千代里
2025-01-20 12:57:38
12241文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その33


「ヤルマル、そちらの首尾はどうだ」
「もう暫くは、この羽虫たちに釘付けになりそうだ! ただ蹴散らすっていっても、数が数だからね」
「増援の鳥どもまでは、手を回せそうか」
「いくらこのボクが頼もしい先輩だって言っても、無理なもんは無理さ。悪いけどオランロー、そいつらの相手は君に任せたよ」
 以前の自分なら、ヤルマルとしてもう少し見栄を張っただろうかなどと思いつつ、ヤルマルは手袋に包まれた指で弓弦を引き、放す。
 ピヌヌたちが苦戦している現場に到着した、その直後。
 ヤルマルは、自分が何と戦うべきかを理解し、構えた弓から上空を舞う魔物へと矢を放っていた。
 空中を飛び交い、隙あらば地上にいる兵士たちに組みつこうとしている、不埒な羽虫――ドラゴンフライどもを射落とすこと。それが、弓の使い手であるヤルマルが、この戦闘において真っ先に果たさねばならない役割だ。
 だが、残念ながら宙を飛び交う敵はドラゴンフライだけではなかった。
 竜と人の諍いを上空から目撃した、他の魔物――ヴァルチャーたちが、竜の手勢に加担したのだ。鳥に似た姿をしているが、その体は小鳥などとは程遠く、羽を広げれば子供ぐらいの大きさはある。屍肉を好む彼らは、劣勢の人間たちをそのまま追い詰め、彼らを死体へと変えた後に悠々とご馳走をいただく腹積りであるらしい。
『ただでさえ、羽虫とトカゲの相手で忙しいというのに……!』
 リンクパール越しに聞こえるオランローの苛立った声に、ヤルマルも苦笑いをこぼす。
「そうかっかするものじゃないよ。自分のペースを崩したら、ステップまで崩れていくって前にも教えただろう」
 オランローに今の戦い方を教えたのはヤルマルだ。その師匠として、余裕を保ち続けながら、ヤルマルは己の相手を睨む。
 実際のところを言うと、この局面は笑っていられる状況ではない。
 どこから湧き出したのだろうか、実に十数体もの規模を誇るドラゴンフライの群れが、ヤルマルを敵と判断して、攻撃の矛先をこちらへと向けているのだから。
(とはいえ、ピヌヌさんの所にオランローもイレーナも向かってくれた。それなら、彼らとの連携も取れるはずだ)
 地上を闊歩するドレイクたちは、サルヒが惹きつけている。だったら、ますますヤルマルはドラゴンフライたちに注力すべきだ。
 今もこちらに注視している羽虫たちは、ただ傍観に徹しているわけではない。その周囲には時折魔力の高まりが生まれ、ヤルマルの目の前で自然現象ではあり得ない風の刃が生まれ、爆ぜていく。
「相手が飛竜の群れってわけでもなし。この程度の数、なんとかボクが惹きつけてみせるよ」
 何度目かの魔法の追撃を回避し、ヤルマルは背中に背負った矢筒の矢に指をかける。
 町が近いのなら、補給のために矢の消費を抑える必要もない。存分に敵を射ち、牽制に努めさせてもらおう。
 先だってのリンクパールの通話では、ピヌヌがここにいる面々の指揮をとるとオランローは言っていた此度の任務で、リーダーを受け持っていたイレーナの上司がピヌヌである。だったら、この指揮権の移譲に文句はない。
 先ほどのオランローの確認も、ピヌヌが状況を把握するために質問したが故のものだろう。
「羽虫(フライ)と名前はついているけれど、彼らも飛竜の端くれみたいな姿はしているんだよね。矢が掠った程度では落ちてくれそうにもない、か」
 何度目かになるか分からない風魔法を、一歩後ろに下がり回避。跳んだ先にも魔法の発動の気配を察知し、今度は横転するようにして回避を続ける。
