桐子
2025-01-19 20:59:54
6611文字
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黒い雫(サンプル)



びゅうびゅうと、風が戸を叩く。それはまるで赤子の鳴き声のように聞こえた。

男は、目を覚ました時からずっとここにいた。
朽ちた廃寺は、床も柱もぼろぼろで、とても人が住めたものではなかったが、壁と屋根があれば事足りる。男はゆっくりと立ち上がり、全身をきしませて黒い着物のほこりを払うと、障子の破れ目から外を覗いてみた。外は雨だった。空は真っ黒に塗りつぶされ、切れ目は一切見えない。昼でもこの辺りは薄暗いようだ。
男は、ひとりだった。
いつからここにいるのか、もう思い出すことも出来ない。だが男にとってそれはたいした問題ではなかった。ずっとひとりだった。これからもひとりだろう。それを寂しいとも、悲しいとも思わなかった。ただ、自分は誰かを待っていたような気がするのだ。
しかし、行く当てもなく生きる気力もないので、ここでただぼんやりと死ぬまでの日を過ごすつもりだった。

それでも腹は減る。満たされない空虚を、満たしたい。そう思考した瞬間。

――――びゃうびゃうびゃう。
男の影がぞろりと伸びてあたりを覆った。影は不気味な声をあげながら、ゆっくりと床一面に広がっていく。

「行け」

声をかけられると、影たちはするりと廃寺の壁の隙間から、屋根の裂け目から、障子の割れ目から外へ向かった。
きっと男の腹を満たしてくれるつもりなのだろう。


     ◇


「佐藤さん、行方不明なんですってよ」
「ええっ、また!?」
女子社員のひそやかな声が聞こえてきて、思わず水木は耳をそばだてた。
「最近、おかしいわよね」
「私の友達の家族もいなくなったんだって。失踪なんてするような人じゃなかったのに」
「呪われてるんじゃない……
彼女たちの声には恐怖がにじんでいる。
それもそうだろう。最近この辺りでは、ある日突然、人が消えてしまう事件が相次いでいた。それも老若男女問わず、ある日煙のように消えてしまうらしい。
人が消える。
今、水木が勤めている会社でも、すでに三人が行方不明になっていた。ニュースでも連日のように取り上げられているし、警察も動いているようだが、何も分かっていないらしい。組織犯罪の可能性も……などと言っているが、短期間にこれだけの人間が痕跡も残さず消えている。人間にできることではない。人智の及ばぬ何か―――妖怪のしわざではないか。
妙な胸騒ぎがして、水木は仕事の帰りにゲゲゲの森へ寄ることを決めた。



