2023-02-08 22:30:50
12619文字
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審判の林檎事件

2年くらい前に完売した同人誌に収録していた話です(現在出ている公式設定とややずれている部分あり)。

「うわ無理みつよ」
 アフロディテⅨことリベルティーナは、そう言って柳眉をしかめた。
 オリュンポリス・アフロディテ区にある、アフロディテフォース本部。その執務室は部屋の主の趣向を反映し、モデルルームといっても通るような明るく開放的な空間である。そこで、リベルティーナは曲線で構成された鮮やかに青いチェアに座り、白いデスクをはさんで副隊長の報告を受けていた。
 ええ、と答える声を聞きながら、ディスプレイに表示された資料を読む。
 それはここ数か月続いている、ある事件に関する報告書だった。神話還りばかりを狙った連続傷害事件。傷害といっても身体的なものではない。害されるのは、その神話還りの持つ神力だった。
 匿名で送られてきた荷物を受け取り、それを開封すると神力を奪われる。生命に大きな影響はないが、一時的なショックで被害者が前後不覚に陥った隙に、問題の物品は消えているという、実に奇妙な事件だった。
「被害はヘラ・アルテミス・アフロディテの神話還りのみ。そして、荷物の梱包材や被害者の証言により、送られているのは金色をした球形のものだと推測されています」
 その推測をもってして、つけられた事件コードは『黄金の林檎』。神去りし今もなお人々のよく知る、三美神相争いの神話になぞらえたセンスは、リベルティーナに言わせれば最悪である。英雄庁ちゃんマジ語彙力。
 とはいえ、ただセンスだけで決められたコードネームではもちろんない。争いのタネは不和の女神の贈り物、ということで、エリス神の神話還りに関する調査結果も一覧として資料に付されていた。
 ——でも、なあんかパッとしないよねえ。
 現代では、神話特性による差別的な扱いは禁じられているとはいえ、やはり統計的に悪党に堕ちやすい特性というものは存在する。不和と争いの女神エリスは、その筆頭といえる神話還りだ。ヒーローとして活躍している者ももちろんいるが、その多くは前科持ちで更生施設に入っているか、経過観察を受けている。どちらにせよ、英雄庁の目の届く場所にいるということだ。あとは、自由に扱えるほど特性も力も強くはない。リストには、そんな現状が連なっていた。
 報告書をざらざらと流し読みしていたリベルティーナの目が、ふと被害者リストで止まる。
「あれ? なんか、妙にアフロディテの神話還りだけ多くない?」
 しかも、ここ数日で急激に増えている。
「そうなんです。それで、ご報告をと」
 妙に引っかかった。送り主がエリス神の神話還りならば、これは均一であるのが筋だ。つかないはずの勝負で混乱を起こすのが、かの神の権能なのだから。
 んー、と首を傾げるリベルティーナを、副隊長は言葉を止めて待つ。
 と、そこへ。
「ティナっち~~~~~~~~~!!」
 底抜けに明るい大音声が、執務室に入室してきた。驚いて動きを止める室内の二人にかまわず、声の主はつかつかとデスクを回り込み、チェアの後ろからリベルティーナの手元を覗きこむ。
「わぁお、これはひょっとしてタイミングドンピシャかな?」
「ちょ、ひとの端末勝手に見んなし」
「ごめ~んね!」
 単語は謝罪だがまったく悪びれた様子がない。そも、フォースの隊長でありナンバーズの一角であるリベルティーナの端末を覗くなどということは、普通の隊員なら許されない。
 そう、普通の隊員ならば。
「センパイの顔に免じて許して?」
 そういって鮮やかにウィンクを決めてみせる彼は、アフロディテA173。神器の継承により退任した、元アフロディテⅨである。
「そーゆー問題じゃないっての。ナンバーズじゃなくても公務員でしょ、守秘義務守って?」
