千代里
2025-01-22 13:00:45
14276文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その34


 ほうぼうに散らばっていく、襲撃犯と思しき者たち。その中の二人組――ミラベルが狙いを定めて追いかけたのは、エレゼン族の男と共に走っている、赤毛のヒューラン族の男性だった。ミラベル曰く、現在行方知れずになっている子供――アンディの父親であり、少年の行方を知っているであろう人物でもある。
 誰かに追われて逃げるのに慣れていないのか、彼らの辿る道筋はとてもわかりやすかった。歩きやすい木々のない場所――凍りついた川の上を走りつづける男たちへの追跡は、この中では最年少のオデットにすら容易く思えた。
 結局、逃げようとする気持ちよりも、足が先に根を上げたらしい。彼らの足取りは途中から覚束なくなっていき、最後には観念したように足を止めて、こちらへと振り返った。
 これ以上、逃げ回る気配がないことを察して、ミラベルを先頭とした一同も一度足を止める。
「お、おい、あんたたち……! 騎士でもない連中が、なんで追いかけてくるんだよ!」
 ヒューラン族の男が、肩で息をしつつ一同を睨みつける。一方、エレゼン族の男の方は、いくらか冷静な判断力を残していたようだ。感情的な発言はせずに、代わりに訝しげに眉を寄せた後、
「待て、あいつ……。確か、町に滞在していた司祭じゃないか?」
「司祭だぁ? 教会にこもってばかりの頭でっかちが、どうして俺たちを追いかけるんだよ」
 父親に同行していたもう一人の男は、ミラベルの顔を知っていたらしい。怪訝そうな表情で様子を伺う男とは異なり、父親は警戒と敵意の感情をこれでもかと表出させていた。
(異端者が、どうしてミラベルさんの顔を知っているんだ……? 父親の方は、ミラベルさんの顔を知らないようだが)
 彼らに追いついたノエは、疑念を抱きつつもひとまず静観を決め込むことにする。
 ミラベルは数度の呼吸で乱れた息を整え、しっかりとした足取りで男たちに――ヒューラン族の男に一歩歩み寄り、
「あなたは、アンディの父親のカーターさんですよね」
「へっ、違うと言ったら?」
「私は職業柄、人の顔を覚えるのが得意なんです。白を切ったところで、あなたを連れ帰って近所の住民に見せればすぐに分かることですよ」
 言葉こそ落ち着いていたが、ミラベルの手は腰の剣に添えられている。連れ帰る――すなわち、武力行使をしてでも町へと連れ戻す覚悟があると言ったも同然だ。
「ふん。それで、俺に何の用だよ」
「その用事は、あなたの方がよくご存知なのではありませんか」
「はあ? 近頃、ろくに顔も見ちゃいないガキの何を知ってるって?」
……なんだと?」
 ミラベルの柳眉が、驚きによって釣り上がる。行方しれずになったアンディは、時同じくして姿をくらました父親に連れて行かれたものだと、彼は確信していた。しかし、その父親は、息子など知らないと主張している。
「それは本当ですか。あなたが異端者たちと行動しているから、余計なことを話されないように子供を隠している、なんてことはないでしょうね」
「はっ、つくならもっとまともな嘘をついてらぁ。あのクソガキ、街についてからずっと、あんたのいる孤児院とやらに入り浸ってるじゃねえか。だったら、あんたの方がよく知ってるんじゃないのか?」
「その孤児院にも姿を見せていないから、今こうして探しているんです」
 想定外の事態に声に焦りが現れ始めたミラベルに代わり、ノエはできる限り穏やかな声音で男たちに話しかける。強圧的な態度で詰問すればするほど、この男にとっては逆効果だ。当事者のミラベルでは落ち着いて会話をするのは難しかろうと、ノエは説得役を買って出た。
 ノエの穏当な物言いをどう受け取ったのか、父親は怪訝そうな顔はそのままに、
「何度も言うが、俺は知らねえ」
「息子さんのことなのに、全く分からないということですか。あなたがいなくなった頃と同時期に、彼の姿が見えなくなったのです。アンディさんはあなたに行き場所を教えていませんでしたか。普段、あなたと行動していない間によく行っている場所など、あなただけが知っている情報でも構いません」