妖怪の世界へあまり足を踏み入れないようにと目玉から忠告を受けているが、幽霊族の体液を浴びて人より長く生きている水木は、もはや妖怪に近い存在だ。
鬼太郎からはいつでも来てくれと、髪の毛を編み込んだ組み紐をもらっている。おかげで、他の妖怪にちょっかいを出されることもなく彼らの家へ着くことができた。
「鬼太郎、いるか?」
木の下から声を張り上げるも、返事はなかった。
「おかしいな」
いつもならばすぐに鬼太郎たちが出迎えてくれるのだが、今日はその気配もない。それどころか、家の中に人のいる気配すらない。
ますます嫌な予感がして、妖怪ポストの上に止まっていたカラスに声をかける。
「鬼太郎がどこにいるか知らないか?」
カラスはカァ、と一声鳴いて飛び去った。
「待ってくれ!」
水木が慌てて後を追いかけると、カラスは森の奥深くへ飛んでいく。やがてたどり着いたのは、こじんまりとした小屋だった。窓から心配そうに中を覗き込むぬり壁を見つけ、いよいよ水木はここに鬼太郎がいることを確信し、声を張り上げた。
「鬼太郎!」
小屋の外から声をかけると、扉が開いた。
「水木さん」
ねこ娘だった。彼女は水木の顔を見るなり、ひどくつらそうな表情を浮かべた。
「鬼太郎はいるのか?」
……いるわ」
彼女はそっと、水木を小屋の中に招き入れた。
中は質素なつくりだった。部屋の中には布団が敷いてあり、砂かけ婆と子泣き爺、それに一反もめんが布団を取り囲んでいる。
「鬼太郎!」
布団に横たわっているのは鬼太郎だった。水木は血相をかえ、鬼太郎に駆け寄った。
「一体、なにがあったんだ」
水木が問うと、ねこ娘が答えた。
「人間の世界で、次々と人間が消えているでしょう。妖怪ポストに、家族を探して欲しいって依頼があって、私たち見に行ったの。そうしたら、鬼太郎が妖気を感知して……
ねこ娘は口をつぐんだ。自分が見たものが信じられない、という顔をしている。
「なにを見たんだ」
水木は鬼太郎の寝顔を見つめた。傷だらけで眠る養い子の姿は、ひどく堪えた。
「鬼太郎にそっくりな男の人だった。白い髪に黒い着物を着て……。まるて、鬼太郎を大人にしたみたいな……
白髪の男。水木は思わず目玉を見た。それは――――かつて水木がゲゲ郎と名付けた男。鬼太郎のことを案じるあまり、目玉だけになってまでこの世に留まった男ではないのか。
「親父さんがよみがえったというのか」
「それなら、ここにいる親父さんはどうなるんじゃ?」
混乱する子泣き爺たちにむかって、ねこ娘は怒ったように言った。
「親父さんなら! どうして鬼太郎を攻撃したの!? 鬼太郎は何もできなくて、やられっぱなしだったのよ!」
「ねこ娘、落ち着くんじゃ」
砂かけ婆がねこ娘を宥めた。
「きっと、親父さんではない。別のなにかじゃろう」
そこまで言って、砂かけ婆は口をつぐんだ。何も言わず、じっと考えこむ姿勢だった目玉がすっと立ち上がったからだ。
水木の心臓がどくりと大きく鳴った。まさか。そんなはずはないと言い聞かせるも、不安で胸が押しつぶされそうになる。
……ゲゲ郎なのか?」
目玉が答えた。
「おそらくは。鬼太郎の体に残った霊力の残滓、これは……
「水木さん、父さん」
「鬼太郎!」
いつの間に目を覚ましていたのか、鬼太郎がかすれた声で水木たちを呼んだ。
目玉が鬼太郎の枕元にしゃがみこんだ。そして、その丸い瞳からボロボロと大粒の涙を流す。
「わしは……わしは父親失格じゃ。お主がこんなに傷ついておるのに……
「いいえ……父さんのせいじゃありませんよ」
鬼太郎は弱々しく微笑んだ。実際、水木よりも誰よりも無力さを実感しているのは目玉だろう。戦う力をもたない目玉は、いつも息子を危険にさらすことしかできない。
水木はそんな目玉の背中をそっと撫でてやった。子泣き爺たちも同じ気持ちなのだろう。皆、静かに目玉と鬼太郎を見つめている。
「鬼太郎はここで寝てなさいよ」
ねこ娘はきつい口調でそう言うと、砂かけ婆と子泣き爺たちに向き直った。
「悪いけど鬼太郎をみてて。あたしが親父さんを何とかしてくるから」
「お主一人じゃ無理じゃ!」
砂かけ婆は止めたが、ねこ娘は首を振った。
「どのみち、あいつをなんとかできるのはあたしたちだけよ」
彼女はそう言って小屋を出ていった。水木も慌てて彼女を追いかけようとしたが、目玉に呼び止められた。
「水木、わしを連れていってくれ」
ぴょん、と目玉が水木の肩へ飛び乗った。
「一反もめん、わしと水木を運んでくれ」
「コットン承知」
一反もめんに乗ると、ふわりと空へ舞い上がった。水木はねこ娘の後を追いながら、目玉に尋ねる。
「本当に、お前ならなんとかできるのか?」
「分からぬ。しかし、あれはわしじゃ。わしがけりをつけねばなるまいて」
目玉は苦しげに答えた。その声音から彼の苦悩が伝わってくるようだった。


