初雪

ヴェラン

 今年初めての雪が降った。
 学者の先生が予想した通りのタイミングだったけれど、問題はその量が少しばかり多かったことだ。今日はいやに冷えると思えば、ささやかだった粉雪はいつのまにか大きな雪片となって、容赦なく王都に降り注いだ。
 例年、初雪といえばちらちらと降って、屋根や道をほんの少し白く染め、昼過ぎにはすっかり消えていくものだ。子どものときは初雪が降ると雪遊びをするのを楽しみにしたものだけど、子どもたちの期待はそんな風に儚くもすぐに溶けていくのが常だった。子どもだった時の自分が見たらひどく羨むだろうと、ヴェインは真っ白になった窓の外を見た。
 子どもと違って大人は忙しい。予想外の積雪に騎士団は少し慌ただしかった。
 訓練の計画を見直すのはもちろんのこと、手の空いてる者をかき集めて雪かきを行わなければならなかったからだ。
 年末の忙しさも重なって、ヴェインの仕事がひと段落したのはとっぷりと日が暮れたあとだった。ヴェインですら骨の折れる一日だったのだ。騎士団長であるランスロットの負担はもっと大きいだろう。
 ヴェインが自分の仕事を終えて、ランスロットの執務室を訪ねると机の上には書類の山がまだあった。夕食だって適当に腹に詰め込めたのだろう。ランスロットのくたびれたような血色の失われた顔を見ると、いたわしさでヴェインは胸が押しつぶされたように痛む。
 そんなヴェインの下がり切った眉を見て、ランスロットはやっと仕事を切り上げる気になったようだった。

 並んで帰途に着くと、外の世界は刺すように冷たかった。白く染まった道を満月が案外明るく照らしている。
 雪はとっくに止んでいたが、肺に吸い込んだ空気が凍るようで、ランスロットはマフラーに顔を埋めた。見慣れた紺色のマフラーだ。はるか昔にヴェインがクリスマスに贈ったプレゼントの中のひとつだ。急に寒くなったから引っ張り出してきたのだろう。
「ランちゃん、そのマフラーずっと使ってくれてるね」
「気に入ってるからな」
 確かにヴェインの贈り物であることは抜きにしても、そのマフラーは気に入ってるようだった。色合いもランスロットによく似合ってるが、買ったのはいくつか前のクリスマス、つまり随分前だった気がする。
「もうすぐクリスマスだし、新しいのプレゼントしようか」
 色柄が良かったのか素材が良かったのか。ランスロットの好みを聞いて新たなマフラーを探すのも楽しそうだと考えた矢先だった。
 ランスロットは不思議そうな顔でヴェインを見つめた。
「ヴェインはもう今年のプレゼント決めてるだろ」
 ヴェインは心底びっくりした。
 ヴェインの部屋のクローゼットには大きな包みが隠されている。今年のクリスマスプレゼントにどうだろうかと買い置いたものだ。
 掃除の担当者として、ランスロットの部屋に何が収められているかは何でも知っているヴェインだが、ランスロットにも同じように把握されているとは思いもよらなかった。
「ランちゃん、知ってたんだ」
「なんとなくそう思っただけだ、でも」
「でも?」
「ヴェインのことなら大体わかるぞ」
 作りもののように美しい白い顔でランスロットは微笑んだ。口角がいたずらっぽく上がり、頬の辺りがつやつやと上気して、光を集めた瞳が少しだけ細められる。ヴェインの一番好きな表情だった。
 マフラーに埋もれていても、雪明かりでぴかぴかに光って見えた。そのぴかぴかしたものを前にするとヴェインは少しおかしくなってしまう。
「ねえ、ランちゃん、手繋いでもいい?」
 宝物を前にした子どもみたいな衝動にかられて、ヴェインは思わず手を差し出した。
「道が滑るから、しっかり掴んだほうがいいぞ」
 だけど、ランスロットは迷わずその手に自分のものを重ねた。おまけに子どもに言い聞かすような返事までしてくる。
 ランスロットは力強くヴェインの手を握った。本当に滑って転んだら、助け起こしてくれるつもりなのだろう。手袋越しではその温度まではわからないけれど、ランスロットの手の輪郭がありありと伝わってきた。
 本当は手袋を外して、指と指を絡めて、ランスロットの指の節ひとつひとつを感じたい。指のはらでこすって、爪の先の感触まで知りたい。こんなとき、ヴェインは雪の中で叫び出したくなる。まだ何を言えばいいかもわからないのに。