 はーい、と返ってくる声はどこまでも軽い。副隊長が思いきり眉を落としてため息をついた。
「でも褒めてくれてもいいと思うんだけどな~」
「は?」
「これな~んだ」
 言葉と共に、とん、とデスクに手を置く。その中から現れたのは。
「!」
「黄金の、林檎……!?」
 唐突な出現に身構える二人に、アフロディテA173はひらひらと手を振って見せた。
「あ、だいじょぶだいじょぶ。ちゃんと壊してあるよ」
 言われて見れば、その形はずいぶんと歪んでいる。金属光沢のある球形にへこみが五か所。わずかに裂けた表面の隙間から、電子部品のようなものが覗いている。
……まさかとは思いますが、握りつぶしたんですか……?」
 恐る恐るの口調に嫌々ながらの確信をにじませて、副隊長が聞く。対して、アフロディテA173は、頬に手を当あてて微笑んだ。
「昨日自宅に小包が届いて、うっかり開けちゃってさ。ひとの神力吸って逃げようとするから、腹立って捕まえたら、ちょ~っと力加減(物理)まちがえちゃった☆」
 てへぺろ、じゃないっての。
 軽薄な言動とは裏腹に、A173はアフロディテの豊穣神としての側面を色濃く引いた神話還りである。恵まれた体格に備えられた神肉に宿る力は、歴代の中でも別格といっていい。だからこそ、外部から神力を奪われても意識を保っていられたのだろう。
 壊れているとはいえ、貴重な証拠品である。センスの悪い命名はあながち間違っていなかったということだ。
「そんじゃ副ちゃん、これ鑑識に回しといて」
「はい、リストの情報との照合を依頼します」
「あっ、待って待って、そのリストってエリスの神話還りのリスト?」
 普通に割り込んできたA173に、リベルティーナはじとりと目を向ける。
「覗き……じゃないか、予想できた?」
「そりゃぁねえ、頭でっかちな英雄庁の考えることなんてお見通し。ど~せ黄金の林檎!エリス神!って脊髄反射で神話還り洗ってるんでしょ?」
 さらりとディスりつつ、一度置いた林檎をひょいと手に取る。その目に、ほんの少し憂いが光った。そして、林檎をリベルティーナの目の前に差し出す。
「見て、これ」
 くるり、と回したその表面に、艶消しで何か記されている。
「『一番』……『美しいあなたへ』?」
 読み取ったとたん、思いきり柳眉をしかめたリベルティーナに、A173は苦笑する。
「そんな顔しないの。……これが本当にエリス神の差しがねなら、ここは『美しい女神へ』、ってなるでしょ」
 そうだ。『一番美しい女神へ』、その贈り物を受け取るにふさわしいのは誰か。それが、ゼウス神にさえ頭を抱えさせた争いの発端なのだから。
 じゃあ、と考えたリベルティーナの表情が、ハッと変わる。
「副ちゃん、ヘラⅢに連絡して、秒で! パリスの神話還りの情報集めて、って!」
 日々神話還りによる犯罪捜査に携わっている英雄庁関係者は、どうしてもエリス神に目が行く。だが、黄金の林檎をめぐるエピソードには、もう一人重要な登場人物がいるではないか。
 林檎をめぐる女神たちの争い。その裁定に窮した大神ゼウスは、禍の果実を地上の羊飼いに委ねた。結果、羊飼いの青年は、愛と美の女神アフロディテに果実を渡し、見返りとして女神の加護を得た。
 林檎と引き換えに神の力を得る。この事件の構造は、その神話とそっくりだ。それなら、被害がアフロディテの神話還りに偏るのもうなずける。
 慌てて出て行く副隊長の背中を、リベルティーナは険しい表情で見送る。その剣幕に、A173は満足気に笑った。
「いい子だね、ティナっち。……そんな聡明なアフロディテⅨさまに、ぼくから心づけ」
 ひょい、と目の前に差し出されたのは、一枚の書状。それを見て、リベルティーナは目を丸くした。
「ちょ、マ?」
 広域捜査委任状。通常、複数地区にまたがる犯罪捜査は、各地区のフォース合同で行われるが、その権限を一手に集める書状だ。もちろん、そう簡単には下りない。正規の手続きを踏めば半月は待たされるだろう。襲撃が昨日起こったことなら、今ここにあるはずのない書状だ。