 ここまで大量の敵を相手するとなると、もはや目で見て回避をしているようでは遅きに失する。ヤルマルは己の勘に従い、相手の行動をいくつも先読みするしかなかった。
「っと、そっちには行かせないよ。ほら、ボクはこっちだ!」
 逃げに徹するヤルマルに飽きたのか、数体のドラゴンフライがドレイクたちを交戦しているサルヒの方へと向かいかける。そうはさせじと、ヤルマルは弓を放ち、はぐれようとする敵の気をひく。
 予想通り、竜の操り人形と化した羽虫たちは、ヤルマルの分かりやすい牽制に引き摺られて、再び彼女を標的に見定めた。
(今回はすぐに反応してくれたけれど、サルヒたちが近くにいると、魔物たちの注意があちらに向いてしまう)
 ドレイクの炎や、サルヒの斧が鱗を割る音は、魔物にとっては無視できないものなのだろう。
 ドラゴンフライたちがどのような感覚を持った生き物かはわからないが、彼らの生存本能か、はたまた竜から与えられた知恵のおかげか、彼らはドレイクと一戦交えている一行の方へと何度か視線を向けていた。
「オランロー、聞こえるかい。ボクはドラゴンフライを惹きつけたまま、一時的に離脱する。ピヌヌさんにそう伝えてもらえるかな」
『待て。まさか、一人で全てを惹きつけるつもりか』
「そうさ。羽虫たちは、サルヒやピヌヌさんたちを何度も警戒している。このままじゃ、いずれボクに興味をなくした奴らが、そっちに向かってしまう」
 返ってきたのは沈黙だった。
 サルヒたちがドレイクを倒し切るまで、ヤルマルがドラゴンフライを抑える。ヤルマルの役回りは、陽動という非常に単純かつ重要なものだ。
 けれども、この付近で戦っていれば、その役目すら果たせなくなる時が、遠からず訪れるのが目に見えている。
『ピヌヌが聞いている。あんた一人で、ドラゴンフライ全てを倒すことは可能か否か、と』
「すぐに全てを倒す、というのは難しいね。完全に全員沈黙させるとなると、魔道士の広範囲に対する魔法攻撃が必要だ」
 そうでなければ、矢を用いて少しずつ仕留めていくしかなく、そうなるとまず時間がかかる。
 敵を惹きつけて一時的に離脱するだけならば、時間もかからず、ドレイクと戦っているサルヒたちに羽虫どもが向かってしまう可能性をぐっと下げられる。
「一応聞いておくけれど、ピヌヌさんの部下の魔道士が手伝ってくれる、という選択肢はあり得るのかい」
……彼はまだ治療に従事している。治療が終わり次第、支援に向かうように伝えてはいるが、時間はかかるだろう』
「じゃあ、仕方ない。オランロー、ヴァルチャーたちの相手は君に任せるよ。ドラゴンフライがそっちに向かってしまったら、せっかくサルヒとピヌヌさんたちが作った膠着状態が崩れてしまうだろう」
『無理をするなよ。あんたは、英雄じゃないんだ。――ヨルディス』
 懐かしい名前を聞いて、ヤルマルはこんな時であるというのに口の端に笑みをのぼらせる。
 オランローは、ヤルマルが胸の内に抱えた、未だ消えぬ星の影――兄の生き方を真似して、英雄的決断をしているのではないかと危惧したのだろう。その心配すら、今は心地よく感じる。
「分かっているさ。ボクは、ただのしがないヤルマルさんだからね」
 会話を切り上げ、ヤルマルは魔力を矢に込める。頭上に弧を描いて解き放たれた矢は、空中で幾重にも分裂し、雨となって魔物の頭上に降り注いだ。
(これで一網打尽にできたらよかったんだけど……そう簡単にやられてくれないか)
 何匹かには直撃したが、多くのドラゴンフライは賢しくも自分の体に風の魔法を纏わせて、矢の威力を軽減させていた。
 魔力で作った矢であるからこそ、魔力で対抗された場合、威力を減耗させられてしまう。魔力だけで作られた矢は搦手に使える分、対処されやすいのも欠点の一つだ。
