分厚い布団の中に包まれているのに、ぞわぞわと背筋を走る冷感が消えない。一方、体は冷えているのに頬はまだ少し熱を帯びていて、手で触ると冷えた指先がじんわりと気持ちいい。
くしゅん、と大きなくしゃみが飛び出て、布団の中で思わず飛び跳ねる。
「……うう。いったいもう何日寝ているのでしょう」
布団の中、何度目になるかわからない微睡と覚醒を経て、ようやく意識がシャンとしてきた後の第一声。我ながら情けないと思いながら、オデットは弱音めいた一言を呟いていた。
ここは、シュガーグレイヴにある宿だ。騎士の任務のお手伝い――その終わりは、随分と慌ただしいものになった。
異端者の襲撃から始まり、続けて魔物の襲撃が重なったのだ。致命的な損害には至らなかったものの、負傷者がゼロというわけにはいかなかった。
その最たるものが、川に落ちたオデットかもしれない。ずぶ濡れになったオデットは、負傷こそしてなかったものの、芯まで体を冷やしてしまい、町に戻る途中で発熱してしまったのだ。結果、帰還早々、こうしてベッドに詰め込まれてしまったのである。
イレーナは、オデットが川に落ちたことが任務に連れて行った自分の責任であるかのように、何度もノエに謝罪していた。
だが、元はと言えば、任務について行くと主張したのはオデットの方だ。イレーナはむしろ、年少のオデットの傘下に渋い顔をしていた。だったらなおのこと、任務のせいで風邪をひかせてしまったと謝られる理由はない。
帰還した騎士は、異端者対策のために警備内容の見直しを行ない、あれこれと忙しくしているらしい。イレーナも、ノエたちへの謝罪のために一度宿を訪れた後は、詰め所と巡回路を行ったり来たりしているそうだ。
「オデット、安心してくれ。我々の目が光っているうちは、異端者どもをこの町の中に入れるような真似はしないと約束しよう。ゆっくり養生してくれ」
彼女は寝込んでいるオデットを励まし、いつものようにキビキビとした足取りで仕事へと戻って行った。
ノエや他の面々も先日の任務の報告をまとめる作業を手伝ったり、武具や防具の手入れ、薬品の補充と忙しくしているらしい。これらの内容の殆どは、看病をしているゲルダとヤルマルから伝聞で聞いたことであり、オデットはその間ずっと布団の中で自身を蝕む病と戦っていた。
オデットとしても、皆と一緒に武具を扱う店を覗きに行ったり、薬の匂いを嗅ぎ合って苦笑いした顔を見合わせたりしてみたいと思うものの、熱で弱った体はすぐには回復してくれなかった。目を覚ましてごろごろ寝返りを打ち、退屈を訴えられるようになったのは、ここ数日のことだ。
布団から顔を出して、少し冷えた室内の空気に額を晒す。ヒヤリとした空気が気持ちいいと思っていると、
「オデット、暑いの?」
声をかけてきたのは、忙しくしている皆に代わって看病をしてくれているゲルダだ。
「少しだけ。それにちょっぴり退屈です」
「病人は寝ているものだって、ルーシャンは言っていたよ」
「だって、ずっと布団のなかなんですもの」
そうは言ったものの、数日前までは熱が高く、起きているのか寝ているのかわからない状態だったのだ。裏を返せば、ずっと布団の中にいたおかげで、不満を言えるくらいには回復したというわけである。
「でも、いくら行きたいって言っても、外は寒いから外に行ったら今のオデットなら凍えちゃうよ」
「わかってます。ただ、布団の中で寝転がってるだけなのも飽きてしまったんです」
小康状態を主張するオデットはわざとらしく膨れっ面を見せて、傍らにいる友人に視線をやる。
ずぶ濡れになった代償に熱を出してしまったオデットとは対照的に、ゲルダは健康優良児そのものだ。念のため、町に戻ってから元主治医のヒューイの所に行き、診察を受けたようだが、問題なしと保証してもらっただけとのことだった。