 そう、申請を出したのが、普通の隊員ならば。
「気まぐれな神器にさんざん振り回されたんだもん、こういう時にこういうものをすぐ出せる位の人脈は作っとかないとね」
 鮮やかにウィンクを決めて見せるA173から書類を受け取り、リベルティーナは上目づかいで彼を見やる。
……ね、ひょっとしなくても、激おこだったりする?」
「もちろん。激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム」
 淀みない口調に本気が見える。本気と書いてマジと読む。やばたにえん。
 ともあれこれで、この件に関するリベルティーナの行動指針が決まってしまった。これだから命令系統を外れた部下というのは厄介なのだ。それがやたらと有能だったりなんかしたら、なおさら。
 ため息を吐いたリベルティーナの背中を、A173がいたわるように叩く。
「も~、勝手してごめんって。……でも、パリスが関わってるなら急がなきゃ。この街を火の海にするわけにはいかないでしょ?」
 林檎を託された羊飼いの正体は、祖国を焼け野原と為す悪夢と共に生まれた王子だった。女神の加護を得た彼が、他国の王妃を拐ったことをきっかけに、国同士の戦乱が勃発する。そして、その戦いに敗れた彼の祖国は、夢の予言の通り火の海に沈んだのである。
 神話にのっとり女神の神力を集めた神話還りが、次にどんな動きに出るか。ろくでもないことは確かだし、早く手を打てるに越したことはない。
 それは確かにそうなのだが。
「にしたってさあ……
 アフロディテ区の神話還りに手を出されて、おとなしくしている気はもともとなかったが、下調べや根回しはもう少し丁寧にやりたかったのが本音である。今からでも資料を読み込むか、と端末に向かったリベルティーナに。
「それにね。たぶん、この事件を止められるのは、アフロディテⅨだけ」
「え?」
 かけられた声の調子に、思わず振り返る。見下ろすA173と、まともに目が合った。その瞳の底に、軽薄さから打って変わった色が揺れていて、リベルティーナはたじろぐ。
 たくさんの薄い傷から割れてしまったガラスのような、それが凄絶にきらめいたような。
「それってどういう、」
……それを、ぼくから貴女に告げるのは、あまりに酷ってもんだよ」
 二の句が継げなくなったリベルティーナに、がらりと表情を戻してA173はウィンクした。
「じゃっ、ぼく今日このあと対悪党負傷療養休暇とってるから! あとはがんばってね、ティナっち!」
 ビシッと手をあげてきびすを返し、部屋から出て行く動きのすばやいこと風のごとし。あわてて端末を見れば、確かに休暇申請の通知が出ている。添付の証明書も完璧。あとは決裁者であるリベルティーナが受領するだけ。英雄庁の福利厚生として、認めないわけにはいかない。
「あ~もうっ!」
 一人になった執務室に、リベルティーナのぼやく声が響いた。

 *****

 数日後。
 上がってきた報告書を、リベルティーナは形のいい爪で弾いた。
 はっきり言って、芳しくない。もともと英雄の神話還りは神々に比べて母数は大きくない。パリスの神話還りもその例にもれず数は少なく、調べ自体はあらかたついているのだが、どうにも決め手に欠けていた。
 黄金の林檎の方もいまいちだ。早い段階で人造神器に限りなく近い構造であることは分かっていたから、人造神器マスターことヘパイストスⅪに解析を依頼した。その回答も、かゆいところに手が届かない。
『固定電話の親機と子機みたいなものだろうねぇ』
 林檎が子機で、大した機能はつけられてない。これで神力を回収して、親機のところに運ぶのだろう、というところまでは確実だ。実際、これまでの現場から林檎は消えていたのだから。だが、そこから肝心の親機の性能まで辿ることは不可能だとのことだった。