 ようやく家に辿り着き、冷え切った外套を脱ぐと凍えた身体がぶるぶると震えた。
 火を入れたばかりであまり温まっていない暖炉にあたりながら、話がまとまらないのは風呂の順番のことだった。
 ヴェインがくしゅんとくしゃみをすると、ランスロットが顔を顰める。そのランスロットの顔も青白い。
「ヴェインははやく風呂に入った方がいいな」
「いいや、ランちゃんが先に入りなよ」
 ふたりはじっとお互いを見つめた。相手の瞳を覗きこんでよく考える。一刻も早くこの問題を解決しないと、どちらかが風邪を引いてしまうだろう。
「そんならさ、一緒に入っちゃう?」
 先に落とし所を見つけたのはヴェインだった。他にいい案も浮かばないけれど、それを口にするのは少しだけ緊張した。
「たまにはいいな」
 ランスロットは一拍置いて軽く了承する。断られることはないだろうとは思っていたけれど、その呆気なさにヴェインは密かに密かに息をつく。
 ランスロットが風呂の準備を整える間、ヴェインは小さな鍋でホットミルクを拵えた。ふたりしてマグカップを傾ければ、腹がくちて、徐々に体が温まってくる。並んでお湯が溜まるのを待つのは家族のようだ。
 浴室に入ると、いつもひとりきりで使う空間にランスロットがいるのは不思議な気がした。公衆浴場や兵舎の風呂との違いは何だろうか。距離が近すぎて恥ずかしく思うのかもしれない。
 ヴェインは思わず、ふわふわの黒髪からつま先まで確認するように眺めた。浴室に充満する湯気のせいなのか、照明のせいなのか、いつもより生々しく見えた。均整のとれた美しい体だが、ヴェインにとってはよく見慣れた幼馴染の体としか言いようがない。それなのに、ヴェインの腹の中をざらっとした違和感が通り過ぎていった。
 その危険な予感を振り払うように首を振ると、ランスロットがざぶりとお湯をかけてきた。ヴェインが震えて凍えていると考えたらしい。そうして、やっとヴェインは安心して入浴に専念することができた。
 狭いバスタブで体を温めながら、ランスロットと話をするのは楽しい。風呂には他のものが何もないからお互いの話に集中できる。ただヴェインとランスロットの間で水面が優しく揺れるだけである。
 体が温まったあとは、ランスロットの髪を本人が洗うより丁寧に洗った。血色のよくなった首筋についた泡までを綺麗に洗い流してやると、ヴェインの胸にある種の予感がまた舞い戻ってくる。気づかないふりをして、ランスロットに「はい、おわったよ」と告げた。
 ランスロットが交代を申し出て、今度はヴェインの頭がわしゃわしゃと洗われることになった。少し泡立てすぎている気もするけど、ランスロットの指は思うままに動くからいいのだ。
 ヴェインは俯いたまま、浴場をでたあとのことを想像した。あと一時間もしない内におやすみの挨拶をしたら、別々の部屋に戻るのだ。ひとりきりのベッドで横たわる自分自身。悪夢みたいに寂しそうだ。
 もっと最悪なのは、ベッドの上でランスロットの素肌を思い出してしまいそうなこと。ズボンに手をかけて、そこで躊躇してもしなくても、最後は大きな溜息をこぼすだろう。

