しったか
2025-01-23 16:10:44
5407文字
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おもかげ

出来てる利土井の習作
年下はどれだけ甘えてもいいしどれだけ背伸びしてもいい
最強のはがきんよう日砲をくらえ

 髷を解かずにいたのは正しい警戒心ではあったものの、乱れてしまえば結局は結い直すはめになる。ただでさえ傷みきった頭髪は汗で絡み、酷い有様だった。元結を解き、まだぼんやりとのぼせた頭を軽く振る。ばさばさと色気もなく広がった髪からは、どうしても埃っぽい匂いがした。
 片手で荷物を探り、櫛を取り出す。独り身の庶民の男が持つにはいささか不自然な、美しい鼈甲の櫛だ。
「やらせて」
 囁きは耳のすぐ裏から吹き込まれた。ぞわ、と背筋が疼いたのが恐怖のせいではないことは、さすがに身に染みている。熱の名残を帯びた、どこか甘えた声の調子に喉の奥がくっと締まる感触がした。
 あやうく灯りかけた火を、半助はなんとか理性と矜持で踏み消す。肩越しに渡した櫛を、利吉は訝しむこともなく受け取った。剥き出しの肌に小袖を羽織っただけの半助の背後で膝立ちになり、そっと一房、髪を手に取る。
――仕事のついでですから、戻る時にまた寄ります」
「気をつけてね」
「はい。今度はちゃんと父にも……よいこたちにも、顔を見せますから」
「そうしてくれると嬉しいよ」
 丁寧に、縺れた髪の一本一本をほぐすように櫛を入れながら、利吉は苦笑交じりで付け加える。同じく苦笑を返した。学園を訪れた利吉があっという間に生徒たちに囲まれ、きゃあきゃあと賑やかな輪の中心で狼狽えているのは見慣れた光景だ。
 今日、そんなかわいらしい騒動は起こらなかった。今宵裏々山の廃寺の堂にて、という旨の文だけがひそかに届いたのが今朝のことだ。生徒でもなし、月もない夜更けに出かけてゆく半助を咎める者は誰もいなかった。翌日が休日だったのは無論計算づくだったろうし、学園の中で本当の意味で「忍ぶ」ことなど出来ぬ以上、逢瀬をと思えば街に出るか、廃屋や獣すら通らぬ藪の陰で落ち合うしかない。今回は後者だった。
 利吉は丁寧に半助の髪を梳いている。時折引っかかりそうになると、どこまで準備がよいのか水鬘の小瓶まで取り出して絡んだ箇所をほぐし、枝毛切れ毛ばかりで言うことを聞かぬ毛先も綺麗に撫でつけた。
 しばし言葉も交わさず、世話を焼くことと焼かれることに専念する。
 自身の手では決してかけない手間暇に、半助はいつも面映ゆい心地になる。元の通りに髷を結ったあかつきには、髪結いにでも行ってきたのかというほどの仕上がりになっているだろう。それはそれで不自然ではあるのだろうが、いかにもくんずほぐれつしてまいりましたという姿で教え子たちの前に立つ後ろめたさには敵わない。まして半助の管轄下には手入れの悪い髪を親の仇のように睨む子がいて、下手をすればどこで、何をしてきたかまで見抜かれてしまいそうな恐ろしさもあった。
 それにしても――世話を焼かれるという行為は気怠いからだに毒だった。
熱の名残はいまだに、爪先をじんじんと温めている。そこから這いのぼってくる睡魔をどうにも払えず、瞼がとろりと重くなる。うしろに立つひとに背中を、身を預けたくなってしまう。
……今回は、どこまで……
 うとうとと夢見心地で言いかけて、はっと口を噤んだ半助に利吉は肩を揺らして笑った。
 忍者に仕事のことを尋ねるのは、たとえ家族でもエチケット違反――子どもらに口を酸っぱくして言い聞かせているそれが自身の口から出かかったことに、眠気など瞬時に忘れて額を押さえる。
「ごめんね。次、の話をしようと思っただけなんだ」
 日の出よりもずっと早く、闇があるうちに半助も利吉もここを発たねばならない。そんな夜明けすら待てない別れが、名残惜しくないわけがない。利吉を慕う子どもらや永久の憧れである父君を差し置いて、二人きりの時間を過ごすのが後ろめたいのだって本当だ。
 それに――こんな御代でこんな生業をしていれば、ではまた、と気さくに手を振る笑顔が最後に見た姿になるかもしれない。そう思えば後朝の歌の一つだって詠みたくなる。しかし気恥ずかしくてとてもそんなことは出来ない代わりに、「次」の約束を交わす。らしくもない、願掛けのようなものだった。
 ――と、何を言っても言い訳がましい気がした。