「さっきも言ったろ。最近じゃ碌に顔も見てねえんだよ。ただ……あいつは、どの街に行っても教会やら慈善事業をしている金持ちやらのところに擦り寄って、美味い汁を吸うのが得意なガキだった。今回も、どうせどっかの金持ちの所に行って、面倒ごとに巻き込まれたんじゃねえのか」
 ノエの腰に吊るした剣をちらりと見て、男はようやく情報と思える内容について語ってくれた。ひょっとしたら、武装している彼らに情報提供をすることで見逃してもらえると思ったのかもしれない。
「今までもそのような『面倒ごと』があったのですか」
「これまではなかったが、金持ちが俺たちのことをゴミか何かみたいに扱うなんてこたぁ、よくある話だ。だから、俺たちのやることの意味があるってもんだけどよ」
 どういう理由からか、得意げに口角を釣り上げる父親。その発言はどうやら身内から見ても迂闊なものだったらしい。同行者が「おい」と低い声で注意するのが聞こえた。
「と、とにかく、だ。うるせえ女に押し付けられて、面倒な荷物だって思ってたところだ。ガキが消えたなら清々したぜ」
 心底忌々しそうに言う父親に、ミラベルの視線が帯びる鋭さがますます増していく。
 ノエも流石に無反応ではいられなかったが、目の前の男を非難したところでアンディが見つかるわけでもない。
「話は済んだなら、もういいだろ」
 これ以上語ることはないと、男は一歩後ずさる。話している間にちゃっかり呼吸も整えたようで、先ほどまでのように肩で息をする様子もない。
「ガキの話をしてやったんだ。俺たちを見逃してくれるだろ? 俺たちみたいな小汚い悪党を追いかけ回すより、ガキを探しに行く方がいいんじゃないか」
「はっはっは、そう慌てるなよ。アンディ坊やの話は、今ので終わりとするにしてもだ。お前ら、さっき騎士がどうこうって話してただろ?」
 話の区切りを見つけて再び逃走のタイミングを図っていた男たちを、ルーシャンの声が繋ぎ止める。交渉の席に勝手についたのは向こうであり、ルーシャンはそもそも席についたつもりもない。つまり、彼らの言い分は全くの無意味というわけだ。
「そちらの親父さんとエレゼン族の兄さんは、異端者として騎士たちを襲った。それがわかっていて、はいそうですかと見逃すとでも?」
「あなたは。先ほどアンディの父親であることを認めてくれました。私の顔を知っている方もいるようなのですね。ではなぜ、町の孤児院に息子を預けたような男が、外部の異端者と繋がっているのでしょうか。なぜ、町に入らなければ知らないだろう私の顔を知っているのでしょうか」
 ルーシャンの意図は、ミラベルにも読めていたことだ。
 譲歩して隣にいるエレゼン族の男がミラベルの顔を知っている件は見逃せても、孤児院の子供の関係者が異端者に与しているのを見逃すわけにはいかない。
 町の関係者が異端者と通じている――簡単に言うなら、彼は『内通者』だ。
「異端者と手を組んで、あなたは何を企んでいるのですか」
 ミラベルの声に、先ほどのアンディに関する詰問とは異なる警戒が強く滲む。その感情は、ノエも父のいた街で何度か目にしていた。
 異端者という明確な敵に対する、長年染み付いてきた敵愾心。問答無用に糾弾するほど感情的にはなっていないが、今まで以上の緊張が一同の間に走る。
「そ、それは、お前らみたいな司祭やら旅人やらには関係ないことだ! 俺は悪くないぞ。俺たちは、町にいるジジイどもに代わって――
「大体、お前らこそどうなんだ」
 何か言い訳めいた言葉を発しかけた父親の言葉を押さえて、今まで沈黙を保っていたエレゼン族の男が、剣呑な顔で一同を睨む。
 いや、男が見ていたのは一同ではない。彼は、ノエたちを通して、背後に控えていた『少女』を睨んでいた。
「そこにいるガキ、そいつが異端者の仲間だったってこと、知ってて連れ回してるのか?」
 指さした先にいた者――ゲルダへと、思わずミラベルが振り返る。彼の横顔に一瞬よぎった動揺を、男は見逃さなかった。
