白く細い指先が、胸のピンタックを繰り返しなぞっている。心のひだのかたちを確かめるように。彼には珍しい仕草だ。歌うような皮肉とともに長い腕が空中をたゆたうのは今まで何度も見てきたけれど、彼はいつでも指の置きどころひとつに至るまで確信しているような、そんな立ち居振る舞いをする――心がひどく乱れているとき以外は。
今日のオーエンはどこかおかしい。クロエは補正を進める手を止めずに、そっと友人の表情をうかがう。その冷ややかなことにはいつもと変わりないのだけれど、なんとなく、にぶくてまろい。
けれど「なにかあった? 相談に乗るよ!」なんて言ったところで、あまのじゃくな友人が素直に答えてくれるはずもない。困窮して、嘲りも冷笑も浮かべていない、しんと凪いだ瞳の見つめる先を追うと、花瓶にいけた花木があった。
まだかたく閉じたままの蕾。そのときが来たならば、薄黄色をした八重咲きの小さな花が鈴なりに咲く。
「あ、あの花ね! 任務直前に開花させて、ブートニアにアレンジしようと思ってて」
「まだ時期じゃないの?」
「だいぶ早いかも。春の盛りに咲く花だからね」
ひょっとして花が気になっていたのかな? オーエンとこんな話ができるなんてうれしいな。ふわふわと浮き立つ気持ちのまま笑いかけたけれど、彼はいぶかるように形のいい眉を寄せる。
「昨日、咲くのを見た」
「早咲きの樹だったのかな」
わずかに視線を泳がせたあと、「昨日、カインと」とオーエンが語り始める。彼がその名を口にするとき、クロエには周囲の精霊たちがはなやぐのが見えるような気がする――中央の精霊たちもこういう話が好きなのかな。だって、ほら、陽射しを受けた薄氷がゆるむみたいに、きらきらと光を湛えはじめたオーエンの瞳!
昨日、カインと王都のカフェに行った。もう何度も行っている店だけど、あいつが王城からの帰りに覗いたときに期間限定の新作が出ているのに気づいたらしくて、それで食べに行かないかなんて誘われたから。財布として連れて行ったのに、今月はもうさんざん奢ったから今日は割り勘だなんて言われてうんざりした。それでテラス席に座って、期間限定の、剥がした薄皮を乾かして何枚も重ねたようなやつに生クリームとベリーを挟んだのを食べていたら、あいつが「ついてるぞ」なんて言ってまた僕をリケ扱いしようとしたんだけど、笑えることにあいつの口元にもクリームがついていて、だから今度は僕があいつをリケ扱いしてやったんだ。
「そうしたら、カインの後ろのアーチに巻き付いてたそいつに、いっせいに花が咲いた」
花瓶の花木を顎で示す。その表情は忌々しげだった。オーエンの早口を余さず聞き取りながらなんとか想像を巡らせていたクロエの頭に、一拍遅れで像が結ぶ。
オーエンがカインの口元についたクリームを指先で拭い、それを薄い唇のあいだに運んだかと思うと、ちゅっと吸い上げる。驚いたように目を見開き、ほのかに頬を染めたカインの背後で、かたく閉じた蕾たちがいっせいにほころび、それはそれは見事な花のアーチが――。
「……それは、オーエンの心象風景とかじゃなくて?」
「は?」
ピリリと空気が震える。失言だった。クロエは慌てて両手を振りながら言い直す。
「それは不思議だね! カインが魔法を使ったのかな」
「……あいつの魔力の気配はした。だけど、どうしてあんなことをしたのか、理由がわからない」
僕を驚かせて、子ども扱いの仕返しがしたかった? オーエンが小さく首をかしげる。そのあどけなさに、クロエは思わず微笑む。
ポケットに大切に隠し持っていたキラキラ光る釦を、ラスティカにだけそうっと見せた日のことを思い出す。そういうことを、今してもらっている。
「カインは仕返しなんてしないと思うよ」
わかっているだろうけど、という言葉は胸に留め置く。
「そうだなあ……どちらかといえば、お礼みたいなことじゃないかな?」
「僕に花なんか見せて、なんの礼になるの。踏みにじりたくなるだけだ」
オーエンは鼻を鳴らして薄笑いを浮かべたけれど、さみしい花木を見つめる眼差しは今はやわらかい。まるで満開の花とその前で微笑むひとを思い浮かべているように。
*
開店まもないバーにひとりでやってきたカインは、カウンターに腰掛けると、いつもの発泡酒でなく蒸留酒をオーダーした。七百余年ものあいだ人心の機微を見つめつづけたシャイロックの店主の勘が告げる。これは、なにか相談ごとがあるに違いない。
はたして、ウイスキーグラスをちびちびと傾けながら、カインは語りはじめた。
