ろくに換気もしていないのだろう。タバコの匂いが鼻につき、薄暗くじめついた空気が肌にまとわりつく部屋で、ファンの回る音と不規則なボタンの連打が響く。
時折、吐き捨てるような口汚く相手を罵倒する言葉や、舌打ち、空缶がカランと床に倒れる軽い音がする。
雑多に食べかけのスナック菓子のゴミやコンビニの袋が部屋の隅に追いやられている。
勉強机のライトはもう数年は点けられていない。蛍光灯が切れてしばらく放置しているようだ。
床に直置きされたパソコンと後ろにだらだらと伸びるコード類。ホコリまみれのコンセント周り。
中身の入っていない500mの紙パックジュースを灰皿にしているのか、周辺に焦げた跡や灰が散らばっている。
安っぽい机上の2枚のディスプレイの前に、座椅子の背もたれを全く使わず猫背でコントローラーを握る男が1人。
窓の外から、新聞配達のバイクが朝から忙しなく働いている音がする。
御苦労なことだ。毎朝生産性も達成感もない安金の為に、よくもまあ必死になれるもんだな。
扉の外から、女が酔い潰れた足取りでフラフラとベッドに向かい横たわる音がする。
母さんが帰ってきた。また化粧も落とさず寝てしまっているんだろう。
モニターには自身のチームが勝利したリザルト画面が映し出されており、トップの成績を収めチームに一番貢献した者の欄にNaritaと表記されている。チープで聞き慣れたBGMがうっとおしく感じて、何時間も付けていたヘッドセットを外す。
決して爽快とは言えない、気だるい疲労が全身にのしかかられているようだ。
手持ち無沙汰な暇を埋め合わせるようにゲームからログアウトして、ごろりと横になりながらスマホを手に取る。
めんどくさいパスワードやら数段階にも及ぶ認証やらを済まし、ブラフのサイトから会員制の裏サイトへとログインする。
手っ取り早く金稼ぎがしたい。最近フル稼働しているパソコンをいい加減買い替えたい、ファンの音が耳について仕方がない。数コンマのラグが生じ始めてる、あれこれ調べるのが面倒だ、もういっそ一式…。
だらだらと掲示板を流し見していると、「依頼内容ー芦北涼白」と書かれた文章がふと目についた。
今やこの日本でその名を知らないものはいないだろう。テレビを付けてもスマホをスクロールしても奴の顔をみない日がない。朝の情報番組には奴が主演のドラマの番宣があり、昼には下世話な男のコメンテーターが演技の拙さをバカにした後それを取り繕うように女がチヤホヤと薄っぺらく褒め、夜にはバラエティで張り付いた笑顔で毒にも薬にもならないような曖昧な言葉と共に愛想を振りまいている。
その名を目にした瞬間、数秒思考が止まった。息をするのを忘れ思わず飛び起き、画面に食い入る。
どこかで聞いた覚えがする、そう。テレビやネットじゃない、確かあれはまだ俺が地元の高校に通ってた頃だ。
媚びるような雌の粘ついた声でねっとりと語る、その女の名前も顔も忘れた。だが申し訳ないと微塵も思っていない声色で俺に告げるのだ。
「ごめんね、あたしスズと付き合うことにしたんだ。DMで連絡取ったら偶然返信きてさあ……返ってくると思わなかったんだけど」
「あ、スズって知ってる?最近売出し中のアイドルなんだけど、ほら。見て、とってもかっこいいでしょ」
「顔だけじゃなくてさ、脱いでも…え、これどこで撮ったかって?アハハ!言わせないでよ、あんたが傷つくとこ見たくないし」
記憶の隅に押し込むように、忘れようとしていた光景が頭の中でリフレインした。
喉の奥で酸っぱい胃液が込み上がってくる。
そうして、思わず近くのビニール袋に、先程まで胃に詰め込んでいたスナック菓子だったものを吐き出した。
あの女、黙ってりゃいいものの、学校中のクソ共に言いふらすから。
さぞかし気分は良かったんだろう、面のいい男に見初められて、彼女気分で写真を見せまわって。