 だが、今はそれでいい。ドラゴンフライの視線が一斉にこちらに向いた隙間を狙って、ヤルマルは木立に向かって駆け出した。
 現在戦闘が行われている場所は、街道から外れた山間部だ。木立のまばらな部分もあるが、空中を飛び交う魔物の利点を削ぐためにも、彼女は率先して深い森へと飛び込んだ。
「ほらほら、君たちに矢を射かけた敵はこっちだよ!」
 わざと声を発して挑発し、ついでにヤルマルは自分の向かう先にある雪原へと矢を放つ。
 弱い火のエーテルをまとわり付かせたそれは、雪の表面に突き刺さりながらも、雪を溶かさずに炎で作られた円だけを広げていく。雪の表面だけを舐める炎は、どこか幻想的な光景を作り出していた。
 本来ならば、地表に展開された炎の熱によって敵を焼く技だが、威力を抑えた今回は、単なる灯台としてドラゴンフライを寄せるために使う。光と微かな熱の揺らぎに反応して、ドラゴンフライは一斉にヤルマルを追いかけはじめた。
「とりあえず、これでよし……と。雪山の森は馴染みがないんだけど、今は文句を言っている場合じゃないか」
 呟きながらも、ヤルマルの目と足は自分が辿った道と、この先続く道の予測を続けている。
 長らく過ごしてきた故郷の森ならば、目を瞑っていても目的地に向かえる自信があるが、何も知らない森ではそうもいかない。けれども、わずかな植生の違いや立木の生え方、雪の積もる角度などを見ていれば、地形の予測はできる。
 おかげで、ヤルマルは適度に木々が密集し、適度にまばらに生えている小道を選びとることができた。魔物が自分を見失わなず、かといって簡単に追いつかれないよう、地形の利を得られる道を、深緑の影が疾駆する。その間も、極端な坂道を避けて、足腰への負担を避けるのも忘れない。
(敵を惹きつけ続けていれば、そのうち他の魔物を倒した皆が合流する。頃合いを見計らって戻る手順も考えておかないと)
 思考しつつも疾走の速度を落とさずに済んでいるのは、魔物たちの攻撃が単調かつ小規模だからだ。
 ドラゴンフライたちは、必死にヤルマルに肉薄しようとしている。しかし、その牙は彼女には未だ届かない。繰り出される風の魔法も、発動前の光の具合や風の変化で容易に推測できる。
 知性を得たといっても、所詮は魔物。群れ同士連携するとしても限度があるか。
 走りながら、牽制のために何度も矢を放ち、目の前に風の変化があれば魔法の射程範囲に飛び退く。それ自体も綱渡りの戦いであるが、護人として生きた自分にとっては、この程度の綱渡りは朝飯前だ。
 ほら、また一つ風の魔法。続けて、もう一つ。
 羽音が近くなっているから、飛び掛かろうとしているのだろうか。
 だったら、今度は足に風属性のエーテルを溜めて大きく飛び退いて――
 瞬時に組み上げた、逃避のための経路。それをコンマ数秒にも満たない思考を経て辿る。
 その最後の一足のときだった。
(いや。何か――違う)
 直感めいた警告。髪の揺れ具合が、ほんの数イルム違う。ただそれだけの差で、狩人は察知する。
「まさか」
 自分が着地したその場所に、風の魔法が膨れ上がる。退避のために大きく飛び退いた一瞬、風を読みきれない間隙をついた一手。
 なかなかどうして、魔物というやつも侮れない。そんな感慨を抱きかけたヤルマルは、後から振り返って、この時の己の悠長を責めることになる。
「これは……!?」
 自身を吹き飛ばす、風の圧。今まで何度も潜り抜けてきたその勢いが、自分の想像よりも――大きい。
 姿勢が崩れる。ヤルマルが着地したすぐそばで爆ぜた風の魔法。それは、今までのものと数段桁違いの威力を放っていた。まるで、傍らで竜巻が爆発したかのようだ。
 地面から、足が浮き上がる。踏ん張るための余裕など、どこにも残っていなかった。
(あいつら、風の魔法を一斉に合わせて発動させた……!?)