一方で、動けないオデットのもとに往診に来たヒューイは、「苦い薬ですが我慢して飲んでくださいね」と錬金薬をいくつか置いていった。それがまたひどい味で、オデットは辟易しながら毎食後、まるで厳しい修行をしているかのような顰めっ面で薬を飲んでいた。
「そういえば、兄さんたちはどこに行っているんですか?」
「ノエたちは、近頃はイレーナさんのお手伝いってことで、町の周りの巡回を手伝ってるよ。今日もそうじゃないかな」
「どうりで、皆さんの姿が見えないのですね」
「だいたい朝から晩まで出かけてるね。夜通しの哨戒は、まだ任せてもらえないんだって」
聞いた話によると、ピヌヌは頑なに傭兵たちを排斥する自身の考えをいくらか改めたらしい。町内の見回りや外壁周辺の巡回は騎士の目も多いので、外部の力を借りることも検討し始めたとのことだった。
その改革の一環として、真っ先にノエたちに白羽の矢が立ったのは、イレーナが彼らの誠実な人格を保証してくれたからだろう。まずは部下が信頼しているノエたちから、手探りで傭兵の運用方法を模索しているらしい。
「オデット、目が覚めたなら何か口に入れる?」
「はい。そうですね……お腹はそこまで空いてないので、飲み物を持ってきてもらえますか」
「わかった。たしかヤルマルが薬草を使ってお茶を作ってたはずだから、もらってくるね」
ゲルダが部屋を後にして、部屋には一時的に静寂が訪れる。
ヤルマルは階下にいるようなので、サルヒはノエたちと共に騎士の手伝いに行ったのだろうか。ここ最近は、病人のオデットの面倒を見るため、ヤルマルとサルヒは交代でオデットの面倒を見てくれている。そのことを申し訳なく思う一方で、オデットは安堵してもいた。
(……わたし、今、兄さんと顔を合わせたら、自分がどんな気持ちになるのかか分かりません)
ノエと顔を合わせられない理由。それは、ノエ自身に起因するものではない。
冷たい川の中へと投げ出され、死にかけたその瞬間。オデットは、自分がすっかり奥底に仕舞い込んでしまった冷たい記憶を思い出していた。
溺れ死にそうになった瞬間、なんとかこの状況を脱しようと本能的に記憶を掘り返したからこそ、忘れたいと埋めていた記憶まで掘り起こしてしまったのかもしれない。
古い記憶であるが故に全てを詳らかに、とまではいかない。断片的な部分も多々ある。それでも、オデットは中途半端に抜け落ちていた記憶の概要を知ることになった。それに、なぜ自分が思い出せなかったかの理由も含めて。
大枠としての実情は、知識としてすでに知っていた。ノエやミラベルの話を聞いて、思い出せない記憶の中で、自分は大変な目に遭っていたのだと理解していたつもりだった。
(ですが……ただ漫然と記録として知るのと、記憶として思い浮かべるのとは全くの別物でした)
劣悪な環境で、ただただ震え上がっていた子供。周りの大人の善意にも悪意にもまだ疎くて、言われるがままを受け入れていた自分。
その先にあったことは、一人で振り返るにはあまりに悍ましく、そのくせ熱でうなされているときに限って悪夢という形で表出した。具体的な内容は定かでないくせに、恐怖と気持ち悪さだけが尾を引く目覚めは、熱とは別の意味で最悪なものだった。
「オデット、入るよー」
思索を叩き割るかのように、ごんごんと扉に何かがぶつかったような重い音が響き、扉がゆっくりと開く。見れば、ゲルダが足を使って扉を開けているところだった。
「ゲルダ、お行儀が悪いですよ」
「だって、両手が塞がっていたんだもの。ほら」
ゲルダの言うように、彼女の手には茶器を入れた四角いお盆があった。扉を小突くような重いノック音は、お盆の角を使って扉を小突いたからか。
三つ分のマグカップが置かれていると気がつくと同時に、ゲルダの背後に影がさす。
「だから、ボクを待ったらいいって言ったのに。ゲルダはせっかちなんだから」