「ふたりで入ると待たせる心配がなくていいな」
「ちょっと狭かったけどなー」
 風呂から上がったあとは、髪を乾かしたり、櫛で整えられたり、ランスロットはヴェインにされるがままだ。こんなに丁寧に櫛を通したら、ふわふわの髪がまとまりすぎて、誰かが今夜のささやかな秘密に気づくかもしれない。そう思いながらも、ヴェインは手が止められないでいる。
 髪を梳かれているランスロットは気持ちよさそうに目を閉じた。
「ランちゃん、もう眠い?」
「いいや。けど、今夜は冷えるからはやくベッドに入ったほうがいいな」
 このままでは、早々に自室のベッドに押し込まれてしまいそうだ。
 かといって、職務で疲れているランスロットをいつまでもリビングに引き留めておくのもヴェインの本意ではない。
「寒いからさ、今日はふたりで寝る?」
 風呂まで一緒に入った後だったけれど、ヴェインにとっては大胆な提案だった。
「そうするか」
 一人用のベッドで、どちらかといえば体格のいい大の男がふたりで同衾するという申し出だ。今度は半分くらいの確率で断られるかと思ったのに、風呂のときと同様にランスロットは二つ返事で了承した。
「ヴェインの部屋でいいよな」
 それどころか、全く乗り気で就寝にむけての段取りを考えているようだった。
「俺はランちゃんの部屋も嫌いじゃないんだけど」
 これは気遣いの言葉ではなく、ヴェインの本音だった。ランスロットの自室に入れてもらうのは心が弾む。
「ベッドの上も侵食され始めてるぞ」
 例えそれが物量に押された部屋であってもだ。
「知ってるよ。前に片付けてから、結構経つもんな。放置しすぎたかも」
「なんでヴェインが責任感じてるんだ。……部屋で待っててくれ」
 苦笑いしながらも、なんとなく甘美な響きを置き残して、ランスロットは自分の部屋に戻っていった。
 所在なく待っていた部屋の主を尻目に、自室から持って来た自前の枕をさっさとセットすると、ランスロットはヴェインのベッドの上にごろりと横になった。
 ヴェインが慌ててその隣に体を滑り込ませるとふわっと包み込むように毛布をかけられた。
 まだ冷たい寝具の中で、風呂上がりのランスロットの気配だけがひそやかに温かい。
「ヴェインあったかいな」
 ランスロットも同じことを考えていたようだ。一枚の毛布の下でふたりの温度が融け合って広がっていく。もう二度とこのベッドから抜け出せないような、そんな気すらする。
 共寝を提案したのは正解だった。この部屋に、このベッドの上に、邪な気持ちを持ち込むことなどありえないからだ。