 一体の風では仕留めきれないなら、仕留められるほど大きな魔法をあわせて放つ。魔物たちは拙い思考で、そのように結論を出したらしい。
 体が浮き上がる。旋風にまかれて木の葉のように体が浮き上がり、吹き飛ばされる。頭上に広がっていた木の枝を何本も折りながら、ヤルマルの体が一瞬空を舞う。
……痛っ」
 枝が頭部を掠め、頬を切り裂き、手足に細かい傷を残していく。木の幹に激突しなかったのが、せめてもの幸いか。
 しかし、空中ですぐに身を翻せるような翼を、彼女は持ち合わせていない。
 ドラゴンフライたちは、空中へと――自分たちの独擅場である舞台に引きずり上げた獲物を前にして、一斉に飛び掛かろうと翼を窄めている。
 だが、ヤルマルとて大人しく空中で八つ裂きにされるほど柔ではない。
「君たちの知恵に敬意を表して、ボクもとびっきりをやらせてもらおうか」
 落下する先を変えることはできない。けれども、手に持つ弓に矢を番えることなら、できる。
「いいのかい。そんな風に、綺麗に整列して向かってきてさ」
 にやりと口角に笑みを引き、瞬時にありったけの魔力を矢に込める。
 エーテルで作った矢が、魔法に吹き散らされるのならば。物理的な硬度を誇る鏃に、極限まで硬化のための魔力を注ぐのみ。溢れかえった魔力は、たとえ当たらずとも牽制になると信じて、矢へと変換するのも忘れずに。
 引き絞った弓弦の影、狩人は笑い、
――全員まとめて、串刺しだよ!!」
 弓弦を――解き放つ。
 真っ直ぐに放たれた矢。それは、白銀の尾を引く一条の流星。
 弾丸のような破壊力を持つ矢は、弾丸ではあり得ない魔力の奔流を得た一矢へと変じる。
 落下していくヤルマル目掛けて急降下するドラゴンフライを、一筋の光が文字通りまとめて串刺しにしていった。
 溢れた魔力で作られた矢も、軌道が一直線だからこそ減速による威力の減耗もなく、直撃を避けたドラゴンフライたちを引き裂き、食いちぎっていく。
 それは、もはや矢の形をした顎(あぎと)であった。
 だが、放たれた矢が強大であるほど、その反動もまた大きい。本来ならば、地面に足を据えて放つべき矢を、よりにもよって空中で放ったのだ。
 自身を支える杭など一切存在しない、空中での強力な一矢。その代償に、ヤルマルは矢が放たれたのと同量の速度で、自由落下の数倍速く、地面へと不時着――激突する。
 枝をへし折り、地面に叩きつけられてからも何度かバウンドし、勢いが完全に無くなるまで何度体に走る衝撃を耐えただろうか。最後に太い木の幹にぶつかった頃には、かなりスピードは落ちていたが、もし落下直後に激突していたら全身の骨がばらばらになっていただろう。
 身体中に走る痛みを歯を食いしばって耐え、咄嗟に瞑っていた瞼をゆっくりと開く。
(骨は……大丈夫そうだ。落ちる前に、ノエの真似をして魔力を自分に纏わせて正解だった)
 普段、ノエは魔力を盾として、敵の重たい攻撃を受け止めている。その模倣をして、全体を薄く覆うように魔力で体を包んだのが、結果的に功を奏したらしい。
「だけど、こっちは駄目そうだね。あーあ。また職人さんにどやされる」
 ヤルマルの手に握っていた弓。それは、先ほどの強力な一撃のせいか、それともこの急落下のせいか、見るも無惨に真っ二つに折れていた。
 イシュガルドを訪れてから、長らく相棒として用いていたが、流石に限界は迎えてしまったらしい。惜しむ気持ちはあるが、壊れたものを悔やんでいても仕方なし。気持ちを切り替えて、ヤルマルはゆっくりと体を起こす。
「なるほど。……どうりで、落下時間が長かったわけだ」