次の瞬間向けられる視線とその後は俺にだって想像に難くない。
―――あいつ、自分の女寝取られたって
―――情けねえよなあ、恥ずかしくねえのかよ。
―――よっぽど粗末なものしてるのか、早すぎて満足させられないとか……
今思い返して見えれば些細で程度の低いからかいだったと思う。
けれど当時の、学校という狭いコミュニティにしか所属していなかった俺は文字通り世界からの断絶を感じた。
以来俺は外に出ることをやめた。女のその後も知らない。
どうせ適当に捨てられたんだろう、天下の芸能人様があんな貞操観念の緩んだ女を一途に慕っているわけがない。そんなバカ女に純朴ながら、恋をして愛を語り、安っぽいプレゼントなんか送ってやった過去の自分に腹が立つ。あれ、高かったんだぜ。ガキが慣れないバイトで必死に貯めた金だったのにさ。
心の奥底から迫り上がってくる惨めさを必死に押し殺すように拳を握りしめた。
ふつふつと湧き上がる劣等感と屈辱を噛み潰すように歯ぎしりをした。
口の中が気持ち悪い、思わず机の上のエナドリの缶を握り、呷るように口を付けるが既に空だったようで壁に叩きつける。
苛立った感情をどうにか押し殺し、改めてスマホに向き合い、依頼内容を確認する。
内容はどうやら俺と同じかそれ以上の仕打ちを受けた男の、嫉妬の煮こごりから起因するものだった。
とかく今の奴の立場から引きずり落としてほしい、あの綺麗な面を二度と拝めないようにしてほしいと。
そこに彼を明確に地獄へ叩き落とす計画が入念に練られていた。きっと単独の依頼じゃない、何人もの恨み妬みが渦巻き合った結果、奴を社会的に抹殺させ、いたぶりつくし、自殺へと追い込む算段がつらつらと述べられていた。
高額な金額で募集されているのは、実行犯。
どうやら、奴の所属する事務所にボヤ騒ぎを起こし濡れ衣を着せるつもりらしい。
有罪だろうが無罪だろうが、裁判沙汰になってしまえば輝かしい経歴に傷がつくのは必須。印象も地に落ちスポンサーもファンも離れていくだろう。そして、芸能界に万が一でも戻れないように、騒ぎに乗じてあのご自慢の顔を焼き払ってほしいとも書かれていた。
生き地獄。まさに芦北涼白がこの世に存在することに絶望する綿密な計画。
この掲示板にいる救いようもない、生まれながらにしての人生の勝者を妬む社会不適合者共は実行に移す度胸は無いようだった。その為金で雇い、画面の向こうで奴が堕落していく様を鼻で笑い、自分は何事もなく平穏な日常を過ごしたいのだろうが……。
考えるより先に、手が動く。その依頼を誰よりも先に、取られる前に引き受けた。
依頼者の中に随分と頭のキレるやつも居たようで、非合法な薬剤の手配も、詳細な日時や場所の計画も全てあいつらが行った。恐らく、芦北涼白の身内からの出処とも取れるほどの情報も漏れ出ていたが、俺には関係ない。
俺は指示通り動くだけだった。文字通り現場に赴き、指紋が残らぬよう着火剤を燃やすだけ。
アプリで口座を確認すると前金がすでに振り込まれている。
世間的には朝早い時間じゃないのか、皆暇なもんだな。それとも、そんな平穏な日常を捨て置くほどの刺激的な爆弾だったのか。
カチリ、と百均のライターでタバコに火を付けた。
この小さな火種が、安っぽいおもちゃが、奴の全てをぶっ壊すんだ。そう思うと酷く気分は晴れやかだった。
提示されていた依頼遂行時に振り込まれる金は俺にとって破格の金額であった。
パソコン以外にほしいものも買えるかもしれないな、こないだのサバゲーで味方陣営が持っていたエアガン欲しかったんだよな。あれ最新型だろ?とつい緩んだ思考になってしまう。
画面の消えたモニターに、心底愉快そうにタバコの味を楽しむ男が写っている。
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