望月 鏡翠
2025-01-26 21:31:53
893文字
Public 日課
 

#1610 「虹」「女」「鉄瓶」

#毎日最低800文字のSSを書く/三題話

 鉄瓶の口から、細く湯気がたちのぼっている。重みのある金属の塊は、お湯が沸いてもカタコトと騒ぐことはなく、室内の静寂を保っていた。
 寒くもないのに、白く湯気がよく見える。雨上がりだから、湿気が多いのだろう。青空がのぞいているものの、まだ灰色の分厚い雲が空の際に残っている。
 そこに傾きかけた日差しが当たって、陰影を強く見せていた。
 虹でも出ていそうな空模様だ。
 しかし、そのために縁石の上に乗った濡れたサンダルに足を通して空を眺めに外に出るのは億劫だった。
「何をご覧になっているの」
 女は急須と茶器を持ってきた。火鉢で炙るのに良い茶請けを持ってくるのも忘れない。まだ縁でくつろぐには寒い季節らしく、膝掛けも忘れていなかった。
「虹が出ているかなと思ってね」
 そういえば、そんなこともあるのでしたね、と女は首を傾げて空を見上げる。
 こちらの視線に気づいたのか、少し笑っておかしなことを言いましたねと言ってから話し始めた。
 女の故郷は北の国だから、虹が出ることがほとんどない。
 だから、そういうものがこの世にはあるのだということが、すっかりと頭から抜けてしまうのだという。
 そんなことがあるものか、と私は首を傾げた。嘘を言っても詮無いことだから、そうなのだろう。
「貴女は、ここにきてから虹を見たことはあるのかい?」
「小さいものなら。ほら、夏場に庭に水を撒いたら、それだけでパッと虹が出るでしょう」
「そんなのは違うよ。もっと大きなやつだ。空に橋をかけるやつ」
「ないですねぇ。だって、ほら。毎日忙しくしていると、空を見上げることがないでしょう」
「なら、今がちょうどいいじゃないか」
「でもだって、ホラどこにも見えやしませんから」
「違うよ。虹ってのは、太陽の反対側の空に出るんだ。向こう側を見ればきっとあるさ」
 サンダルに溜まった雨を払って、手拭いで拭いた。庭に出て、屋根の向こう側を覗いてみたら、案外そこにひょっこりと顔を出しているのかもしれない。
 お湯が沸いたばかりなのに。
 ため息をつきながら、しかしそれでもどこか嬉しそうに、彼女は庭に降りた。