 立ち上がったヤルマルは、頭上に広がる光景を『見上げる』。それもそのはず、今彼女が立っているのは、段々畑のように岩が転がった斜面の下部だった。
 この地形に、全く見覚えがない。恐らくは先だっての風で吹き飛ばされ、その後の一射で自分は斜面に点在する木々を突き抜ける形で落ちていったのだろう。その過程で、予想外の場所に落ちてしまったというわけだ。
 断崖というほどの落差はないものの、ごつごつと突き出た岩の群れの脅威は、文字通り骨身に染みて理解させられた。打ちどころが悪かったらこの寒空の下、致命傷を受けて動けずに息絶えていたかもしれない。
 斜面のあちらこちらには針葉樹が聳え立っており、視界は良好とは言えない。ヤルマルが折った枝の向こうに薄く日が見えるが、ちらちらと降る雪は収まる様子もない。
「あいつら、全部倒せたかな」
 ドラゴンフライたちの姿は、今は影も形もない。ヤルマルが転がり落ちたことでこちらを見失い、ドレイクたちの戦いに戻って行ってなければいいがと祈る。
 できることなら、見失ったヤルマルを探して、とどめを刺すためにこの辺りを飛び回っていてほしいところではあるが、あの特徴的な羽音は今は聞こえなかった。
「ひとまず、元いた場所に戻らないと」
 リンクパールを使ってせめて居場所ぐらいは伝えようと耳に指を当てようとして――本来あるべきはずの装着の違和感がないことに、遅ればせながら気がつく。
 案の定、普段身につけていた耳を指で触ってみても、リンクパールの固い感触は無かった。
(さっきの衝撃で落としたのか……。替えは荷物の中にしかなかったし、どうしたものかな)
 何はともあれ、一度上に上がるしかあるまい。ドラゴンフライの残党についても、そのあとに考えよう。
 頭上を見上げるのをやめ、前方に広がる斜面へと視線をやり――
「!?」
 咄嗟に振り返れたのは、野生の勘のおかげだ。
 背後から忍び寄ってきた敵の気配。
 こちらに背中目掛けて飛びかかってきたそれは、ヤルマルが振り返ったことで、正面から彼女にぶつかることになった。
 目の前いっぱいに広がる、くすんだ紅色の鱗。羽虫ににた羽に、辛うじて竜のような形をとった顔貌。
 竜の虫――ドラゴンフライと名付けられた魔物が、傷ついた体を厭わずに、こちらに向かってきたのだ。
 たとえ背後を取れずとも構わないと、ヤルマルの肩に魔物の牙と爪が突き刺さる。
「こいつ、まだ生きて……!」
 先ほどの衝撃で傷んだ防具の皮を鋭い爪が切り裂き、先端が皮膚へ食い込んでいく。
 仮にも竜の名を授けられた魔物の牙は、ヤルマルの首に齧り付かんとしたが、こればかりは咄嗟に腕で防ぐことができた。だが、こちらも破損した皮を突き破り、牙が腕に深々と刺さる。
 振り解く余力はない。矢筒は吹き飛んだ際に落としてしまった。弓だって折れている。
 ドラゴンフライにとっては、今のヤルマルは手負いであり、武器も持たない無力な獲物だ。
 まずは腕を食い破ってやろうと思ったのか、魔物が牙に力を込める。
 させじと、ヤルマルは勢いをつけて木の幹に体をぶつけた。食いついたドラゴンフライは、それでも離れてくれない。一度噛み付いたら離れることを忘れてしまったかのようだ。
 これで万策尽きたかと、ドラゴンフライが勝利を確信しかけたときだった。
「弓が折れたぐらいで、ボクが何もできなくなったとか……まさか、思ってないよね」
 魔物には理解できない声。言葉。
 その数秒後に、ドラゴンフライの胴体に衝撃が走る。
 冷たく鋭い、魔物の牙にも似た感触。腑を引き裂く、尖った一撃。流れ落ちる血が、小柄な魔物の体力を急速に奪い、噛み付いていた顎から力が抜ける。
