近くの大きいホームセンターに行ったときのことだった。庭の草が生えっぱなしになりそうだったので、除草剤をまこうと買いにきたのだ。ふと、視線を下げる。農薬が並んでいる棚が数メートルに渡っていた。青嵐が十代の頃――まだ、沖縄で暮らしていたころのことだから、雲井ではなく苗字は照喜納だった――農薬を飲んで人が一人、死んだと大騒ぎになったことがあった。殺人でも事故でもなく、自死。自ら、死んだのだと彼らはいっていた。親戚でも友人でもない、赤の他人だったが、そのできごとは今も禁忌とされているのだろうか。小さな島だというのに、そのひとを、最初からいなかったように扱う島の人びと。そうすることで自分たちを守っていたのだろう。きっと。
自死というものはそういうものだとのたまうほど、青嵐は人間についてあまりにも――。
あまりにも、知らない。口を閉ざすしか、ない。
腰をおろして、農薬のボトルを持ち上げる。ずっしりと重たい。これひとつで、一体何人の人間が死ぬのだろうと考えるとどうにもやるせない。
それを戻し、適当な除草剤を買ってホームセンターをあとにした。
――農薬で死ぬのは、ひどくはげしい苦痛をともなうのだと知ったのは、彼、だか、彼女だか――が、死んだあとのことだった。
蝉が鳴いている。
帽子をかぶっていても、真っ直ぐな痛みをのせた光は容赦ない。台所にむかい、冷蔵庫から氷と麦茶を出してコップにそそぎ、口をつける。氷はまたたく間に溶け、コップの表面に水滴が流れて床に落ちていった。
こめかみに汗がにじむ。それをタオルでぬぐい、顔を窓の向こうに向けた。青々とした緑を広げた枝が生っている。
農薬は雨の日の前日にまいたほうがいいかもしれないと思い至った。明後日雨が降るというので、明日まで待ってもいいだろう。
庭に下駄を突っかけて出ると梅雨独特の、土のむっとした匂いが漂う。枝鋏で黄色くなり始めたクチナシの花を断つ。ぱちん、と音がして、容易に花の首は落ちた。顔を近づけて、香りを嗅ぐ。首が落ちてもなお気高い芳香を感じた。彼らの葉脈は美しく血管のように広がり、葉はつやつやとしている。ふと、砂色の線がその葉に走っているのを見た。病気だろうか。それとも、そもそもそういうものだっただろうか。
病気なら私にはどうしようもない、と思い、葉から手を放す。
部屋に戻って帽子をかぶって鞄を持ち、ふらりと外に出る。
蝉の声がする。
蝉は生きているから、その鳴き声を「音」と表するのはよいものなのか、十代の頃からずっと考えているが、いまだに答えは出ない。そんな、どうでもよいことを頭の中でかき回しながら、天照に入る。
まっすぐに紫垂月頼宗がいる部屋に向かった。道すがら、天照の庭を見る。さまざまな花が己を見せつけるように咲き誇っている。タチアオイ、アジサイ、ユリやバラ。クチナシもあった。麦わら帽子をかぶった庭師らしき男を見かけた。
彼の部屋の前に膝をつき、「紫垂月殿」と声を掛ける。
襖に手をかけて引く。木と木が擦れ合う音を聞いて、顔を上げた。
「今日は休みじゃなかったかな」
「ええ」
そうです、と呟いた。縁側に坐って。
「買い物に行って、家にいたのですが……」
「うん」
「どうしてか、こちらに来たい思いになってしまって」
珍しいね、と彼は言う。そうだ、珍しいかもしれない。特に理由も無くきてしまったのは。だが、自分が気付かないだけで理由というものはあるのかもしれない。胸の内をさらっても見つかることはなかったけれど。
「なにを買いに行ったんだい」
「ああ……除草剤を」
「除草剤」
彼は繰り返し、そっと「へえ」と頷いた。そして「君も除草剤を使うんだね」とも。
青嵐は目を細めて笑ってみせた。
「はい。本当は手で刈ったほうがよいのかもしれませんが、どうにも広くて。ほかの花が周りにあれば諦めも付くんですが」
クチナシの花が咲いている場所と離れたところに、草は生えている。近距離に咲いていれば、除草剤をまけばその花たちも枯れてしまう。それにセンチメンタルを抱くような年齢でもないが、育てた花を自分の手で枯らすのは、いささか勇気が要った。
「自分で育てた花を自分で終わらすのは、義務だと思う?」
「ああ……」
紫垂月頼宗があまりにも自分が思っていることと似たことを問うので、くすりと笑ってしまった。
「きれいごとを言うのならば、花は花として、生きて枯れるべきです。そこに人間の手が加わるべきではない。ですが、実際そんなことはありません」
「自分で育てようがなかろうが、自然に任せる、ということだね」
「本来はそうですね、きっと。花に手を掛けるも掛けないも、本人次第でしょう。邪魔だと思うなら除草剤で枯らすことも躊躇わない。人間ですから」
「君の故郷なら――どうだったかな」
「……」
ふと、口を噤む。目を伏せて思い返す。農薬を飲んで死んだ人間のことを、頭の片隅によぎった。
「古い話です。沖縄――琉球王朝は火とともに育ち、暮らし、火の民と称してきました。私の家はそれが顕著で――我らこそが本来の日の民だと。日の元つ国、日本にもとより住んでいた縄文人、海のむこうから渡ってきた弥生人。純血の縄文人のみが日本人だという完全な血の選民思想。今では鼻で笑えるような話です。……自然と生き自然と死ぬ。聞こえはいいかもしれませんが、結局は選別されたのでしょう。私も、私以外の血も。その意味で血筋から、私は選ばれなかった」
「……それでも君は今、神といる。それを選んだのは君だ」
初夏にしては乾いた風が抜けていく。向こう側にタチアオイが高く、咲き誇っている。
「そう。ええ、そうです。私が、私のために選んだ道が、刀遣いです」
「なら、そうして生きていくといい。君が選んだ、君だけの人生だからね」
「ええ。そうですね。見なければならないものを見て、聞かなければならないものを聞く。それが私にできることです」
白いおとがいがかすかに動き、彼はほほえんだ。
花のようなほほえみだと思う。だがこの手では決して手折れない、美しい花だ。
「紫垂月殿。あなただけでも私が生まれ持った苗字をおぼえておいて頂きたい」
「うん?」
「照喜納。照喜納青嵐、といいます」
本州からはるか南に位置する小さな島で男は生まれた。
「……火から生まれた刀にとっては、日が照る名――照喜納、のほうがよいでしょうか」
ふっと笑ってみせると、紫垂月頼宗はくちびるを緩めた。
「太陽ばかり照っていては花も咲かないよ。青。雲が出て、雨も降らなければ」
この神はどこまでみとめていたのか。青嵐も同じように口もとをほころばせ、笑ってみせた。
庭の向こうに赤紫色のタチアオイの花が見える。そしてアジサイの、バラの鮮烈とした色。――潔い、クチナシの白。梅雨の時期の花々はみな、濃い命の色をしている。まるで短い命を急ぐように咲く花を愚かだとは思えないのは、人間と重ねているからだろうか。
やがて空は照る太陽を、風に流れてきた雲でうっすらと覆った。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.