『ああ、でも、林檎の機能はなかなか面白いね』
『は?』
 多数の被害者を出した凶器に対する言い草に眉をひそめたリベルティーナを、なだめるようにヘパイストスⅪは手を動かした。そういう仕草のいちいちが芝居がかっていて、リベルティーナはこの男に信を置けない。
『起動条件が、ずいぶん複雑というか……いや、こういうのが有効なのかな、美の女神サマたちには』
 いわく、一種の嘘発見器だという。範囲内にいる対象の脳波を測定し、それが一定の条件を満たした時に起動する。
『キーはこの言葉だろうね』
 一番美しいあなたへ。それに対するどんな反応がキーになるというのか。
『まあ大方予想はつくけどね。僕はそういう方面は専門じゃないし、断言はやめておこう。……そんなことより、捜査に直接関係ある情報だけど、』
 これ、正規のルートで出回ってる代物じゃないね。
 どこか信用ならない男ではあるが、ヘパイストスⅪが人造神器研究の第一人者であり、その流通ルートまで牛耳っているやり手の実業家でもあることは確かだ。そして、この件に関して彼が虚偽をなす必要はない。信じてもいいだろうという判断で、人造神器の正規ルートの洗い出しからは手を引いたのだが。
「正規品じゃなかったら、どっから出てきたって話よ」
 人造神器のジャンク品など、そうそう出回るものではない。では自作かと言えばそれも難しいのだ。素材となるアダマスを入手し、加工し、人造神器へと仕立て上げる。そんな技術を持ち合わせていそうな強力な神話還りなら、真っ先にリストに上がってくるはずだ。英雄庁の目を逃れた神話還り、という可能性もあるにはあるが、どうあっても公的機関としての枠組みを外れられない英雄庁だけならまだしも、今回の件にはヘラⅢも一枚かんでいるのだ。当代Ⅲは情報を扱う人間のあり方をわきまえていて、多少の汚い手なら平然と使う。現役ヒーローに手を出すほど大胆になっている悪党が、陰に陽に鋭い神々の女王の目を欺けるものだろうか。
 その上、捜査権がアフロディテフォースに移ってから、黄金の林檎の送付はぴったりと止まっていた。
 証拠品を確保された悪党が、警戒してなりを潜めているならまだいい。捜査自体は難航するだろうが、被害が出ないことが最優先だ。だがもしも、すでに悪党が求める十分な量の神力が揃ってしまっているのだとしたら?
 この沈黙が、次の悪事への準備段階ではないと判断する材料は何もないのだ。
「嫌な想像ばっかすんのは性に合わないけど……なえるわ~」
 気は焦る。だが、決め手がない。不十分な証拠のまま強引に動くのは、リベルティーナの正義にもとる。
 ため息をついてリベルティーナが書類に向き直った途端、本部内の放送設備から警報音が響き渡った。
 反射的に、施設内セキュリティを一望できるシステムを立ち上げる。アフロディテフォースは、戦闘特化型の神話還りばかりで構成されているわけではない。だが、フォース本部というものはその存在だけで悪党の標的となりやすいものでもある。そのため隊員を含めた職員全員が緊急発信端末を所持していて、有事の際にはその現場を明らかにする、独自のシステムが敷かれていた。
 複数の信号が集まっているのは、フォースのメインエントランス。いくら戦闘員が少ないとはいえ、それなりの対応ができるようにはしてある場所だ。椅子を蹴立ててそちらへ向かう。嫌な予感がした。
 駆けつけたリベルティーナが目にしたのは、昏倒する職員たちと、その中心に浮かぶ——黄金の林檎。
 ざあ、と血の気が引いた。
「アフロディテⅨ様! っ、それは」
 引いた血の気が頭にのぼるのを理性で抑えて、リベルティーナは後ろから来た副隊長に、黄金から目を離さないまま言う。
……泳がせるよ」
