなんかして、余計に目立ってしまうようなそんな予感がしたのだ。

「それでなんでお前があそこにいるんだよ」

 適当に注文を済ませ——カイザーがホットコーヒーを頼む目の前でクソ甘そうなドリンクを注文されてすでに胸焼けがして余計機嫌が悪くなった——蜂楽に凄む。
 しかしコイツはコイツで世一より図太そうな笑顔を浮かべた挙げ句、「ありゃ?」とかマイペースに小首を傾げたのだった。

「潔から聞いてなかった? しばらくドイツに滞在してるって」
「それは知っているがわざわざ俺の移動経路に現れてクソ邪魔くさく声まで掛けてきた理由の方だよ」
「あ〜、それはまー、偶然、かな?」

 ほとんど八十パーセントぐらいね。
 蜂楽が行儀悪くテーブルの上に肘をついてにししと笑う。残りの二十パーはなんなんだよ。マジで世一の差し金かなんかか? そう胡乱な目を向けると、蜂楽はカイザーの思考をさらっと読み取ったらしく、「別に俺は潔に告げ口とかはしないよ」とサラッと言い切った。

「俺は確かに潔の友達だけど。でも、大事な友達だからこそ、言われたことを全部イエスで受け流すべきではないなーって思ってる。そんで出来たら友達の大事な人もいい感じで終わる道があれば最高だよねー」
……頼まれてることは否定しねぇワケだ」
「そだね、でも、ホントに、潔には伝えないよ。カイザーに聞いたコトは、なんにもね」

 会ったコトも、解散するまではナイショにしとくね。疑うって言うんなら全身ボディチェックしていいから。
 そう言って蜂楽がポケットからスマートフォンを取り出し、カイザーの前にどかりと置いた。「隠し通信機とかもないからね」次いで目配せしてポケットの中身を全部ひっくり返そうとする。
 コイツのことは、今のカイザーの認識ではピッチ上で一戦やり合った程度の認識で殆ど何も知らなかったのだが。
 良くも悪くも、……いや八割ぐらい悪いか、とにかく表裏のない性格らしい。

…………いい、どうせ裏切るかどうかはあとで世一の態度見りゃクソバレだ。そんで何が聞きたいんだよ」

 ばかでかい溜息を吐くと、蜂楽へのガードを諦め、手のひらを返して先を促す。すると蜂楽はニコリと笑って元気よく手を上げ、直球にこう宣った。

「はいはーい! 潔のこと好き? 今どー思ってる? ——ていうか、何があって拗れた? 洗いざらい吐いちゃって♪」




 勢いに押されたのか、示された誠意に思うところがあったのか。或いはいい加減、抱え込むことに疲れていたのか。
 蜂楽に問われたあと、カイザーは自分でも意外に思うぐらい素直に、これまでの経緯を話して明かした。記憶喪失になってしまったこと。世一に恋人だと言われていたが、たまたま出会って冴と話したことで、その言葉に疑念を抱くようになったこと。そしてそれでもなお世一を憎めない自分がいること。

……にゃるほどね。そっか、冴かぁ。そこはちょっと予想外だったなー、……潔、口止め頼んでたの、確かバスタード・ミュンヘンの連中だけだって言ってたし」

 あ、あと、一応俺もね。今思いっきり破っちゃってるけど。
 話を聞き終わると、蜂楽はふうと重ために息を吐き、困ったようにそう笑った。

「口止め……ってコトはやっぱ世一はあいつらに片棒担がせてたってワケかよ」
「そだね。潔ってば、カイザーにどーしてもホントのこと思い出してほしくなかったみたい」
……付き合ってるなんぞと騙くらかしてたことがバレるからってか? 信じられねえぐらいクソ肝の小せぇヤツの発想だな」
「んにゃ、そんなんじゃないよ。……そんなんじゃない。潔世一がその程度のストライカーかいぶつじゃないのは十九歳のカイザーでも知ってんじゃない? だからこそわかんなくて困惑してるんでしょ?」