「最近、俺の身の回りで妙なことが起きるんだ」
「妙なこと、ですか?」
カインの口調は深刻でこそなかったが、まるで怪談話をするように、ときに冗談めかしておどろおどろしかった――不安の芽が不安に育つ前に、茶化して摘み取ってしまおうとするように。
曰く。中途半端な時刻なのに、時計塔の鐘が鳴る。なにもない開けた場所なのに、宙に紙吹雪が舞う。てんでばらばらにさえずっていた小鳥たちが、ハーモニーを奏ではじめる。
「それから、まだかたい花の蕾が急に開く」
カラン。グラスのなかの氷をわざと鳴らして、カインは笑顔を作った。
「どれも、俺が通りがかったとたん、突然にだ。怖いだろ?」
「世界に祝福されているような素敵な光景に思えますけど、あまりに重なりすぎるのは恐ろしく感じられるかもしれませんね。……呪いのたぐいではなさそうですが」
念のためファウストにも尋ねたほうが――と言いかけたところで、カインはうなずいた。すでに尋ねているのだ。
「ファウストにも呪いではないと言われたよ。ほかになにか心当たりはないかと訊いても、『僕の口から話すことじゃない』なんて笑ってさ。『悪いものじゃないから、心配しなくてもいい』そうなんだが……」
あ、いや、嫌な感じの笑いじゃなかったぞ。なんていうか、ほら、あれだ。さっき、あんたが、俺がウイスキーを頼んだときにしたみたいな……。
顔に出てしまっていたとは。シャイロックは笑みを深くして「申し訳ありません」と謝罪する。カインはわざと拗ねたような口調で「ほら、また」と指摘する。そうして、ふたりで微笑みあう。
「悪いものじゃないと言われてもさ。変な時刻に鐘が鳴るのは街の人たちが混乱するし、紙吹雪だって掃除をする人がいるし、花のほうも勝手に咲かされるのは困るだろ? なんとかしたいんだよな」
中央の魔法使いらしい生真面目さだ。けれどファウストが同じように考えなかったはずはなく、ならば、あのファウストでも解決できないことなのだ――あるいは、“解決”するようなものではない? ふと、なにか手がかりのようなものに触れた気がして、シャイロックは口を開く。
「その不可思議なできごとが起きたときに、どなたかそばにいらっしゃいましたか?」
「なんでみんな同じことを訊くんだ? オーエンだよ。オーエンがいた」
なんでもないことのように答えが返ってきて、シャイロックは思わず笑みをこぼす。口元に手をあてて抑えようとするけれど、くすくすと、どうしても零れ落ちてしまう。
カインが困り切った顔でこちらを見る。ああ、どう伝えたらいいのだろう。ファウストのしたように、なにも告げずに本人たちに任せるのが正しい大人の振る舞いなのだろうけれど、むくむくといけない好奇心が湧いてくる。
ワイングラスを回してアロマを立てるように、揺らぐ心にちょっとばかり風を吹きかけ、さざ波を立てたところで――なにかを無理に変えてしまうことにはならないのではないか。きっとそれで香りたってくるのは、秘められた、だからこそ本当のかぐわしい欲望だ。
「似たような話はいくつか聞いたことがありますが……」
「さすがシャイロック!」
持ち上げるような相槌も心からの賛辞とわかっているから悪い気はしない。けれど、よく知られた話をするつもりだった。数年前に北の国を襲った、やむことのない猛吹雪。これは、その幸福な変奏曲だ。
そこでバーの扉が開いて、シャイロックに向けられていた期待に満ちた眼差しが、逸れる。
「オズ!」
カインが明るい声でかの人の名前を呼び、いつのまにカウンターの内側に姿を現していたムルが「にゃーん」と鳴いた。
*
朝の鍛錬を終え、中庭をシノとカインと連れだって歩いているところだった。レノックスは、噴水に並んで腰かけているリケとミチルの姿を見つけた。
リケの膝の上に、なにか緑色のものが広げられている。近づいてよく見てみれば、それはいくつもの花冠だった。まだ風も冷たい初春とあって、用いられたどの花も満開には遠く、草冠というのに近かった。
「なんだ、それ」とシノが尋ねる。「内緒にしてくださいね」と前置きして、周囲にほかの人影がないか窺ってから、リケが打ち明け話をするようにささやく。
「アーサー様のお誕生日のお祝いに、僕とミチルで練習しているんです。たくさん作って、いちばん上手にできたのを差し上げたくて」
なるほど、だから守護の魔法がかけられているのか。そうして保存しておいて、渡す直前に開花させるのかもしれない。ミチルに目を向けると、彼は得意げに胸を張った。
