つまるところ血鬼術とは(3)

ようやくきっかけに絡める話が書けたので満足です。


 
 そのひとは、いつも突然、人混みの中に顕れる。
 
「やぁ」
 
 その日の彼は、いつもの黒ずくめで、目元を隠している格好ではなかった。
 一言で表すならばカジュアルだった。だぼっとしたスカジャンの下は色の入った暖かそうなシャツで、細長い足にぴったりと沿うようなジーンズと星のマークが有名なスニーカーは彼のスタイルの良さを際立たせていた。
「五条さん。こんにちは、この間ぶりですね」
「はい、こんにちは。ウチの生徒が世話になったね」
「お気になさらないでください。上弦の伍を倒せたのは彼等の力あってこそだと音柱も言っていましたから」
 胡蝶カナエは心底からそう言った。そう、と五条はサングラスの下で優しく目元を和らげる。
 普段はひとをからかう事こそ生き甲斐だとでも称されんばかりの五条でさえ、カナエの前ではその雰囲気などなりを潜めていた。同業者が見れば鳩が豆鉄砲を食らったような顔をするのは間違いないだろう。
「こんな事を言っては呪術師の皆さんに失礼かもしれませんけど……仲間の隊士の重傷を診ずに済んだのは、私にとっては本当に有難いことなんです」
「恵も、悠仁も、野薔薇も。そんな事で失礼だなんて思わないよ。恵には別件かどうかちゃんと判断しろって怒られちゃったけど」
「まぁ」
「それでも、最初から全部分かってても、三人が行けたなら、行ってたよ。そういう子達だからね」
 どこか誇らしげに言う五条に、カナエは笑みを深めた。
「お強いんですね」
「ま、僕にはまだまだ及ばないけどね」
 サングラスの影で、五条が空色の片割れを悪戯っぽくぱちりと閉じた。カナエは思わず忍び笑いをこぼした。「ふふ、五条さんは、最強ですもんね」
「フッ、まぁね」
 わざとらしくドヤ顔をして、けれども五条はすぐに話題を切り替えた。
「ところで、仕事の途中だった? もし時間があるなら、お礼も兼ねてなにか奢らせてよ」
「あら、いいんですか?」
「勿論。なんならしのぶちゃんも一緒でいいよ」
「それなら、是非。しのぶも喜びます」
 それはどうだろう、と五条は思ったが、カナエは可愛がっている妹へ、花のような笑顔で連絡をとった。
 