「だって、早く持っていきたかったんだもの。オデット、このお茶、さっき飲んだけどすごく美味しいよ。体の中が燃えるみたいに暑くなるの」
「誤解を招きそうな言い方はよしてくれよ。君がねだるから、特別に体が温まるスパイスを多めに入れただけだって言っただろう。オデットの分は、ちゃんと病人用に優しい味に整えてあるよ」
部屋に入り、後ろ手で扉を閉めるヤルマル。片手で器用にも支えているお盆には、小鍋と小皿、そして匙が置かれていた。
その間にも、ゲルダは袖机にお盆を置き、いそいそと茶の準備を始めている。
「宿の女将さんに頼んで、病人向けのパン粥を作ってもらったんだ。こっちもついでにどうかと思ってね」
「ありがとうございます。お腹は、そんなに空いてないんですけれど」
「君、今日は朝に少しミルクがゆを飲んだだけだろう。食べられる元気が出てきたのなら、口に入れておいた方がいいよ」
ヤルマルに促され、オデットはもぞもぞと布団の中にくるまるのをやめて、上体を起こす。ヤルマルはてきぱきとオデットの側に小机を運び、部屋の中にある作業机の上に置いた小鍋から中身をよそい、小机へと乗せた。ふわりと漂う甘い乳の香りは、グリダニアではあまり嗅がなかった匂いだ。
なるべく体に負担がかからないように、オデットの背にクッションが挟まれる。それに身を預けながら、オデットはヤルマルが差し出した匙の中身を食べていた。
「……今朝も思いましたが、これって子供みたいで恥ずかしいですね」
「病人なんだから気にすることじゃないよ。前にオランローがまだ君よりも小さかったときにやってやったことがあったけど、あの時のしかめ面は見ものだったねえ」
「それは……ちょっとわたしも見てみたかったです」
さぞかし、オランローは苦い顔をしていたことだろう。彼は、ヤルマルの前では頼りになる大人の姿を見せたいと思っているようだ。それくらいはオデットにも分かるので、笑いながらも少し気の毒にも思っていたのだった。
「それとも、君ならノエにやってもらった方がいいかい?」
「兄さんに……」
ヤルマルとしては、ささやかなからかいの一つだったのだろう。だが、ノエのことを思うと、同時にオデットの中では、先ほどまで自分の心中を埋めていた記憶が滲んできていた。まるで、白い布に黒いインクが染み込むように、じんわりと。
オデットの顔から笑顔が消えたのが、ヤルマルの目にもわかったのだろう。彼女は匙を一度皿の中へと戻すと、
「ノエと喧嘩でもしたかい。君、意識が戻った頃から、ノエの話を出すたびに暗い顔になっているようだけれど」
「え……。そう見えましたか」
「それに、夜中に何度か魘されているのが聞こえた。何度か起こしたんだけど、君はボクたちが起こしたこと自体、気付いていないようだった。これは熱のせいかとも思ったけれど、どうやらそれだけじゃないようだね」
まさか悪夢からの脱出にヤルマルが手を貸してくれていたとは、この様子だと、ひょっとしたらサルヒも同じように声をかけてくれていたのかもしれない。
「兄さんは、気がついているんですか」
「ほんの少しだけれどね。君が何か苦しんでいる様子なのは察していたけれど、今回の件では、彼には本当に心当たりがないようだった。ノエはノエで任務の手伝いがあるから、オデットに何か相談されたなら聞いてやってほしいと頼まれている」
ヤルマルとノエの慧眼に内心舌を巻きながら、オデットは観念したようにゆっくりと頷いた。
ここで無理に隠してしまっても、結局はノエを筆頭とした皆に不安を抱かせるだけだ。いつか、心の中に溜まった無理は、自分が望まぬ形で爆発するかもしれない。だったら、今のうちに話してしまってはどうか。
それに、今はノエはここにいない。ノエに直に聞かせるにはまだ気持ちの整理がついていないが、第三者のヤルマルや友人のゲルダになら――そう思う自分もいた。
(そうです。わたしは、あの時みたいに、ただ泣くだけのわたしじゃ……ない)