     ◇


鬼太郎たちがゲゲ郎らしき男と遭遇した場所へ向かう道中、目玉は無言だった。水木もかける言葉が見つからず黙っていた。
だが、空を飛んでいるうちにふと気がついた。このあたりは、かつて水木が住んでいた場所だ。
「なあ、目玉」
「うむ。奴はすぐ近くにおる」
目玉は低い声で呟いた。その声は緊張感に満ちている。
「一反もめん、あそこじゃ。あの寺へ行ってくれ」
目玉が指し示した先には、寂れた小さな寺があった。水木はハッと息をのんだ。そこは、かつて水木が住んでいた家の隣だ。
「お前と奥さんが住んでいた家か」
目玉は水木の言葉を肯定する代わりに、彼の肩の上で小さく身震いした。
やがて一反もめんは寺の境内へと着地した。案の定、そこはひどい荒れようだった。屋根や柱があちこち崩れているし、庭の草も伸び放題で手入れされている様子もない。寺の周りには人っ子一人いなかった。まるで廃墟だ。
そこから嫌な空気が漂ってくる。妖気を感じ取れない水木でも、悪いものがいることが分かる。
その時だ。ドォン!という轟音が中から響き、障子戸が吹き飛んだ。そこから空中に投げ出されたのはねこ娘だった。
「ねこ娘!」
水木は駆け寄ってねこ娘を抱き上げた。
「水木さん、……どうしてここに」
ねこ娘が呆然とした表情で見上げる。怪我をしているのか、その額から血が滴り落ちた。目玉が水木の頭上でぴょん、と跳ねた。
「やめよ、この者は鬼太郎の仲間じゃ!」
土煙の向こうで、人影が目玉の声に反応した。

カラン、コロン。

聞きなれた下駄の音に、水木はハッと息をのんだ。

カラン、コロン。

下駄の音が近づいてくる。水木は思わず身構えた。
そして現れたのは――――確かに、ゲゲ郎だった。
長く伸ばした髪を触手のように蠢かせ、その体をところどころ包帯で覆い尽くしている。だが、愛嬌のある丸い目も、大柄で細身の体つきも、病的なほど白い肌も、なにもかもがかつてあの忌まわしい村で出会ったゲゲ郎であった。彼は黒い着流しを纏い、闇そのもののようにそこに立っていた。
「ゲゲ郎……
水木は呆然と呟いた。男は包帯から覗く片目で、水木をじっと見つめる。だが、その目には何の感情も浮かんでいない。まるで路傍の石を見るような目で見られ、水木は腕の中のねこ娘を守るように抱いた。
――――あれは、誰だ。
 呆然とする水木の頭上から、目玉が声を張り上げた。
「お主はわしじゃ。わしなら分かるじゃろう。ここはお主のいるべき所ではないと」
男は目玉の言葉をぼんやりと聞いているようだった。しかし、ふいに笑いだした。ククク、ケケケとおぞましい笑い声をあげている。
「何がおかしいんじゃ」
目玉が険しい声音で問う。男はしばらく笑ったあと、ぞっとするほど冷たい目で目玉を見下ろした。
「思い出したぞ。わしはお主に棄てられたのじゃ」
「わしが……お主を棄てたじゃと?」
目玉が聞き返したが、男はそれに答えずゲゲ郎の顔で笑ったまま、ゆっくりと近づいてきた。
「わしは長いこと無であった。じゃが、ある時ふと闇の中から囁くものがおってな。目を覚ませ、目を覚まして復讐しろと。人間も妖怪も何もかも滅ぼしてしまえ――――と」
男は包帯を引きちぎるように取り払った。
「影どもはこうも言っておった。幽霊族の恨みと悲しみを人間どもに思い知らせてやれとな」
男の足元から影が溢れ出す。それは無数の触手となり、水木たちに襲いかかった。
「水木、避けよ!」
ねこ娘を抱き抱えたまま、水木は飛びすさった。間一髪で触手を躱したが、次の瞬間、その一本が目玉に巻きついた。
「目玉!」
触手に拘束された目玉は、抜け出そうともがいている。だが、触手の力は強く、びくともしないようだ。
「逃げるんじゃ……!」
「んなことできるかよ!」
水木は怒鳴った。
男はそれを薄笑いを浮かべて見ているだけだ。黒い触手は目玉を絞め殺そうというのか、その体をギリギリと締め付ける。
「わしを棄てたことを、悔やみながら死ね」
男は薄笑いを浮かべて目玉を見ている。
「やめてくれ!」
そう叫ぶと、不意に笑うのをやめた男が、水木に視線を向けた。
「お主はこの目玉の、なんじゃ?」
「俺は……こいつの相棒だ」
「相棒?」
男は鼻で笑った。
「人間と幽霊族が相棒とな。笑わせてくれる」
そう言って彼は触手の一本を動かした。その先端が鋭く尖り、まるで槍のようになる。目玉の体を貫き殺すつもりなのだ。水木は思わず叫んだ。
「やめろ! 殺すなら、俺を殺せ!」
その声に反応したように、黒い触手が止まる。男は面白がるように水木を見た。
「人間が、幽霊族のために命を捨てるのか」
今度は目玉が叫んだ。
「水木、わしに構うな!逃げるんじゃ!」
だが、水木は動かなかった。微動だにせず、じっと男を睨みつけた。もともと、既に寿命を迎えていてもおかしくないほど長く生きた。かつてあの村で死ぬはずだった運命をゲゲ郎が変えてくれた。だから、ここで自分の命と引き換えに目玉が助かるなら、安いものだ。男は一瞬、虚をつかれたような顔をした。だがすぐにその目をすうと細める。
――――興が乗った。お主は殺さずにおいてやる」
「本当か」
「代わりに、お主がわしを楽しませろ。……そうじゃな。女のように足を開いて、わしを受け入れてもらおうか」
水木は絶句した。男が冗談を言っているわけではないことはわかるが、あまりに屈辱的な要求だ。しかし、触手に巻きつかれたままの目玉が、苦しそうに呻いているのを聞くと、その条件をのまないわけにはいかなかった。
……本当に、俺以外には手を出さないんだな」
「馬鹿な真似はやめよ!」
目玉が叫び声を上げる。だが水木はそれを無視した。ここで男の怒りを買えば、何をしでかすかわからない。それならば自分一人が傷つく方がずっとましだ。
「よかろう」
男は満足そうに言って、目玉を地面に放り投げた。そして、水木の腕を強く掴む。
「来い」
男は水木を引きずるようにして歩きだした。
「水木!」
水木を引き留めようと、目玉が悲痛に叫ぶ。しかし、引きずられるように連れて行かれる水木は、振り返ることすらできなかった。二人が廃寺へ足を踏み入れた途端、触手が出入口を黒く塗りつぶした。外から中をうかがうことはできない、完全な密室となっていた。