「弓が折れたぐらいで、簡単に倒せると思わないでもらおう、か」
 崩れ落ちたドラゴンフライは振り落とし、吐き捨てるように呟くヤルマル。その手には、一振りの短剣があった。
「これでも、故郷では里を守る護人……だったんだ。万が一の、備えぐらいは……しているさ」
 多少の衝撃でも落とさないように、腰にくくりつけていた小ぶりの短剣。短剣と呼ぶよりは太い針と呼んだほうが近いかもしれない。
 得物とするには心許ない大きさではあるが、至近距離に迫ってきた敵に突き刺す程度ならば十分に活用できる大きさだ。
 傷口に刺さったままになっていたドラゴンフライの爪の破片を抉り出し、念の為、傷口から血を口を吸い出し、吐き出しておく。この魔物に毒はないと聞いているが、万が一付着でもしていたら後から毒が回る可能性がある。この雪原の只中で毒が回ったら、十中八九助からない。
……あんな風に、魔物に啖呵は切ってみたはいいけども」
 くらり、と視界が揺れる。腕に残る噛み傷や爪の刺さった跡、そこから流れ落ちる血と共にじくじくと痛みが全身を支配していく。
 痛みというものは、無視したくとも完全に消せるものではない。そして、消しきれない痛みは肉体だけでなく精神すら磨耗させる。ちょっとやそっとの痛みで根を上げるほどひ弱ではないつもりだが、前へと進む足取りが重くなるのは避けられない。
(止血……そうだ。先に血を止めないと)
 何も考えずに数歩前に進み出て、自嘲する。優先順位を間違えるなど、弟子が見たら何というだろうか。
 足を止め、腰に結えつけていた袋から応急処置用の大判の布を取り出す。それを裂けば、緊急用の包帯の出来上がりだ。
 血が流れ出ている所に包帯を巻きつけ、キツく縛る。じわと滲んだ赤がひとまず落ち着いたのを確認し、再び顔を上げたヤルマルは本日何度目になるか分からない苦笑いを浮かべてしまう。
「犬でもないのに鼻がきくんだね、君たちは」
 見上げた先に見えたのは、数羽のヴァルチャー。生き物の屍肉を餌とする彼らは、血の匂いを嗅ぎつける機能を持ち合わせているのだろうか。負傷が齎した血の匂いを嗅ぎつけたのだろう、こちらを見下ろす視線は間違いなくヤルマルを標的にしている。
(さて、どうしたものか)
 ギャアギャアとけたたましい鳴き声を上げながら、こちらを見下ろすヴァルチャー。対して、今のヤルマルには、足こそ動かせるものの上空の魔物を一息に退治する方法がない。
(弓は壊れてしまった。さっきの短剣を使うには、接近してもらわないといけないし、相手取るのは一羽が限界だ)
 できるならバラバラに襲いかかって欲しいと思うものの、魔物がこちらの望みを叶えてくれるわけもなく。
 ヴァルチャーは、示し合わせたように一団のままヤルマルへと急降下した――否、しようとした。
「!」
 覚悟を決めていた彼女は、大きく見開いた瞳で目にする。
 自分に向かってくる鳥の魔物が――瞬時に炎に巻かれて落ちていく姿を。
「おい、いたぞ! こっちだ!!」
「ハゲワシどもめ、急に姿が見えなくなったと思ったらこんな所に来てやがったのか」
 斜面に響く、男たちの声。新手か、それとも味方か。
 警戒と共に見上げた先に見えたのは、イシュガルドの騎士団のものと思しき甲冑に身を包んだ一団だ。彼らの装備は、イレーナが身につけていたものとそっくりだ。そのうちの一人は棒のようなものを持っている。彼が、先ほどの炎を放った魔道士なのだろう。
 人間の数が増えて、不利と判断したのだろうか。残っていたヴァルチャーたちは一斉に上空に逃げ、いずこかへと去って行った。
「たす、かった……?」