 消えた林檎はどこに行ったのか。ヘパイストスⅪの解析によると、起動方法こそ特異だが、子機の基本機能は普通のドローンと変わらないのだという。神力を奪った後は、自律的に親機の元へと帰還する。それを追うことができれば、すぐにでも犯人逮捕につながるだろうとは思っていた。だから、捜査が手づまりになった時点で、アフロディテ区に住む神話還りには、怪しい配送物が届いたらすぐフォースに連絡するよう周知はしていたのだ。
 それがまさか、正面から堂々とフォースに襲撃をかけるとは。確かに、フォース本部ならば間違いなく神話還りがいる。だが、ヒーローが揃い踏み、確保される危険性も格段に跳ね上がるここに。
 ——直接手ぇ出すなんて、なめられたもんじゃん。
 それだけ焦っている、ということか。証拠品を押さえられて。
 フィィィイン、と空気をさく音をたてて、林檎が動き出す。集まってきた隊員たちがどよめくのを、リベルティーナは片手で制した。
 現役ヒーローを含めた神話還り数名分の神力。これをみすみす悪党の手に渡すわけにはいかない。
「あーしが追う。あーたたちは被害者の介抱と、手回しの方、よろ」

 *****

 アポロンフォース本部、執務室にいたアポロンⅥは、入室してきた事務官の当惑した表情に、思わず仕事の手を止めた。
「どうした。何かあったのか?」
「いえ、申請書が……
「申請書?」
 その手に抱えられているのは、大量の書類。形式を見るに、アポロン区でのヒーロー活動に係る各種制限の解除や特例措置の申請書のようだった。アポロンフォースの申請は月ごとにまとめて処理しているので、このタイミングで来るのは他地区のヒーローからのものだ。多くは事務方で処理するため、アポロンⅥの手元まで上がってくることは珍しい。
「ずいぶん量が多いが、何か問題でもあったのか?」
「すべて今しがた届いた申請なのですが、発効が今日になっているのと、申請者が……
 その言葉に眉を寄せつつ、申請書の一覧が記された送り状を受け取る。
……アフロディテⅨから?」
 ゴッド・ナンバーズが直々に他地区まで赴くことはあまりない。何事か、と首をかしげた途端、通信端末が着信を告げた。ワンコールで取る。
『アフロディテⅨよりアポロンⅥへ!!』
 耳に飛び込んできたのは、高速で移動しているらしい環境音を伴った声だった。
「どうした、珍しい」
 いつも言葉面はくだけているが、あくまで響きは理知的なアフロディテⅨの声が、今は感情もあらわにまくし立てる。
『越境逮捕権!! よこして!!』
「本来は事前申せ」
『必要書類はぜんぶ送ってる、あとはあーたのサインだけよ!!』
……わかったわかった。すまないが、手続きを頼む。サインが必要な書類をよこしてくれ」
 声の圧から逃げるように、耳から端末を離しながら、アポロンⅥは傍らの事務官に声をかける。
「よろしいのですか?」
 地区を超えての逮捕権は、各フォースの独立性を保つため、本来そう簡単に許可が下りるものではない。ゴッド・ナンバーズ同士のやりとりで、書類はすべて揃っているとはいえ、即時発効となれば事後処理の手間は相当なものになる。
 委細すべて承知したうえで、それでも号令一下すぐに処理を始めた事務官から書類を受け取りながら、アポロンⅥは肩をすくめてみせた。
「女神の怒りに水を差すほど、私は愚かではないんだ」

 *****

 駆ける。駆ける。ビルの外壁を蹴り、谷間を越え、駆け跳ぶ。
 浮遊する林檎は、そのフォルムからは想像もつかないような速度を出している。が、障害物を避ける以外の動きはまったく直線的で、リベルティーナが見失わずに追い続けるには何の支障もない。
 追跡を始めてすぐ、林檎がどこへ向かっているかは見当がついた。羊飼いの住む場所は、羊飼いの守り神の加護の元。その予想は当たっていたらしい。あらかじめ申請書を用意しておいてよかった。そうでなければ、あと数分はⅥのお小言をBGMにしなければならないところだった。
 捜査委任状は、あくまで捜査活動にしか適用されない。直接的なヒーロー活動には別途申請と許諾が必要になる。そして、越境逮捕権には当該地区のナンバーズによる決裁が必須なのだ。