「生態系を壊さないように、花を採る場所もいろいろと変えているんですよ」
「よく考えているな、ミチル」
褒められたミチルがうれしそうに「えへへ」と笑う。その様子を微笑んで眺めていたリケが、ちょっと眉を吊り上げる。
「なんですか、カイン。そんな遠巻きにして」
リケの視線を追って振り向けば、カインはずいぶん離れたところに立っていた。困惑とも苦笑ともつかない表情を浮かべ、頬を搔いている。
「もっと近くで見てください。これなんか上手に作れたと思いませんか?」
「いや、俺は……」
リケが花冠のひとつを手に取って差し出すが、カインは制止するように両手を掲げる。先ほど魔法舎の外周を一緒に走った際に、聞かせてくれた件だろう。
――最近、オーエンがそばにいるときに、妙なことが起きるんだ。まだ咲かないはずの花が咲いたり。最初はあいつのいたずらかと疑いかけたが、どうやら俺が無意識に魔法を使っていたらしい。原因はわからない。というか、年長の魔法使いたちに訊いても、誰も教えてくれないんだよな……。
弾む息の合間にそのように言われて、シノと顔を見合わせた。シノの顔には「これって、アレだよな」と書いてあったので、レノックスは声に出さずにゆっくりとうなずいた。
同じことを思い出していたらしいシノが、ぶっきらぼうに言う。
「今、オーエンはいない。花を触っても問題ないだろ」
「あ、名前を呼ぶなよ! 名前を呼ぶと出るんだから」
「なあに、ひとを化け物みたいに」
カインの背後にゆらりと現れたその姿は、冬の陽炎のように現実感がなかった。けれど自分と視線が合うと、猫のように目を細める。そのわずかな感情の発露。ずいぶんと、と思う。ずいぶんと遠くまで来たものだ。彼らも、自分も。
「ほらな!?」とカインが声に出さずに口の形だけで言う。オーエンは噴水前のふたりにつかつかと歩み寄ると、手を差し出した。
「ねえ、リケ。僕にその花冠をちょうだい。別に僕のものにしようっていうんじゃない。近くで見たいんだ」
「いいですよ」
事情を知らないらしいリケが、カインに差し出していた花冠をそのまま手渡した。今日作ったなかでいちばん出来のいいものを。オーエンはにっこりと笑うと、カインのほうを向き直った。
「騎士様、見てごらんよ。きれいに編んである。王子様のお誕生日まで保つといいけど」
「守護の魔法をかけてあるので問題ありません」
「それなら安心だ。花を贈るなんて情緒を解さない誰かさんが魔法を暴発させなければ」
いつも以上に棘のある口調だった。にんまり浮かべた笑みの下で、ふつふつと苛立ちが煮えているのがレノックスにもわかる。その棘を向けられた張本人は、困ったように眉根を寄せた。
「よくわからないけど、おまえも花が欲しいってことか?」
「どうしてそうなるんだよ」
「え、おまえの言った“誰かさん”って俺のことだろ? 裏返しにしたら、俺に花を贈る情緒があればよかったのに……ってことにならないか?」
「そこを裏返しにするなよ。おまえが魔法を暴発させればいいのにってことだよ。僕が花なんか欲しがるはずがないだろ」
オーエンは舌打ちすると、手のうちの花冠に変化がないことにますます苛立ったように呪文を唱え、姿を消してしまった――カインと、花冠をともなって。
「あー!」とリケが大きな声をあげる。シノが「はた迷惑なやつらだな」と眉をひそめた。レノックスも同情を示そうと口を開いたが、それよりも先にミチルがリケの名を呼ぶ。しょげた顔で見返したリケに、笑いかける。
「だいじょうぶですよ。昨日作った花冠よりも、今日作った花冠のほうが、ずっと上手に作れていたじゃないですか。明日作る花冠は、きっと、もっと素敵に作れます」
リケの表情がぱあっと明るくなった。レノックスはまぶしいものを見るように目を細める。守るべき子どもだと思っている彼らは、時に大人よりもずっとしなやかで、強い。
リケが明日を夢見るような小さな笑みを浮かべながら、つぶやく。
「オーエンも花が欲しかったのなら、素直に言ってくれればよかったのに」
いや、花ではないだろう。彼が欲しかったのは、花ではなくて――。
*
やわらかな草むらのうえに、どさりと投げ出された。それでも荷物を放り投げるよりは、ずっとやさしい手つきで。そのことに気がつくとカインの胸はざわりとして、かすかな風が長い前髪を揺らす。