「そいつはな、伝説にあった氷の巫女と同じで、竜の味方をしていた女なんだぞ! あんたらの言うところの『異端者』の仲間だったんだ!」
……!」
 鋭く息を呑む音。わずかに震えた呼吸音は、かつて異端者だった少女のものか。
「俺たちのところを離れていったみたいだが、異端者とつるんでいたっていうなら、そっちだって同じじゃないのか!? どうだ、何か言ってみろよ!!」
「で、でも、ゲルダはもう異端者の人たちと一緒にいたくないって思ったから、あなたたちから離れたんです! だから、同じなんかじゃありません!」
 言葉に詰まってしまった友人の代わりに、オデットが声を張り上げる。だが、幼き反論者の言葉など、男に届くわけもなかった。
「どのみち、俺たちにとっちゃ、竜の血を直に取れる竜を連れてきてくれたんだから大助かりではあったけどな。おかげで、今もあの竜は俺たちに手を貸してくれているんだからよ」
「ねえ、それってどういうこと。お母さんは、まだあなたたちの言いなりになってるの?!」
 指を突きつけられて一瞬固まっていたゲルダだったが、母に繋がる手がかりを前にして黙っていられなかったのか。庇うように立つオデットよりも、ゲルダのブーツが一つ前に進む。
「お母さんはどこにいるの。あなたたち、お母さんに何をしたの!?」
「はっ、何も知らない子供はこれだから。俺たちは何もしてねえよ。あの竜は、最初から俺たちの味方で、お前はそのおまけに過ぎなかったってだけだ」
「そんなわけない!!」
 ゲルダの大声は、分厚い氷が張った川にまで響くかのようだった。靴底まで届いた微かな振動が、彼女の否定の強さを示している。
「大体、そんな悲劇のヒロインみたいなことを言える立場なのかよ。お前が竜の血を俺たちに渡さなきゃ、あの町の連中は俺たちの仲間にならずに済んだっていうのによ!」
……!!」
 自分が知らず加担していた悪事を突きつけられ、ゲルダは胸に手を当て数歩下がる。まるで、言葉が見えないナイフとなって彼女を刺し貫いたかのようだ。
「わた、し……私は……っ」
「それは詭弁でしょう。あなた方は、竜に育てられて人の常識を知らなかったゲルダさんを丸め込んで、彼女を利用した。罪があるというのなら、竜の血を飲ませることの意味を教えず、幼子同然だった彼女を利用したあなた方も、その罪を背負うべきです」
 俯いてしまった少女の代わりに、今度はノエが前に出る。腰の剣にはまだ触れていないが、いつでも抜けるようにすでに鞘に手は添えていた。
 一触即発の空気に気圧されたのか、男たちも数歩後ずさる。ざり、と雪が薄くなった氷の上を滑るブーツが擦る音が響く。
「そっちの言い分はそれだけか。あとで騎士様に尋問されたときも、今ぐらいおしゃべりになってくれよ」
「ふん、大人しく捕まってたまるかよ」
「魔物もいなけりゃ、碌な装備もない。そんな状態で、どうやって俺たちと戦うつもりだ?」
 挑発を重ねられ、男たちは憎々しげに言葉で煽るルーシャンを睨む。
 警戒こそ一丁前であっても、実際のところ、彼らは武器らしい武器を持っていない。寒冷地を潜り抜けるための防寒具こそ揃っているものの、迎撃の手段を持ち得ない彼らには万に一つも勝ち目はない。
 一歩、ルーシャンが前に出る。彼の手にはすでに鞘から抜かれたレイピアがあった。
(下手に抵抗をして怪我をさせるより、大人しく捕まってくれたらいいんだがな)
 怪我をした人間は、自分を傷つけた相手に対して警戒心を強く抱く。
 そう考えているからこそ、ルーシャンも彼らに飛びかかってレイピアを突き立てるような真似はしていない。下手に過剰な攻撃を加えたら、彼らが尋問の際に頑なになってしまうと見越してのことだ。
 互いの距離、実に三ヤルムか、四ヤルムか。
 一足飛びで向かうには、やや遠く。かといって、一目散に走り出しても追跡者をまくにはやや近すぎる。
 そんな絶妙な境界を挟み、お互いに睨み合っていた――その最中。
 ――ぎしり。きしり。
 まるで重たいものを無理やり擦り合わせたような、耳障りな音が響く。
……何だ?)
