【なに清】七月

※大量クロスオーバー現パロとか言いながらほとんどオリジナル
※地雷で爆散しても文句言わない人だけ読んでください


【登場人物】
片岡桜:毎日楽しい。幸せなことだと思う。
騰蛇:だいたい台所にいる。

片岡真那賀:桜に当たり散らしたことは一度もない。

奥さん:いいひと。



 夏休み直前の定期テストが終わった解放感に包まれながら、桜は目を覚ました。ベッドヘッドに置かれている時計はいつも通りの起床時刻を指している。
 習慣とはこういうことなのだな、と桜はもそもそと起き上がり、ベッドから降りた。部屋を出て一階に降り、共有スペースの洗面所で顔を洗う。再び二階の部屋に戻り、いつもの私服に着替える。
 スキニーのジーパンに薄手のワイシャツ。腕時計。お守り代わりのネックレス。指で宝石を弾き、桜は朝食のためにリビングへ向かった。
「おはよう」
「はよ」
「出かけるのか」
「うん」
 カウンターに出された目玉焼きとサラダ、そしてトーストの皿を自分のいつもの席に置いて、台所に戻る。てきぱきと立ち回る騰蛇の邪魔にならないように戸棚からガラスのコップを取り出し、冷蔵庫で冷やされていた水だし紅茶を注いだ。
「どこに行くんだ」
「墓参り」
「、……そうか」
 そんな時期か、と騰蛇が小さく呟いた。桜は至極いつも通りに手を合わせてから朝食を食べ始めた。
 今日は七月二十三日。夏休み初日であり、二週間ほど前から予定されていた兄との墓参りの日である。





     ◆     ◆     ◆





 平日の昼間だからだろうか、駅はさほど込み合っていなかった。暑い日差しの中、汗だくの社会人たちが忙しそうにせかせかと歩いている。その合間を縫うようにして進み、桜は待ち合わせ場所でぼうっと佇んでいる兄を捕まえた。
「お、」
……おはよう」
「おはよう」
 何を言ったらいいかわからなくなって、少しもにょりと口を動かした桜がぼそぼそとうつむきがちに言った言葉に、兄の片岡真那賀はへらりと笑って返した。
「行こうか」
 はい、きっぷ。差し出されたそれを素直に受け取って、桜は兄の後に続いた。