自分を助けてくれたノエすら恐れて、震え上がっていた頃の幼い自分を敢えて思い出す。
それに比べれば、今のオデットは自分の足で随分と遠くまで行く力を得た。だったら、過去の影にいつまでも怯えていたくはない。
己を鼓舞するように、オデットは敢えて強い言葉を選び、自分を焚き付ける。
(お兄ちゃんに、わたしは強くなったと示すんですから)
腹の底にぐ、と力を入れ、オデットはゲルダが用意してくれたお茶にまずは手をつける。ヤルマルが言っていたように、少しだけ刺激的な後味が残るお茶は、オデットの中に生まれた炎を勇気づけてくれるかのようだった。
「……わたし、思い出したんです。これが多分、お兄ちゃんが思い出さないほうがいいって何度も言っていた記憶だったんだと思います」
オデットの切り出しに、ヤルマルはかすかに瞠目する。張り詰めた糸のようなオデットの面差しに、ただの思い出話ではないとヤルマルも察したのだろう。
彼女は、口元を手で包むようにして、思案の姿を見せると、
「……もし、君がボクたちに今すぐ話さなければならない事情がないのなら、話は食事が終わってからにしないかい」
もうひと匙、粥を掬い上げるヤルマル。差し出されたそれを断るわけにもいかず、オデットは雛鳥よろしく匙を口に含む。
「その様子だと、楽しい話ではないのだろう? だったら食事が不味くなるような話は後回しにしよう。せっかく美味しく作ってもらったものは、美味しく食べないとね」
「……はい。ありがとうございます」
決意はしたものの、勢いに任せて全て話すほどの気構えは不十分だったのだろう。ありがたく、オデットはヤルマルの申し出に頷いたのだった。
***
パン粥を粗方平らげて――オデット自身驚くほどに体は食べ物を求めていたようだ――食後の苦い薬を飲み、ひと心地ついた後。
「それで、食事前に話していたことなのですが」
自ら、オデットはそのように切り出した。
きっと、ヤルマルはオデットから切り出さなかったら、このまま部屋を去っていたことだろう。その優しさはオデットにも察せられたが、今は彼女の優しさに甘える時ではない。
満腹になったお腹は暖かなものに満ちていて、今ならあの寒い記憶なことを語っても、心まで冷え込むことはないように思えた。
「……わたしが一部の司祭様が発案した復興事業に参加させられていた頃、わたしたちは教会の人や騎士の人と一緒に暮らしていました。わたしたちが逃げ出さないように、監視していたのだと思うんです」
自分でも思ったより、滑らかに口は動いてくれた。ヤルマルが居住まいを正したのを確かめてから、オデットは言葉を続ける。
「大人の人たち……特に司祭の人たちは、わたしたちがよその人と話をすることを嫌がっていました。悪いことをしているって万一にも漏れたら困るから、だったんだと思います」
だから、逃げようとする事業の参加者を騎士や司祭は強く糾弾した。時に命を奪うことすら示唆して見せ、見せしめのように皆の前で非難するような場面すらあったのは、彼らなりの脅迫でもあったのだろう。
「単純に監視の目が厳しかったことを思い出したのが、君の悪夢の理由だったのかい」
「いいえ。それももちろん怖い思い出でしたが……わたしは、あの人たちが、何をしていたのかを、思い出してしまって。それが……悪夢の原因だと思います」
話が根幹に差し掛かると、オデットの喉は途端に発話の機能を忘れたかのように引き攣ってしまう。
ゲルダが差し出してくれたマグカップの中身を半分ほど飲み干し、どうにか喉を湿らせ、数度呼吸を挟んでから、
「あの施設にいた司祭は……自分が気に入った子供や大人を自分たちだけが過ごす部屋に連れだして……他の人に見えないようにして、その……自分の好きなように扱っていました」
「好きなようにって?」
質問をしたのはゲルダだ。ヤルマルは表情を変えないまま、沈黙を守っている。