 どうやら、ドレイクたちと戦っていた騎士団が来てくれたらしい。ならば、あちらの戦いは終わったと思っていいのだろうか。
 安堵していいか分からず、未だ緊張を保ち続けていた彼女に、
「ヤルマル、無事か!!」
 耳によく馴染む彼の声。今度は、視線を左右させて探す必要もない。斜面上に見えた黒い影が、一目散にこちらに滑り降りてきたからだ。その影に続き、戦斧を握った小柄な影も続く。接近するにつれて、彼の特徴的な赤毛が目に映る。
「オランロー、それにサルヒも! 君たちも無事だったんだね」
「何とかな。この中では、一番の負傷者は間違いなくあんただ」
 ヤルマルの元にやってきたのは、別行動をしていたオランローとサルヒだった。
 オランローはヤルマルの全身にざっと目をやり、深く息を吐く。
「また無茶をしたな」
「そこまでじゃないさ。少し厄介ではあったけれどね」
「リンクパールで連絡をしたのに、繋がらない状況のどこが『そこまでじゃない』んだ」
「吹き飛ばされてしまってね。運悪く、落としてしまったんだよ。それよりも、君たちの方はどうなんだい。もしかして、まだ戦闘の途中なのに抜け出してきたんじゃないだろうね」
 オランローにとって、自分は『何よりも大事なもの』であるということは、ヤルマルも自覚していた。その扱いは心底嬉しいと思っている――口に出すほど自惚れてはいないが――とはいえ、それのせいで、オランローが全体の和を乱していたのなら、再会を無邪気に喜んでもいられない。
「そこは安心してもらって大丈夫ですよ、そこの弓使いの方」
 答えたのはオランローではなく、一団と別れる前に聞いた、この戦いにおける『リーダー』の声だった。
 オランローの助けを借りて立ち上がったヤルマルの元に滑り降りてきたのは、ピヌヌとその部下であるエレゼン族の男性だ。
 安全のためか、ピヌヌは部下に体を抱えさせていたが、そこに見た目通りの微笑ましさはない。今のピヌヌから感じるのは、凛然とした隊長の気配だけだ。
「あなたと連絡が取れなくなったのは、ドレイクの中でも最後の一体を仕留めている時でした。あなたの様子を知ろうと通信を送ってもらったのに、反応がない、と彼が言ったんです」
 ピヌヌの説明を聞いて、ヤルマルはその時の状況が目に浮かぶようだと、目を細める。
 さぞかし、オランローは慌てただろう。彼が苛立つ様子が、まるで見てきたように想像できる。
「それでも、オランローさんとサルヒさんはドレイクの討伐を完遂する方を優先しました。そして、部隊の合流を優先するという僕の命令にも従ってくれました」
 仲間の不在を聞いたら、オランローもサルヒもヤルマルの捜索を優先するだろう――内心、ピヌヌはそのように予想していた。
 仲間の命がかかっているのなら、ピヌヌとしても行くなとも言えない。
 オランローもサルヒも、あくまで臨時の部隊員として指示を聞いているだけだ。ピヌヌの命令を無視したところで、正規の部隊員ではない彼らには処罰を与えるわけにもいかない。
 どこか冷めた思考の中、ピヌヌはそう思っていたのだが。
「彼は、雪原で行方不明者を探すには、この辺り一帯に慣れた別働隊と合流したほうが効率がいいという僕の説明を聞き入れてくれました」
「異端者の討伐が完了したかどうか分からなければ、下手に動けば敗走する異端者と出会して襲われる可能性もある。オレはこの辺りの土地勘がない。雪の中でどう動くかもわかっていない。そんな奴が慌てて行動したって何の意味もないと、そう判断しただけだ」