 真相がその程度の浅知恵だったら、もう気持ち良く看破してるでしょ皇帝さん。唇の端を意地悪く釣り上げて蜂楽が言う。
 確かに……蜂楽の言う通りかもしれない。その可能性にはカイザーだってもう思い至っていた。でも、それが真実だとは確信できないから、こんなに苦しんでうろうろしてこのブンブン喧しい蜂に捕まってしまったわけだ。

……なら何が答えだって言うんだ」
「んー。ゴメンけどそこまでは潔も教えてくれなかったんだよね。ただ、潔なりに、色々考えた末の決断なんだなってことは分かった。あのねカイザー、潔世一ってヤツはさ、伊達や酔狂なんかで皇帝アンタの恋人名乗ったりしないよ」
……だから?」
「潔は本気でカイザーのことが好きだよ。本気で、本心から、愛してる。そんでカイザーに、……うんにゃカイザーと一緒に、幸せになりたいと願ってるんだ」

 カイザーが疑り深く問いただすと、蜂楽は指先で魔法を描くように空中で何かのカタチを描いた。そして、最後にその指先をピッとカイザーの鼻っ柱に伸ばして突きつけてくる。

「だからこれだけ確認さして。——アンタは潔のことどう思ってる? ここで誓ってよ、ミヒャエル・カイザー」

 本当に、恐ろしく、いっそ悍ましいほどに、怖いもの知らずな野郎だと心底そう思った。

……ンなことお前が知ってどうするんだよ」

 思わず、掠れた声が漏れる。嘘だ。問わずともそんなことわかってる。コイツの目、底なし沼のように深く鋭利な金色を見れば嫌でも分かる、この男はカイザーのことを測っている、——誇り高き青薔薇の皇帝が、どこまで深く、プライドを棄ててでも、潔世一に狂っているかを。
 どうにもならないぐらいもつれ合って絡まる覚悟がなければ、その先には進めないよとでも言うように。

————俺が、あいつのことを、クソどうしようもなく好きだと知って。裏切られてもなお愛してしまいそうだと知って。どんなちっぽけな人間だろうと最早手放せないらしいと知って。記憶を失って尚あいつに絆されて落とされたクソ馬鹿野郎だと知って。……これで満足なのかよ、クソ蜂」

 チッ、クソの門番気取りが。
 そう思う一方で、唇は、観念して全てを吐き出してしまっていた。別にコイツのお眼鏡に適いたいわけなんかじゃなかったが、もしコイツが何か重大な真実を握っているというのなら、一刻も早くそれを手に入れたかった。かつて心の中の欠けたピースを求めて苦心したときのように、記憶の中の欠けたピースを求めて、勝負に出た。
 ——どのみちこの瞬間を逃せば、きっともうカイザーに取れる手なんてないのだから。

「そっか」

 そうして、果たして、カイザーは。

「だったら。——もう、コレ隠してるのは、フェアじゃないかもね」

 己が課した賭けギャンブルに勝った。

 カチャン、と金属がぶつかるような音を立てて、何かがテーブルの上に落とされる。それは薄青色の巾着袋の形をしていた。「いーよ、手に取って中開けなよ、俺も中身知んないケド」蜂楽がすっと目を細めて笑う。カイザーは舌打ちしながらも巾着袋を奪い取り、そして、紐を緩めて中身をひっくり返す。

——ぁ、」

 中には、小さな鍵がひとつ入っていた。
 あの引き出しの鍵だと、直感的に理解った。

「お前、コレが何か……
「だから知らないって。でも、潔がわざわざ俺に持っててって頼むぐらいだし、きっとカイザーに見つけてほしくないものなんでしょ? きっとコイツが、カイザーが今一番知りたいコトを握ってる。——今はアイツしか知らない、全部の真実ってヤツ」

 ゴメンね潔、でも、こーするのが一番いいと思うんだ。蜂楽廻はにゃははと声を出して笑い、最後に、猫みたいに指を曲げてピンとカイザーの額を弾いた。普通に痛い。死刑執行ものだ。
 でも、世一を裏切って鍵を献上してきたこの功績によって、今この瞬間だけは許してやってもいい。