出会ってから日の長いヤルマルに対してどのような顔を向ければいいか分からず、オデットは敢えてゲルダの方を見ながら、
「最初は、お菓子を分けてもらって、隣に座って、大人たちの話を聞いてるだけでした。周りの人には内緒だって言って……そういう秘密の会みたいなのが時々開かれていたんです」
他の寒い思いをしている人たちとは真逆の、暖かな部屋で滅多に食べられない栄養のある食べ物を分けてもらえる。それだけを聞くなら、後ろめたさはあっても惹きつけられるのも無理はない場であった。
「わたしを最初に呼んだ人も、最初の数回はお喋りだけをしていて……お話はよくわからなかったけれど、それだけでおやつがもらえて、寒い部屋から離れるならそれでもいいかって思って。でも、何回かそういうのを繰り返すうちに、その人、は……今度は頭を撫でたり、肩を触ったり、手に触れたりして」
「……オデット、ちょっとごめんよ」
オデットがそこまで言いかけたとき、不意にヤルマルの声が割って入った。
どうしたのかと驚いてそちらを見やると、彼女は妙に強張った面持ちでオデットを見つめていた。普段は笑顔を見せているヤルマルだからこそ、その真剣な面持ちに、オデットも思わず唇に力を込める。
「ヤルマル、さん?」
「今、君が切り出そうとしている内容の大枠を、ボクは大体理解できてしまったと思う。君がこれまで見せてきた態度からの推察もあるが、そこまで外してはいないだろう」
ヤルマルの言葉に、オデットは目を丸くする。自分はまだ核心に触れていないのに、ヤルマルは全てが分かったと言うのだろうか。それとも、それほどまでにあの忌まわしい時間は――よくあること、なのだろうか。
「君が勇気を出して昔の話をしてくれているのは、ボクにも分かっている。自分の過去を正しく理解しておいてほしい、という気持ちもあるのかもね。その上で言うけれど……」
声のトーンが一段落ちる。声音そのものの小さくなる。
「君が話すことで、より当時のことを思い出し、それが耐え難いと感じるのなら、君の口から全て話す必要はない。ボクが質問をして君が首を振るだけの形式でもいいし、何も言わずに唇を閉ざしてもいい」
それは、とても魅力的な誘いだった。
オデット自身、まだ話し始めていくらも経っていないのに、せっかく体に入れた温もりがすっと無くなっていくような感覚に襲われていたのだから。
「ノエは賢い人だ。ボクが察した分を伝えただけでも、自分がどうすべきかを考えてくれるだろう。ルーシャンやオランローも、君にとって負担にならない距離を考えてくれるはずだ。もちろん、彼らに伝えないという選択肢も君にはある。ボクは、この件については全面的に君の指示に従うと約束しよう」
ヤルマルの語った内容は、オデットにとっても容易に想像できることだった。
オデットが自分でも分からない男性恐怖症に悩んでいたころ、三人ともどのぐらいの距離を保って生活するかを考えてくれていた。行動の端々で、それは分かっていた。だから、少しずつあの恐怖も収まってきたのだ。
「君が話さない選択をしたとしても、それは臆病ではない。その上で、よく考えてほしい」
このまま、唇を閉ざせばヤルマルは今の話を胸にしまってくれる。知っている人が少しでもいるなら、それがヤルマルやゲルダなら、もう十分ではないかと弱音を吐く自分がオデットの中に生まれる。
けれども、敢えてオデットはその小さな自分に首を横に振った。
「……それでも、話します。それに多分、ヤルマルさんが一番心配してくれていることは、わたしには……起きていませんので」
「だからといって、最悪には至っていないから自分はまだ大丈夫だ、などと思う必要はないよ。嫌だと思ったら、すぐに黙ってくれていいからね」
「はい。ありがとうございます、ヤルマルさん」
ヤルマルの念押しを聞いて、オデットはようやく首を縦に振った。