 さすがに気が緩みすぎだと頭を抱えれば、宥めるような口づけが首の付け根に落ちる。反射的に唇を噛んだ半助の、揺れたうなじを優しく這った唇が耳元に辿り着いた。おにいちゃん、と幼気に呼ぶ声はとっくに声変わりを済ませているのに、互いにいつまでもその柔らかい呼び名を忘れられない。利吉が櫛を置いた、ごく小さな物音に背筋が伸びた。
「覚えてる? 私が、あなたの過去をしつこくねだったこと」
……覚えてるよ。君がまだ可愛かった頃だ」
 半助が忍術学園の教師になるよりもずっと前。
 利吉の背丈が伝蔵の半分ほどであった頃。
 ふたりの共寝が、文字通りただの添い寝であった時分の話だ。
 放っておけば夜通し書を読み耽る半助に、おにいちゃんだってまだ起きているのだから寝ないと駄々をこねる利吉。山田家の抱える二つの問題を同時に解決したのは母の知恵――「弟を寝かしつけるのはおにいちゃんの仕事よね」という鶴の一声であった。
 有無を言わせぬ美しい微笑みに、誰も逆らえるはずがなかった。
 一応は利吉も、もう添い寝が要る歳じゃないと頬を膨らませはしたのである。しかし読書を諦めきれぬ半助が御伽草子の代わりに兵法書を読み聞かせるという苦肉の策を選んだ結果、それを心待ちにしていそいそと床を延べるようになるまでそう時間はかからなかった。
 六韜だったか、孫子だったか。重厚な典籍をようやく読み終えて、これがまことの知恵熱かと興奮冷めやらぬまま灯りを消した夜のことだった。
 ――あれを、実戦に用いてみたい。
 今は忘れるべき欲を抑えるように肩まできちんと布団をかけても、どうにも目が冴える。落ち着かぬ瞼を何度も薄く開けては閉じて、そうこうしているうちに目がすっかり闇に慣れてしまった頃だった。
――おにいちゃん」
 くぐもった声に、今度こそぱちりと目を開く。首を捻って振り向けば、隣で眠っているはずの小さな頭がない。その代わりに、掛け布団がこんもりと山を作っていた。
 その布団の山に空いた洞穴から、くすくすと聞こえてくる忍び笑い。得体の知れぬ穴の奥からの呼び声など、本来は無視するが――声の主は化け物でも闇に潜む敵でもなく、かわいい弟分だ。
 半助も真似て頭から布団をかぶり、真っ暗な穴倉へとえいやと身を投じる。潜った先に待っていたのは果たして、子熊のように爛々と目を輝かせた利吉だった。
 そこに眠気などまるで感じられない。どうやら内緒話のお誘いだと気づいて、半助は相好を崩した。十二にもなれば父母には言えぬ悩みも出てくる年頃だろう。子どもらしい、ほんのちいさな企みに付き合うつもりで半助もこそこそと尋ねた。
「なあに」
「おにいちゃんはさ……どこのお城にいたの」
 吹かせようとした兄貴風を出鼻でくじかれ、半助はがくりと脱力した。
 内緒話として試みたのは正しいが、話題選びがそもそも正しくない。
 子どもらしい、怖いもの知らずの好奇心そのものは好ましいが――そんな思いを込めて、こつん、と額同士を軽くぶつける。くすぐったそうに目をつむった弟を、半助はやんわりと嗜めた。
「お父上にも言われているだろう。忍者に仕事のことを聞くのは、たとえ家族でも」
「エチケット違反、でしょ?」
 でもさ、と利吉は目を輝かせる。
「僕、絶対誰にも言わないから。おねがい」
「だぁめ。もしものことがあったら、私の情報を知っている利吉くんが危ない目に遭うかもしれない」
「そんな奴らに負けないくらい強くなるもん」
 険しい山奥の一軒家に家族と暮らし、秘密を持つことも、ましてそれを共有する相手が現れることもそうそういなかったのだろう。内緒話に興奮しているのか、勇ましい可能性に意気込んでいるのか、利吉は未来を鼻息荒く語った。可愛らしいが、厄介だ。このまま布団にこもっていればのぼせてしまうだろうと、半助はあしらう方法を考える。
 駄目の一点張りでも構わないだろうし、聡い利吉なら本気で叱りつける前に引き下がるだろう。そしてそのことは、きっと利吉も悟っていた。悟っていて、「おにいちゃん」はこの程度のわがままでは怒らないと甘えている。それどころか、首尾よく大事な秘密を預けてもらえるんじゃないかという期待を楽しんでいる。
 つい上擦りそうな声を懸命におさえて、ひそひそと、やたら得意げな口調で利吉は続ける。
「そのためにおにいちゃんが教えてくれてるんじゃない」
「ずいぶん口が達者になってきたねえ。この調子で体術も上達してくれると嬉しいんだけど」
