アルコールの匂いが充満するネオン街。喧騒や野次でごった返す中、1人の男が物陰からじっと一点を食い入るように視界に捉えたまま微動だにしない。
視線の先には、どこにでもある、ありふれたチェーン店の居酒屋の入り口があった。これと言って異変はない、若いアルバイトの男が2人組の女の容姿を適当に褒めながらメニュー表片手に自身の店の安さを豪語していたり、既に出来上がった赤い顔をした会社員が店の前で部下と思われる男に説教臭い愚痴を垂れている。
酔っ払いの怒号や客引きの声、黄色い笑い声や陽気な鼻歌が弾ける夜の歓楽街で、その男は明らかに異様とも言える存在であった。しかし自身の存在を殺し夜闇の霧に交じるように息を潜めている。
「どうも、お疲れ様です。警部殿とあろう方が現場で張り込みですか」
私は、男の背後から声をかける。ぴくりとその場の空気が揺らめき、一瞬殺意のようなものを感じたが、顔見知りと知ってか舌打ちを返される。しかし警戒心は未だ解かれないまま、鋭くナイフのような意識をこちらに向ける。
なんとまあ、食えないやつだ。声をかけたというのに視線すら寄越さない。お前に構う暇はない、といったところか。
「……なんの用だ。取り込み中だ、さっさと自分の所轄に戻れ」
「せっかくお見かけしましたからご挨拶と労いを、と思いまして。一体いつから張ってたんです、こんな仕事は下に任せればいいでしょう。警部殿が判子を押す書類がまだ机に沢山のこってるんじゃありませんか?」
「お前には関係ない、それにここを取り逃したら二度と機会は訪れない。俺がやる方が確実だ」
だから、去れ。という次に続く言葉が声として発されずとも理解できた。
素直に従う義理もない、気付かないフリをしてタバコを咥えて火を付けた。忌々しげな舌打ちが聞こえる。
煙をくゆらせ、路地の湿った壁に背を預ける。随分と古い型の室外機が、男との間で唸るように音を上げている。
「匂いで居所がバレる、今すぐ消せ」
「……なんのことだか、さっぱりですが。暫くお暇でしょう?話相手くらいにはなりますよ」
「んなもんは不要だ、いいからさっさと―――」
「そういう態度だから、怯えられるんですよ。あなた、さっきなんの用か知りませんけど、こちらに来た際にうちの喫煙室が呪われた禁処になってたのご存じです?扉に手をかけるだけでガラスの向こうからおっかない余所者が縄張り争いでもするみたいに、睨みつけてくるものだからって、そりゃあもう……」
相手の眉間にしわが更に寄る。ただでさえ目つきが悪く人相も終わってるというのに、この世渡りの不器用さでどうやって今の肩書まで上り詰めたのか不思議でならない。いや、理解はしているが納得はしていない。
「俺だって、用がなきゃ行くものか。勝手にビビってるだけだろ、呼びつけた上に文句いうか、くだらねぇ小心者共の根性の未熟さを叱れ。この程度で尻尾巻いて逃げるようじゃ、そちらの御里が知れる。」
そこはしおらしく、次から気をつけるとでも言っておけば場は丸く収まるというのに。もしくは傷つく素振りでもしてみたらいい。しかしこいつは、こちらの神経をザラザラと逆撫でするしか引き出しがないのかと問い詰めたくなる。
とうとう、相手も痺れを切らしたのだろう、自身の胸ポケットに手を伸ばしタバコの箱を取り出す。口に加え、数度ライターの着火音を鳴らし深くため息を付きながら煙を吐き出した。前に喫煙所で見たものと銘柄が違っている、こだわりがないのか、同じものは吸わないようにしているのか。なんにせよこちらにとって趣味が合わないものだ。どうも匂いが気に食わない。
「タバコ、変えられました?」
男からの返答はない。
・
空き缶がカラリと風で転がった壁際には、誰かの吐瀉物の跡がこびり付く、薄汚い路地裏の地面には数本の吸い殻が落ちている。離れる機会を逃してしまったお陰で、数分だか数十分だか、この男との重苦しい空気を吸い続けなければならなかった。相手も無論心地よい空間だとは微塵も思っていないのだろう、だが一応は署内有数のエリート様だ。自身の私欲や感情は一切押し殺し静かに、着実に任務を遂行している最中。
「動いた」
端的につぶやく。独り言では無いことは伺えるが、言葉の意味を理解した瞬間、既に路地裏には自身の身一つしかなかった。返答をする前にどこに行ったのか視線を巡らせると、数メートル先に人混みを掻き入れ、誰かを追いかけている姿を確認する。