ふと、手が何かに包まれる感触。見れば、ゲルダがオデットの手をぎゅっと握ってくれている。彼女の手を、そっと指先で包み返す。そうすると、冷えかけた心がほんの少しであっても温まっていく。そんな気がした。
「わたしを呼んだ人は……その人のこと、わたし、いつも司祭様って呼んでたから、名前すら知らないんですが。その人は、他の人がいる部屋でわたしと過ごすときは、まだ普通にしていた方だったと思うんです。娘がいて、昔こんなふうに触れ合ってたって、言ってた気がします」
それが本当のことなのか、オデットを騙すための嘘だったのか、あるいは自分自身すらも騙す理由だったのか。今となっては、オデットにはわからない。
「知らない人に触られるのは、わたしはあまり好きじゃなかったんです。でも、寒い部屋から離れて過ごす時間があるのは、あの時のわたしにとって、すごく助かることでしたから……少しくらいならって」
けれども、過剰なスキンシップとして飲み込もうにも嫌悪感を覚える自分を押し殺すことはできなかった。
その時のオデットは、もう七つ八つの子供ではなかった。記憶が正しければ、今ほど体がしっかりはしていなくても、少しずつ大人の身体に成長している頃合いだったはずだ。
「あの時のわたしは……なんだか、自分が人形になったみたいでした。あの人たちと過ごしてる時間は、わたしは人形みたいな気分になってました。どこかで、そう思うようにしていたのかもしれません。いいことなのか悪いことなのか、人形なら分からないのが当たり前ですから。わたしも、わからないことにしておきたかったのかも」
そんな曖昧な気持ちを是とするほどに、普段過ごしていた環境は過酷だった。あの集まりに混ざっていなかったら、飢えと寒さで自分のようなか細い子供はすぐに死んでいたことだろう。
「そうして、何日も……何十日も経ちました。わたしは、普段はその人とは少し距離を置いていて、何も知らない皆とも馴染めなくて、浮いてました。外から来た大人の人に相談しようかとも思ったんですが、同じように司祭の人に呼ばれてた大人の人が、外の連中に行ったら許さないって」
同じように皆に内緒で温かいひと時を貰った者にとって、この時間ですら楽園のようだったらしい。
オデットに口止めをした大人、あるいは子供たちは、ここに来るまでどんな場所で過ごしていたのか。これも今となってはわからぬことだが、少なくとも彼らにとってこの関係を終わらせる気はないことは確かだった。
実際、オデットも普通の生活では手に入らないお菓子や食事を分けてもらっていた。その後ろめたさもあって、オデットは黙秘を求める彼らの意見に従った。
「でも、そうやって黙っていられたのは、あの時が来るまで、でした。わたしを気に入ってたその人の部屋に、初めて招かれた日でした。扉が閉まって、二人きりになった時、わたし」
ゲルダの手を、強く掴む。爪が立っていたら傷つけてしまうと思っても、今は誰かに縋っていたかった。
「わたし、その人に、掴まれて、押し倒され、て」
は、と一瞬、息が詰まる。
「そしたら、急に怖くなって。わたし、すごく暴れて、蹴ったり引っ掻いたりして」
その決死の抵抗は、偶然にもオデットを守ってくれたらしい。具体的に何があったのかはわからない。相手にとって不愉快な痛みを与えることはできた、という推測しか今のオデットにはできない。
「その人、わたしに怒鳴って、殴って……それから、首を絞めて……わたし、死ぬのかと思って」
その後の記憶は、辿れば辿ろうとするほど曖昧になる。今ここにいるということは、オデットはあの場から逃げおおせたのだろう。
他の人が暮らしている場所なら、司祭はオデットを痛めつけることはできない。私刑をするにも、人の目を全く無視できるほどその人物は考えなしではなかったらしい。
