夢篠
2025-01-23 09:09:49
2734文字
Public
 
1111595

何も知らなかった

他の忍びに嫁いだ子と両片思いだった尊奈門

ナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエ「ああ、そういえばナマエは先日他所の里に嫁いだよ」

……、は?」

周囲の音が聞こえなくなって、自分の声はすとんと空間に抜け落ちて霧散した気がした。長期忍務の報告後にただ何気なく、「ナマエに土産を買って来たのです」と口にしただけだった。いつもの、ただの世間話のような、そんな。

何を言われたのか理解出来なかったので、組頭の言葉を反芻してみる。ナマエが。嫁御へ。何処の里の何処の家へ。何時の間に。何故私に何も無く。混乱頻りでどんな顔をして良いのか分からず、いまだに阿呆のように笑みを浮かべる私に組頭が少し目を細めた気がした。

……知らなかったの?お前には、ナマエが直接話すから黙っていてと言われていたのに」

「え、は、あ、……え?」

「まあ、気持ちは分からなくも無いけどね。……とにかくナマエは先日嫁御に行ったよ。向こうは、いたくナマエを気に入っていたようだし、あまり余計な事はしないようにね」

じゃあ、下がりなさい。そう言われたから何とか立ち上がった。去り際に何か言われたけれど、組頭のお言葉なのに、もう、何も頭に入って来ない。ナマエが、嫁いだ。

廊下を、自室に向けて歩く。早朝の、良く晴れた、天気の良い。……嗚呼、いつも忍務明けは何をしていた?

ナマエとは、仲が良いつもりだった。歳が近く、性格も合っていたと思う。それでなくとも彼女は不器用な質で他者との関わりが下手糞で、きっと里の誰よりもナマエと近かったのは私だ。同じ里に過ごし、同じ人を敬い、同じように高みを目指して、同じように生きて、いつか、いつか私と同じ感情を同じ重さで分かち合ってくれたなら、と思っていた。ナマエも、そう思ってくれていると思っていた。それなのに。

「尊奈門……?どうした、」

青白い幽鬼のような顔の私を引き留めたのは山本小頭だった。怪訝な顔の小頭に組頭の前では何も言えなかったのに、良く回らない頭は正直で理性など無かった。思い付いた事を片っ端からべらべらと、無駄口を叩く私に小頭は心底失望しただろう。だが、ぶつける先の無い思いの丈を八つ当たりのようにぶつけられたのに、山本小頭は何も言わなかった。ただ、静かにナマエの嫁ぎ先だけ教えてくれた。現状ではタソガレドキと同盟を結ぶ城仕えの忍びの里の者だった。良い噂も悪い噂も聞いた事がある。

…………お前には、酷な話だと思うが、」

自室に戻って、そういえば疲れていた事に気付いた。休息しなければならない。何時、次の忍務が飛び込んで来るか分からない。寝所に潜り込んで目を瞑る。気遣わしげな小頭の顔が脳裏に何度か過ぎって眠れなかった。寝返りを繰り返す。昔、こんな事があった夜、結局寝るのを諦めてナマエとあれこれ語り合った夜があった。あの時は幼くて、私はまだ、この世にどうにもならない現実があるのを知らなかった。だからナマエの言葉を馬鹿正直に受け止めて、心を揺らした。だが今はもう、そのナマエはいない。だから眠れもしないし、時間もまるで蝸牛の歩みだ。

何度か寝返りを繰り返したが、あまりにも眠れなくて、仕方がないから身体を起こした。そういえば部屋が少し乱雑になっているな。何時いかなる時も整頓は大切だ。文机の上に放っていた書き付けをかき集める。手が止まり、後悔した。嗚呼、これは、ナマエに渡そうと思っていた物だ。

内容に大した意味は無い。ただ、時々顔を合わせているのに私はナマエに文を書いた。ナマエから返事が来た事は無かった。当然だ。彼女はその場でそれを読み、その場で返事をくれたのだから。周囲も、ナマエでさえもこれは「意味の無い事」だと思っていたと思う。だがそういう、「意味の無い事」をする事で私は私が生きているのだと実感出来た。だがこの文を、渡す相手はもういない。

自分が何を書いたのか思い出せなくて、書き出しに目を遣った。先日の忍務の折に目にした花の話題だった。あれは何の花だったか。確か、そう。

…………二人静、だったか」

文には私の字と筆致で見掛けた花で連想した内容が取り留めも無くつらつらと書き付けてあった。読み進めていて頭が痛くなった。私はこんなに返事に困る内容をナマエに送っていたのだろうか。だとしたら、ナマエもよくもまあ、私に付き合ってくれた物だと思う。

文は最後まで書き上げていなかった。書き上げる前に忍務に入ってしまったからだ。出立の前に、ナマエとも顔を合わせた。どちらかが忍務でどちらかが里に残る時、私たちはいつも互いを見送った。最後に顔を合わせた時もナマエは本当に、いつも通りに見えたのに。あの時にはもう、縁談は纏まっていたのだろう。

どうして何も言ってくれなかったのだ、と頭の中のナマエを詰ろうとする自分と、きっと私との別れが辛くて何も言えなかったのだ、と都合の良い空想で己を慰めようとする自分と、それから、ただひたすらにナマエの安穏を祈る私がいた。

ナマエは親のいない棄児だった。冬の日に雪に埋もれていたのを拾われて、それから忍びとして育てられた。血縁もいない、後ろ盾の無いナマエがこの里で生きるのが大変だった事くらい知っている。そしてだからこそ、組頭は私に「余計な事をするな」と仰ったのだ。

先方に気に入られているのなら、きっとナマエは大切にされる筈だ。普通の女とは少し違うけれど、きっと一国の姫のように優しく暖かく、愛されて、そして、稚児を孕み生み育て、きっと。だって、私なら、そうするから。……そう、したかったから。

何も知らない子供であったなら、きっと私はナマエの手を引いて逃げてしまっていたと思う。だってナマエも私を好いてくれていたと思っていたから。ナマエだって、それを望んでいると、決め付けていたと思う。だが、今は僅かに残る分別が私の想いの邪魔をする。

そしてナマエが私を好いていてくれて、だからこそ、何も言わずに嫁御に行ったのは、私たちがもう、子供ではないのだと知ってしまったからだろう。私がもう、子供ではないから、ナマエの言葉に迷っても、その手を引かぬのを分かっていたから。ナマエがもう、子供ではないから、私がたとえ手を伸ばしてもその手を取れぬと分かっていたから。

全てが私の都合の良い思い込みなのに、ナマエが私に何一つ残してくれなかった事が、全ての証左のような気がしてしまって、握り締めた文に落ちる滲みのせいで、気が昂って眠る事も出来ない。