桐子
2025-01-19 20:58:36
3828文字
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永遠は遠すぎる(サンプル)


庭の池には、いつものように蓮の花が咲き誇っていた。水木はそれを廊下からぼんやりと眺め、大きなあくびをした。
結界の張られた屋敷の中は、いつもと変わらず暖かく、さまざまな花が咲いている。蝶や蜂が飛び交い、小動物や小さな妖怪たちが広い庭を楽しげに駆けている。極楽と見まがうような光景だ。
山奥に建てられたこの屋敷に暮らして、何年、何十年になるだろう。随分前に年月を数えるのをやめてしまったから、はっきりとは思い出せない。
ここは妖の世界だ。妖怪も獣も神も入り交じる、万物を内包する世界。そして水木は、この屋敷で愛する伴侶と共に暮らしている。
息子が独り立ちするまでは、ゲゲゲの森と呼ばれる、人間と妖怪の世界の境目のような森で暮らしていた。だが、息子が独り立ちしてからは彼にその小屋を譲り、伴侶とともにこの屋敷へ移り住んできた。
『何者にも脅かされぬ場所で、静かに暮らさんか』
その言葉に、一も二もなく頷いた。彼はずっと人間に迫害され、親兄弟を、妻を失った。もう何者にも脅かされたくない、現世の憂いや争いごとと切り離された場所で、静かに暮らしたい。
その願いを聞き届けてやりたいと思うのは、伴侶として当然だろう。
『永遠をともに生きよう』
そう言って微笑んだ伴侶の顔を思い出そうとして――――できなかった。あのときのはどんな顔をしていたのだったか。もやがかっていて、どうしても思い出せない。
「水木」
名前を呼ばれて、水木は振り返った。廊下の向こうから、伴侶がゆっくりと歩いてくるのが見える。
「ゲゲ郎」
名を呼ぶと、ゲゲ郎は嬉しそうに笑った。ああそうだ、あの時もこんな顔をしていたのだった。
「何をしておったのじゃ」
ゲゲ郎が水木に問いかける。水木は、軽く肩を竦めた。
「別に何もしてねえよ。ただ……蓮の花が、綺麗だなと思ったんだ」
そう言うと、ゲゲ郎も池の方に視線を向けた。
「確かに綺麗じゃな」
しかし、ゲゲ郎はすぐにこちらを向き、水木の頬に手を添えた。
「じゃが、お主の方が美しい」
……何だよ、急に」
歯の浮くような台詞をさらりと言ってのけた男に、水木は苦笑した。しかし、ゲゲ郎は真面目な顔でじっと水木を見つめている。
「愛しい連れ合いに、美しいと言うて何が悪い」
あまりに真っ直ぐに言われていたたまれない。それをごまかすように視線を逸らし、水木はそっと男から身を離した。
「ほら、さっさと飯にしよう」
……そうじゃな」
ゲゲ郎はわずかに肩を落としたが、何も言わず、水木のあとをついてきた。
頭の後ろあたりに視線を感じながら、水木は足早に居間へと向かった。