いっときとはいえ見逃してもらえたのは、彼らにとって騒ぎが起きていることがバレると都合が悪い人物がいたからもあるだりう。
何故なら、逃げ込んだ先で自分に声をかけてくれたのは、
「お兄ちゃんが、震えていたわたしを見つけてくれたんです。わたしは……きっとお兄ちゃんに助けを求めたのだと思います。お兄ちゃんは、わたしの顔を見て、とても驚いてたみたい、でした」
語り口が伝聞調になってしまうのは、自分でも記憶が定かではない部分があるからだ。
「それから、お兄ちゃんが何かわたしにくれて……」
「ミラベルはオデットを助けなかったの?」
黙って話を聞いていたゲルダが、つと口を挟む。どこか不満げにしているのは、ミラベルのことを知っているからこそのものか。
「助けたい、とは思っていたみたいです。すごく悩んでいた、ような気がしますから」
「彼は他の施設も含めた悪事の糾弾を、若い司祭とともに進めていたという話だったね。だったら、オデット一人を助けることで、彼らの活動つけ込まれる隙ができると思ったのかもしれない」
ヤルマルの言葉は当たらずとも遠からずだろうとオデットは思う。
イシュガルドという国は権謀術数渦巻く世界でもあることは、ノエの父の話を聞いた時からわかっていた。
わずかな隙間は、大きな弱みとなりかねない。自分好みの子供を手に入れるためにでっちあげをした、などと言われたら――彼は、そのような微妙な立場に立たされていた可能性もある。
「お兄ちゃんは、その後すぐにいなくなってしまって……その後、わたしはまたあの人に呼ばれたらどうすればいいかわからなくて、お兄ちゃんがくれたものを……使ったんです」
「使った?」
「はい。多分それは――毒、だったんだと、思います」
武器も持たない子供ができる、精一杯の抵抗だった。その人物がいつも使っている食器をオデットはよく覚えていたから、人目を盗んで飲み物に混ぜ込むのはオデットにも容易かった。もし他の人が飲んだら、などと考えている余裕はなかった。
程なくして、司祭が一人死んだという話が施設中を駆け巡り、想像以上の混乱を目の当たりにして、オデットは何が起きたのかを理解した。
「あの人が、亡くなったって聞いて……わたし、そんなつもりじゃなかったのにって、そう思って」
自分は悪くない。だって知らなかった。これがそんなにも怖いものだなんて、教えてもらわなかった。
ちょっと具合が悪くなるだけだって、たしかそんなことを言っていたから。だったら、それならいいかと思った。
だから、悪いのは――自分じゃない。
「その人のお気に入りだったわたしに、疑いの目が向くのは時間の問題だったと思います。わたし、怖くなって、建物の外の倉庫に隠れて……そこにいたわたしを、お兄ちゃんが見つけて、連れ出してくれたんです」
無謀とも思える脱走だった。この地の寒さを知った今のオデットは、なおのことそう思う。
けれども、あの時胸によぎったのは、未来への不安ではなかった。
「お兄ちゃんは、危険を顧みずわたしを助けてくれたのに、わたしは不安で胸がいぱいだった」
自分が手を取っているこの人が、あの人を殺したのだ。この人が助けてくれなかったから、わたしはそうするしかなかったんだ。
そうだ、わたしは悪くない。この人が、やれと言った。言ってないかもしれないけれど、渡したのならきっとそれは同じだ。だって、この人は大人で、何もかもわかっている人のはずなのだから。
――だったら、わたしはこの人を信じていいのだろうか。
この人とずっと一緒にいて、本当に大丈夫なのだろうか。
「その後は、前に……話した通りです」
オデットが消えたことで、彼女が犯人であるという結論が出たのだろう。
あの日、二人を追跡する追手から逃げている途中、雪崩が起きて、その場にいた全員が巻き込まれた。幸い、ミラベルに庇われたオデットは雪に埋もれただけで、目立った怪我はなかった。