 視線は目の前の異端者たちに合わせたまま、ノエは思考の半分を音へと向ける。
 例えるなら、砂の入った袋を詰め合わせて擦り合わせたような、重たさを思わせる音。けれども、砂袋では到底あり得ない澄んだ音でもある。
 聞き間違いかと思いきや、消えるどころか音は益々その数を増やしていく。
 一つ、二つ、三つに四つ。ぎしぎしと、きしきしと。
 同時に、ノエの靴底は今度こそ感じ取った。足元から響く、強烈な振動。一瞬立っていることすら難しくなる激しい衝撃に、咄嗟にノエは姿勢を低くして叫ぶ。
「下です、下に何かいる!!」
「ちっ、こんなときにか!?」
 ノエの警告とルーシャンの悪態。それが、かろうじて聞こえた音だった。
 ――ドン。
 砲を放ったかのような轟音。破壊の音に、一瞬耳と視覚の認識がぶれる。
 分厚い氷が、紙細工のように『下からの』衝撃に突き破られ、割れる。岩を砕いたかのような轟音に、数年ぶりに外気に触れた川の水音がけたたましく混ざり込み、空気を支配する。
 その破壊は、ノエを狙ったものではない。彼の傍らに控えていた、一人の少女の体が氷の割れ目から川へと落ちていく――
――――っ」
「オデット!!」
 だが、水音が立つ前にもう一つの闖入者が先んじて少女を迎えようとしていた。
 崩れる氷の裏側に隠れるようにして、姿を見せたのは――黒く大きな影。
 魔物と一目でわかるそれは、縦に長い巨大な口を三つに割り、今まさに奈落へと堕ちようとする少女を飲み込まんと口を広げている。
 魔物の正体など考える前に、既にノエは剣を抜いていた。巨体の登場で不安定になった氷を踏み台に、少女の元へと辿り着く。
「兄さん――っ!」
 現れた魔物の口に、あとは呑まれるばかり。そう思っていたオデットの体が、横から突き飛ばされる。少女の体が、魔物の攻撃の範囲から外れ、細かく砕かれた氷の上に尻餅をつく。
 オデットを庇い、魔物の前に立ったノエ。彼の体が一瞬魔物の巨体にオデットの全身は総毛立つ。まさか、自分の代わりに彼が食べられてしまったのでは――
「オデット、僕は大丈夫! それより、足元に気をつけるんだ!」
 魔物の影の向こうから聞こえた声に、ほっとしたのも束の間。オデットは、自分が尻餅をついていた足場が急速に形を崩していくことに気がつく。
 砕かれた氷は、もはや足場ではなく小さな破片の寄せ集めにすぎない。魔物が暴れたせいで水面は激しく波立ち、その上にいたオデットの体も同じように翻弄され、
「まって、わたし、まだ」
 何を言おうとしたのか、自分でも分からない。氷に動かないでと頼んだところで、細かな流氷となった氷の群れは、オデットの足場としての役割を放棄して沈んでいく。
 足場の崩壊にあわせて、ぐるんと視界がひっくり返る。体が宙に投げ出される不安定な感覚が、全身を支配する。
(落ちる――!!)
 そう思った矢先、ざばんと激しい水音が響き、全身を冷たいものが包む。
 耳をつんと貫く水音と共に、冷たい水が一気に喉の奥に流れ込む。
 肺腑を埋め尽くす水と、自身を引き摺り込む水への恐怖に、オデットの意識はぶつりと途切れた。
 *
「こいつ、ずっと川の下にいて、僕たちを狙っていたのか……!!」
「ノエ、無事か!?」
「はい、なんとか――
 川の直下からの襲撃の影響を最も強く受けたのは、魔物の標的であったオデットと、彼女を庇うために間に割って入ったノエだった。
 分厚い氷を、魔物は氷の下から無理やり砕いたらしい。その衝撃は凄まじく、一行がいるのは川の上であるというのに、流氷地帯のような光景を作り出していた。
 異端者たちは、氷の崩壊を目にした瞬間、混乱を好機と見て逃げ出していった。追いかけようにも、混乱から立て直すまでのわずかな時間に、彼らの姿はすっかり木立に紛れて見えなくなっていた。
 崩壊した氷の割れ目から飛び出てきたのは、嘴のように突き出た巨大な口を持った、四つ足の魔物――クロコダイルだ。河川に住み着くクロコダイルは、分厚い耐水性の毛皮をもち、水中を泳いで人を襲う生き物として、クルザス一帯を旅する冒険者に恐れられている。通常は凍った川の近くで見かけることが多いが、ノエたちが立つ川は川幅が大きく巨体の魔物が泳ぐ余裕があったのだろう。そのため、この個体は水中を介して獲物を狙う習性も身につけたようだ。
 クロコダイルは特徴的な巨大な口を三つに割り、捕食の邪魔をしたノエを喰らおうと飛びかかってきた。
 だが、今のノエには魔物よりももっと気がかりのことがある。
「僕のことよりも、さっきの崩壊に巻き込まれて、オデットが川に落ちてしまったんです!」
 しつこく齧り付いてくるクロコダイルを、盾の上に張った障壁ごと殴りつける。一瞬たじろいだものの、クロコダイルは依然としてノエへの猛追をやめない。
「誰か、僕の代わりにこいつを引き止めておいてもらえませんか! その隙に、僕がオデットを助けに行きます!」
「何言ってるんだ、馬鹿も休み休み言え! そんな重たい装備着てるやつが川の中に入ったら、お前まで沈むだけだろうが!」
 ルーシャンの指摘はもっともだ。しかし、そんな理屈を消しとばすほどにノエの頭には焦燥が駆け巡っていた。
(川の温度は今、どれくらいだ。オデットの装備の耐水性は、どれぐらいだろうか。体温が低下したら、彼女の命も危ない。水の中に沈んでどれぐらい経った? 彼女の息は保つのか?)