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 
 
 胡蝶しのぶにとって、五条悟という人物は、見た目に反して存外頼りになる男だ。軽薄を人間にしたらこうなるだろうというのが第一印象で、二言三言交わした後は、大きな体をした子供だと思う事にしたほどである。
 けれども、とある一件以降、多少、毛先ほど、一寸なら、認めてやってもいいのかなと、思い始めているのも事実だ。
 何故なら、最愛の姉であるカナエが随分世話になったからである。
「あ、しのぶ!」
 からんからん、とドアベルが鳴る。人が川のようになって濁流を作り出している外とは打って変わり、そのカフェの店内はとても穏やかで落ち着いていた。
「姉さん」
 女性ヴォーカルの艶やかなジャズが早歩きで高鳴る心臓を落ち着かせてくれる。程よい暗さと輪郭がぼやけたランプの光も相まって、しのぶは少しだけ肩の力を抜いた。
 姉の、花が綻ぶような笑顔も、しのぶの頬を緩ませる。しのぶはできるだけ音を立てないようにしてカナエの隣に滑り込んだ。
「こんにちは」
 向かいに座っていた五条が微笑む。彼の前にはとても甘そうだが上品なスイーツが綺麗に盛り付けられた大きな皿が置かれていた。
 しのぶも「こんにちは」と微笑で返す。「注文、何にする?」五条が長い腕でメニューを渡してくれた。
「とりあえず、コーヒーを」
 お冷を出してくれた初老のウェイターは、目尻の皺を深めて「かしこまりました」と上品に応えた。
 五条の皿の盛りつけにはいくつか穴があった。カナエのケーキも半分ほどなくなっている。しのぶは少しだけ眉を寄せた。
「お待たせして、すみません」
「いいよいいよ。医大生は忙しいもんね。あ、今は院だっけ」
「はい」しのぶは頷いた。
「薬学の試験の勉強もしてるのよ」
 すごく頑張り屋さんなの、とカナエがのんびり告げる。「無理はいけないよ」五条はスイーツを口に放り込みながらしみじみと言った。
「本当に、無理はいけない」
 サングラスの奥にある双眸は意外にも真面目な色をしていた。しのぶは思わず言葉を失って、何度か瞬いた。
「五条さん、あなたもですよ」やんわりと、だが有無を言わせない圧を持った姉の声が間に入る。はーい、と五条は生返事をした。
「本当に分かっていますか? ただでさえお忙しいのに、私達とも関わるだなんて」
「大丈夫だいじょーぶ。仕事が混ざることはないからね。今回関わる事になったのだって、万一のための保険をお互い設けようってだけだから」
 そういえば、炎柱の煉獄を名代に、鬼殺隊───産屋敷から、日輪刀が呪術高専に納められたのはつい先日の話だ。
 日本における国内の怪死者、行方不明者は、年平均一万人を越える。そしてその被害のほとんどは、人ではない、異形の仕業によるものだ。
 その異形を、鬼殺隊は鬼舞辻無惨を始祖とする鬼と定め、呪術界は人から溢れ出る負の感情が澱み、形を生したもの───呪霊だと定めていた。
 人に仇を成す異形が鬼だけでも呪霊だけでも無いと判明した今、戦闘における生存率を少しでも上げるために、鬼殺隊と呪術界、とくに高専は、互いに手を取らざるを得なくなった。
 被害を届け出る一般人は、鬼と呪霊の区別などつかないからである。
 そうでなくても、被害の事前予防策として行っている見回りや警邏巡回の途中に呪霊や鬼に襲われないとも限らない。
 そのため、高専は危険度が高いとされている場所の情報提供や術の解析などによるサポートを。鬼殺隊は日輪刀を納める事で、任務にあたる人間の生存率を僅かでも保証することになったのだ。
「おかげさまで、私達の研究もかなり進みました」
 加茂が煉獄を通して貸し出してくれた古文書には、血と術式の関わりについて、カナエ達が想像だにしないことが記されていた。
 それは良かったと五条は笑みを深める。カナエは「本当にありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。
「あの時も、今回も。五条さんたちには、助けられてばかりだわ」
「困ったときはお互い様だよ」
 後輩や一部の生徒が聞いたら五条の事を二度見するような台詞をさらりと吐いて、五条は微笑んで見せた。「その後、調子はどう?」
「おかげさまで、落ち着いています」
 カナエは、「視える」側の人間だ。とはいえ、胡蝶家が呪術師の家系であるわけではない。カナエの血肉や遺伝子に術式は刻まれていないし、呪力が廻っているという話も、カナエ自身、よく分からなかった。
 ただ、視える。
 鉛筆で雑に塗り広げたような、あるいは、汚れが擦れて乾いたような、壁や床、地面などにこびりついている黒いもの。太った赤ん坊に蠅の翅を生やしたような異形。頭から目玉が飛び出ている体の細長い虫のような異形。
 それらはすべて、いやな笑みを浮かべていた。こちらを馬鹿にするような、あげつらうような、あるいは怒っているような、悲しんでいるような、どろどろとした感情が綯い交ぜになったものだった。
 そしてそれらと同じような雰囲気や色が、異形が側にいる人間の瞳の中にあるという事を、カナエは幼いながらに悟っていた。
 時を経て、自分なりに対処しようと避ける事を辞め始めると、やがてカナエ自身の手に余る事態が発生する。その時ちょうど通りがかって成り行きでカナエの面倒を見ることになったのが五条だった。
「また何かあったら、遠慮なく言うんだよ」
 五条の言葉に、カナエは咄嗟に言葉を返してしまった。
「そんな、申し訳ないです」
「という事は、何かあるのかな?」
 五条の長い指がマカロンを弄ぶ。あっ、とカナエが手で口を覆い、自分のどう見ても何かありますという反応にまた「あぁ」と眉を寄せ、とうとう顔を覆って俯いた。
「姉さん……
 しのぶはいっそ呆れてしまった。
「あはは、カナエちゃんは相変わらずだねえ」
 お兄さんに隠し事なんて無駄無駄、と五条は揶揄うように言った。
「何があったのか、話してごらん」
 カナエとしのぶは、ちらりと顔を見合わせた。口を開いたのはしのぶの方だった。
「実は、随分前から、尾けられているようなんです」
 しのぶの方から話を切り出されたことに、五条は少しだけ驚いた。てっきり彼女は自分の事を頼ることのできる人間だと思っていないようだったので、今回も以前のようにカナエに呪霊が絡んでいるのかと思ったのだが、どうにも違うようである。
「ストーカー? 二人とも美人だもんね」
「あら、ありがとうございます」
 しのぶはそれはもう綺麗な笑みを顔に張り付けた。だが、瞬きの後、すぐに元の真面目な表情に戻る。
「ただのストーカーなら、私達で対処可能なんですが、それがどうも違っているんです」
 ただのストーカーなら対処可能。この言葉が淡々と紡がれるようになった経緯に想いを馳せそうになって、五条は意識してしのぶの話に集中した。二人とも顔が整っている文字通りの美人だから、今まで随分な苦労があったのだろう。
「具体的にどう違うの?」
「まず、昼間には視線や気配などは感じません」
 それと、家の中でも、としのぶは続けた。盗聴器や盗撮などの可能性も考え、模様替えついでにと様々な場所をひっくり返したそうだが、特に怪しげなものは見つからなかった。
「視線を感じるのは決まって夜道です。私か姉のどちらかが遅くに帰る時に、必ずと言っていいほど……最近、姉の継子……弟子のようなものにカナヲという子が選ばれたのですが、その子も何か感じたと言っていました」
「視線を感じてからは、それを感じなくなるまで撒いてから帰るようにしているんです。でも、それもだんだん難しくなってきて……もしかして鬼なんじゃないかと、こちらから探ろうとしたんですが……
 どうやら何も得るものがなかったようだ。カナヲは困ったように目を伏せて、しのぶは悔しそうに唇を食んだ。
 ふむ、と五条は考える素振りを見せた。こんなにも似ている姉妹なのに、見てとれる感情はこうも違う。
「それじゃ、今日はお兄さんが送ってあげよう」
「えっ」
「送るぐらい、へーきへーき。呪霊じゃないかどうかだけでも分かった方がいいでしょ。自分たちの身の安全じゃなくて、そのカナヲちゃん? を案じるお姉ちゃんたちにご褒美ってことで」
 言いながら、五条は自分のコーヒーにぼちゃぼちゃと砂糖を五つほど放り込んだ。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 
 