……不敬を見逃すのでトントンだ、礼は言わねぇぞ」
「ん? いっすよぜんぜん。別に恩とか売ったつもりもないしー、潔のコトを思って一方的にお節介焼いただけだし?」
「は、ホンット、……青い監獄ブルーロックの連中はクソみてぇなジコチュー野郎ばっかだな」
「そりゃそーっしょ、なんたってエゴだけで生き残ってきた俺たちなんだからさ♪ ……でも」
…………
「でも、そのエゴが、世界とか救うこともあるかもね。アンタの世界はどう? 救われそ?」

 ひらりと手を振り、蜂楽が尋ねかけてくる。カイザーは鍵を握り締めると静かに首を横へ振った。なるほど、蜂楽も、世一も、監獄で育った生え抜きのエゴイストの名に恥じない、クソ忌々しい性質を確かにしているらしい。
 人生を変えるのは己の内から湧き上がる強烈なエゴイズムのみ。だからゴールを求めて愚直にサッカーボールを追ったのと同じ動機で、まず潔世一はヤツのエゴのために嘘を吐いた、という。

 ではカイザーは? このエゴは……いったいどこへと繋がっている?

……知るかよ、ンなこと。God only Konws神のみぞ知るだ、尤も俺の世界に神なんぞいないがな」

 結論はいつだってそれだ。だからNobody knows誰も知らない。全ては結果でのみもたらされる。
 蛇が出ようが鬼が出ようが、プライド全部棄ててベットして、勝つしかないのだ。
 あのフランス戦でだって——そうしてカイザーは新しい自分に生まれ変わった。今度もまた、同じことをするだけだ。

「あらら、強気だね。でも今までで一番イイ顔——全部ブッ壊してきなよ、カイザー♪」

 そう言ってやると、蜂楽は今度こそ邪気なくまっすぐに笑って、「がんばれー♪」とお気楽に手を振りカイザーを送り出したのだった。




◇ ◇ ◇




「おかえり」

 自宅に戻ると、世一は、当たり前のような顔をしてすこし早い夕飯の準備をしていた。今日は平日じゃなかったか? そう思いつつリビングに足を踏み入れ、少し離れた所から世一の顔を見る。朝ぐちゃぐちゃにしたはずのダイニングテーブルは綺麗に片付けられていて、世一の顔色にもおかしなところはない。
 まるで何もなかったみたいだ。
 朝はあんなに取り乱してたクセして、やっぱりなんでもなかったなと大人の余裕を見せつけでもするようにして、世一はいつも通り、カイザーのために食事を作っている。

「落ち着いた?」

 菜箸を動かしながら振り返ったそいつの拍子抜けするような声に、カイザーは肩を落として息を吐いた。

……まあ多少はな。朝は……悪かった」
「いいよ。記憶がないって、すごく負担がある状態だろうし。……外、出てる間も特段困ったことはなかったみたいだし、カイザーが無事なら俺はそれだけで十分」

 珍しく素直に謝罪の言葉を口にすると、世一が、ほっとしたようにこちらへ振り向く。世一の口ぶりは非常に落ち着いており、とりたてて言葉にこそしなかったものの、カイザーと別れたあと、蜂楽が「会って話していた」という連絡を飛ばしたであろうことは確実だった。
 そうして分かっているからこそ、必要以上に心配したり、踏み込んではこない。世一はそっと、あの「物わかりのいい大人の距離感」で、カイザーの出方をうかがってきている。
 ならばこちらは、その配慮を利用してやるだけだ。

……すこし、ひとりになりたい。部屋にいる」

 そう無愛想に告げると、世一の「うん、分かった」という思いやるような返事が戻ってくる。
 それだけ確かめると、カイザーは即座に踵を返し、ほんの僅か性急な足取りで寝室へと向かった。
 静かに開いたドアの先にせかせかと寄って行って、文机の横に立つ。ジャージのポケットから小さな巾着袋を取り出すと、はやる手で中身を出し、それを慎重に鍵穴へと挿し込んでいく。

…………、」

 鍵は、カチャリと音を立て、従順に鍵穴に嵌り込んだ。

「あ……

 息を呑む。
 心臓がドクドクと脈打つ音が、緊張からいやに大きく聞こえる。
 深呼吸をして、鍵にふたたび指を掛け直す。それは抗うことなく右側に九十度回転し、やがて、ガチャンと音を立てて、——隠し引き出しの錠前が開く。