代わり映えのしない食事を終えると、もう何もすることがなくなってしまった。
「今夜は妖怪仲間たちとの集まりがあるが、たまにはお主もどうじゃ?」
「いや、俺はいいよ。みんなによろしくな」
ゲゲ郎に誘われたが、なんとなく億劫に感じて断った。ゲゲ郎は、少し残念そうな顔はしたものの、すぐに笑顔になった。
「そうか……では行ってくるぞ」
「ああ」
水木が頷くと、ゲゲ郎は立ち上がり、玄関へと向かった。その後ろ姿を見送りながら、水木はそっとため息をつく。
長く生きているゲゲ郎は、山奥で隠遁生活を送っているとはいえ、それなりに付き合いがあるらしく、こうしてお呼ばれして出かけることがしばしばあった。
だが、もとは人間だった水木の知己は、この百数十年のうちに皆死んでしまった。今や、水木のことを知るものは幽霊族の親子とその知己の妖怪くらいのものであろう。
水木は縁側に座り込み、ぼんやりと庭を眺めた。池には蓮の花が咲き乱れている。その向こうには山並みが広がっていた。
「静かだな……
ぽつりと呟くが、返事をしてくれる者もいない。ゲゲ郎がいなければ、屋敷はただ広く、静かだった。
ちりちり、と結界に結ばれた鈴が音を立てる。
「親父さん、いるんだろ。俺だよ」
鈴の音に紛れて、懐かしい声が聞こえた気がした。水木は立ち上がり、門の方へ向かった。主の許しがなければ、外からは決して開かない門は、内側からは簡単に開けることができる。
「親父さん……おっと、兄さんか」
門の向こうにいたのは薄汚れた黄土色の服を着た男だった。
「久しぶりだな、ねずみ君」
「親父さんに用があってね」
「あいつなら、妖怪仲間と集まりがあるって、さっき出かけたところだ」
「なんだ、入れ違っちまったか」
ねずみ男は、残念そうに頭を掻いた。
「まあ、いいさ。また出直すよ」
そう言って踵を返しかけた男に、水木は声をかけた。
「少し寄っていかないか。茶くらい出すぞ」
ゲゲ郎以外の誰かと久しぶりに話をしたくて、水木はねずみ男をそう引き留めた。
「いや……でもなあ……
ねずみ男は困ったように言いよどんだ。しかし、水木がじっと待っていると根負けしたようにため息をついた。
……じゃあ少しだけな。あとで親父さんに、兄さんから招待してくれたんだって、ちゃんと説明してくださいよ」
そう言って、ねずみ男は門をくぐった。
縁側でいいと言うので、そこへ腰掛けてもらい、湯飲みに茶を淹れて持ってくる。ねずみ男はぬるめに入れた茶を一気に飲み干し、煎餅をバリバリと噛み砕いた。
「それにしても久しぶりだな。兄さん、元気ですか」
「そうだなあ……まあ、おかげさんでぼちぼちだ」
「妖怪仲間の間じゃ、可愛い後妻を山奥へ引っ張りこんで淫蕩三昧だって、もっぱらの噂だぜ」
ねずみ男はゲヒヒと下品な笑い声を立てた。水木は顔を顰める。下世話な噂が広がっているものだ。おそらく情報源となっているのはゲゲ郎本人なのだろうが。
……ったく、人聞きの悪いことを言うんじゃねえ」
「事実じゃないんですかい?」
「事実無根だ」
――――ここ最近、ゲゲ郎との営みなんて、とんとご無沙汰なのだから。
ねずみ男は、黙り込んでしまった水木を見て、不思議そうに首を傾げた。だが、それ以上詮索するつもりはないのか、何も聞かなかった。水木も特に話を続ける気にならず、沈黙が流れる。
「それより、鬼太郎の話を聞かせてくれ」
「鬼太郎ねぇ、あの頑固者、水木の兄さんからも一言言ってやってくださいよ。こないだも、せっかくのビジネスチャンスをあいつが……
ねずみ男は、鬼太郎の近況を面白おかしく水木に話してくれた。
「兄さんもたまにはこっちに遊びに来ればいいのに」
一通り話し終えたねずみ男はそう言ったが、水木は曖昧に笑っただけで何も言わなかった。ねずみ男は、しばらく水木の表情を伺うように見ていたが、やがて諦めたように首を振ると立ち上がった。
「親父さんによろしく言っておいてください」
そう言ってねずみ男が去ったあと、水木はしばらくぼんやりと庭を眺めていた。空高く昇った太陽が草木を照らしている。池の蓮の花が、時折吹く風に揺れて水面に小さな波を立てた。
水木は立ち上がり、池の側に立って蓮の花を見つめた。薄桃色の花びらが幾重にも重なり合い、大きな一輪の花を咲かせている。
『美しいのう』
そう言って微笑んだ男の顔が脳裏に浮かんだ。
「ゲゲ郎」
思わず呟いた名は、風に乗って消えていった。
「ゲゲ郎……俺は……
水木は拳を握りしめる。このところずっと心にわだかまっている想いがあった。

――――自分はもう、ゲゲ郎を愛してはいないのではないだろうか。

「ただいま」
布団にくるまってぼんやりとしていると、ゲゲ郎が帰ってきた。
「おかえり」
水木はもぞもぞと寝返りを打った。ゲゲ郎の背後から静かな月の光が差し込んでいる。彼は笑みを浮かべながら、寝ている水木の側に来た。
「烏天狗の酒をもろうてきた。明日、一緒に飲もう」
「そうか」
水木はぶっきらぼうに返事をした。ゲゲ郎が酒瓶を枕元に置く気配がした。そのまま自分の部屋へ戻るのかと思いきや、ゲゲ郎は何故かその場にとどまっていた。不思議に思って
「何だよ」と問うと、ゲゲ郎は少し困ったように笑った。
「昼間、ねずみのが来ていたのか」
「ああ」
ゲゲ郎は枕元に立ったまま何も言わない。水木が何か言うのを待っているのだろう。『俺から上がり込んだんじゃないって、親父さんに念を押してくれよ』と散々言われたのを思い出して、水木はため息をついた。
「お茶を出して、鬼太郎の話をちょっとしたら、すぐ帰っていったよ。俺が招待したんだ。怒らないでやってくれ」
……そうか」
再び沈黙が落ちる。水木はそっとゲゲ郎の方を見た。彼は何か言いたげにこちらを見下ろしている。
しばらくすると、ゲゲ郎はそっとしゃがみこんで、水木の髪を撫でてきた。
「水木……どうじゃ、久しぶりに」
ギクリとした。床を共にしようという誘いなのだ。ゲゲ郎からこんなことを言われるなんて久しぶりだった。どうしよう、どうしようと思いながら、結局、水木はその手を避けるように寝返りを打った。
――――悪い。もう寝たいんだ。また今度な」
そう言って背を向けたまま目を閉じた。ゲゲ郎は部屋を出て行こうとはしなかった。水木の枕元に座り込み、じっと見つめてくる。その視線を痛いほど感じながら、しかし水木は頑なに目を閉じたままでいた。
やがて、ゲゲ郎がそっとため息をつく気配がした。そのまま、すうっと部屋を去っていく。水木はほっと息を吐いた。
扉が静かに閉まり、部屋が再び静寂に包まれる。