 呪霊は、視線に敏感だ。
 視ることができる人間は、大抵、徒人よりも力を持っている。喰えば喰うだけ、殺せば殺すだけ、呪えば呪うだけ、活動力の源である負の感情───呪力を廻す歯車の一つになる。
 そのため、呪術師は己の視線を誤魔化すために眼鏡をかける事が多い。高専東京校学長の夜蛾も、呪術界最強を自他共に認める五条も、目隠しを怠らない。五条に言わせてみれば、所謂バケモノクラスの術師ならサングラスなど必要ないとの事だが、彼の言葉はてきとうであることが多いので、誰も本気にしていない。
 
「コッチの案件じゃないね」
 
 三人がスイーツとコーヒーを楽しんだカフェから胡蝶姉妹の家までは電車を二本、短く乗り継いで、後は徒歩で十分から十五分かかる。東京においては中々に好立地だ。
 帰宅時間のラッシュからは逃れた時間帯だった。電車に揺られながら陽が沈むのを見送り、胡蝶姉妹が視線を感じたのは家の最寄駅から出てすぐだった。
 半瞬後、五条が呪霊ではないと断定する。
 呪霊が視線に敏感であるならば、それらを祓う呪術師もまた然りである。五条ほどの術師であれば、呪霊の程度に左右されるとは言え、多少離れた場所からでも呪霊の気配を察することは容易い。
 姉妹の表情はすぐに引き締められた。
「家はまだバレてないんだっけ?」
「はい。その筈です」
 常ならば柔らかい耳障りのその声は、今ばかりは淡々とした強さを滲ませていた。
「一旦、トぼうか」
「え、」
 それまで二人の傍らに絶妙な距離感で控えていた五条が、姉妹それぞれの腰を抱いて引き寄せる。なに、としのぶが身構えた直後、二人の視点はビルの林の根元から、家の玄関へと変わっていた。
……えっ!?」
 流石に動転する二人を置いて、五条一人が平然としている。「ほら、着いたよ」五条は二人の背中をぽんと押した。
 戸惑いながら、しのぶが玄関に鍵を差し込んだ。怖いくらいに、いつも通りの感覚が指先から伝わってくる。
……
「ほんとに私達の家だわ……
 二人は絶句して五条の方を顧みた。彼は相変わらず軽薄な笑みをその端正な顔に浮かべていた。
「ひとまず、君達が対処できない呪霊ではないよ。おそらくただのストーカーか、鬼だろうね」
……五条さん、ありがとうございました」
 五条にきちんと向き直ったカナエが丁寧に頭を下げる。五条はいーえいーえと手を振った。
「それじゃ、ここからは君達の領分だ。頑張ってね」
「はい」
 二人が声を揃えてしっかりと応える。満足そうに笑みを深めたと思われた直後、五条の姿はふつりと消えていた。
 カナエとしのぶは、素早く家の中に体を滑り込ませた。二人の声を聞きつけたのか、奥からぱたぱたと聞き覚えのある足音が大きくなってくる。
「師匠、師範。……お、……おかえりなさい」
「ただいま」
「ただいま、カナヲ!」
 カナエが嬉しそうに、文字通り咲き誇る花のように笑って、カナヲに抱き着いた。
「カナヲ、何か変わったことはなかった?」
「はい。あの……今日は……
「あぁ……いい匂いがするわ……今日は何を作ってくれたの?」
「えっと、」
「待って、当てるわ!」
「姉さん、まずは荷物を置いて来ないと……
 ひらひらと、蝶が舞う。
 揃いの髪飾りが、きらきらと光った。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 
 
……あとちょっとだったのになあ。残念、残念!」
 
 口が、弧を描く。鋭い牙が覗く。血を天上から被ったような髪が、ゆらりと揺れた。
 ぱしん、と音を立てて、鉄扇が閉じられた。
「ま、いいや。時間はまだまだたっぷりあるし……美味しそうな女の子は、他にもいっぱい、いるからね」
 弐、と刻まれた瞳が、ゆうるりと細められた。