 一刻も早く、オデットを陸地に引き上げなければいけない。それが分かっているのに、厄介な魔物はノエへの攻撃をやめてくれない。
 だが、ここで魔物を野放しにすれば、水中の移動を得意としている魔物の方が先にオデットを見つけ、喰らうだろう。
……っ、誰か、僕の代わりにオデットを――
 誰か自分の代わりに、オデットを助けに言ってほしい。ルーシャンでも、ミラベルでも、誰でもいいから。
 そのとき――銀色の軌跡が、川へと飛び込んだ。
「おい、待て! ゲルダ、お前じゃ無理だ!!」
 ルビーの瞳をもつ少女が、飛び込むその刹那。
 ノエに向かって、彼女は視線越しに告げた。
 ――私がオデットを助けるから、安心して。
 自分を呼び止める声など意に介さず、オデットの友人である少女は深い川底へと消えていった。
 ***
 ――寒い。暗い。冷たい。
 
 寒くて暗い。その記憶は、ずっと私の中にいる。ずうっと前から――まだ、わたしがオフェリーと呼ばれていた頃から。
 お母さんが死んでしまって、急に外が寒くなって。大人の人が、わたしを連れて行って、その後、わたしはずっと、寒くて暗い場所にいた。
 時間が余っていれば、わたしは部屋の隅で膝を抱えて、寒い寒いと、それしか言葉を知らないみたいに、心の中で繰り返していた。
 昼も夜も変わることない雪景色。雲から太陽が顔を見せるときなんて、ほんの僅か。
 ほとんど日がささない場所にある大きな建物の中、わたしのような子供や、わたしよりずっと大きい大人が一緒に暮らしていた。時々、歳をとったおじいさんもいた。わたしたちを纏めていたのは、綺麗な服を着た大人の人で、わたしは寒さで寂れてしまった村や町を元気にするために選ばれたとか、そんなことを話していた。
 わたしの仕事は、元気を無くした村や町に落ちている瓦礫の片付けだ。家は物語に出てくる巨人に踏み潰されたみたいに、あちこちペシャンコになっていて、これでは町が元気にならないのだそうだ。
 大人の人は「竜に襲われたんだ」って、震えていた。本当は、こんな所に一秒もいたくないって顔をしてた。だけど、ここを出てどこに行けばいいか分からないから、皆綺麗な服の大人たちに従っていた。
 防寒具として渡された服は、使い古しの上に薄物で、ちっとも寒さを防げそうになかった。襟巻きも帽子も何もかもが足りなかった。だけど、綺麗な服を着た大人は『人々の慈悲が詰まった、寄付された品々だから』と微笑むばかりだった。
 
 ――ここは、とても寒かった。
 
 手袋だってやっぱり足りなくて、でも雪の中で何かを拾うには手を使うしかなくて。わたしは、たまたま運よく自分の手袋を確保することができた。だけど、大人の人の中には真っ赤な手がそのまま真っ黒になって、指がとれてしまった人も何人もいた。その人たちに手袋を分けてあげたかったけれど、あげたらわたしの指まで取れてしまいそうで、それが怖くて結局、わたしは手袋を抱えたまま、ごめんなさいと心の中で呟くことしかできなかった。
 指が無くなるだけならまだいい方で、そのまま動かなくなって、綺麗な服の大人の人が連れている兵隊さんがどこかに連れて行ってしまうこともあった。
 目が覚めて、隣の寝台で寝ている子供が動かなくなっていた、なんてことは日常の一つになっていた。
 数日経ったら別の子供が連れてこられて、その子も動かなくなって。
 そんなことの繰り返しが続いて、わたしはこの寒い生活の中の背景になったみたいに、少しずつ擦り切れながら、毎日を過ごしていた。
 大人の中には、逃げ出す人もいた。ここに来るまで目隠しをされていたから、逃げ出すなんてわたしは考えたこともなかったけれど、彼らには勝算があったのかもしれない。
 
 ――暖かいってことが、どんどん分からなくなって。
 