 通信を切った端末を確認する。アポロン区における速度制限、跳躍制限、飛行制限、器物破損免責、神器使用制限——オールクリア。一番重要な越境逮捕権についても許可が出た。堅物のⅥちゃんにしては仕事が早い。
「んじゃ、遠慮なく」
 林檎が高度を下げる。その先には、ちょうどその大きさが通りそうな幅で開けられた窓。リストアップされた神話還りの一人の住所で間違いなかった。
「おっきしな、神器ちゃん」
 声に応え、宝帯がまばゆく輝く。その魅了の権能に支配され、林檎は手前の宙に停止し、窓は広く開け放たれた。リベルティーナはビルの屋上から身を躍らせ、林檎をつかむ。そして、迎え入れるように開いた窓に、悠々と滑り込んだ。
「なっ、なんだお前!」
 部屋の中にいた男が声を上げる。がたがた、と椅子を鳴らしながら身構える姿は完全に腰が引けていて、小悪党感がにじみ出ていた。それを一瞥し、リベルティーナは鼻から息を抜く。
「なんだお前、ね。ご挨拶じゃん。……〈ケストス〉」
 神器の印象操作を解除する。認識さえすれば、さすがにゴッド・ナンバーズの姿には見覚えがあったらしい。アフロディテⅨ、とこぼされた言葉に首肯し、特殊公務員の身分証と逮捕権の許可証を示す。
「ヴィランコード……は、まだ発行されてないね。まあいっか。ヘラ区・アテナ区・アフロディテ区における傷害罪、並びにアフロディテフォースへの公務執行妨害罪で、あーたを逮捕しにきたんだけど。おとなしく投降してくれる?」
 睨みつけてくる目に、まあないだろうけど、と思いながらも規約通り口上を述べた。それを聞いているのかいないのか、男は悪態をつきながら、テーブルの上にあった装置に手を触れる。途端、ぶわ、と光がはじけた。ヒーローなら見慣れている、神力がエネルギーとして注ぎ込まれる時の独特の発光。ということは、あれが人造神器もどきか。
「〈黄金の林檎〉!」
 男の声と同時に、複数の黄金が空を切って向かってきた。子機にはスペアがあったらしい。リベルティーナの手の中の林檎は捕らえられたままだ。それをポケットにしまって、リベルティーナは肩をすくめる。
「投降の意思なし、ね。んじゃ、手荒くいくよ! エンチャント・エロス!」
 〈ケストス〉の効果で、林檎のスピードが不自然に落ちる。それを抜き放った細剣で全て切り飛ばし、一気に男との距離をつめた。くそ、と叫んで逃げようとする足を払い、倒れたところを膝を使って床に押さえつける。神話還りとはいえ、戦闘に特化したわけではない一般人を抑えることなど造作もない。手錠をかけようと視線を下げた、途端。
 『一番美しいあなたへ』
 目の前に、黄金が迫った。
「っ!」
 男が袖口に隠し持っていた林檎を投げつけてきたのだ。あまりに近すぎて剣戟も間に合わず、リベルティーナはとっさに身を引く。拘束を逃れた男が、再びテーブルの上の装置にすがりついた。
「触らないようにしたところで無駄だ、この文字を認識した時点でお前はボクの獲物なんだから!」
 黄金の果実がまばゆく光る。反射的に目をかばったリベルティーナは、しかし、すぐに警戒をといた。
……別に、へーきだけど」
「え?」
 予想していたようなことは、何も起こらなかった。男の方がよほど呆然としている。拍子抜けしたリベルティーナは、宙に浮いたままの林檎を掴む。やはり何事もなく、観念したように収まっている。
「で? どうすんの? まだ何か出してくる?」
 視線を向けると、はっと我に返った男が恐慌をきたして装置を手荒く動かす。その表情には、恐怖と、焦りと、——ぬぐいようのない軽蔑がにじんでいた。
「くそ、なんでだ、なんでだよ! お前たちみたいなやつは、絶対考えるはずなのに! 一番って言われたら、絶対に比べるはずなのに!」
 本当に、私が一番美しいのか? あの人や、あの人と比べて。本当に、私が一番?