更にその後を追う。酩酊した怒りの声が背後の方から聞こえる。誰かの足を踏んでしまったかもしれない、慌てて振り返って端的に謝罪を述べる。思わず顔をしかめる程のとアルコール臭が顔にかかる。滲み出てしまう嫌悪感を振り払いつつ前方に顔を向けると、既に男の姿は人混みに溶けてしまったかのように消えていた。
そう時間は経っていない、遠くには行けないはずだ。焦りながらも辺りを見渡す。
別にこちらは業務中でもなんでもない。追う義務は全く持って無いが、脳内で勝手に作り上げた男の呆れた声で再生される。―――こんな簡単な尾行もできないのか、御里が知れるようだ、と。
むしゃくしゃした気持ちを踏み潰すように歩みを進める。ふと特徴的な香りがした、先程まで彼が吸っていたタバコの匂いがする。息を切らし匂いを頼りに後を追う。なんで自分がこんなことを、いや、どうだっていい。あいつにまた顔を合わせたときに、馬鹿にされるのが気に食わないだけだ。弱味はもう二度と握らせたくない。
・
歓楽街から一本、道を跨いだ人通りの少ない住宅街の閑散とした路上にて、奴は派手な身なりの男を追っていた。追いかけるスピードを落とさぬまま、あの歓楽街でずっと張っていた目的のターゲットであろう対象まで近づき、肩に手を置く。
その光景を目にした途端まさか、と嫌な予感が脳裏を巡る。
「そこ、止まれ。」
「……あ?なんだよ、おっさん……」
酒のせいで呂律が回らないのか、たどたどしい口調で肩に置かれた手を勢いよく振り払う。当然の行為だ、夜道で突然見知らぬ人間に声をかけられ不審に思わない訳がない。恐怖すら感じるだろう。
瞬間、奴は大げさに、尻もちを地面についた。視線は一直線のまま、鋭く眼光が光る。
「公務執行妨害だ」
一気に酔いがさめたのかぎょっと目を見張り、慌ててその場から逃げ出そうとするターゲットを、その場から飛び上がるようにして取り押さえる。ろくに抵抗もできないまま、組み敷かれた男の手には手錠がかけられる。
「くそっ、離せよ、なんもしてねぇだろ!おい!」
「騒ぐな。これ以上抵抗するようなら手段は問わない」
何やら硬いものを背中に押し付けられた瞬間、小さく情けない悲鳴が上がる。銃でも持ち歩いてるんじゃないだろうな、と目を見張ると、タバコの箱を強く押し付けている。だがパニック状態の人間にとってはそんな冷静な判断すらできかねることだろう。組み敷かれている男と一瞬、助けを求めるように目があった気がしたが、気づかない振りをした。
奴はそのまま、自分で仕立て上げた容疑者を固く拘束した状態で、携帯を取り出し応援を要請した。
これが彼らお得意のやり方だ。人権も尊厳もへったくれもない、こちらが普段どれだけ市民やマスコミからのバッシングを受けることを恐れ、慎重且つ細心の注意を払い、何枚もの申請書を作成して、面倒な手続きを踏まえて令状を出してると思っている。
閑静な夜道は数分もすれば、覆面の警察車両と共にスーツを着た数人の男たちで埋め尽くされていく。遠くの方で怯えたようにこちらを指差す人だかりができる。車に押し込められた容疑者の行方とその後は分からない、分かりたくもないが。恐らく向こうの所轄でさらなる情報を絞り出すために尋問でも受けるのだろう。
何人かの見知らぬ警察にじろりと見定めるような視線を受ける。居心地がわるい、この場では自分が確実に異分子だ。立ち去ろうとしていると、名前を呼ばれた。
「梧葉警部補」
先程まで過ごしたくもない時間を共にしていた男に、声を掛けられていた。目があったのは今日始めてだった。
「こちらの件は片付いた。あとは公安で身柄を勾留させてもらう、ご苦労」
「……はあ、」
歯切れの悪い返答しかできない。どう返そうか思案していると
「お前が吸ってる煙草、嫌なんだよ。あの銘柄は服につくから」
一言残し、男は去る。
暫くすると、その場は先程まで起きていた非現実なんてなかったかのように、いつも通りの騒がしさを取り戻していく。自分だけが1人この場に取り残されていた。
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