 だけど、脱走した翌日の朝、わたしたちが暮らす建物からいくらも離れていないところ、で魔物に切り裂かれた死体が見つかった。
 わたしも、わたし以外の人も、外はここよりも危ない場所だと知った。寒くて暗くて怖くて、良いことなんて一つもないけれど、ここには最低限の食べ物と、わたしたちを守る兵隊さんたちがいる。
 わたしたちを閉じ込める兵隊さんでもあるけれど、彼らのおかげでわたしたちは魔物に八つ裂きにはされていない。
 この場所の環境は最悪だという人がいた。
 だけど、外は最悪を通り越して氷獄のようだと他の人が言った。
 その人の言葉に、反論できる人はいなかった。
 
 ――どこにも行けない、冷たい籠の中だった。
 
 この建物で一番偉い大人は、一番暖かい服を着て、一番暖かい部屋で暮らしていた。
 みんな、偉い大人たちを羨んだけど、兵隊さんがあの人たちの周りにいたから、誰も逆らおうとはしなかった。逆らった人は、わたしたちの目の前で兵隊さんに捕まって、帰ってこなかったから。
 だけど、その人たちですら頭を下げる、もっと偉い人が時々来ることがあった。カンサヤクと、偉い人は言っていた。
 その時だけ、部屋の中はとても暖かくなって、わたしたちはご馳走をもらえた。夢みたいな時間だった。わたしは、その一番偉い人がもっときてくれたらいいのにと思った。
 その偉い人の一人が――わたしが、お兄ちゃんと呼ぶ人、だった。
 子供たちの人気者で、いつもお菓子や綺麗な服を持ってきてくれた。
 お兄ちゃんは、わたしと初めて出会ったとき、とても驚いていた。わたしは『けがれたハーフ』だと大人の人が言っていたから、きっとそのせいで驚いたんだろうと、わたしは思った。
「いつか、私と一緒に、ここではない場所で二人で暮らしませんか」
 だから、お兄ちゃんがわたしを呼び出して、こっそりそんなことを話したとき、わたしはとても驚いた。どうして、と質問をした。質問をするのはだめと、偉い大人の人は言っていたけれど、わたしは言いつけを破ってしまった。
 どうして、お兄ちゃんはわたしに優しくしてくれるの。
「それは、私があなたのお母さんの知り合いだから、ですよ」
 お兄ちゃんは、そう言っていた。それが、わたしを安心させるための嘘だったのか、それとも本当のことなのか。わたしは知らない。
 だって、お兄ちゃんがわたしを誘ったのはその一度きりで、その後はまるでそんな話はなかったみたいに知らぬ顔をしていたから。
 わたしはきっと、あれはお兄ちゃんがわたしを励ますために言った優しい嘘なのだと、あのやり取りを忘れることにした。
 
 ――どこかに行きたいと願っていた。でも、どこかに行けても、やっぱりそれは誰かの掌の上で。
 
 わたしたちが寒くて暗い生活を始めて、一年程経った頃。偉い大人たちは、時々わたしたちの中の何人かを自分の部屋のように呼ぶようになった。
 寒くて、暗い部屋から暖かな部屋に行くのは、ほんの僅かの時間だけどすごく幸せなことのようで――招かれた人は、一様に偉い人たちへの感謝を口にしていた。
 子供が多くて、時々大人もいた。彼らは暫くすると、わたしたちの部屋にも戻らなくなった。皆、これまでの働きを認められて、その暖かな部屋からもっと良い場所に案内されたのだと、偉い大人の人は言っていた。
 わたしもいつか行きたいなあって、薄汚れてぺたんこになった毛布に包まれて、色んな夢を描いていた。
 その夢は、わりかしすぐに叶った。少しだけ、わたしの背が伸びて、少しだけお母さんに似た顔立ちになって、ちょっとだけ大人の仲間入りをしたような気分になった、あの日。
 わたしも、部屋に来るようにと言われた。
 それから。
 ――◾️◾️。
 それから、それから、それから。
 ――◾️◾️、いや、いや。
 それから、その人たちが。
 ――やめて、来ないで、触らないで!!