     ◇


廃寺の中はかつてと同様に荒れ果てていた。水木は視線を床に落とした。
ここにはかつての自分の過ちが眠っている。ゲゲ郎たちのことを忘れ果て、逃げ出した自分。その罪を見せつけられるようで、いたたまれなかった。
「ここなら邪魔も入らぬ」
幽霊族の男は、薄い布団の上に座り込んだ。丸い目がじっとこちらを見つめている。目をそらしたくなったが、逃げるわけにはいかないのだ。水木はぐっと男を見つめ返した。
……本当にすまなかった」
「何故謝る」
「俺は、お前を見捨てて逃げ出した。奥さんはそのせいで亡くなった。鬼太郎のことを抱き上げることもできずに……
目玉は、謝ることなど何もないと笑っていたが、水木の心にはずっと罪悪感が巣食っていた。もし自分があのとき二人を見捨てなければ、奥さんは鬼太郎を抱き締めることができていたかもしれない。目玉は自分の肉体を捨てることなく、我が子を抱き上げられたかもしれない。そんな悔恨がずっと心のどこかに刺のように刺さり、じくじくと膿み続けている。
「お主が謝れば時が戻るのか? 妻とやらは生き返るのか?」
淡々と尋ねられ、言葉に詰まった。男は怒っているのでも詰っているのでもなく、ただ純粋に、疑問に思ったからそう口にしたようだ。
「すまない……
そう繰り返すことしかできず、水木はうつむいた。男はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「もうよい。まずは、その邪魔な服を脱いでもらおうか」
……ッ!」
カッと頬が熱くなった。これから何をされるのか、嫌でも意識させられてしまう。
「どうした、できんのか?」
水木は首を横に振ると、震える手でシャツのボタンを一つずつ外していった。なんとかシャツを脱ぎ終え、下も脱ぐ。水木は羞恥に耳まで赤くしながら、とうとう裸体を男の前に晒した。男の片目が、舐め回すように無遠慮に水木の体を見ている。
「こっちに来い」
手招きする男に誘われるまま、布団の上に寝かされる。男の包帯からは、血と膿と湿った土の匂いがした。
間近に見る男の顔は、かつて哭倉村で出会った頃のままだった。大きな目も、病的なほど白い肌も――――あらわになった右目も。彼には右目しか残っていないのだから、当然といえば当然なのだが。
彼は黒い衣に包まれた腕をゆっくりと、こちらへ伸ばしてきた。