オーエンに連れてこられたのは、魔法舎近くの森だった。樹々の狭間に開けた草原に、見覚えのある野の花がぽつぽつと咲いている。リケの花冠に使われているのと同じ花だ。カインはその名を知らないけれど、ずっと前に賢者が語っていたサクラという花にどこか似ていて、濃い紅色をした、五枚の花弁の先が割れている。
オーエンがこちらを見下ろした。いつもの嫌な薄笑いを浮かべるのかと思ったら、どこか生真面目な顔でいる。それでも彼の手にはリケの大切な花冠があって、カインは身じろぎをする。
逃げるよりも先に、胴を跨がれ、上に乗られた。驚くほど軽い身体だった。なんとなく、押しのけて逃げられるような気がした。魔法を使って拘束されることはないだろうと。そう思うほどに、逃げる気がしなくなるのが不思議だった。
ぱさりと頭に花冠を被せられる。自分には似合わないだろうと彼の視界を想像して、ちょっと笑ってしまう。オーエンは表情を変えないままに、じっとこちらを見ている。
突然、片手を取られた。ふわりと、また微風が起こる。オーエンが、わずかに目を見開いて、またたきをする。けれどそのまま、その手を引き寄せられて、甲に口づけされた。
「!?」
ぶわ、と、全身の毛が逆立つような、汗が噴き出すような感じがあって、ああ、と思う。オーエンが愉快そうに声をあげて笑いだす。
やってしまった。
周囲の草むらを見回すと、先ほどよりもずっと紅色の占める割合が多い。きっと、花冠の花も開いてしまっただろう。あとでリケに謝らなければならない。不器用な自分がどれほど役に立つかはわからないけれど、必要ならば作り直そう。
「あー、くそ」
悪態をつきながらオーエンを睨みあげる。気がついたら彼の笑いは止んでいて、色の違う両目が熱っぽくこちらを見つめていた――紅色の花冠と花畑が、嘲笑も忘れてしまうほど自分に似合わなかったのだろうか。
目と目が合うと、オーエンはようやくハッとしたようにまたたいてから、得意げに笑う。
「……なるほどね。わかったよ、どうやったら暴発が起きるのか」
「え、ほんとか?」
ようやく、この不可解な現象から解放されるのか。苛立ちも忘れて尋ねると、オーエンは「接触がトリガーなんだ」と言った。
「大嫌いな僕に触られることで、心が乱れて魔法を使ってしまうのかもしれないね?」
「なるほど……?」と答えたものの、どこか釈然としない。思い返してみれば、たしかにここ最近の異変は、オーエンと接触したときに起きていたような気がする。頬のクリームを拭われたとき。偶然、指と指が触れて、その熱に怯えるように手を引っ込められたとき。人とぶつかりそうになったのを、腕を引いて助けられたとき。
けれど、それなら、もっと早くにこの現象が起きていてもおかしくはないはずだ。それこそ、頻繁にたちの悪い嫌がらせを受けていた、最初のころに。
オーエンは上機嫌に笑っている。
「ますます騎士様への嫌がらせが楽しくなるな。見て、この満開の花冠。リケが見たら泣いちゃうかも」
「おまえ、しみじみと性格が悪いな……」
小さく溜息をついて、花冠を頭から取った。オーエンが一瞬、惜しいような顔をする。意外な表情に目を見開くと、見慣れた薄笑いが戻ってくる。
「……よく似合ってたのに。主君に捧げられたはずの冠を横奪して頭に掲げているなんて、長いこと嘘をついていた裏切り者のおまえにふさわしい」
「いや、花冠を横取りしたのはおまえだろ。それに何度も言うように、そんな劇的な言い方をする必要はない。嘘をついてたのは悪いと思ってるが、おまえのせいでそれがバレたのも含めて、起きたことは起きたことだ」
ちょっと考えて、オーエンの頭に冠を被せた。その濃い花びらの色は、彼の淡い色をした髪によく映える。
「そんなに悪いもんじゃないだろ。ほら、おまえによく似合ってる」
そう言うと、オーエンはなんとも評しがたい表情をした。怒ったような、困ったような。と、彼の髪の上で、花びらがわずかにうごめいた。すでに開いている花が、さらに開こうとするように。……見間違いかもしれない。
遠くから鳥たちのさえずりが聞こえてくる。ことほぐようなその旋律に、オーエンは小さく微笑む。
「馬鹿。まだ春は遠いよ」
ひとりごとのようにつぶやいた、そのやわらかな表情に湧き出る感情の名も、カインはまだ知らない。
薄黄色をした八重咲きの小さな花:モッコウバラ
サクラという花にどこか似ていて、濃い紅色をした、五枚の花弁の先が割れている:サクラソウ
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