 疲弊している。相変わらず。

 足取りはしっかりとしている。ふらついていない。けれどもそれが危ういものであることを、桜はとっくの昔に察していた。
 電車をいくつも乗り継ぐたび、人が減る。それに比例するかのように、真那賀の表情から生気が抜け落ちていく。電車の窓から見える風景はビルの雑木林から住宅街へと移り変わり、それがいつしか山の連なり、青々とした田園風景へと転じて行った。
 その頃には、真那賀はまるで骨の抜けた人形のようにぐったりと座席に沈んでいた。目の下にうっすらとあった隈がこの短時間で色を濃くしたような気さえする。電車はトンネルの中へ入って行った。向かい側の窓に二人の姿が映る。
 桜はただ黙って傍にいた。真那賀は瞑目していて、眠っているかのように見えた。たたん、たたん、と電車が規則的に音を刻む。最寄り駅に着いても彼が動かなければ、そのままにしておこう。桜は毎年そうひそかに決めているが、兄は必ず瞼を押し上げて、立ち上がる。
 桜は何も言わずに兄の横について歩く。トンネルを抜けた先にある人気の少ない駅には、潮の香りが満ちていた。ミャァ、と烏のようにカモメが鳴いた。
 駅の近くの商店街の花屋で仏花を購入し、日差しに目を背けながら歩く。二人の間に言葉はなかった。桜は自分の言葉が兄に対してよく作用しないことを知っていた。
 商店街を抜けると、住宅街に行き着く。それを避けて、二人は山の方へ向かった。住宅街と山の間には田が広がり、アスファルトで舗装された用水と見間違えそうな川が流れている。それらを越えて、山へ入る。
 人や獣に踏み鳴らされた道をしばらく進むと、切り開かれた広い土地に、小さくはない寺が立っていた。由緒書きも何もない。人気もないので、住職は今日は出かけているのだろう。本堂を過ぎ、急斜面を気をつけて進む。途端に視界が開けて、風が吹いた。
 遥かな先に、水平線が見える。眼下には線路が走り、二両編成の短い在来線が音を立てて通りすぎていく。波はきらきらと日の光を反射して、桜は眩しさに目を細めた。
 ここは墓地だ。入口には水道と、バケツ、杓子がいくつかぽつんと置かれていた。そのうちの一つに兄が水を汲み、杓子を持って斜面を上がる。桜もそれに続き、墓地のちょうど中腹あたりで足を止めた。
 片岡家之墓、と彫られている。側面には先祖代々の当主と奥方の名前が掘られていた。一番新しいものが真那賀と桜の両親の名前だ。
 桜はこれをどういう風に読むのか、まだ兄に教えてもらっていない。
 真那賀が墓の周りの雑草を緩慢な動作で抜くのを手伝い、花瓶の中をすすぐ。買ってきた仏花を差し、汲んできた水を注ぐ。墓石にも水をかけると、色が少し変わった。
 線香は添えない。本来ならば何本か火をつけるべきなのだろうが、桜は線香に火を点けた時の兄の顔を見てもう二度と線香を持ってこないことを決めた。真那賀は何も言わなかった。鐘もないので、桜は一応手を合わせる。
 祈りたいことも願いたいこともない。憎しみもない。恨みもない。寂しさも切なさも哀しさも、桜の中にはなかった。
 桜は、両親の顔をもう思い出せない。どんな声をしていたかも記憶にない。桜がこの世にいるのだから両親はいるのだろう。けれどもふたりは実の子よりも互いと仕事を取った。桜にとっては、ただそれだけの事だった。
 真那賀は空気が湿っているにもかかわらず乾いている地面に腰を降ろした。そうして長く息をつき、ぼう、と虚空を見つめる。桜は墓に背を向け、海を眺めた。遠くの方で船が進んでいるのが見えた。
 もし両親に何か言いたいことがあるとすれば、それは自分のことではなく、兄の事だなと思う。
 始めから両親がいなかった桜ではなく、途中で両親に手放されて桜を押し付けられたと言っても過言ではない真那賀の方がずっと疲弊していたし、憔悴していたし、本当は泣き叫んでいた。
 彼が両親に裏切られたと、ずっと昔に気付いていて、それでも信じたくなかったことを受け入れて、飲み下さざるをえなくなったのは、両親の死がきっかけだった。
 恨むのも、憎むのも、罵るのも、生きていてこそ。真那賀はなまじ賢く理性的だったため、親代わりに育ててくれた者達にも、桜には尚の事、胸の内に抱える複雑に絡まり合った感情を吐き出せずに苦しんでいる。
 支えになれればいいと思った。しかし真那賀にとって桜はいつまでたっても守るべき妹で、同時に両親の事を思い出させるきっかけで、どうあがいても負担にしかならない。桜は何とはなしにそれを察していたから、自分から兄に近付くことはなかった。
 真那賀もそれを分かっている。それでもどうにかしようと、こうして二人で出かけることを試みる。そして結局、どうにもならずに元の生活に戻る。
 この世の何かを哀れだというのなら、それは兄のような存在の事を哀れだというのだろう。桜は真那賀が立ち去る気配を見せるまで、海を眺めるつもりでいた。
 昨年までは。
「兄さん」
 声は思ったより震えていた。一度深く息をして、腹に力を入れる。兄は緩慢にこちらに視線を移した。生気の光のない瞳だった。
「私は、あんたより、強い」
 ゆるゆると、桜の言葉を咀嚼して飲み込んだ真那賀の目が見開かれる。
「───は?」
 一体何を、とその顔が物語っていた。「強い」桜は繰り返す。
「あんたより、私のが強い。あんたじゃなくても助けてくれるひとがいる」
 真那賀の表情が凍り付いた。桜はしっかりと真那賀の目を捉えたまま、言葉を紡いだ。
「だから、もう気にするな。あんたは、あんたの生きたいように生きればいい」
 欲しいものを欲しいと言って手を伸ばし、捨てたいものを捨て、逃げたければ逃げるがいい。
「私は責めない。誰にも責めさせない。だってあんたに非は一つもない」
 はく、と真那賀の口が動く。眉間には皺が寄り、くしゃりと目元が歪んでいた。
「私には、もう十分だ。だからいい」
 兄が働くのは、妹の生活費と学費のためだと、桜は知っている。
 兄が生きるのは、とにかく己のためではないと、桜は気付いている。
「あんたは私に構いすぎた」
 真那賀の背が丸まり、目尻からは涙が零れた。軋む胸から絞り出された嗚咽は、風にさらわれてどこかへ消えていった。
 兄は私に構いすぎた。私という、家族と呼ばれるものに構いすぎた。
 それは得られなかった愛情を取り戻したかったからなのかもしれないし、憎しみをぶつけたかったからなのかもしれない。
 愛憎紙一重とはよく言ったものである。震える骨ばった手で顔を覆って慟哭する兄に、桜は安堵して小さく微笑んだ。





     ◆     ◆     ◆





 昼食の時分だったが、真那賀に合わせて帰路につくことにした。彼はどこか穏やかな表情で景色を眺めている。綺麗だ、と小さくその口が動いた。波に反射した日の光が彼の瞳に映っていた。
 往路とは対照的に、電車を乗り換えるたびに人が増える。けれども真那賀から生気が奪われていく様子はなかった。どこかぼんやりとしたまま、それでも足取りはふらつかず、彼は桜の隣を歩いた。
 その足が止まったのは、互いの最寄り駅の改札を前にした時だった。訝しんだ桜が横から顔を覗き込んでも、真那賀は微動だにしなかった。彼はただ一点だけを凝視しているようだった。
 やがて、ふらりと彼が歩きだす。桜は慌ててその後を追った。しかし桜が声をかけるより早く、兄は朝方ならば考えられないような力強さで進み、迷いなく、躊躇なく、一人の女性を抱き締めた。
 驚いた桜は、思わずたたらを踏む。伸ばした手は所在なさげに固まり、兄はまるで縋るようにしてそのひとを抱きしめたままだ。
「どうしたの」
 優しい声音が桜の耳にも届く。真那賀の背に添えられた左手の薬指に、きらりと光るものが見えた。桜は瞬いて、それをまじまじと注視した。あれはおそらく、兄がはめているものと同じ。
 ということは、顔は見えないが、彼女が噂の。
「おかえりなさい」
 彼女はやがて諦めて、優しく真那賀を抱きしめ返した。暑いわ、とちっともそう思っていないかのような声音でそう言う。
 桜は空を彷徨っていた手で頬を掻いた。どうやらお邪魔なのではなかろうか。何故だか自分まで熱くなっている気がする。というか関係者だと思われたくない。ええい、もういい。
 ヒールの踵を鳴らして、踵を返す。自販機で冷たい飲み物を買って帰ろう。顔が湯だったように熱い。桜はラインで「先に帰ってる。お疲れ」とだけ送って、一目散にアパートへと退避していった。