……よし」

 小さく拳を握りしめ、勢いよく、けれど決して音を立てないよう静かに、引き出しを開けた。すると中から、ペーパーバックサイズのノートが姿を現す。
 上製本で作られたそのノートには、タイトルがなく、年月だけが短く書かれている。

 二〇二一年。

 その意味を確かめるべく、バカみたいに足の速い心臓を押さえてそっと取り出したノートの中身を開く。

——あぁ、」

 そうしてカイザーの目に飛び込んできたのは、やはり——想像した通りのモノだった。
 確実に己のものだとわかる乱雑だが馴染み深い走り書き。その懐かしくも新しい筆致が、何日かぶんの、短い日記を——そこにしたためていた。



二〇二一年九月二十八日。引っ越しの手続きがすべて終わって、今日から世一と暮らすことになった。他人と暮らすのは初めてだ、確実に揉める気がするので、備忘録に日記を付けてみることにした。ネスに勧められたのもある。まあたまにはいいだろう。今のところの感想と言えば、世一がやかましいとかそのぐらいだが。

二〇二一年十二月十八日。共同生活にも慣れてきたなと思いきや世一が不審な動きをしている。隠し事か?どーでもいいが、俺が迷惑を被るようなコトだけはやらかさないでほしい。アイツ何やるかわかんねーんだよ。

二〇二一年十二月二十五日。ここのところアイツが挙動不審だったのは俺の誕生日をどう祝うか悩んでいたかららしい。アホくせぇ。プレゼントなんかクソ嫌いだと言ったのにケーキを焼かれた。アイツはマジでアホだ。

二〇二二年二月八日。世一が免許を取ってきた。ずっと俺の運転に任せきりだったのが面白くなかったらしく、隠れてコソコソ取得していた。やけに年末の帰国が長いと思ってたらこのせいか。張り合う理由がめちゃくちゃガキ。しかも車買ってねぇし。まさか俺のBMWに乗る気か?

二〇二二年四月一日。世一の誕生日だった。二十歳になったらしい。「成人した!」とピースして俺に写真を撮らせては、嬉々としてSNSに上げていた。いや全然ガキ。ついでにネクタイやったら驚いてた。フォーマルな場で見るに堪えねえんだよお前の格好。

二〇二二年六月十五日。シェアハウスをはじめてから初めてのオフシーズンに入った。世一が旅行に行きたいなどと抜かしたので今年はシンガポールに行く。そのあと日本にもどこかで帰るつもりらしいから、その時期は家の中が静かになるだろう。



 日付はかなり飛び飛びで、本当に、気が向いた時にしか付けていないようだった。日記を付けてみようと書いたそばから二ヶ月も日付が飛ぶぐらいならそんなもの要らないだろと思ったが、不定期ながらも、思ったよりしっかりと記録が続いている。
 ただひとつ気懸かりなのは、年に十回付けてるかどうかも怪しい序盤のペースの割に、日記帳の記入済みページがやけに多そうなことだ。……どこかから、筆まめにでもなるっていうのか? 何故?
 その理由は、ページをもう幾らか捲ると、すぐに明らかになった。



二〇二三年十月三日。世一がスポンサーの娘に色目を使われてえらいことになった。あのクソバカ、もっと危機感というものを身に付けろ。ちんちくりんでもお前は世界最高峰のフットボーラーなんだよ、俺がいなかったらどうなってたと思ってる。

二〇二三年十月五日。世一に一昨日の礼だとか言って遠出に誘われた。週末の外出と何が違うんだと思ったが、すこし足を伸ばして人気ひとけのない山岳地帯に出るだけで、ふたりきりになれて、意外と悪くなかった。

二〇二三年十月十日。試合のあと、世一が、手を握ってきた。「心細くなったから」とか抜かしていた。世一の手はひどく冷たかった。あのエゴイストでも、いつだって試合がうまくいくわけじゃない。俺が同じチームで良かったなと皮肉を飛ばすと頬を染めて笑われた。なんなんだよ。

二〇二三年十月十一日。昨日のことをまだ引き摺っているようだったから気まぐれでパブに誘ったら世一が酔い潰れて酷い目に遭った。今まで飲み会でそこまで酔っ払ったことないだろお前。俺の隣だから安心した?それが人に介抱させる言い訳になると思うなよ。……クソ、顔赤いなマジで。赤ん坊か?