 う、と言葉に詰まった利吉の目を覗き込むように、もう一度額を合わせた。まさに今日、徒手体術の稽古では半助から一本も取れなかった利吉である。まだ未発達な体で大人と取り組んでまともに戦えるはずがない――などというのは言い訳でしかない。忍者にとって重要なのは生き延びることだ。戦いの最中にあっても、必ずしも相手を正攻法で叩きのめしたり、正面から突っかかってゆく必要はない。その点、がむしゃらに飛びかかってくる利吉はまだ心得が甘かった。
 半助は微笑んで、合わせた額をそっと擦りつけた。まだ小さな頭蓋と、餅のような子どもの肌。これが固くしなやかに育ち、傷つく日はそう遠くないのだろう。避けられない未来だとして、それが半助のせいであっていいはずがない。
「君がどれだけ強くなっても……私のせいで君を危険に晒すことになったら、ご両親に申し訳ない。恩を仇で返すわけにはいかないよ」
……父上も母上も、おにいちゃんを責めたりしないと思う」
「じゃあ、私が嫌だ。私のせいで利吉くんが傷ついたら、おにいちゃんはもっと傷ついちゃう」
 ね、と笑って念を押す。利吉はたじろいだように瞬きを繰り返し、目を伏せた。穏やかに語ったつもりだが、半助が真摯な顔をしていることに気づいたのだろう。
 ようやく引き下がるかと思われたが、その程度ではめげないのが子どもの強さでもある。次の瞬間には目をぱっちりと丸く見開いて、じゃあさ、とどこ吹く風で声を弾ませた。
「今まで一番危なかった任務って」
「だめったらだーめ」
 寝なさい、と言い置いて洞窟から抜け出し、さっさと目を閉じる。追って布団から顔を出した利吉はひそひそとまだ何か訴えていたが、やがてその声も静まったあたりで、半助はようやく眠りに就いた。
 その時――穏やかな寝息を立てる半助を見つめる瞳に燃えていた、未練と憧れの熾火にはさすがに気付けないまま年月は過ぎて。
 そして今は、焦げつくほどに知ってしまった。
 決して戻れぬ、しかし今も温かい日々を思い返しながら、後ろ手に伸ばした指でそっと櫛を取る。
 あの無邪気な少年が、情人へこんな気障な品を贈る男に育つとは。
――立派になっちゃったもんだ」
「今は可愛くない?」
「可愛いよ、憎たらしいくらい」
 わざとらしく拗ねたように問い質す声に、半助は笑って頭を振った。せっかくまとまりかけた髪がばさばさと散ってしまうのを、ああもう、と口先ばかり呆れながら利吉は再び半助の髪を手に掬う。
「櫛を」
「うん」
 指先で遊ばせていた櫛を、もう一度手渡す。つるりとなめらかな鼈甲の櫛は――忘れもしない、二度目の逢瀬で利吉が差し出した贈り物だ。
 唐渡の品であろう、高貴な女性の射干玉の黒髪にふさわしいそれを差し出された時の、半助の驚きといったら――誰が使うんだいと、あやうくばかげた質問をしかけた程だった。
 目利きでなくとも、子どもらのため持ち歩くつげ櫛などとは比べ物にならない値打ちがすることがわかる逸品だった。そんなものを半助に贈ったところで、文字通り宝の持ち腐れにしかならないだろう。興味の薄いことにはずぼらになりがちな半助の気質を、利吉が知らぬとも思えなかった。
 唖然とした沈黙をどう思ったのか、さすがに新品じゃありませんよどこぞの没落貴族からの質流れで――と、やや早口に言い訳を繰った後、軽く唇を噛むしぐさ。やけに涼しい顔をして、けれど顎から下、首元は真っ赤に染まっていて、指先はほんのわずかに震えていて――どれも見たことがあるはずなのに、それでいてどうにも知らない男の顔をしていたものだから、我に返った半助は笑ってその櫛を受け取ることにしたのだった。
 そしてそれを、逢瀬には必ず懐に忍ばせるようになった。
 斑の入っていない白甲の澄んだ琥珀色は、夜闇の中で月のように眩しい。光に透かしてもきっと美しかろうが、明け透けな昼にも、月の明るい晩にも、半助がそれを持ち出すことは決してない。
「答えられないことを苦とは思いません。私を一人前と扱ってくださっている証拠だ。でしょ?」
 ぐいと頭皮が引っ張られる感触がある。再び櫛を通してひとつに束ねられた髪に元結が締められ、元通りの――後朝の別れのための、髷の形が作られた。はだけた胸元に優しく押しつけられた櫛を、利吉の指先ごと包んで握り込む。
「正解」
 よくできましたとわざと教師の顔で褒めれば、ふふ、と笑う声の嬉しそうな、得意げなことといったら、あの頃とちっとも変わらないのだ。