 わたしの手を、誰かが掴んでる。わたしの体に誰かが触れてる。何か言っている。わたしはそれに頷いていて、でも本当は違っていて、だけどあの時は少しでも寒い所から離れたくて。
 誰かが、わたしの体を掴んでいる。また寒い所にいる。こんなにも寒くて、光がささなくて、息苦しくて。わたしは、ちゃんと良い子にしてたのに、どうして。
……デット」
 誰がわたしを掴んでいる。あの怖くて寒気がする大きな手じゃない。
 冷たくて、細くて、なのに力強くて。
「オデット」
 声だ。わたしを呼ぶ声。あの人たちの怖い声じゃない。わたしの名前を、べっとりと撫で付けるみたいに呼ぶあの人たちの声じゃ、ない。
「オデット! しっかりして!!」
 ごぼごぼと、泡の音がうるさくて。あの子の声は、それにかき消えそうだけど。
「オデット!!」
 そう――わたしは、わたしの名前はオデット。
 わたしが一番大好きな人がくれた、とっておきの最初の贈り物。
 
 ***
 
 ぼやりと滲んでいた意識が、急速に輪郭を帯びる。ハッと息を呑むと同時に、冷たい水が喉の奥まで流れ込み、吐き出そうにもそれも叶わず、息苦しさだけが増していく。自分は溺れているのだと、数秒遅れて理解する。
 何が起きているか分からない。ただ冷たいことと、全身が思うように動かないことだけが分かる。
 そんなオデットの手を、体を、しっかと掴むものがいる。なかなか開かない瞳を開くと、
(ゲル、ダ……?)
 水面のわずかな光を受けて、ちらちらと輝く銀色の髪。まるで光の帯のよう――などと、薄れかける意識の中、取り留めもないことを考える。
 力の入らないオデットの体が、ぐんと上へと引っ張られる。ゲルダが、自分を抱えて水面に向かって泳ぎ始めたのだ。
 けれども、今のオデットは体の芯まで凍りついたかのように、碌に手足が動かない。彼女の邪魔にならないように、上手く力を抜けているかも分からない。息苦しさはすでに限界が近く、意識すら辛うじて保っているような状態だ。
 このままでは、ゲルダを道連れにして再び沈んでしまう。水分を吸ったオデットの服は、きっと岩と同じくらい重くなっていることだろう。
(ゲルダ、だめ)
 このまま溺れ死ぬことの恐怖は、今はなかった。あったのは、ゲルダが自分のせいで死んでしまうという、未来に対する不安だけ。
 だというのに、オデットの意思に反して、ゲルダはオデットを抱えたまま。ぐんぐんと水上に向かって泳いでいく。片手で水を掻いているだけなのに、重たい水をさながら薄地のカーテンのように押しのける。その泳ぐ姿は、まるで御伽話に出てくる人魚のようだ。
 やがて、ある一点を突破した瞬間、
「げほ、げほげほっ!!」
 水面から頭を出したと同時に、水の中でくぐもって聞こえていた音が、一気に耳に飛び込んできた。空気には音があったのかと知らされたかのように、風の音が聴覚の全てを一瞬覆い尽くす。
 しかし、感慨に耽る前に、水を飲んだ体は突如呼吸を思い出したかのように、気管に入り込んだ水を吐き出そうと咳こみ始めた。空気と共に水を口の中から吐き出し、その冷たさに涙が滲みかける。
 おまけに、一瞬忘れかけていた冷たさが、冷風と共にオデットを芯まで凍えさせた。水中から水面に上がった瞬間、今度は常の何十倍もの冷たさが肌に染み込んでいく。
 歯の根は合わずカチカチと音を立てて、体はどれだけ押さえ込もうと抑えきれない震えに支配されていた。
 このまま、冷たさのあまり死んでしまうのではないか。そう思った矢先、オデットの体がより大きな力によって、不安定な水面から陸地へと引っ張り上げられる。
「オデット、大丈夫か!? 意識は――いやそれよりも、今は体温を上げないと」
 続けて飛び込んだ声に、オデットは先ほどとは違う意味で泣きたくなった。だが、涙を流そうにも凍りついた涙腺では涙一滴落ちることない。できたのは、じんと冷たさで滲む視界に大写しになったノエの顔を見つめることだけだ。
……にい、さん」
「よかった、意識はあるんだな。もう大丈夫、大丈夫だから」
 ノエは一瞬安堵の表情をみせてくれたが、内心彼が一番焦っているのだろうとオデットはすぐに分かった。大丈夫だと何度も言うのは、きっと自分を安心させるためでもあるはずだ。
 体に力が入らず、なす術なくノエの腕に身を預けていたオデットの体に、大きな上着がかけられる。どこか見覚えのある意匠――これはノエのものだ。戦闘の際に一度脱いでいたものを、誰かが持ってきてくれたらしい。