 ポリグラフ。〝アフロディテⅨ〟にしか止められない。
 その瞬間、リベルティーナの表情がすっと抜け落ちたことに、語るに落ちていた男は気づかない。
……ふぅん?」
 ガチャガチャと操作する手元に、後ろから鋭い刺突が走った。
「ひっ!」
「つまり、これは」
 不穏な火花を散らして、機能を停止したことをありありと表現する親機から、するりと剣先が離れる。その動きにあらがいようもなく引かれた男の視線は、後ろに立つヒーローの表情に釘づけになる。
「自分と他人の見てくれを比べるのに忙しい、そーゆー人を標的にしてたってわけ」
 不和の林檎がもたらした争いはつまり、美しいという基準に基づく女神たちの自尊心の拮抗だった。その幕引きもまた、美しい女を与えるという条件を提示した女神の勝利だった。
 不毛だ。あまりにも。美しさという評価基準は、いつの世にも覆しがたい不平等をもたらす。しかも、その不平等から逃れることは酷く難しい。美しさによって育った自尊心は、そのまま価値判断につながっていく。劣る人間への優越感と、勝る人間への劣等感という形をとって、勝手に順位付けを始め、不平等を加速させていく。
 なるほどそれは、てきめんに効いただろう。美の女神の神話還りで、美しさという枠組みに当てはめられたことのない者はいない。それは心の奥深くに根差した、誇りであり、呪いであり、力の源だ。
 それはたいそう残酷だろう。人ならぬ神の道具によって、「もっとも美しいのはお前ではない」と烙印を捺された者にとっては。アフロディテA173の瞳が映したのは、その絶望と無念。それから、嫉妬によく似た憧憬だった。
 ひょっとしたらこの男——絶世の美男子とされた悲劇の英雄の特性を持つにしては、凡庸な顔立ちの男も、その不平等の犠牲者なのかもしれない。その意趣返しとして、美しさを他者と比べるという習性を、人造神器の起動条件にすえたのかもしれない。
 だが。
「いらんし」
 リベルティーナは、神器〈ケストス〉の継承者は揺らがない。
 手の中で、黄金の果実がみしりと軋む。春の海色の瞳がらんらんと、怒りに照り映えて悪党を睨む。それに気圧された男がじりじりと後ずさりながら、わななく唇で、それでもまだ尊大な言葉を吐く。
「なんだ、なんで、比べずにいられるわけが、」
「うっさい!!」
 林檎が、砕けた。ひっ、と竦んだ悪党へと、リベルティーナは細剣を向ける。
 きっと、この男は知らないのだろう。他者との比較などという基準を離れて、己の美しさを信じ続けること。その難しさを。
 一番美しいあなたへ。その傲慢な審判を、苛烈に、鮮明に、しかしどこまでも優雅に斬り捨てる。
 甘ったるい賛美も試すような諂いも必要ない。矜持に満ちたその切っ先。
「あーしは神器〈ケストス〉に選ばれたアフロディテⅨ。もっとも美しく戦う者。
 ……その覚悟、甘く見てもらっちゃ困るんだよね」

 *****

……確かに、器物破損免責の申請は受けた。だが、証拠品の損壊は別の話ではないか?』
 捜査権がアフロディテフォースに移譲され、越境逮捕権も付与されていたとはいえ、犯人がアポロン区の住人であったことから、事件後の処理はアポロンフォースの管轄となった。その報告がアポロンⅥから直接来たから何かと思えば、ただの説教だった。
「だーかーらー、正当防衛だって言ってんじゃん」
 通話をハンズフリーに切り替えて、座ったままできるヨガのポーズをとりながら、リベルティーナは投げやりに答える。嘘は言っていない。林檎が襲ってきたのは事実だし、子機を一掃するには親機を機能停止に追い込むのが一番確実な対応だった。
 大体、壊したとはいえ跡形もなく壊滅させたというわけでもなし、子機も最初に確保したものは無傷で解析に回している。文句言われる筋合いなくない?