二〇二三年十一月十二日。昨日の世一の顔がどうにも頭から離れない。

二〇二三年十一月十七日。まだ酔った日の世一の顔を思い出してしまう。あいつと顔を合わせる度に。ときどき心臓も痛む気がする。たぶんクソ気のせい。

二〇二三年十一月二十六日。介抱させたぶんの埋め合わせだとか言って世一の運転で出掛けた。最近は大分運転にも慣れてきて、愛車に傷が付く心配が減ったのが良き。一泊二日で川辺のコテージを取ったらしいが手違いでベッドが一台しかなく、今、世一が寝こけてる真横でコレを書いている。あいつそういうトコいつまで経っても詰めが甘いんだよな。

二〇二三年十一月二十七日。もう帰宅して夜になったというのに世一の感触が忘れられない。ただ寝てる間に抱きつかれただけだっていうのにクソ。クソ。……クソッタレ。

二〇二三年十二月一日。認めたくない。非情に認めたくないがあれから風呂上がりの世一を見る度にギクリとする自分がいる。最悪すぎる。あんなちんちくりんのクソガキに?ばかげてるだろ。

二〇二三年十二月五日。……クリスマス、どうすっかな。

二〇二三年十二月六日。プレゼントなんて買ったことない。ネスに聞いたら泣かれた。仕方ないだろ。なっちまったもんは。

二〇二三年十二月八日。世一に年末の里帰りに誘われた。両親が会いたがっているらしい。クリスマス前に突然言うことか?スケジュールは空けたが。

二〇二三年十二月十日。一通りの予約は済ませた。あとは本当にプレゼントだけだ。

二〇二三年十二月二十日。随分悩んだ。指輪は、用意したが、まだ早いかもしれないと思い直して、後日に回すことにした。

二〇二三年十二月二十四日。柄にもなく緊張して寝付けない。やるしかないが。

二〇二三年十二月二十五日。プレゼントは喜んでもらえた。指輪は、やはり、もう少し外堀を埋めてからにすることにした。世一がこちらを意識しているかどうか確信がない。どうしたら幸せになれる。そのことにばかり頭を悩ませている。

二〇二三年十二月二十八日。日本へ発つ。ホテルを取らずに実家に泊まると言っている。予行練習でもしておくか?……時期尚早か。

二〇二四年一月七日。俺は世一と一緒にいられるような人間じゃない。クソ物だ。何も変わっちゃいなかった。




「おいおいおいおい……

 ページをめくる手が、そこで思わず止まった。
 なんというか、生々しすぎて、吐き気がしてきそうなぐらいだった。
 二〇二三年末というと、シェアハウス解消前最後の冬のことだ。その頃に、ミヒャエル・カイザーはひょんなことから潔世一を強く意識するようになり、……恐らくは以前から惹かれ、心を許してはいたのだが、その感情にある種の熱が伴うことを自覚した。つまりこういうことか。
 そして最大の問題は——日記に記されていない、空白の十日あまり。
 日本の世一の実家についていったと思しきこの期間の間に、どうやらこの日記の主はたいそうな心変わりをして、……そしてその後の日記を見る限り相当に病んでいったらしい。



二〇二四年一月三十日。シーズン限りでのシェアハウス解消を言い渡した。世一は声を荒げて何故と問うたが、これ以外に道はない。

二〇二四年三月二日。世一の移籍交渉が決まりそうらしい。スペインか。国が離れるのは互いにとっていい選択だろう。チャンピオンズリーグでは顔を合わせるかもしれないが、それは耐えるしかない。