 実に淡々としたオランローの物言いに、ヤルマルは「おお」と感嘆の声を漏らす。以前、ヤルマルが行方知れずになった時は、取るものも手につかずといった様子だったらしいが、随分と成長したものだ。
「こう言ってしまってはなんだけれど、君のことだから、脇目も振らずに探しに来るんじゃないかと思っていたよ。大人になったねえ、オランロー」
「オレを子供扱いしているのは、あんただけだ」
 ふん、と鼻を鳴らして腕を組むオランロー。淡々とした声音のまま、彼は言う。
「矜持を折ってでも部隊長としての在り方を優先しろと、オレがピヌヌに言ったんだ。そのオレが、勝手な行動をして部隊の和を乱していては、本末転倒だろう」
「だけど、オランロー。ヤルマルの捜索をピヌヌが命じるまで、あなたの尻尾は随分と落ち着きがなかった。本格的な捜索の指示が出た途端、あなたが一番に駆け出していた」
 オランローの大人びた発言の裏にあった焦燥は、サルヒの手によってあっという間に明らかにされてしまった。オランローの視線がはっきりと泳いだ気がしたが、敢えてヤルマルは触れないであげることとした。若者の矜持を守るのも、先達の務めだ。
「たしか、あなたは元は軍の出という話でしたね。あなたに規律を教えた部隊長は、さぞかし優れた方だったのでしょう。今日は、助かりました」
 ピヌヌはオランローに向けて、深く頭を下げる。オランローは言葉少なに彼女の礼を受け取っていたが、彼の尾が大きく揺れたのはありし日に彼を導いた人を褒めてもらったからだろう。
「僕も、部隊の運用については、今一度見直すべきときが来たのではないかと、目を覚ましてもらった思いです。本当なら、自分の力でもっと早く考えを改めるべきだったのでしょうが」
 その発言に、ピヌヌを抱えていた隊員が動揺を顔に浮かべる。
「隊長! ですが、傭兵を雇うのは私は反対です。きっと部隊の誰もが反対するでしょう」
「わかっています。僕も考え方や方針そのものを変えるつもりはありません。僕たちは傭兵を信用しない。そして、傭兵もいざとなったら僕らを切り捨てる。その関係を念頭に入れた上で、配置を決めればいいのです。街の内部の巡回程度なら、よその手を借りるのも一つの手でしょう」
「しかし、彼らの手を借りるとしても、予算がありますか」
「その問題も頭が痛いところですね。ルグロ家に陳情はしていますが、改めて騎士団の上層部にも直接問い合わせてみましょう。最悪、騎士団長直下の団員に直談判します」
 部隊の運用についてのやり取りを進めている二人を置いて、ヤルマルは自分を支えるオランローの脇を肘でつつく。
 ピヌヌの指示を優先した冷静な判断への賞賛、助けにきてくれた感謝と少しの照れ隠し。それらが混じった戯れだと察したのか、オランローも「はしゃいだら傷が開くぞ」と指摘するだけだった。
 足元が悪いため、サルヒが二人の前に立ち、誘導を開始する。追って、後の二人も戻ってくるだろう。
 ヤルマル捜索のために動いている面々と合流したら、今度はノエたちと合流しなければならない。そう思ったヤルマルの心を読み取ったかのように、サルヒが角に指をかける。どうやら、着信があったようだ。
……うん。魔物は全て討伐した。隊長もイレーナも無事。異端者の捕縛はできなかったみたいだけれど……え?」
 澱みなく状況を説明していたサルヒの声が、不意に上ずる。
「ええ、わかった。すぐにそちらに向かう」
 徐々に強張る彼女の横顔。あの様子を鑑みるに、向こうにも一波乱があったらしい。弛緩しかけていた空気を引き締め、ヤルマルは小声で呟く。
「どうやら、町に到着するまでにもう一踏ん張り必要そうだね」
 返ってきたのは、相槌代わりのオランローのため息だった。