 続けて、オデットの周りにふわっと炎を思わせる灯火が舞い落ちる。ノエが手を差し出すと、まるである種の魔法生物のように、灯火は温もりを保ちながらも手にゆるりと舞い降りた。それは、火のように熱くなりすぎることもなく、優しくオデットの体を温めてくれた。
「ミラベルさん、ありがとうございます」
 どうやら、炎を作り出したのはミラベルだったらしい。オデットはもう一人の兄の温もりに寄り添うように、炎へと濡れた手を翳した。
「とりあえず、炎はこのまま持っていください。今、ルーシャンさんがゲルダさんの方を見ています」
「わかりました。ヤルマルさんやイレーナさんたちとも連絡を取りたいのですが、お願いしていいでしょうか」
「では、ノエさん。連絡用のリンクパールを貸してもらえますか。休める場所がないか、ついでに確認しておきます」
「お願いします」
 ミラベルはノエの渡したリンクパールを受け取り、少し離れたところに移動して通信を始めた。その背中を滲んだ視界で見守りながら、オデットは冷え切った指を温める魔法の炎の熱に暫し身を委ねていた。
「兄さん……ゲルダ、は」
「オデットが溺れたのを見て、彼女が飛び込んだんだ。僕は……魔物を惹きつけることしかできなかった」
「けがは、してませんか」
「ゲルダさんなら、僕が見たかぎり負傷はしていなかったよ」
 ほっと安堵しつつも、オデットはゆるゆると首を横に振る。震える唇で「兄さんは」と問うと、ノエは今度こそオデットを安心させるための笑顔を見せて、
「僕も怪我はない。ルーシャンさんと協力して、誰も怪我することなくあいつを追い払えた」
「水中の魔物に奇襲を受けるってのは、流石に俺も初体験だったけどな。ほら、ゲルダの嬢ちゃん。オデットを安心させてやれ」
 やってきたルーシャンの後ろには、ルーシャンの防寒具に身を包んだゲルダが立っていた。全身に冷水を浴びた上で、この冷え切った外気にさらされているというのに、彼女はしっかりと自分の足で立って歩いている。
「ゲルダ……さむくない?」
「うん、大丈夫だよ。前も言ったよね。私、寒いって感覚がよく分からない体みたいなんだ。それより、オデットは大丈夫?」
……はい。ゲルダが、引っ張ってくれた、から」
「うん、それならよかった。オデット、私が来ても全然動かなかったから、びっくりしたよ」
 それは水を飲んで半ば気絶しかかっていたから、と言いたかったが、今のオデットにはその時の状況を説明している余裕はなかった。
 どうにか体の熱を逃すまいと防寒具をきつく体に巻きつけ、自分を支えてくれるノエの体に身を寄せる。少しでも風からオデットを守ろうと、ノエも両腕で包むようにしてオデットを支えてくれている。
「全く、大した嬢ちゃんだぜ。溺れた人間一人抱えて、水中まで引っ張り上げるんだからな」
「そんなに大したことじゃなかったよ。オデットは軽かったもの」
「それでも、あなたにとっては大変だったでしょう。本当にありがとうございます、ゲルダさん」
 ノエのお礼を受けても、ゲルダはけろりとした調子で「大袈裟だなあ」と笑うばかりだ。そうして答える彼女の声に、寒さによる震えは微塵もない。頬は微かに赤くなっているように見えるが、震えあがるばかりのオデットとは対照的だ。
「皆さん、向こうと連絡がとれました。近くに兵士用の簡易休息所があるようです。そこで、一度二人を休めましょう」
 連絡を終えて戻ってきたミラベルは、簡潔に次の段取りについて説明する。
 予定が決まり、チョコボの元へ戻るために歩き始めた一同。ノエに横抱きにされたままになっているオデットは、揺れる視界の中、自分を見つめる視線に気がつく。
……お兄ちゃん。あのとき、どうしてわたしを引き取るなんて言ったの……?)
 まるで自分が溺れたかのように、とても不安げにオデットを見つめるミラベルの瞳。
 それは、あの寒々とした部屋の中で、オデットを引き取りたいと申し出たときと全く同じだった。
……お兄ちゃんの言う通りだった。お兄ちゃんのことを思い出すのは、あの寒い部屋で暮らしていた頃のことを思い出すことに繋がっていて……
 溺れかけた刹那、寒さを皮切りに溢れかえった記憶の断片を思い出し、思わずオデットは自分を抱えるノエへと身を寄せる。
 寒がっていると思ったのか、ノエが強く自分を抱き寄せてくれたのが分かる。今はただ、その優しさにしがみついていたかった。
 そこだけは、きっと何があっても変わらない、安心できる場所であるはずだから。