「明日は何時に起きる? いつも通り?」
「うん」
「明日の朝、ホットサンドでいい?」
「うん」
……もっとそっちに寄っていい?」
「いいよ」
 ヴェインが尋ねると、ランスロットは穏やかな声で小さく頷いていく。ランスロットはヴェインの申し出をすべて受け入れていくつもりなのだろうか。
 ベッドの上で仰向けのまま少し体を動かすと、肩と肩がぶつかった。これ以上近寄ったら、ランスロットも寝苦しいだろう。
 だけど、ぐっと引き寄せて体と体をぴたりと合わせてみたら、そうしたら、体の芯まで暖かくなるだろう。今だって、冬物の分厚いガウンの下から発せられる彼の熱がじわじわとヴェインを誘う。でも、そうはしない。心の底でそっと空想するだけだ。
 ヴェインがランスロットを今以上に求めても、彼は「うん」と答えるだろう。それが、きっと恐ろしいのだ。こんなにもランスロットが近くにいて、ヴェインを受け入れているのに、もっと近づいて触れていたいとヴェインの心は訴えてくる。心のうちに蔓延る執着にも似た感情はもやのようにどこまでも広がり、肉欲なんかよりもよっぽどコントロールが効かない。
 それを少しでもランスロットに悟られて、鬱陶しく思われることが、あのくたびれた顔を向けられることが何よりも恐ろしかった。
 しかし、隣にいる現実のランスロットといえば平和に忍び笑いをこぼしている。
「ランちゃん、何笑ってんの?」
「昔から雪が降ると俺のベッドに潜り込んできたなあと思って」
 要するに、ランスロットと一緒に寝ようとするヴェインの幼さを笑っているのだろう。嫌な気分はしない。ひとつのベッドに共に横たわっていても、ヴェインをその方面の情緒と結びつけることが彼にはできないのかもしれない。
「覚えてるよ。朝一番からランちゃんと雪で遊びたくてさ」
「そうだったな」
「でも、本当はこうやってランちゃんと一緒に寝たかっただけかも」
 幼いころは難しいことは何もなかった。
 ただランスロットが好きで、ランスロットとやりたいことが山ほどあって、ランスロットにくっついて回ることがヴェインのすべきことだった。
 そんな思い出だから、ランスロットと昔の話をするときは素直でいられた。
「ヴェイン、もっと近くに寄っていいか」
「えっ、いいよ」
 仰向けに寝ていたランスロットは、ぐるんと半分寝返りを打った。腕をヴェインの頭の上に回した。まるで腕の上に頭を乗せろと促しているようだ。
 ランスロットもランスロットなりに昔話に感傷を覚えたのだろうか。ひとつヴェインを幼い弟みたいに扱ってみる気になったのだろうか。
 ヴェインも恐る恐る体の向きを変えた。ランスロットはヴェインの頭をどうしてもその腕に抱えたいようだ。押し切られるようにヴェインが頭を少し持ち上げると、その下に腕がするりと潜り込んできた。
 そうして、すっかり腕枕の体勢になると、ランスロットの空いている腕がヴェインの背中に回る。
「窮屈じゃないか?」
「ううん、あったかいよ」
 ランスロットの突然の行動に狼狽えながらヴェインは答えた。
「俺はまだ足りない気がするんだ」
「これ以上どうするの?」
 ヴェインはどきどきしながら至極もっともなことを聞いた。
 ランスロットの胸とヴェインの胸はぴったりくっついて、脚もひっかけあい、ふたりの間に一分の隙もない。
「目を閉じて」
 ヴェインがランスロットの言葉の意味を考えている間に、ランスロットの瞼が先に閉じられた。
 ランスロットは決定的なことを言わなかった。急に眠たくなった彼に早く寝るように促された可能性も考えたが、ヴェインは次に起きることに期待せずにはいられなかった。一瞬が永遠のように感じられて、待ち侘びたさきでいちばん最初に触れたのは鼻先だった。意外とひんやりとしていた。
 それから唇と唇同士がくっつくと、息することさえ忘れてしまった。ふわふわで温かくて、軟らかくて、瑞々しくて、夢のようだった。だんだん感覚が冴えてきて、ランスロットの唇がひとまわり小さいことに気が付いた。ヴェインがぱくりと食んだら、すっぽりと口の中に収まってしまいそうだ。
 少しの間くっつけられていた唇が離れると、ランスロットはぽつりと言った。
「おなじ歯磨き粉の味がする」
 初めてキスをした相手に言うには、デリカシーが足りない気がする。
「ランちゃんは味見が得意だもんな」
 そんな風に思うヴェインも笑うのをやめられないでいる。もしかしたら、ランスロットとヴェインはどこまでいっても気の置けない幼馴染で、キスをしても普通の恋人のようにはなりえないのかもしれない。それでもいいような気がした。
 ヴェインの軽口に、やはりランスロットは微笑んでいた。ヴェインの好きなあの笑みだ。口元がいたずらに歪み、瞳は思わし気に伏せられる。うるんだ青い瞳は雄弁にヴェインに伝えてくる。やっと気がついた。あのぴかぴかとランスロットを輝かせていたものは、彼の声なき声だったのだ。
 ヴェインの胸の中で渦巻いていたもやのような嵐のような思いが、あたたかなベッドの上でひとつのシンプルな結論に集結していく。
「ランちゃん、大好きだよ」

 とっくに消えていくはずだったものは、まだ窓の外で月に照らされてきらきらと降りしきっている。