二〇二四年五月十六日。世一の引っ越し準備が進んでいる。国を跨ぐ以上持ち出せる家財には限りがあるから、あとは任せるなどと丸投げされた。めんどくせぇ。

二〇二四年五月二十八日。世一がいなくなる日が刻一刻と近づいてくる。本当にこれで良かったのだろうか。……いや、これ以外に選択肢などない。

二〇二四年六月六日。これで良かった。良かったんだ。俺には普通なんぞわからない。

二〇二四年九月九日。スペインでよろしくやっているようだ。SNSを見てしまうのをやめたい。

二〇二四年十二月二十五日。メッセージが来ていた。開く気にならん。

二〇二五年八月八日。何故かまたメッセージが来ていた。間違えて既読を付けてしまった。それ以上のメッセージは今のところ来ていない。

二〇二五年十二月二十五日。……寒い。

二〇二六年二月七日。久しぶりにヤツのサッカーを間近で見た。前より動きが良くなってやがる。知らない所で成長しやがって、……なんぞと言う資格もないんだが。

二〇二六年五月二十九日。ヤツがドイツに来ているらしいとネスから聞く。頼むから、俺の視界に入ってくんなよ、マジで。




……最後の日付は記憶喪失になる少し前頃か……

 日記を読み終え、ぱたんと閉じると机の上へ置く。カイザーはこめかみを押さえ、首を振った。
 これらの記述が捏造や誤りでなければ、この日記をつけた数日後、カイザーは記憶喪失に陥っている。
 そして目覚めた時には、長年連絡すら取っていなかったはずの世一が、何らかの理由で病院に詰めていて、カイザーの目覚めを待っていた。
 その間に何があったのか?

「クソ、まだ情報が足りない、せめて記憶喪失になる直前の行動さえわかれば……

 思い出せ。思い出せ。思い出せ。ここまでピースが揃ったんだ、今なら、何か、引っかかることぐらいあるんじゃないか。
 こめかみに当てた指先に強く力を込めて己を詰る。使えねぇポンコツ脳が、何忘れやがるんだよ、とっとと思い出せ、さもなければ、……そのはやる思いが無意識に手を動かして、指先が、ゆるやかに己の首へと掛かっていく。
 
 ぐちゃり。

 十本の指が、長く広がって、首周りを確かに捉えた。
 切りそろえられた爪が強引に、皮膚の内へと押し込まれていく。ぐ、ぐぐ、と押さえつけ、食い込んで、僅かな痛みを伴いながら、そうして徐々に気道が狭まっていって……

——苦しい)

 苦しみが、ふたたび、襲ってくる。

(苦しい、苦しい、苦しいッ……

 いったい何が苦しいのだろう。昨日もした自問を、ふたたび繰り返す。この苦しみはいったいどこから生まれるものなのだろう。この指か、それとも心臓か、魂か。
 或いは——或いは、失われた恋によるものなのか。

————ッ、ぁ、ァ、あ…………

 昨日は世一に止められたが、今は、世一は気を利かせてダイニングに篭もっているから、この手を止める者は誰もいない。大きな叫び声さえあげなければ、……誰にも邪魔されずに済む。

「ゴハッ、——ゴホッ、ッ、ッぁアッ……!」

 ミシミシと身体が軋む音がする。
 苦しい。それでも救いはこの苦しみの先にしかない。新英雄大戦ラストの試合の前に、己を苦境へ追いやって世一を絶望に叩き堕とす、〝マグヌス〟の型を探し求めたあの時のように。クソ起死回生の一手がその先にあると信じて、血が滲みそうになるほどの負荷を己に掛け続ける。

 喉が震える。
 痙攣して、唇からは涎が垂れ落ち、意識が、遠くなっていく。
 ぜぇ、ひゅう、と、掠れた息がひとりでに漏れ落ちた。あつい。あつい。あつい。呼吸が薄れ、世界がぼやけてたわんでいく。頭の中は沸騰したように煮えたぎり、脳味噌をシャッフルして、ぐわんぐわんに視界が婉曲し、やがて自我が薄れて曖昧になって、

————あ゛、」

 ——その果てに。
 光とも闇ともつかぬ何かがまたたいて、……あるひとつの光景が、カイザーの脳裏へ蘇った。