けれども、オデットの不信はその瞬間爆発した。オデットは、ミラベルを置き去りにして一人で逃げ出すことを選んだ。そうすれば、自分の罪も彼が全部雪の中に持っていってくれるような気がしたから。
「……わたしが、ころしたのに」
ゲルダの手を握るオデットの指先は氷のように冷えていて、まるで自分のものではないかのようだった。
「わたし、全部お兄ちゃんのせいにして」
言葉にすればするほど、自分がどれだけ浅ましい人間かを突きつけられたようで、震えが止まらなくなる。このまま、目をつぶって闇の中に溶け込んで消えてしまいたい。
そう思った時、ふと肩に触れる温もりがあった。
「オデット」
呼びかける声は、優しくても決して弱いものではなくて。
「君は、誰かを傷つけたことが正しかったとは、決して言わない子だろう。だから、代わりにボクが言う」
彼女の手が、ゲルダの手を握るオデットの手と重なる。
「――よく頑張ったね」
君は悪くないとも、正しいとも言わず。
ただその瞬間を自分を守るために、必死に切り抜けたことを、目の前の女性は労った。
たったそれだけの一言で、気持ちが軽くなるわけではなかったけれど。
「……はい」
その一言を頷いたとき。
頷いてもいいんだと、思えたとき。
「ありがとう、ございます。ヤルマルさん。ゲルダも」
思い出してからずっと引きずっていた恐怖も困惑も、不安も罪悪感も。
自分は一人で抱え込まなくていいのだと思えた。
「話を、聞いてくれて。……ありがとうございます」
触れてもいいかい、と尋ねるヤルマル。頷くと、そっとオデットの体が彼女の元へと抱き寄せられた。
「――――」
今までヤルマルに親しみを込めて抱きつかれたことや、親愛としての抱擁を受けたことはあったけれど、この触れ合いは、それとはまた違う。
これは今までで一番優しくて、暖かくて。微熱の気だるさなど一瞬忘れてしまいそうになるほど心地よい。
頭を撫でる手つきは、ノエのそれとはまた違う温もりを持っていて、きっと彼女の優しさが全てこの瞬間に滲み出ているのだと――そう、思えた。
今は無理に言葉を続ける必要はない。そう言ってもらえたような気がして、オデットは深く息を吸い、吐く。ヤルマルに身を委ね、目を瞑る。
蓋が開いてしまったが故に溢れ出た記憶は、あまりに暗くて黒くて、振り返るだけでも恐ろしいものだった。
けれども、あれはやはり過去のことでしかない。
過去だからというだけで割り切ることはできず、今のように誰かに縋るときはあったとしても。あの瞬間が、今のオデットの全てを占めるわけではない。それもまた、事実だ。
あの傲慢な司祭に振り回される未来は、彼が死んだ以上ありえない。それに、たとえ彼が生きていたとしても、今なら『大丈夫』と言い切れる自信もある。
(だって、ここには、わたしを大事にしてくれる人がたくさんいるから)
今、オデットを抱きしめてくれているヤルマルも。どれだけ強く握りしめていても、振り解かずに手を握り続けてくれたゲルダも。
そして、訳もわからないうちに怖がってしまった自分を、嫌な顔ひとつせずに守り続けてくれたノエも。
(だから、お兄ちゃん。……わたし、お兄ちゃんが思うほど、弱くないんですよ)
忘れられるなら、忘れておけばいい。
そう思ってくれた兄(ミラベル)の気持ちが、今なら分かる。
分かった上で、それでもオデットは思う。
次に彼に会ったら、胸を張って彼にこう言おうと。
(わたし、あの頃から、ほんの少しだけだけど……強く、なったんですよ)
ずっと自分を案じてくれただろう、兄に。
自分ごと何もかもが忘れられたとしても、それでも構わないと思ってくれた彼の愛情に。
応えるためにも、オデットは今しばらく、ヤルマルの腕の中で目を瞑っていた。
***
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