『まったく……。犯人確保はいいとしても、出所不明の人造神器については引き続き捜査しなければならんというのに。調べる方の身にもなれ。そもそも、』
「あ~ごめんごめん、人きたから~もうそろ切るね~」
 ちょうど副隊長が入室してきたのをいいことに、むりやり通話を終了させる。Ⅵちゃんマジ堅物。
 そんな隊長に、副隊長の報告はやや苦笑まじりだった。
「申請の事後処理が完了しました」
「お疲れちゃーん。無理言ってごめんね。あざまる~」
 これも仕事ですから、と微笑んだ副官は、さらに別の報告書を渡す。
「アポロンフォースから捜査報告と、こちらはヘパイストスフォースから、林檎の親機の解析結果です」
 正式な報告をきちんと入れた上での説教だったわけだ。小舅か。
「ふーん……入手経路については謎の人物から譲り受けたと供述。機構も通常の人造神器とは異なり、神力使用の安全装置が存在しない……? って、これヤバだよね?」
 英雄庁が管轄する人造神器は、必要以上の神力を使用者から引き出さないよう安全装置が組み込まれており、さらに使用者の能力によっていくつかの段階に分けられている。それでも、年に数回は神力の使い過ぎで問題が起きるのだ。それよりもはるかに危険な代物が、何者かによってばらまかれている可能性があるということを、報告書は示していた。
「は~、ぴえんだわ」
 思わず伸ばした腕がなえる。Ⅵちゃんマジがんば。
 報告を終えて辞した副隊長と入れ替わりに、アフロディテA173が顔をのぞかせた。
「おつかれさま、ティナっち」
「療養休暇、昨日までだっけ?」
「ゆっくりさせてもらったよ~。あ、これおみやげね。リンゴのお菓子」
「ちょ、センス。……報告聞いた?」
「聞いた聞いた、一応ぼく被害者だから」
 そこ、ちゃんとのばして、とヨガのポーズに指導を入れるA173の顔を、リベルティーナは上目遣いで見る。
 自分の美しさへの不信。林檎の起動条件に、この元アフロディテⅨが気づかなかったはずがない。何せ、軽薄で覆った有能さで、英雄庁上層部さえ手玉に取るヒーローだ。そうでなければ、あんな表情はしないだろう。
 神器に見限られた経験と引き比べて、心を逆なではしなかったのか。アフロディテⅨであるリベルティーナに、複雑な思いを抱きはしなかったか?
 視線が合った。A173が、ふ、と微笑む。
「なに、つまんないこと気にしてる顔して」
「つまんないって」
「つまんないさ。……誰が美しいかなんて、ぼくは誰より知ってるよ、アフロディテⅨ。貴女が自分の美しさを疑わないようにね」
 それだけで十分、とうそぶき、鮮やかなウィンクを残してA173は部屋を出て行く。いつも通りの、軽薄が服を着ているような歩調で。
 それを見送って、リベルティーナは頭をかく。
「ちょー先輩風吹かすじゃん……
 けれど、アフロディテⅨを信じ祝福するそれは、豊穣をもたらす西風に似て、力強く優しい。
 矜持も高慢も、嫉妬も絶望も、きっとその心の底にはあるのだろう。
 それでも、美しい者を愛さずにはいられない。
 時にとてつもなく厄介な、けれどそれもまた、愛と美の女神から継いだ特性なのかもしれなかった。